午後の曳航 新版 (新潮文庫)

  • 新潮社 (2020年10月28日発売)
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本 ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784101050461

感想・レビュー・書評

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  • 三島由紀夫生誕100年
    今日は、誕生日です

    1963年書き下ろしの「午後の曳航」
    宮本亜門さんがオペラにしているようですけど
    どんな舞台だったのでしょうか
    1976年イギリスを舞台にして日米合作映画化
    こちらもどうなっているのか興味ありです

    今年になって神奈川近代文学館の展示が常設展に変わったのでお天気の良い日に訪問
    こちらの文学館の三島由紀夫コーナーで推されている一作が「午後の曳航」です
    小説の舞台が横浜の山手、文学館の周辺となっているからと思います

    主人公の13歳の少年は、父親は早くに亡くなり
    母子家庭で大切に育っている
    母は父親が残した輸入品のブティックを経営している
    このブティックが横浜元町にあるお店をモデルとしている
    小説の創作ノート、横浜取材時の三島由紀夫の写真等の展示もありました

    母子で長く暮らす家庭に若い航海士の男が加わる
    少年は出会った頃の航海士に海の男として羨望していたが、陸にあがり母親との結婚を決めて
    父親という俗悪に落ちる男を許せない
    少年は、彼に処罰を決心する

    1963年の小説とは思えない驚きがあります
    まず、息子と仲間の少年達による小動物への虐待
    そして、リーダー格の少年による“14歳に満たない者の行為は、罰しない”という少年法への言及
    次に、息子が自分の部屋の隙間から母親の部屋を覗くという行為
    古い映画で青い経験(違うかな?)あたりで
    思春期の少年の好奇心を表現していたと思う

    13歳の思春期の少年達
    彼とその仲間達の危険な思想
    「世界の圧倒的な虚しさ」

    新解説は 久間十義氏
    なかなか広範に解説されていて把握しきれないけれど “意地悪く言えば サガンの「悲しみよこんにちは」の父娘逆バージョン”ということには同感でした
    少年が男が父親となると決まってからの拒絶的言動に「悲しみよこんにちは」を思い出していた
    少年達が父親、教師らの存在に対して抱く拒否感は、サガンの少女のアンニュイさよりも明確な
    拒絶として書かれている
    しかも、ラストを迎えるシーンがとても好みなのです
    初めて読みましたが、とても好きな小説でした

    • 1Q84O1さん
      みんみんさん

      遅くなりましたがおめでとうございまーす
      ヾ(。>﹏<。)ノ゙✧*。
      みんみんさん

      遅くなりましたがおめでとうございまーす
      ヾ(。>﹏<。)ノ゙✧*。
      2025/01/16
    • kuma0504さん
      高校のとき、友だちと初めて行った映画が「午後の曳航」でした。日本の製作、フランス人監督の外国映画。若いので、覗き見部分しか記憶に残っていない...
      高校のとき、友だちと初めて行った映画が「午後の曳航」でした。日本の製作、フランス人監督の外国映画。若いので、覗き見部分しか記憶に残っていない(^ ^;)。
      そうか、殺しちゃったか。
      高校生のわたしは、そのことについて、どうして何も思わなかったのだろう。
      2025/01/21
    • おびのりさん
      kumaさん、映画観られてるんですか
      なんかそれだけでもう凄いと思います

      そして、この小説のおしゃれなところは、
      少年達が 計画を実行して...
      kumaさん、映画観られてるんですか
      なんかそれだけでもう凄いと思います

      そして、この小説のおしゃれなところは、
      少年達が 計画を実行している途中で
      ラストを迎えるんです

      思春期の少年達が 大人の男性に抱く嫌悪感
      今だと厨二病とかになってしまいますけど
      家庭に入った異物からの亀裂
      冷淡さで言えばサガンの方ですけど
      今まで読んだ三島由紀夫の中でも上位でした
      (個人差があります)
      2025/01/21
  •        『午後の曳航』

     今回は おびのりさん がおもしろかった✨
    という 『午後の曳航』 挑戦しちゃいます!
    私じゃダメダメなので…
    おびのりさんの レビュー を参考にしてね♡


    「三島由紀夫のレター教室」はどちらかというと
    POPな感じが色濃くって
    サザンオールスターズの
      「LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜」
    が 鳴っちゃってたのよ ♡
    勝手に耳もとでね

