- Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101050331
感想・レビュー・書評
-
またやってしまった、内容未確認予約文庫。「憂国」のような葉隠的な小説を読むつもりでしたが、三島由紀夫の評論的葉隠、熱い想いの一冊でした。200p強のうち、97pからは、付「葉隠」名言抄 笠原伸夫訳 という構成です。前半の葉隠入門で取り上げられた項目を、原文と現代訳で確認できるようになっています。
葉隠を読む日が来るとは思っていませんでしたが、せっかくなので、読ませていただきました。
まず、三島由紀夫はプロローグで、戦後と反時代的立場を支えた書物であり、行動の知恵と決意がおのずと逆説を生んでいく、類のない不思議な道徳書としています。彼の文学の母胎であったとします。
数度読み直しながら読了し、三島由紀夫の葉隠入門より、葉隠の方が読みやすいし、わかりやすいという解説ならざる逆説を生んでいるようでした。
葉隠は、江戸中期に、佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士の心得を口述し、同藩士・田代陣基が筆録した物。7年かけた、座談の筆記。ですので、正式名称は、「葉隠聞書」。常朝は焼けと言ったのに、陣基がこっそり取ってあったとか。葉隠序段に、今の殿(四代目吉茂)が勉強しないでわがまま勝手でこまる。藩の伝統も知らず、統治にも身が入らない。とあり、せめて何かの役に立てば、と思い立ち、藩の誓願をまとめはじめる、とあります。
葉隠無知だった私は、葉隠は有名な武将とか江戸幕府の重鎮が、まとめ上げたものと思っていたので、九州の一藩の筆録という事実に一番驚きました。
そして、一、現代に生きる「葉隠」で、今の日本の世相との類似性を説明しています。葉隠の成立時は、江戸中期、案外太平の世なのです。天皇制解体、世界大戦敗戦後、経済成長した日本と背景は似ているのかも知れません。
男女の脈拍の差がなくなってきたという医学的な事実。また、芸術に対する厳しい批判があります。芸は、身を滅ぼすとまで、技芸者は侍ではないとも。
三島由紀夫は文学という芸能を担っており、葉隠との相剋にしばし悩むことになります。
次に、ニ、「葉隠」四十八の精髄 として、葉隠の名言を48項目に分けて、三島由紀夫の解説となります。
「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」という一番有名な一節があります。続きを読めば、常に朝夕死を覚悟すると、武士道が身につき、一生ご奉仕できるとなります。死ぬ気で物事に向かう事、そして、死を自分で選択できるようにする事を聞書を通して伝えているのかと思います。
葉隠の中には、現在の組織の中でも充分に活用できる上下関係の在り方や、部下に対する注意の仕方、誉め方、上司への対応方法など具体的なものが多くあります。日常生活での振る舞いについては、欠伸を止める方法、翌日の準備は前夜のうちに、男のたしなみとしての身支度について、人を訪ねる時の注意事項等、すぐに役立つ豆知識まであります。
恋愛は、忍ぶ恋がベストであり、男色についてまで、注意事項をあげます。お付き合いするのは、一人にしなさい、両刀はダメですって書いてあります。常朝さんという方は、現実的な気配りの方だったと思います。
読んでいて、三島由紀夫の「葉隠入門」も案外まとまりがないんじゃないかと思っていたのですが、
私もさっぱり何を書いているのかわからなくなってしまいました。「葉隠聞書」そのものが、扱う項目が細かく多岐に渡り、時折、さっきの話と逆じゃないの?みたいな事もあり、聞書の限界点があるのかななどと言い訳を思いつく始末です。全部わからなくても、自己啓発的なところは、なかなかわかりやすい言葉で訳されいて、現在の啓発本にも書かれていそうな事も多く、役立ちそうなところを活用すれば良いのかなって事で。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
三島由紀夫が座右の書とし、佐賀鍋島家に伝えられる思想書、教育書、それが「葉隠」です。
「葉隠」を貫く言とは、「武士道とは死ぬことと見つけたり」です。
それは、やみくもに武士だから死ねといっているのではない。
生きるのがいいのか、それとも死ぬのがいいのかわからないときは、迷わず死ねといっている。
生きることで、死にどころを見逃し、恥をさらすよりも、結果は間違っていても、誹りはうけても、恥をさらすことがないように武士なら、死を選べといっている。
そして、毎日死を覚悟して生きよともいっている、毎日死を意識することによって、日常にて生をも意識する。
