いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫 は 15-5)

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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101054155

感想・レビュー・書評

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  • いつも以上にまわりくどい書き方で、早々にお手上げ状態になり、読まなくても良いよなと思って積読していたが、少しずつ気持ちを入れ替えて読み進めたが、やはりまわりくどくてわかりにくい書き方だ。それだけ単純ではない事柄だという事だ。
    読書評などを見ると、「私」と「社会」との関係性云々と話が広がっていくものが多いのだが、個人的にはもっと根本的な「どうしてそう考えるのか」という方向へ興味が移ってしまう。
    今日は2022参院選の投開票日なんだけど、事前予測通り与党の勝利となる投票心理なんかがこの本で扱われている内容とマッチするものとなっている(個人見解)。
    世の中の本では「ポストモダン(近代以降)」を考えるのが当然となっているのだが、本書で扱うのはそれ以前の近代以前と近代での考え方の違いから始まっている。
    ぼんやりしたとらえ方としては、明治開国まで(つまり西洋の考え方が入ってくる前まで)が近代以前で、西欧化とともに広まった考え方の時代が近代と区別できるんじゃないのか。
    その違いというのが、近代以前には一般の民衆は物事を考える必要がなく、上の者に従っていれば良い、上へ上へと行った結果は昔ながらの慣習に従うというのが正しい事だというものに対して、近代とは何が正しいかは自分で考えなければいけない時代の事なのだという。さらに今ではその先の近代以降の考え方を論じている時代が来ているらしいが。
    で、そんな考え方の移り変わりの説明を読んでいて、実際の今を見渡すと「え〜?変わってへんやんか〜」と思ってしまうのであった。
    いろいろ綺麗事を並べている”保守”の考え方だって、よくよく聞けば上に従えとか慣習を大事にしろとか自分の意見を言うなとか近代以前の考え方そのものだし、そもそもなぜ近代の考え方が登場したのかわからないような言説が当然のようにSNSなど現代のメディアにも登場し、いや〜日本は近代ではなくて、まだ近代以前との端境期ぐらいにしか意識が変わっていないんじゃないの?と思う。

    今回の選挙でも、多くの人が薄々はなんかよろしくない世の中だなと思ってはいるのだが、投票結果としては、そのよろしくない世の中を切り盛りしている現政権にこぞって投票している。
    保守層と言われる人たちがどうしてこうも何も考えないのだろうかとこれまでも不思議に思っていたが、実は保守ではなく前近代の人達だったからだと橋本治の本を読んでわかった。
    前近代の人達は何も考えないで上に預ける事で前近代であったわけだから。
    一方で、近代の統治者が前近代の考えを持ってくる理由は、前近代の人達は何も考えずに、難しいことは”上”の人に任せるという考えであり(だってだからそれを前近代って呼ぶんだから)統治しやすいからそう思わせるように仕向けているんだと思うよ。自分らは近代社会がめんどくさい人たちばかりで統治しにくいことを実感しているから。
    でも結局のところ、なぜ近代に移行したのかというところを考えれば、自分でああだこうだと考えていく以外に世の中が袋小路に突き当たってしまうからなのは、先に”近代化”した西欧が示しているし、現状の独裁国家が力で押さえつけていないと崩壊してしまうことからもわかりきったことなんだけどね。
    でも端境期だから

  • 「自分の頭でじぶんなりに考えるということ」をめぐって、著者特有の堂々めぐりをつづける議論を展開している本です。

    著者は、「“自分のことを考える”がそのまま“自分のことを考える”になる人」と、「“自分のことを考える”が不思議にも“他人のことを考える”になってしまう人」という二つの類型を立てたうえで、前者が「近代」、後者が「前近代」に相当すると主張します。そのうえで、現代において「不幸な女の子を救ってあげたい」と考える男の恋愛の問題性や、西洋にならって近代化をめざすも組織の論理が根強く存在する日本社会の性格についての考察など、さまざまなテーマに著者の筆はおよんでいきます。

