- 本 ・本
- / ISBN・EAN: 9784101050515
感想・レビュー・書評
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本作は家父長制への抵抗と敗北を描いている、という柚木麻子の解説に膝を打った。そう考えてみると…そもそもあの時代に同性愛を取り上げた小説を描き続けることそれ自体が、家父長制への大きな抵抗だった…しかしながら、本作に限らず、この抵抗は著者の小説の中ではその大半が敗北に終わっている…ということに思い至った。この負け越しは、同性愛を耽美的なものとして描いていた著者の前に立ちふさがった、家父長制という壁の高さと大きさを表しているのだろうか。
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数多く在る三島由紀夫の小説作品の中、本作は「非常によく知られている作品」と「余り知られていない作品」との中間程度の存在感であるような気がする。が、本作の作中人物である「鏡子」については、三島由紀夫の永年の友人で、年が近い姉のような存在感で、御両親も「息子の永年の友人」として知っていて、三島由紀夫没後にも交流が在ったという女性をモデルにしているのだという説が在るらしい。そういう「作品そのもの」以外の雑談のようなことを偶々知って、それを契機に小説作品を手にして紐解くのは“邪道”なのかもしれない。が、それはそれとして作品を興味深く読了した。
題名の『鏡子の家』だが、これは「鏡子が主宰するサロン」のようなモノを示す。出て行ったのか、追い出したのか、夫が離れた信濃町の家に住む鏡子が在って、小学生の娘と暮らしている。この家を“サロン”のようにして、色々な青年達が出入りしている。本作ではその「鏡子の家」に出入りする主要なメンバーという感の4人、ボクサーの峻吉、俳優の収、画家の夏雄、商社マンの清一郎という人達の物語が展開する。
作中、鏡子と、峻吉、収、夏雄、清一郎は一緒に会って何かやっていたり、各々に会ったりはしているが、互いに深く関係しているとも言い難い。5人の主要視点人物の物語が折り重なっているかのような体裁で全体が進んでいる。物語の舞台となっているのは、冒頭の章に「1954年」と在って、作中で過ぎる季節から「1956年」までというように判る。
「きょうこ」という名はよく在る名かもしれないが「鏡子」はやや例が少ないかもしれない。これは「鏡子」を、時代や劇中人物達の人生を映す“鏡”のような存在としているという意図も在るらしい。
鏡子、峻吉、収、夏雄、清一郎の5人各々の物語が、半ば独立的に展開しているような感も在り、或いは“シリーズ”として別々な作品であっても違和感は少ないような気もしないではないが、それでもこれは「“鏡子の家”で出会った人達の、各々の人生」という「一つの長篇」でなければならないのだと思う。
誰しもが自身の中に或る種の“多面性”を内包しているような気がしないでもない。本作を読んでいて感じたのは、峻吉、収、夏雄、清一郎という作中人物達各々の性格、行動、辿る経過というモノが、「作者の三島由紀夫自身がその裡に秘めていた“多面性”」を反映し、象徴しているような感であるということだ。その“多面性”を半ば鏡子に重ねながら見詰めて綴っていたというような気がしないでもないのだ。
作中世界は「1954年から1956年」となっている。昭和30年頃となる。そして作品が著された時期は「1958年から1959年」であるという。或いは三島由紀夫は、自身とほぼ同世代から少し若い世代の青年達を一群の主要視点人物に据えながら、「自身の人生が在った時代」とか「自身の青年期」を纏めようとしていたのかもしれないというようなことも読みながら思った。
こういう1950年代というような時期を設定した物語、それも1950年代末に世に出たような作品に触れると、どうしても「傲岸な未来人の目線」というモノが読んでいる途中に紛れ込む。作中の様々な描写に曳き込まれながら、「昭和30年頃の様子、雰囲気は…」と何か惹かれていることにふと気付く場合が在る。或る意味で、普通に愉しむ小説でありながら、何処となく史料的な感さえ抱く。或いは、三島由紀夫の精緻で流麗な文章が「作品が綴られている、同時に作中に綴られた時代」を表現して余りあるということなのかもしれないが。
峻吉、収、夏雄、清一郎の4人が、加えて鏡子が辿る経過?なかなかに面白い!! -
好みの文体
そんなに鬱っぽくはないけどそれぞれ没落していく -
おそらく多くの読者がそうだろうと思うが、読了直後の感想としては、何か物足りなさを感じる。
各々の登場人物は魅力的であるが、各々の人生のストーリーが交じりあうことなく、ただ諦念の感情とともに、没落していく結論に言いようのない物足りなさを感じるのだ。
ただ、少し時間を置いて考えてみると、この物足りなさは、各登場人物が絡み合い、人間的なドラマが生まれ、何らかの「オチ」とともに物語を終えるという典型的なストーリーに慣れていることから来るものであると考えるに至った。
そして、ウィキペディアの記事を見て、納得がいった。
三島曰く、「「金閣寺」で私は「個人」を描いたので、この「鏡子の家」では「時代」を描かうと思つた。」
「それぞれが孤独な道をパラレルなままに進んでいく。ストーリーの展開が個人々々に限定され、ふれあわない。反ドラマ的、反演劇的な作品だ。そうした構成のなかに現代の姿を具体的にだしていった。ここに僕の考えた現代があり、この小説はその答案みたいなものである」
「登場人物は各自の個性や職業や性的偏向の命ずるままに、それぞれの方向へむかつて走り出すが、結局すべての迂路はニヒリズムに還流し、各人が相補つて、最初に清一郎の提出したニヒリズムの見取図を完成にみちびく。」
とのことである。
周囲の人間に翻弄されるのではなく、あくまで時代に翻弄され、諦念の感情とともに落ちていく登場人物を描きたかったということなのであろう。
当時の時代背景とニヒリズムを表現したかったということであれば、それは成功しているように思える。
また、登場人物の心理が、難解な文章で表現されるその手法は芸術的であり、それだけでも読む価値がある。
(「やりすぎ」でリアリティに欠ける表現に思える箇所もあったが、こちらの文学的なセンスが追い付いていないことが原因であろう)
三島の小説の中でも特殊な立ち位置にある、魅力的な作品だと思う。 -
この小説と同じく「鏡子」の名を持つヒロインが描かれた小池真理子著「モンローが死んだ日」繋がりで(その文中にて「鏡子の家」に対する言及あり)本作を手に取った。ひとりの女を軸に、彼女の家へ出入りする四人の男たちの生きザマを描いた物語は今読んでも大変新鮮で全く古臭さを感じさせず。ただし、個性溢れるキャラの活かし方に残念ながら若干の物足らなさを覚え、展開次第ではもっと話を面白く出来たのではないかとも思う
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鏡子の家に集まり寛ぐ4人の若者。交じらず其々の生活の中で上昇し落ちて行く。画家の夏雄だけが這い上がってくるが一人は死に二人の去就は定かではない。鏡子も然り。奔放な過ごし方から元の生活に戻ることを決意する。構成が緻密で読み取れない未消化の感覚を残しながら長編を読み終えた。2022.6.18
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難解で理解困難な表現が多く読みにくい部分も多いが、それでも惹きつけられるものがあるのは、やはり三島由紀夫が天才だからだろうか。でも潮騒などに比べて読むのに疲れた。
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評は手垢がついてるので、戦後は終わった世代として私見を述べると、三島は多重人格的に自己分析をしているに過ぎない。当時ありがちなニヒリズム。
令和の時代に理解できる青年はいるのだろうか。
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