葉隠とは、死と生という対極の考え方、生き方を1つの書にまとめた、二面性を包含する逆説的な書なのである。
「葉隠」は、戦略、戦術などを論じた兵法書ではない。そこを間違えてはいけない。
本書は、3部で構成されている
・「葉隠」が現代にある意味
・「葉隠」の48の教え、エッセンシャル
・武士でない我々が「葉隠」をどう読めばいいのか
そして、三島が原注したくだりの現代訳を付として、用意していただいている。本文中、不明瞭な点については、後述の名言抄に記載あるを謝す。
気になったのは、以下です。
■現代に生きる「葉隠」
・三島(わたし)は、自由を説いた書物といっている。これは、情熱を説いた書物なのである。
・「武士道とは死ぬことと見つけたり」というその一句自体が、この本全体を主張する逆説なのであう。わたしはそこに、この本から生きる力を与えられる最大の理由を見いだした。
・「葉隠」ほど、道徳的に自尊心を解放した本はあまり見当たらない。精力を是認して、自尊心を否定するというわけには行かない。ここでは行き過ぎということはありえない。高慢ですら、道徳的なのである。
・人間の陶冶と完成の究極に、自然死を置くか、「葉隠」のように、斬り死や切腹を置くか、わたしには大した逕庭(へだたりという意味)がないように思える。
・「葉隠」の恋愛は、忍ぶ恋の一語に尽き、打ち明けた恋はすでに恋のたけが低く、もしほんとうの恋ならば、一生打ち明けない恋がもっともたけの高い恋であると断言している。
・「葉隠」は、武士という前提をもっている。武士とは死の職業である。どんな平和な時代になっても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ、死をよけたときには、もはや武士ではなくなるのである。
・毎日死を心に当てるということは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだといううことを「葉隠」は主張している。
■「葉隠」48の精髄
・葉隠は、全11巻からなっているが、山本常朝自身の教訓は第1巻と、第2巻にまとめられているので、この2巻が思想の中心である
・葉隠を哲学書とみれば、3つの特徴がある。①行動哲学、②恋愛哲学、③生きた哲学である。
①行動哲学 主体を重んじて、主体の作用として行動を置き、行動の帰着として死を置いている
②恋愛哲学 日本には、恋はあったが、愛はなかった エロスとアガペーとが一直線につながっていて、この二つを峻別しない
③生きる哲学 「葉隠」は厳密な論理体系ではない。あらゆるところに矛盾衝突があり、一つの教えが、別の教えで覆されているとみることができる。
・常住死身になることによって自由を得るというのは、「葉隠」の発見した哲学であった。
・男の世界は思いやりの世界である。男の社会的な能力とは、思いやりの能力である。
・常朝は、けっして、人を責めるに厳ではなかった。そして、手ごころということを知っていた。
・葉隠は酒席は晴れの場、すなわち公界といっている。武士はかりにも、酒の入った席では、心を引き締めていましめなければならないと教えている
・武士はなによりも、外見的にくたびれてはならず、くたびれてはいけない。それは、死あるときに、身だしなみが乱れていては恥をかくからである。切腹のときに、蒼白となった顔面をみられないように、薄く化粧を施すのも、恥をかかないためである。
・人との交際においても、真心が第一、約束なきむやみに人を訪問してはならない。ただし、人がきたら、受けなければならない。
・武士は合理主義者では務まらない。合理的に考えれば死は損であり、生は得である。死をとらなければならない武士に合理性はいらない。
・人は理屈ではない。人の強みとは、「智恵に流されないこと」であり、「分別に溺れないこと」である。
・人と誠実につきあう。親密になれば、諫言も耳に達することができ、直言しても失礼にならなくなる。人と接するに準備を入念にしなければならない
・いつでも死ねる覚悟を心に秘めながら、いつでも最上の状態で戦えるように健康を大切にし、生きる力をみなぎり、100%のエネルギーを保有することだ。
■「葉隠」の読み方
・問題は、一個人が死に直面するというときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかという人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかという問題である。
