- 本 ・本
- / ISBN・EAN: 9784101059112
作品紹介・あらすじ
オールスター戦9連続奪三振を目前に、微笑とともにカーブを投げる江川の慎み深さこそプロである。-過程よりも結果に執着するスポーツ紙、テレビ解説的言説に敢然と反逆し脚光を浴びた美人華道家、草野進が、今ここにの開幕を宣言する。蓮実重彦、渡部直己、尾辻克彦、柄谷行人、糸井重里、立松和平ら、草野進とその支持者20余名による、革命的プロ野球評論書。
感想・レビュー・書評
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WBC2023のドラマには誰もが感動したのではないか。
メジャーリーグで活躍する大谷翔平とダルビッシュに率いられた日本チームが劇的に優勝を遂げた。
準決勝のメキシコ戦での劇的サヨナラ勝利。
アメリカとの決勝での村上、岡本のホームラン、そして、9回、登場したピッチャー大谷は、アメリカの最後のバッターエンジェルスの同僚トラウト。
これを三振に切って取って日本が優勝!
何というドラマと、感動の冷めやらぬ内に本書を手に取った。
本書には、WBCに関するこんなありきたりのコメントなど、全くない。
「ドラマ」などという紋切り型の表現を切り捨ている。
それは「制度」を補強する「物語」なのだから批判の対象にしかならないのだ。
だが、本書のその面白さは、極め付きだ。
全く新しい野球批評を作った「草野進」とは何者なのか?
草野進は、草野仁ではない。
草野「すすむ」ではない。
草野「しん」、女性だ、と本人は言う。
華道の家元を名乗るが、その語り口調から、当時、人気を誇った「黒木香」ではないかと(密かに)疑っていた。
だが、違った。
それが、元東大総長のフランス語学者だと知って、大いに納得したものだ。
語りは女性口調だが、語る内容は、いかにも、彼(蓮實重彦)らしい。
彼は、野球批評のみならず、映画批評、文芸批評に革命を起こしてみせた。
本書は、その野球批評の革命性を余すところなく示したものだ。
タイトルは「プロ野球批評宣言」であるが、「プロ野球批評革命」と呼んでも良い。
尤も、草野(蓮實)にとって「批評」は「革命」の同義語であるから、この題名でも良い。
問題は革命の困難さだ。
革命の継続の困難さ、と言っても良い。
本書に収められた、この革命に参画した多くの革命家の批評を読んでみると革命の難しさがよく分かる。
草野重彦もとい、草野進の急進的革命理論に追随できる者はそういないのだ。
勿論、草野進の用語と語調を使うことは誰でも出来る。
だが、それは、革命のモノマネに過ぎない。
真の革命とは異なるのだ。
本書の面白さは、革命の過激さとその(継続の)難しさを同時に示すことにある。
革命的な批評とはこういうことだ。
<一点に泣くという安易な比喩をプロ野球からの追放せよ>
<二塁手の顔がある。セカンドという守備位置の後進国的暗さはそれとして、本来の寡黙さを、取り戻すべきだ>
<三振の面白さとは、その徹底した不経済性にある>
<四番は全ての選手に開かれた民主主義的な打順ではない。然るべき選手のために用意された排他的で前近代性を持った打順なのだ>
<プロ野球は退屈なスポーツである>等々。
革命家にはエピゴーネンが付き物だ。
村上春樹の後には、村上春樹のエピゴーネンが生まれ、草野進の後には、草野進のエピゴーネンが雨後の筍のように生まれた。
それは、(喩えは古いが)高倉健のヤクザ映画を観た観客が、みんな高倉健のエピゴーネンとなって映画館の暗がりから出てくる姿を彷彿とさせる。
だが、そこには高倉健は一人もいない。
それは、可笑しく、見苦しいだけだ。
本書に載せられた渡部直己の文章を見よ。
これこそ見苦しいエピゴーネン文章の見本だ。
エピゴーネンがエピゴーネンを超える時、それは目指す革命家を超える時でなくてはならない。
それが出来なければ、革命家から遠ざかることだ。