    だが しかーし…です
    三島由紀夫 凄すぎるんです。
    はい! ここからはマジメにいきます σ(^_^;)


    文庫の裏に

    十三歳の登は自室の抽斗奥に小さな穴を発見した。
    穴から覗く隣室の母の姿は艶めかしい。晩夏には、母が航海士の竜二とまぐわう姿を目撃する。

    なーんて、書いてあるもんだから…
    ちょっぴり艶っぽいのかしら♡
    なんて想像してた自分を張り倒したい (-_-;)

    なんだろう…
    三島由紀夫が凄すぎる。
    ちょっと驚愕してしまうくらいに…
    その言葉に尽きます。

    『午後の曳航』には
    十三歳の少年たちのグループが出てくるの。
    グループの中で登は三号と呼ばれているの。
    そのグループで動物虐待の場面があるのだけど、描写がすごいの。ゾクゾクするくらい。


    「刑法第四十一条、十四歳ニ満タザル者ノ行為ハ之ヲ罰セズ。」と、六法全書に書いてあるから殺人を犯しても罪には問われない。
    だから十三歳のうちにやろう…
    と、「首領」と呼ばれるリーダー格の少年が
    役割を五人に伝えるのだけど…

    そこからが怖かった ((((;゚Д゚)))))))

    結果、殺すことになるとしても…
    小説のなかでは殺す場面はないの。
    「今を失ったら、僕たちはもう一生、盗みも殺人も、人間の自由を証明する行為は何一つ出来なくなってしまうんだ」って…
    怖すぎでしょ…発想が!

    失敗しても罪には問われないから大丈夫
    …みたいな怖さなのかな?

    描写が怖くて…ジワジワってくる
    目線とか、話し方とか…
    殺すの? えっ? ちょっと… まってまって…
    みたいな怖さ。。。
    殺人事件とかじゃないのに
    子供なのに…ってのが怖くって。

    毎度のことなんですけど語彙力なくて
    本当に本当にごめんなさい ಠ_ಠ
    でもね これだけは言わせてね!

    凄すぎる 三島由紀夫!!
    一九六三年に こういうテーマで書くなんて

    そして本当に不思議なのが…
    読んでから何度でも読み返したくなるの✨
    その度に深く入ってくるんだなぁ

    おびのりさん ありがとうございます♪
    凄すぎました
    少し時間をあけて 三島由紀夫 進めまーす♡

    とっても おもしろかったです。
    みなさんも 是非 読んでみてね❤️


    • おびのりさん
      読んでいただきありがとうございます♪
      もう三島由紀夫Tシャツプレゼントしたいくらいです╰(*´︶`*)╯♡
      読んでいただきありがとうございます♪
      もう三島由紀夫Tシャツプレゼントしたいくらいです╰(*´︶`*)╯♡
      2025/04/27
    • ともちんさん
      おびのりさん♡

      「凄いなぁ 三島由紀夫♪」の上をいく凄さ♡
      おもしろすぎました。凄すぎました✨
      『午後の曳航』読めたこと本当に嬉しくって
      ...
      おびのりさん♡

      「凄いなぁ 三島由紀夫♪」の上をいく凄さ♡
      おもしろすぎました。凄すぎました✨
      『午後の曳航』読めたこと本当に嬉しくって
      まだ…興奮が続いています
      これも…おびのりさん♡のおかげです
      本当にありがとうございます♪

      三島由紀夫Tシャツ 欲しーい (((o(*゚▽゚*)o)))♡

      2025/04/27
  • かつて読んだのは『金閣寺』『潮騒』『仮面の告白』『豊饒の海』。随分長いこと読んでこなかった三島由紀夫。それでも印象は以前と変わらない。鋭利に突き刺したまま折れてしまう刃のような文。地の文にも登場人物の会話文にもひと続きの熱さを感じた。

    英雄となるのを夢見るのは子ども、英雄になれないことに気づくのが大人。また、勝手な記号化によって自分本位の秩序に押し込めて、世界を了解した気になるのは子ども、その秩序からの脱却をはかるのが大人、ともいえる。三島はどちらでもあって、その狭間で焦燥していたように思う。

  • ▼好みかと言われたら、あまり好みではないのです。が、問答無用に面白かった・・・。脱帽です。三島由紀夫の小説って、多くのひとにとって、一体全体どうなんでしょうか???