・図にあたるということは、現代の言葉で言えば、正しい目的のために正しく死ぬということである。その正しい目的というこは、死ぬ場合にはけっしてわからないといううことを「葉隠」はいっている。
・「葉隠」は図にはずれて、生きて腰抜けになるよりも、図にはずれて死んだほうがまだいいという、相対的な考え方をして示していない。
・「葉隠」はけっして死ぬことがかならず図にはずれないとは言っていないのである。
目次
プロローグ 「葉隠」とわたし
1 現代に生きる「葉隠」
2 「葉隠」48の精髄
3 「葉隠」の読み方
付 「葉隠」名言抄 笠原信夫訳
ISBN:9784101050331
出版社:新潮社
判型:文庫
ページ数:224ページ
定価:590円(本体)
1983年04月25日発行
2007年01月31日42刷 -
なぜ三島は「葉隠」に固執し愛読書としていたのか?そこを考えながら読まないと、この武士指南書は少し退屈かもしれない。
-
三島由紀夫は葉隠を座右の書としていたという。
本書は、その葉隠の内容を著者自身がどう解釈をしているのか、を記したもの。
著者によれば、葉隠は「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一節があまりにも強烈であるため、戦時中の神風特攻隊を彷彿とさせるが、葉隠の意図はそうではない。
死はいつの世にも誰にでも来るものであり、何ら特別なものではない。特別なものではないからこそ、毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることといわば同じことである、と。
毎日死を心に当てることで、生きることが鮮やかになるという、逆説に葉隠の意図した生き方がある。
***
葉隠のキャリア観は現代にも充分当てはまる
若き内に立身して御用に立つは、のうぢ(能持)なきものなり。發明の生れつきにても、器量熟せず、人も請け取らぬなり。五十ばかりより、そろそろ仕上げたるがよきなり。その内は諸人の目に立身遅きと思ふ程なるが、のうぢあるなり。又身上崩しても、志ある者は私曲の事にてこれなき故、早く直るなり。
ニヒリズム
他人に期待するから、過度に自分に期待するからその反動がある
好きな一節
・大雨の感
→避けられないものは腹を決める
・一念一念と重ねて一生
→今ここに集中
・水増せば船高し
→困難に立ち向かえば、一段上の能力がつく
・只今が其の時、其の時が只今なり
→平時も危機も区別なく臨戦態勢で。鯉口を切る -
一念、一念とかさねて一生
一瞬、一瞬を、真剣勝負のつもりですごすこと
ゆったりとした心持ち -
過去、どこかのレビューにも書いたのだが、再読してやはり、葉隠とはつくづく、自己啓発本だと思う。世に教訓をする人は多し。教訓を悦ぶ人はすくなし。まして教訓に従う人は稀なり。つまり、教訓を得るに、読書をするような自習も不可欠ということだ。恋愛や芸事、男色や上司との付き合いまで、その心得が書かれている。最近の自己啓発本と異なる点は、あるいは、武士道とは死ぬこと見付けたり、の一言に尽きるのかも知れない。常に死を覚悟することこそが誤りなく一生を過ごすために必要で、生きたいから、生きるための理屈ばかり考えるようではいけない。
快楽を追求しても一時の認識に過ぎず、そこに執着する意味はない。しかし、自らが永遠に生きると錯覚するから、我欲にこだわるのだ。キリスト教がローマで急に勢いを得たのは、ある目標のために死ぬという衝動が渇望されていたからだという。我々も死について、覚悟と共に理想を携えておくべきなねだろう。そこから人生を設計することが、過剰な我欲を削ぎ、存在意義を全うできるのではないか。 -
「毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを「葉隠」は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。」
すこく印象的だった -
お父さんから借りて読んだ。難しかったけど佐賀の人として読んでおいてよかったかな。
-
三島由紀夫が心酔した山本常朝の「葉隠」。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の一句で名高く、死という概念を中核に据えた闊達な武士道精神を著したものです。三島由紀夫に「私のただ一冊の本と」まで言わしめ、その精神を今日によみがえらせ、その教えを現代という乱世に生きる「武士」たちに説こうとした本です。また、彼の人生論や道徳論であり文学的な思想的自伝でもあります。