    さらに著者は、上の二つの類型の人間が、相互に理解しあうことができないでいることを指摘し、またこの相互の無理解が一人の人間のなかでも起こりうると主張します。これは「ジキルとハイド的困難」と呼ばれており、一方の類型にとって他方の類型が「ゆるし」の機能を果たしうるということが論じられています。そこに著者は、「自分の頭でじぶんなりに考えるということ」が必要となる現代のわれわれが進むべき方向性を見ようとしています。

    なお本書の「解説」を担当しているのは、仏教学者の末木文美士です。末木の『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)は橋本が「解説」を執筆しており、相互に解説を執筆するという関係になっているのですが、日本の土着の思想と現代の日本のありかたをひとしく眺めわたしながら思索を展開しているという点で、両者の関心に通じあうものがあるのかもしれません。

  • 39169

  • 私達が瞬間的にたびたび考えることを言葉にしました、というような内容。これだけ巧みに言葉をつないで論理を形成していけるということに脱帽しました。

    後ろの方にある、「個性を伸ばす教育」のあたりは自分とほとんど考えていることが同じでびっくりしました。

    本当は「前から思っていたこと」なんじゃなくて、「「前から思っていた」と思っていたこと」なんでしょうね。優れた作家には「おれも同じこと考えていたよ」というような錯覚を促す力があります。

    他のレビューにあるように、確かに回りくどくて、抽象的な表現も多いのですが、自分の場合は橋本治に対する信頼が強いので、無理なく楽しく読めました。

  • 橋本さんどうしてこんな本を書こうと思ったんでしょうね。他人・自分、社会、近代・前近代、国家等々について、いろいろこねくりまわして書いてあるものの、今一つ伝わって来ず。

  • 「自分の頭でじぶんなりに考えるということが結構難しい、何故なら人間が他人に育てられるからである。」

     自分で考えないことは孤独でない、自分の事をかんがえろといわれて”自分のことを考える人”は孤独である。自分を考える為には全体から孤独になる(切り離す)覚悟が必要。

    「人の理解というものは、あるとき一挙に理解へと至る。」

    「個性とは一般性の先で破綻するという形でしか訪れない」
    「破綻はいきなりやってくるものではなく、じわじわと湧き出るものでもある」

    「一般的な達成を得てしまった人間は、いっぺんその達成をぶち壊さなければ個性への道を辿れない。」

    「私と他人、私と私たちの問題では、メビウスの輪になるのは正しいあり方である。」

    「自分や自分たちのあり方を全体から離れて考えることは、考えてもいいであり考えなければならないこと。」

  • 「私」と「私たち」について考えること。メビウスの輪。再帰的思考。

  • 書いている内容はおそらくそんなに難しいものではないと思うが、文章が極めて読みにくい。
    どうしても最後まで読めませんでした。

  • ヴィレッジバンガード横浜店で手に取った一冊。「なぜ、自分のことを考える前に他人のことを考えてしまう人がいるのか?」について考えることを起点に、近代について、国家についてと広がりました。

    頭がぐるぐるする一冊。

  • 「私」と「私以外」の人について、何をどう考えるべきかに取り組んだ本

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著者プロフィール

1948年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。小説、戯曲、舞台演出、評論、古典の現代語訳ほか、ジャンルを越えて活躍。著書に『桃尻娘』(小説現代新人賞佳作)、『宗教なんかこわくない!』(新潮学芸賞)、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(小林秀雄賞)、『蝶のゆくえ』(柴田錬三郎賞)、『双調平家物語』(毎日出版文化賞)、『窯変源氏物語』、『巡礼』、『リア家の人々』、『BAcBAHその他』『あなたの苦手な彼女について』『人はなぜ「美しい」がわかるのか』『ちゃんと話すための敬語の本』他多数。

「2019年 『思いつきで世界は進む』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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