    ▼舞台がバリバリ横浜元町あたりなのも、横浜市民としてはちょっと高得点でした(物語の舞台の元町は近くはないですが(笑))。要は、

    ・元町でオシャレな高級輸入衣類雑貨店を営む未亡人のシングルマザーさんがいて

    ・その人が孤独に海で生きてきた船員さんと出会い恋に落ち

    ・再婚するんだけど、未亡人さんの13歳(だったか)の息子が・・・。

    というお話です。ここで三島さんらしい強烈な異臭?を放つのは、息子です。

    ▼息子は同級生6人くらいと、言ってみれば「カルト集団」を組んでいます。表面は皆、金持ちボンボンなんですが、歪んだプライドで自らを尊と為し、実に悪魔的なまでに「通俗」と「リアルな人間関係」を蔑んで殺意すら抱いている。その傲慢さは一種、普遍的ですらあります。

    ▼この何とも痛く恐怖で滑稽で深刻な純粋さ。一方で世故に摩耗し、俗に削られ、いろいろあった末のオトナな恋愛。この二つがスリリングに交錯する。触れなば切れんサスペンス。悲劇的な緊張感。炸裂する寸前のような濃密な文章技術。スティーブン・キングが濃縮凝固されたかの如く。とめどなく匂い立つ暗黒と無垢・・・。褒めるしか打つ手がない…。

    ▼長いこと、それこそ十五の歳から二十年以上、三島由紀夫さんは「食わず嫌い」だったんですが、四十を過ぎて勇気を出して挑みました。ここまでに
    ①「仮面の告白」
    ②「金閣寺」
    ③「潮騒」
    ④「豊穣の海(一)春の雪」
    ⑤「三島由紀夫のレター教室」
    ⑥「複雑な彼」
    ⑦「命売ります」
    と読んできました。
     エンタメに軸足を置いた⑤⑥⑦は、ウディ・アレンかカウリスマキのような「凄みのある軽さ」に舌を巻き。
     「ここは、本気ですから」的な①~④そして「午後の曳航」は、どれもこれもがヘヴィー級のパンチにひたすらリングサイドに追い詰められて1ラウンドKO負け、とでも言うべき力感。ヒトと社会という風景は、なにゆえここまで醜く酷く滑稽で美しいのかしらん。この人は、本当に日本語で小説を書くことの名人です。もはや茫然。

    ・・・なんだけれども、基本的には「好き」ぢゃない(笑)。でもなんかもう、どうしようもない(笑)。

    豊穣の海の(二)に、進まざるを得ないか・・・。

  • 鋭利なカミソリのような壮絶なる中二病小説。

    主人公の登やその仲間たちはまさに14歳、観念的な正義と、そして妥協的な大人への侮蔑の念を共有することで結束している。

    そして同時に、船乗りとして大海原で見た夕陽や南国のむせかえるような熱気の中で人生の至上のときをやはり観念的に味わい、同時に房子との恋愛を通じて分別ある大人への道を選ぼうとしている竜二。

    美しき理想と、それを乗り越えるための成熟という名の妥協。これらの葛藤は三島のメインテーマかもしれず、また、「別のあり得たかもしれない生」への憧れと密かな後悔は、実は村上春樹がテーマとして継承している。

    さて、この小説のこわいところは、たとえば中二病まっさかりの中二が読んだら、そしてその読者が賢ければ賢いほど、本気で登たちに共感するだろうということだ。欺瞞的な大人を罰し、あるべき世界の秩序を回復するためなら、平気でおそるべき計略を練る子どもたちに、、、

    たとえば三島の遺作とも言える「奔馬」では、この辺についてちゃんと種明かし的な解説を入れてある。

    「勲は『決して憎くて殺すのではない』と言っていた。それは純粋な観念の犯罪だった。しかし勲が憎しみを知らなかったということは、とりもなおさず、彼が誰をも愛したことがないということを意味していた」(P407)

    というように。
    ここでは三島は、平たくいってしまえば、「お前のその薄っぺらい正義感、童貞捨てればなくなるよ」と、ささやいている。しかし本書にはそれがない。
    若い読者は、とくに登やその仲間のように親の愛を十分に受けられていない(そしてそのことに無自覚な)子どもたちは、自分の正義感を全肯定されたと感じるかもしれない。