この本は、前段では山本常朝が述べていることについて、三島由紀夫がコメントをするような形のつくりになっています。あるところは共感し、あるところは矛盾を指摘し、あるところはきちんとした根拠を持って批判をしたりするなど、鋭くかつ醒めた目でこの思想を見つめています。
後段では「葉隠」の彼なりの読み方を紹介しています。「死ぬこと」という概念を鋭利な刃物のように鋭い目で見つめています。「葉隠」の暗示する「死」、特攻隊の「死」、自殺者の「死」についての精神的な考察が深いです。われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがります。しかし、「葉隠」が示しているものは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死でさえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しています。生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳を重んじないわけにもいかないはずです。
この本を突き詰めていくと、死という真理を感じるとともに、踏み入れていはいけないところに足を踏み入れたような恐怖も感じます。巻末に「葉隠」の名言抄がついていますが、それを踏まえて読んでみると三島の「鋭さ」を感じます。しかしながらよく切れるけど、一つ間違うとすぐ刃が欠けて使い物にならなくなる刃物のような思想。そんな諸刃の剣の怖さも感じます。 -
ほんの少しだが、三島由紀夫が考えていたことに触れられた気がした。
-
三島由紀夫による葉隠の解説及び一部現代語訳
武士道及び三島由紀夫を理解する手掛かりに。
想いが非常に熱く、何回も噛み砕いて読み直したい。 -
三島が共感してやまない理由をみる。
”「葉隠」は一応、選びうる行為としての死へ向かって、われわれの決断を促しているのであるが、同時に、その裏には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たわっている。” -
人間は自分の為に生きて自分の為に死ぬほど強くは無いのであります。
-
三島由紀夫の思想の根源そのもの
生きながら微かに感じてた空虚感の答えがここにありました。私は人生の教本がこれだと直感で感じてます。
少し難しいですが、紡がれてきた日本人の心を見直すいい機会になりました。 -
後ろに現代語訳ついてて読みやすい、親切設計。三島由紀夫がこのあと辿った道に思いを馳せながら、三島が葉隠をどうとらえていたのか読む。生きるか死ぬかの選択をしなければならないときは死ね、いつでも判断できるように平時から備えておけ、好きなことをして生きろ、判断を磨くために人の意見を聞け、などなど。葉隠は江戸時代に生まれた論語という感じ、金言がたくさん。三島が「最近は~」みたいに言ってるのが50年くらい前なのに、今も共通していることが多いのもおもしろい。
-
葉隠、奥が深い。名言だらけ。
「48の精髄」が、三島流の読み方なのかと
一念一念と重ねて一生なり。 -
下手な人生論より葉隠っていうタイトルでしたが、ブグログにないので、こちらを本棚登録します。教員時代、恩師に貸していただいた本です。死に物狂いでやらないと務まらない仕事だから、死ぬ気で一所懸命やることの大切さが、いまでも心に残っている。すごく自分に影響させた本なので、借りた後購入。いまのいまを生きる武士のような生き方をしたいですね。
-
戦時中に読まれていたという葉隠について三島が解説した書。
生き方の指南書のようなもので、生き方や心がけについて列挙されている。 -
名言集という感じ。武士道にフォーカスしてるので、論語などと比較すると普遍性はやや落ちるか。一つ一つ見ていくと納得できる言葉が多く勉強になる。
-
高校生の時に読んだ。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」で有名な葉隠を現代語訳、解説した本。戦争の道具として使われながらも、三島にとっては青春を共にした光の書でもあった。
三島の主観も多分に含んだ一冊ではあるけれど、それも含めてこの本の魅力。
思想の持つ力強さと危うさ、美しさに触れられる本。 -
ワクブック=ワンワード残すようにしている
私にとって、今スリーワード
『ふだん必死
一念、一念
倹約心は義理を欠く』
-
一読の価値はあるかと。
濃い部分もあります。 -
著者の表現には、頷ける部分もあればよくわからない部分もある。しかしながらやはり、葉隠という書物は普遍的な真理の一部を書き表しているからこそ現代の人々にも読み継がれているのだろう。「端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。」などは、私にとっては耳が痛い。。