そして、別の道を探すべきだ。
蓮實のエピゴーネンとして出発し、師であると蓮實を超えた者が一人だけいる。
松浦寿輝だ。
だが、彼は、文芸批評において蓮實を超えたのであって、プロ野球批評には足を踏み入れていない。
では、蓮實重彦(草野進)の目指す革命とは何か。
それは、社会を支える暗黙の(無意識の)「物語」「制度」を炙り出し、それを暗黙の裡に(無意識の裡に)補強していく人々の生き方を「凡庸」と呼んで、糾弾することだ。
蓮實用語を哲学用語で言い換えると、「物語」「制度」は、「エピステーメー」(フーコー)となり、「凡庸」は、「頽落」(ハイデガー)となるだろう。
だから、蓮實の業績とは、哲学的深度を文芸批評と映画批評に持ち込んで、批評革命を行ったことにある。
その蓮實が新たな領域にその批評革命を展開したのが、プロ野球批評の領域だ。
当然、そこにも「物語」「制度」という、強固に(知らず知らずのうちに)我々に不自由を強いるものがある。
草野(蓮實)が、目指すのは、「物語」に囚われ、「凡庸」なプロ野球の観客から脱却することだ。
プロ野球における「物語」とは何か?
(本書が古いので喩えも古いが)例えば、広島の衣笠を「鉄人」と呼ぶことだ。
草野は何と論じるか。
<衣笠祥雄を、鉄人と呼ぶこと、これはなんの役にも立たない美辞麗句に過ぎない。真に驚くべきは、シーズンを通じての彼のプレーの徹底した退屈さなのだ。その輝かしい連続試合出場の記録とは、その退屈さの金字塔とも言うべきものなのだ。
衣笠祥雄は退屈さのプロなのだ。鉄人という呼び名は、本来が退屈なスポーツに他ならないベースボールに、ドラマのヒーロー的なイメージを導入してしまうのだ>と。
これこそが、草野の批判する「物語」なのだ。
それを信じ、語ることは、「凡庸」な「物語」強化の姿勢でしかない。
草野は衣笠を批判しているのではない。
愛している。
野球とは退屈なスポーツなのだ。
だから、<ゲームを演じる側もそれを見る側も、退屈さへの感性がなければとても付き合い切れるものではない。衣笠祥雄の素晴らしさは、その退屈さに堪える素振りがいかにも繊細な点に存している>。
<衣笠祥雄を鉄人と呼ぶことは、単調なベースボールを儀式に富んだ人生に近づけようとする悪き陰謀なのだ>と語る。
当時、巨人の江川は、野球界、マスコミから批判されまくっていた。
それに対して、草野進は何と言うか。
<投手としての江川卓は、露骨さに徹することをプロだとする日本的な環境をどうしても認めることができない。A級戦犯の一語で彼を叱咤激励する連中が求めているのも、その露骨さだ。だから、役に立たないのだ。
露骨さなど犬に食われろと江川はせせら笑う。
オールスターで、八連続三振を奪い、後1人で江夏の記録に並ぼうというときに、微笑とともにカーブをなげる彼の謹み深さこそ、我々はプロだと思う>
こんな刺激的なプロ野球批評を読んだことがあるだろうか?
「物語」や「制度」に雁字搦めになったプロ野球ではなく、実に退屈で、その退屈さに耐える美学としてのプロ野球を、球場で見るべきなのだ。
草野が捕手を論ずると、それは権力論に行き着く。
<捕手はフーコーのいうパナプティコンの看守のように、見られずしてすべてを見ている絶対の権力者なのだ。仮面で素顔を隠した権力者としての捕手>
マスコミに植え付けられたプロ野球神話という「物語」が崩壊していくではないか。
蓮實重彦の入門書としても最適だ。
ここから、蓮實の文芸批評、映画批評に入っていける。
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醜い打球であれ安打をはなつこと、愚鈍であれ失策しないこと、退屈であれ負けないことを優先する、義務にとらわれた野球。そんなのプロ野球ではない。
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