    さて一方で、竜二と房子の恋愛の描写はたとえようもなく官能的。それこそ中坊には早すぎる。この濃厚さが、たとえそこになんの解説もなくても、あるいは中二病的な自己絶対視にたいする絶妙な解毒剤になっているのかもしれない。

    というわけで、名作はなんでもそうだが、読んだときの年代によってあまりにも感じ方が変わる傑作小説。

  • 三島由紀夫の性癖がこれでもかと盛り込まれていて好き。男の色気の描写が無駄にえろい。
    猫が死ぬのだけが無理だった。人は死んでもいいけど猫は死んではいけない。

  • 物語の最終局面、その後竜二はきっと殺されてしまうのだろうと思いつつ、もうどうしようもないなとやるせない気持ちになった。が、締めの言葉「誰も知るように、栄光の味は苦い。」はズルすぎるってば三島先生ー。いつも思うけど、本当に言葉の使い方が美しくて尊敬。
    主人公の登は度々覗き穴を通して隣室の母の裸姿やまぐわう様子を盗み見るのだが、「豊饒の海」の第三、四巻において本多が覗き見をするのとは違って、全然犯罪臭のようなものはせず、寧ろ神秘的なものに思えた。

  • 『午後の曳航』(1963)とは、世俗にまみれる大人のケガレを強引なやり方で祓い、英雄性を取り戻そうとする聖少年たちの冷酷さを描いた、三島由紀夫の小説。どこか神話めいた作品です☆

     13歳の少年はたくましい海の男に尊敬のまなざしを向けていたが、彼の英雄は、都会で商いをしている母親と交わってしまう。その上、女のために船を降りて陸の人になろうとする……
     そんな漁師の行状を、恐るべき子供の論理は堕落とみなし、許さず迷わず冷徹な計画を敢行する! 処刑が成就しようとするところで、物語の幕が下ります。

     じつは、初めて読んだ三島由紀夫の著作にあたりますが、手にしたきっかけは、なんと『潮騒』と誤って買ってしまったというもの。ある種の悲劇でした……★

     起きること自体より、この作品に表れた<違和感を断じて受け入れない潔癖さ>に、ハッ! と胸を突かれました。閉じた世界の完結感、偏狭の高貴さ、硬質な文体の清さ✧

     大人への幻滅だけで済まさず、また「人生ってそういうものだよ」「嫌がってたって君たちもそうなるんだ、仕方ないさ」なんて、不純な説教(?)が一個たりとも入ってないんです。子供を丸めこもうとする理屈をきっぱり拒んで、作者は危険に加担したと感じました☆

     どこかで、少年たちの行為を「悪魔的」と形容したのを目にしたおぼえがあるのだけれど、私は「天使」のイメージをもちます。ふわふわした可愛い天使ではなく、天の意志を遂行し人間に裁きを与える、無慈悲な天使です✧ こういうときは天使のほうが、一切の情状酌量がなさそうで恐ろしい★

     しかし、この感じ。保ち続けながら生きるのは非常に厳しいけれども、なれて平気になってしまったら腐敗への迎合を意味する、この感覚……
     書き出された激しい処罰感情は、いつか大人の男になる未来への自罰とも読み取れます。あこがれの死、美の死、そして自死の予言、といった兆候もあるような気がしました★

  • 注:結末の内容に触れています


    『美しい星』の感想では、『金閣寺』って金閣寺(金閣)が燃えちゃう、それだけの話だよね? それなら、津山事件を描いた松本清張の『闇をかける猟銃』の方が猟奇的で面白いよね?、とか(^^ゞ
    その『金閣寺』の感想では、特筆して「名作」だとは思わない。だって、(エンタメ小説として読んじゃうならば)金閣が燃えちゃう、それだけの話だもん、とか書いちゃった自分だけれど(^^ゞ
    この『午後の曳航』を読んだら、『金閣寺』と比べちゃうと三島由紀夫臭が、な〜んか、ちょっと物足りないんだよなぁー、なんて思ったんだから、かなりいい加減だ(爆)
    (『金閣寺』って、後からじわじわ効いてくるところがあるw)


    いや。これは面白い。
    今のエンタメ小説に慣らされすぎちゃった人、つまり自分のような人でも、面白く読める小説だと思う。
    と言っても、今のエンタメ小説にある、あの至れり尽くせりな読者サービスはさすがにない。
    でも、今のエンタメ小説にある、あのすり寄ってくるような読者サービスって、もしかしたら、この小説辺りにルーツがあるのかもしれないな?、なぁ〜んて思っちゃうくらい、これは読みやすい。