-
『葉隠』といえば、「武士道といふは死ぬことと見付けたり。」で有名な本ですね。
続きは、ざっくり言うと「二者択一なら死ぬほうを選んどけ?そしたら少なくとも恥さらしにはならんから。」というびっくりな極論っぷり。
まずここで「うわあ…。」てなるけど、それ以外はそんなにエキセントリックな印象はありませんでした。
前半は三島由紀夫の『葉隠』に対する思いがつづられてるのですが…。
なんというか、こう、芸術家ッて生きていくのが大変だなあ…、と。 -
三島由紀夫は葉隠を
-
男性が柔になっていく。
とりわけ男性がそのような状況になるのは、歴史と同様に繰り返されていくものであり、その姿に三島は危惧していたように感じる。
生と死の向き合い方を考えるきっかけになる一冊です。
思想とは覚悟である。好きな言葉です。 -
三島にせよ山本にせよ、アスペルガーであったのは間違いない。アスペの特徴として、自分が正しいと思ったら、それを相手にも求めるというのがある。そして、それが拒否されると、烈火の如く怒るのだ。周りに心当たりのある方もいるだろう。山本は、自分の正しさが周囲に理解されず、憤りを感じていたに違いない。そして、三島も同じ境遇にあったように思う。ただ、その正しさは、周囲には理解のできないものだった。確かに、ゼウスはとんかつにはソースをかけよ、といったかもしれない。しかし、人間という生き物は、マヨネーズをかけたがるのだ。それを少しでも、三島や山本が理解できていたら、もっと社会に溶け込める(三島や山本が描いた理想郷には程遠い)本になっていたかもしれない。
-
生の尊厳については考えたことはあったが、死の尊厳については深く考えたことがなかったので、大変参考になった。毎日、死を持って行動することができているだろうか。。。
-
本書は、戦後の日本文学界を代表する作家の一人で、ノーベル文学賞候補とも言われながら、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)で総監を監禁しクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた三島由紀夫(1925~1970年)が、武士道の名著といわれる『葉隠』について論じたもの。英語、イタリア語、フランス語、ドイツ語など、ヨーロッパ各国語に翻訳された。
『葉隠』は、江戸時代初期に、佐賀藩士・山本常朝の言葉を筆記したものといわれ、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一句で名高い、武士道精神を著した作品であるが、本書は、発表の3年後に割腹自決という最期を遂げた三島自身の人生観・死生観が強く表れたものと言われている。
まず、「プロローグ「葉隠」とわたし」では、「戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく「葉隠」一冊であろう。」と語り、如何に三島に影響を与えていたかが語られている。
そして、1章「現代に生きる「葉隠」」では、「死だけは、「葉隠」の時代も現代も少しも変りなく存在し、われわれを規制しているのである。・・・毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを、「葉隠」は主張している。・・・われわれの生死の観点を、戦後二十年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、「葉隠」は与えてくれるように思われるのである。」と述べる。
更に、2章「「葉隠」四十八の精髄」では、『葉隠』を「行動哲学」、「恋愛哲学」、「生きた哲学」の3つの側面を持つ哲学書であると捉え、「エネルギーの賛美」、「決断」、「デリカシー」、「実践」、「寛容」など48の側面から真髄を論じている。
最後に、3章「「葉隠」の読み方」では、「われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。」と結んでいる。
本書には、『葉隠』名言抄(笠原伸夫訳)として、原文抄文と現代語訳が付されており、『葉隠』そのものとして読むことが勿論できるし、稀代の作家・三島の解釈を知ることは、『葉隠』を自分に引き付けて理解するのにも無駄にはならないと思われるのだが、それでも、三島がなぜ壮絶な自決にまで至ったのかの疑問は残る。。。仮に『葉隠』という作品が後世に伝わっていなかったら、三島は自決に至ったのだろうか。。。
(2012年12月了)