- 本 ・本 (528ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101050225
感想・レビュー・書評
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大義に囚われ、ここでもまた、死ぬ理由を探している。
複雑化した関係性に混ざる僅かなエゴに嫌悪感を見出し、果たすべき理由を正当化するが、その善悪二元論、一点突破な正義の幼さも自覚しながら、まるで、三島自身の自決の予行演習であったかのような小説だ。
第二巻でのキーワードは、神風連の乱。秩禄処分や廃刀令により明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱であり、連動し同年に秋月の乱や萩の乱が起き、翌年の西南戦争に至る。これに影響を受けたのが、第一巻の松枝清顕の転生として現れた青年・飯沼勲。勲は、腐敗した政財界と疲弊した社会を変えようとする純粋な青年で、右翼塾を主宰する父や塾生、恋人や財界重鎮らに翻弄されながらも、孤独を深めていく。
殺すべきは誰か。考えれば考えるほど、物事を生死に照らしてシンプルに解決しようとし過ぎている気もする。失敗したら死ねば良い、死を賭さなければいけない、誰かを殺す事で変化させる、など。この考えをリードする本源にあるのは、決して輪廻への甘い期待などでは無いはずで、ナルシシズムにしか見えない時がある。死自体が個人の肉体の処分でしかないからだ。その処分を権威化して利用しているに過ぎない。この「死」を絶対視する思想をもう少し考えてみたい。 -
豊饒の海 2 奔馬
著:三島 由紀夫
新潮文庫 み-3-22
三島文学は、艶っぽくて、どことなく、ものうげな感じで読んでました。
法曹関係者となった清顕の友人本多と、清顕の書生で、右翼の大物となった飯沼の子、勲が織りなす物語が、第2巻の「奔馬」です
時は、昭和7年の515事件直後であり、金解禁や、不況のあおりを受け、疲弊した農村の雰囲気が醸し出される
臣民の中では、この苦境を救ってくれるのは、農民出が中心の陸軍しかないとの理屈で、青年将校への期待が映し出される
維新の騒乱で、神風連事件に心酔する、勲たち若者が暴走を始める
勲たちが画策する昭和維新こそが、三島由紀夫ら、盾の会が目指したものだったのでは
本多は、ほくろの位置から、清顕の生まれ変わりがいることを確信する
そして、清顕が語っていた、滝の下でまた会えるという言葉が、本多の心を捉える
死を前にして男女の狂おしい営みを、奔馬といっています
筋肉などの身体の美と、不安定な精神、一途で、繊細な心をもった青年と、それを見守る大人たちの姿を対比しています。
ISBN:9784101050225
出版社:新潮社
判型:文庫
ページ数:528ページ
定価:900円(本体)
1977年08月30日発行
2002年12月05日43刷改訂
2023年06月20日72刷
1 春の雪 1~55
又、会うぜきっと会う
夢と転生の一大物語絵巻
自らの死を意識しつつ書かれた
三島最後の作品、全四巻
2 奔馬 1~40
刀を腹へ突き立てたその時、
右翼青年が見たものとは
「これを読めば本当の僕がわかって
もらえるだろう」と語った
3 暁の寺 1~45
世界は、一瞬一瞬ごとの「滝」ー
おそるべき認識が物語を貫く
本作の完成は「実に不快だった」
と謎めいた言葉を残した
4 天人五衰 1~30
劇的かつ稀有なる物語
三島文学、究極の到達点
1970年11月25日、本作を脱稿し
三島は市ヶ谷に向かった享年45 -
十代、二十代、三十代‥‥読了する歳で感想が大きく変わる作品だと思う。
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豊饒の海第2巻「奔馬」
精緻な美しさと書かれている事実の荒々しさ。えげつない。
前半の本多が勲が清顕の生まれ変わりだと確信するところは鳥肌だった。そして裁判の時にも、本田にしか分からないあの北崎の逢瀬の話も出てきて、驚きすぎて言葉にできないほどであった。
何はともあれ、官僚をはじめとした周りの大人の腐敗が描かれて勲の純粋さが際立ち、彼は純粋を求めて奔馬の如く駆け抜けていったのだろうなぁと思った。清顕の生まれ変わりだということで、亡くなってしまうのだろうなと思ってしまい、読み進めるのが辛かったが、この物語の終わりに向けて私も本多と同様に見届けたいと思う。 -
爆発的なおもしろさで物語が進行中。
夭折した清顕が生まれ変わったのは、右翼の大物の一人息子で「大義のために死す」ことを夢見る青年、飯沼勲。昭和前期の不穏な世相の中、「悪いのは政府と財閥」だ、と昭和維新(要するにテロ)実行に命を燃やしている。