    と言っても、それは大枠のストーリーの話であって。
    一文、一文は、やっぱり三島由紀夫。
    読んでいて、うーん。これ、どういう意味なんだ?と考えても、全然わからない文章がぽろぽろあったりする(^_^;
    ぶっちゃけ、首領の言っていることなんて、ハチャカパカポーレな宇宙語だ(爆)
    ていうかー、自分としては、首領というと思い出すのはショッカーなこともあって(^^ゞ
    ショッカーが何をしたいのか全然理解できないのと同じってこと?、なんて思ってしまったくらいw


    そんな『午後の曳航』だけど、読んでいて思ったのは、あー、これ、もしかして、三島由紀夫なりの「シェーン」の解釈なのかなぁーと(^^ゞ
    いや、わからない。
    だって、解説にも(1968年の解説の方)、”この物語は、私たちがいつか、どこかで読んだ大衆小説か何かの筋書きを想起させるだろう”とあるくらいだもん。

    「シェーン」という映画の良さは、観客という第三者の立場で見るからであって。
    登場人物、特にラストで「シェーン、カムバック!」と叫ぶ少年からしたら、シェーンは悪い奴をやっつけてくれるヒーローである反面、父親がいて母親がいて自分がいる家族の幸せを壊してしまいかねない存在であるわけだ。
    もちろん、少年は子供だから、それがわからない(もちろん、本能的には気づいている)。
    ただ、パパもママも僕もシェーンが大好きなんだから、シェーンは僕らと仲良く暮らせばいいじゃないと思うからこそ、去っていくシェーンに「シェーン、カムバック!」と叫ぶわけだ。
    一方、三島由紀夫は大人だから、シェーンと少年の父親が絶対一緒に暮らせない存在であることがわかる。
    よって、シェーンは存在してはならないものだと、三島由紀夫は考えた。
    さらに言えば、三島由紀夫というのは父権というものを嫌っていた面があるらしいから。
    妙なほど少年に肩入れし、少年の日常を守りたいと考えて、少年自身がシェーンを無き者にするストーリーを思いついた。
    ……という珍説、どうだ?(^^ゞ


    ただ、まー、それだと、少年と首領とその仲間たちという設定を持ってきた意図が、イマイチよくわからない気もするかな?
    いや。たんにその頃、そういう事件があって。それを、たんに小説に取り入れただけ、といいうことなのかもしれない。
    でも、読み出してすぐにある、男との逢瀬を楽しむ艶めかしい房子の場面とか、それを覗いている登の設定とか。結構、ロマンチック、かつ切なく描かれる竜二と房子の交情とかを読んでいると、『美しい星』でも感じた、全然異なるものを無理やり合わせている、ミョーなチグハグさを感じてしまうんだよなぁー。

    もちろん、竜二と房子の交情を密に描くことで、訪れる結末の無惨さを際立たせる、と言ってしまうのなら、それはそれで納得できる。
    三島由紀夫をかなり読んでいるらしい方が、“三島由紀夫は社会派系と恋愛系に分けられる。さらに、甘美系と酷薄系があるんじゃないかと思う”とコメントに書いてくれたように、ここでは甘美と酷薄を同居させることで物語をドラマチックにさせているということなのだろう。
    さらに言えば、三島由紀夫というのは、読者がそのどっちにも入り込めるくらいに巧く表現できる作家なんだというのもあるのかもしれない。

    とはいうものの……。
    と思ってしまうのは、著者は何を描きたくてこの小説を書こうと思ったのか?、その辺がつかめないからだろう。
    というのは、解説の二人が書いているように、『恐るべき子供たち』だとは自分は思わないんだよね。
    もっとも、『恐るべき子供たち』って読んだことないんだけどさ。←いい加減(^^ゞ
    でも、流域面積世界最大の川wを見る限り、ここでの登と首領と仲間たちの交わりっていうのは、わざわざホストの人が辛気臭気な顔で頬に肘ついて、"この小説は、読むというより、「感じる」美学だ”なんて、わかったよーなわかんないよーなこと言うほどには描かれていないよね(爆)
    ていうか、あの広告を見て、『恐るべき子供たち』を読もうと思うヤツいるんだろうか?w
    あ、流域面積世界最大の川が招待した“上質なレビュアー”の方たちは軒並み“感じちゃった”から読んだってこと?(^^ゞ