清顕の親友である本多は、裁判官としてエリート街道を驀進しているのだが、ある事件をきっかけに「清顕の輪廻転生」を確信し、合理性に基づく世界観が根本から揺らいでしまう。稚拙な計画が露見して勲が逮捕されたとき、本多は職を辞してまで弁護を買って出るのだった。
ここからの法廷活劇が最高なのだ。
「検事は予審終結決定の、単なる殺人予備罪という公訴事実に不満なのである。何とか事件を大きく、できれば、内乱予備罪にまで持って行きたい。そうすることによってのみこの種事件の禍根が絶たれると信じている。が、そう信じることによって、ともすると論理の足取が乱れてくる。大計画から小計画への縮小変更の立証にばかり骨折って、殺人予備のほうの構成要件の充足に手抜かりがある。『この間隙を狙って、できれば一押しに、殺人予備さえ否定してしまおう』と本多は思っていた」(P382)。
尋問の合間に唐突にはさまれる笑い。本多にしかわからない、背筋に戦慄が走るような転生の新証拠。クライマックスは、勲がひそかに思いを寄せている年上の女性、槇子の証言・・・。
「勲は『決して憎くて殺すのではない』と言っていた。それは純粋な観念の犯罪だった。しかし勲が憎しみを知らなかったということは、とりもなおさず、彼が誰をも愛したことがないということを意味していた」(P407)
第1巻は恋愛小説かと思ったら社会派小説でもあった。第2巻は社会派小説ながらつまるところ恋愛小説だとさえ感じる。そして同じように、大人社会の隠ぺいと青年の純粋のぶつかり合いが悲劇へと突き進む・・・
どうでもいいが、法曹人が戦前から自分のことを「当職」と称していたのがちょっと新鮮(笑)。 -
読まなければと思ってつい後廻しになっていた『豊饒の海』4部作の2作目をようやく読み終える。1930年代前半、「五・一五事件」後の世相を背景に、わき腹に三つの黒子を持つ若き志士・飯沼勲の「維新」「蹶起」の夢とその挫折を描く。「維新」という語から昭和のテロリズムの記憶が剥落してしまったのは、いったいどうしてなのだろうか。
物語としては、まるで大江健三郎『セヴンティーン』『政治少年死す』に対する応答ではないのかと思えるくらい、天皇親政という観念に酔い、「蹶起」と「自死」への渇望を募らせていく勲と、複数の角度からその夢を相対化しようとする大人たちとの葛藤が物語の動因となっている。のちに奥泉光が描く昭和の国家主義者たちの原型が、ここに書き込まれているとも言える。
しかし、個人的に気になったのは、このテクストの語りの空疎さ。豪華絢爛なレトリックが駆使され、いかにも深遠な認識が書き込まれているようでいて、よく考えるとほんとうに中身がない。というか、抽象的でかりそめにもひとを動かす力に欠けているとしか言いようがない。おそらくそのことは、このテクストで語られた天皇のイメージがほとんど具体的な像を結ばない――なぜ彼らがそこまで「天皇」に入れ込むのか、忠義を尽くそうとするのかが内的な論理としては説明されない――という点とも不可分であると思われる。 -
面白い。豊饒の海は、読み進めるほど引き込まれる。「純粋」とは。自覚している、していないの差はあれど、第一巻の松枝清顕も飯島勲も、青年の純粋さが琴線に響く。
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「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」
4部作の中でも、三島本人が好んだのは奔馬だったとか。たをやめぶりな『春の雪』から一変、ますらをぶりな『奔馬』
私個人としては『春の雪』の精緻な美しさが好きだったけれど、『奔馬』の直情的な勢いのある文体もまた良い。
そして生まれ変わりの輪廻を示唆する一文一文が、ゾクっとする感覚をもたらす。
滝の下のシーン、白衣の男たちに鎮魂されるシーン、裁判での証言のシーン、「ずつと南だ。ずつと暑い」
三島由紀夫という男、浜松中納言物語を下地にこんな壮大な輪廻の大河が描けるのか、200年に1人とはまさにこのこと。 -
三島由紀夫は、締めの一文が定まるまでは書き始めなかったという話だが、本編のラストにあたる一文もまた、いろいろな意味で言葉を失う(ネタバレになるので具体的に触れませんが、作家の最期を如実に暗示している内容)。
本編「奔馬」の中で触れられる「神意に容れられることが叶えば死をもって奉じ、容れられなかった場合は不敬を死でもって償う」という世界観を、どう鑑賞(?)すればいいのか。
一言でアナクロだと片づけるつもりなのであれば、そもそも豊饒の海を読み始めないのだが、2巻読了時点ではまだ心の中で形を成すことが出来ず、鬱々とした心持ち。
さらに「暁の寺」へ急ぐ。
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