    ま、自分は子供時代なんて頃からは、遥か遠くまで来ちゃったんでw
    登の気持ちなんて、子供の時だけの中二病な感傷にすぎないってわかるし(登だって、大人になって竜二の立場になったら、絶対に船を捨てて房子を選ぶはずだ)。
    首領たちとのアホバカな屁理屈にいたっては、「あー、あー、あー。うー、うー、うー」な宇宙語とほぼ一緒。どーでもよくてw、それよりは竜二と房子の人としての平凡な幸せを願っちゃうんだよね(爆)
    まー、覗きの衝動を抑えられない登の気持ちはとってもよくわかるんだけどさw

    でもさ。
    親は普通、子供の人生全てに関われないわけだ。
    つまり、親とはいえ、所詮は他人なんだよ。
    ということは、親の幸せに子供が口を挟むのも、子供の人生に親が関わりすぎるのもお門違い。
    子どもと親は別個の人間なのだ。
    てことは、中島みゆき曰く、“立っているものは親のモノでも使え”じゃないけどさ(爆)
    (血が繋がってようといまいと)子供は親を、せいぜい上手く利用した方が利口というものだし。
    上手く利用出来れば、自然と情も湧いてくるというものだ(^^ゞ

    ていうか、登がいくら子供だって、親の裸見てコーフンくらい出来るくらいのオトナwにはなっているんだからさ。
    いつまでも親が自分に愛情を注いでくれるのを求めてるんじゃねーよ、ガキじゃあるまいし、って思うけどなw
    人っていうのはさ。どんな人でも、絶対っ!、独善的にしか生きられないんだよ。
    だって、それがいい人であればあるほど、他者に対して善意をもって付き合うんだもん。
    でもさ。その善意って、他者にとって必ずしも歓迎出来ることとは限らないわけじゃん?
    だって、人は完璧じゃないんだもん。
    他人によかれと思ってしたことが、その人からしたら迷惑だったり。余計なお世話だったりすることは普通にある。
    さらには、相手に自分の存在感を見せるためにする善意だってある。
    つまり、善意というのは独善でしかないんだよ。
    てことは、愛情っていうのも、独善的なものなんだよ(というか、愛情こそ独善の最たるものだろうw)。
    でも、ま、それが男女の愛情だと、その独善がアバタもエクボとして見えたりw、独善が双方向だったりするからお互いにそれを了承して受け入れられる。
    でも、親子(親と成人前のこども)の場合は愛情が一方向だから、子供はその独善も一方的に受け入れざるを得ない。
    ということは、親に愛情を注がれたら、子供は必然的に自由を失うってことだよ。
    だって、人は誰も独善的に生きることしか出来ないし。その独善を受け入れるということは、それに従うということだ。
    曲がりなりにも、登は親の裸を見てコーフン出来るくらいにはオトナになったのだw
    なら、自由を選んで、親を開放してやれよ。

    そんな風に打算的に思っちゃう方だからかなぁー。
    著者が登の心情に肩入れをしているように感じるところは、「わかるよ、わかる。アナタの気持ち、すっごくよくわかるよ、オレ/わたし」と共感を押しつけてくることで本を買ってもらおうとする最近の小説みたいで気持ち悪かった(^^ゞ


    そのせいもあるのかな?
    登(と首領たち)が竜二の船乗りとしての生き方に「美」を見出していたのに、船を降りて房子と結婚することにしたことや、竜二のその場しのぎの説教(?)を窒息する思いで聴きながら“この男がこんなことを言うのか。かつてはあんなにすばらしかった、光り輝いていたこの男が”と裏切られたように感じるところって、自分はイマイチ理解できないんだよね。
    だって、船乗りだよ。
    船乗りがカッコワルイとは全然思わないけど、でも、そんな光り輝いて見えるほどカッコいい職業かなぁー(^^ゞ
    (そんなこと言ったら、船で働いている方に怒られちゃいそうだけどw)

    ま、著者はその辺り、登がかなりの船好きだったという予防線を張っているし。
    「マドロス物」なんてジャンルがあったように、当時はカッコイイイメージの職業だったのかもしれないけどさ。
    でも、もうすぐ14歳になる登は、学校ではかなり優秀っていう設定だよね。
    登の家は、(1963年に書かれたこの本で)冷房があるっていうんだから、相当な金持ちだ。
    ということは、おそらくは、学校だって優秀な子供が集まっている私立の学校で。
    登というのは、漠然とながらも、自分は将来東大に行くんだろうと考えている、そんな子供なんじゃないだろうか?
    これはあくまで自分の経験の話だけど、東大に行くようなヤツっていうのは、小学中学の時でもやっぱり賢い。
    たんに成績がいいっていうのとは違う賢さがあるように思うのだ。
    そういうヤツが、自分が好きな船で働いているからカッコイイ。でも、船を降りちゃったからダサい。裏切られた、みたいに考えるものかなぁー(^^ゞ
    ただ、ま、その設定にリアリティを求めちゃうのは、自分が今の至れり尽くせりのエンタメ小説に慣らされすぎちゃったからなのかもしれないなーとは思う。

    もちろん、当時は今と違って情報にふんだんに接することが出来ない時代だから。解説に「マドロス物」とあったように、小説や雑誌で読んだ、船乗り=マドロス=普通じゃないからカッコイイみたいな感覚があって、単純にそう思ったのかもしれないし。
    さらに言えば、母親の再婚ということで気が動転していたというのもあるかもしれない。
    ただ、それは登個人の話で。
    首領たちからすれば、それらは関係ないわけだ。
    首領は、14歳未満は罰せられないと言っているのだから、少なくともその行為が世間的に相当ヤバイことだというのも理解できているはずだ。
    その辺を踏まえると、自分たちの理想とする「美」を壊されたから処刑っていうストーリーは、設定として強引すぎないかい?w
    (ただ、これが純文学なのだとしたら、その文学性を構築するための「例え」としての設定なのかもしれない)

    そんなこともあって、自分は竜二の船乗りという職業を「美」よりは「大義」と思って読んでいたんだよね。
    つまり、竜二と首領たちは竜二のことを、大義を果たさないからダメとした。
    真相はともかく、著者はこの7年後、「憲法改正のためのクーデター」という大義(なのかは知らないがw)のために殉ずることになるわけだ。
    また、坂本龍馬(竜馬?)になるようだけどw、『竜馬がゆく』には、“この世に生を得るは事を成すためにあり”という龍馬(竜馬?)の言葉が何度も出てくる。
    著者が『竜馬がゆく』を読んでいたかは知らないけど、でも、その言葉は知っていたように思うし。
    知らなかったとしても、独自の哲学として「人は自らの大義を果たさなきゃならない」ということは常に肝に銘じさせていた人であるように思うのだ。

    ただ。
    『美しい星』、『金閣寺』、そしてこの本を読んで、なんとなく感じるようになってきたんだけど、三島由紀夫にあるなんとなくのイメージは、憲法改正を訴えて割腹自殺したあの事件にとらわれすぎたイメージで。
    実際は、ものすごく内向的で、イジケた性格の人で。
    たんに自分の好きな世界だけに浸っていたい、オタク気質な人だったんじゃないのかな?と思うようになってきたこともあって(^^ゞ
    そう考えると、三島由紀夫に「大義」なんてものはなくて、やっぱり「美」なのかなぁーとも思うんだけどね(^^ゞ

    というのは、『金閣寺』もそうだったんだけど、この著者の小説って、ストーリーの本筋からはちょっと外れたところにあるエピソードや文章がすごくいいし。
    また、それが、ミョーに意味深なんだよね。
    この小説でそれを感じたのが、大晦日の夜に竜二と房子が家の隣の公園で初日の出を見るエピソード。
    公園で初日の出を見た時、房子が「今年はいい年になりますように」と言ったのに対して、竜二は「いい年になるさ。決まってるさ」と言うわけだけどさ。
    「今年はいい年になりますように」という願いと、「いい年になるさ。決まってるさ」という根拠のない決めつけ(=願い)って、実は大人ならではの言葉なんだよね。
    そこには、世間の荒波を自分の力で生活をしていかならなきゃならないからこそ、「(去年は大変だったから)今年はいい年になって欲しい」という切実さが籠もっているわけだ。
    でも、子供は普通、それを慣用句として口にすることはあっても、二人のように願いとしてそれを言うことはないように思うのよ。
    つまり、子供である首領が言うのは、「明日はお天気だろう」。
    今年と明日という、時間の長さの差。
    今年を願う大人と、明日を気にする子供の心の差。
    登と同じくらいの齢の人はもちろん、もしかしたら、20代の人でもまだピンとこないかもしれないけど、大人と子供の決定的な違いって、意外とその2つだったりするのよ(^_^;
    (その2つを除けば、大人なんて、子供に毛が生えた程度のものにすぎないんだってw)

    そういえば、解説(令和2年の方)で、“『午後の曳航』は、意地悪くいえばサガンの『悲しみよこんにちは』の男女を取り違えた変形バージョン”とあったけど。
    時間に対する意識の差と、これからを願う切実さの差という、大人と子供の価値観の違いを残酷に描いてみせたという意味では、確かにこの小説は『悲しみよこんにちは』の変形バージョンの面はある。
    ただ、著者はこの小説で、そこに重きはおいてないよーな気がするんだけどなぁーw
    個人的には、著者はこの小説に色々な暗喩を込めて書いたというよりは、単純にストーリーを楽しむ小説。
    つまり、エンタメ小説として書いたように感じるかな?(^^ゞ


    最後の、“誰も知るように、栄光の味は苦い”はダサい(爆)
    栄光と、タイトルの『午後の曳航』と引っ掛けているということなんだろうけどさ。←ダジャレの解説をするんじゃないw
    その竜二が登たちに連れて行かれたのを竜二が船員だったから「曳航」としているわけだけど、本人がつけたタイトルのそれに「栄光」って、それではダジャレにはならないよ(^^ゞ
    (まー、当時はダジャレになったのかもしれないけどねw)

    ていうかさ。
    “ひどく苦かったような気がした”で終わってたら、この小説の印象は全然違ってたように思うんだよね。
    もしくは、“誰も知るように、栄光の味は苦い”の後、なんでもいいからもう一行付け加えてくれてたら。
    とにかく、“誰も知るように、栄光の味は苦い”で終わらしちゃったらダメ。
    台無し。

    だって、それでは落ちないし。
    なにより、竜二が途端にマヌケな人に変わっちゃう。
    竜二がマヌケな人に変わってしまったら、今まで読んでいたこの話の印象もガラッと変わってしまう。
    冒頭で登が覗いていた房子の美しい肢体だって、たんなるピエロだ。

    もっとも。
    落ちないダジャレで、「竜二も房子も、所詮はマヌケな存在なのさ」という、どんでん返しを狙ったのだとしたら、それは、もー、絶句するしかないけど(^_^;

    たださ。
    読者に至れり尽くせりな今のエンタメ小説に慣れすぎちゃった自分みたいなのからすると、そういうどんでん返しみたいなのって、作家のマスターベーションかなぁーって思っちゃうんだよねw
    小説というのは「お話」だから。
    結末はきちんとあるべきだし、そこにオチがあればなお、読者は納得してその「お話」を終えられるわけだけどさ。
    でも、読者は、その「お話」を結末のために読むわけではなく、「お話」そのものを楽しむために読むんだと思うんだよね(もっとも、今は結末のために読む本がウケているみたいだけどさw)。
    せっかく楽しんで読んだ「お話」の味わいをひっくり返されるのって、自分は好きじゃないのよ。
    だから、最後の、“誰も知るように、栄光の味は苦い”は、狙ったけど、スベってダサい結末ってことにしておく(爆)

  • サクッと読める三島作品。だが内容は紛れもなく三島作品。

    美しい文体を使いながら、恐るべき子供たちと落ちていく大人達を対比的に描かれていく。登場する少年の心理描写は三島自身の投影かと思えるほど早熟で思慮深い。そして、残忍と残酷さを美化し大義とする。目を背けたくなる描写が挿入されるが、これこそ大義を曳航するための子供達の儀式だったのだろう。

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著者プロフィール

本名平岡公威。東京四谷生まれ。学習院中等科在学中、〈三島由紀夫〉のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。『仮面の告白』によって文壇の地位を確立。以後、『愛の渇き』『金閣寺』『潮騒』『憂国』『豊饒の海』など、次々話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。ちくま文庫に『三島由紀夫レター教室』『命売ります』『肉体の学校』『反貞女大学』『恋の都』『私の遍歴時代』『文化防衛論』『三島由紀夫の美学講座』などがある。

「1998年 『命売ります』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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