☆新版☆ 路傍の石 (新潮文庫 や-1-8 新潮文庫)

  • 新潮社 (1980年5月27日発売)
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本 ・本 (608ページ) / ISBN・EAN: 9784101060095

感想・レビュー・書評

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  •  苦労し努力を重ねる少年の物語と訊いていたため、淡々として地味な小説…とイメージしていた。ところが、すこぶる面白いのであった。
    舞台の展開が意外に速くてテンポが良い。呉服屋での丁稚奉公にしても、ここで苦節何年も耐えるのかな…と思いきや、早々に逃げ出して東京に出てしまう。上京後も、見る見るうちに、地歩を確保し「出世」してゆき、展開が速い。文章が平易ですらすら読み易いこともあり、570pの大部だが、4日で読みきってしまった。
     
    さて、主人公は愛川吾一という少年。冒頭では尋常小学校の生徒で十代前半、そして、終幕では、20代半ば頃の青年へと成長している。初めは、栃木県が舞台で、江戸期の名残が少し残っている明治の頃。その後、日中戦争の時代、軍国主義の時代へと至る。
     吾一の父は侍の家に生まれた士族で、ろくに働かず、土地の所有権を取り戻す「訴訟」に何年も掛かり切りになって家を空けている。母を多年にわたり内職させ、吾一が苦心して貯めた貯金を無断で費消する人でなし。だが、吾一の父が最も罪深いのは、近代(資本主義経済)の世に移った時代の変化を受け入れず、封建時代の遺産で不労所得を得ようと執心していることである。

     その他、吾一の周りには、多くの曲者たちが次々に登場する。努力して働く吾一を、妬み、ひがみ、足を引っ張る者、意地悪をする者などなど。
    親たちが本書を子に薦めてきたのは、かような「渡る世間は鬼ばかり」な現実を、子供たちにも知っておいて欲しい、という期待、効能もあるのかもしれぬ。
     
    吾一は、働くこと、しかも、ただ闇雲に働くのでなく、工夫し、自分にとって何が大切なのか先を読んで努力してゆく。そして、物語は、悪人や、同僚の妬みと、上手につきあう智恵も必要なのだと暗示している。

    終幕近く。「いかに生きるか。」が大事だと説く、恩師の次野先生。だが、吾一は、今の自分は「いかにして生きるか。」が大事なのだと考えるのであった。

    * * *
    人として生きる正しき道を説く物語である一方で、北清事変について語るくだりでは、大陸進出、植民地支配を正当のものとして論じている。時代の制約というか、当時の価値観の枠組みという限界として、やむを得ぬのかもしれない。

  • もし自分が、このお話の主人公だったとしたら、
    果たして今のように自分自身を保っていられるだろうか?

    この本は何十年も前に読書感想文の為に選び、いちど読んでいますが、
    改めて読み終わった今、真っ先にそう感じてます。

    主人公、愛川吾一は道ばたの蹴られる石。タイトルの通り
    彼は話のいたるところで理不尽な扱いを受け、ほんのささいな希望すら
    踏みにじられては、それでもそのたび起き上がって生きていく
    雑草魂を幼少期の頃から否応なしに求められます。

    彼の生まれるすこし前の日本では、明治維新が起こり、
    歴史的大転換期をうまく変化できた者と、そうでなかった者で真っ二つに割れ、
    この吾一の父親、愛川庄吾の育った環境は後者である『古いお侍』の思想を
    色濃く受け継ぐ条件が揃っていました。

    幕府が倒れたといえ、人間の意識は一朝一夕には変わりません。
    黙っていても懐にお金が転がり込むのが当たり前と思う父親と、
    幼少時から家にお金がなく、たった一銭の焼きいもを買いに
    使いにいかされるその息子。
    働かない父親の代わりに袋張りの内職で家計を支える母親。
    路傍の石のこういうシーンは、ひょっとして当時の没落士族の
    家族にまで及んだ、時代とのマインドのギャップと貧困の織りなす悪影響を、
    最大公約数として捉えているのかもしれないですね。

    福沢諭吉の学問のすゝめを読んでインスパイアを受けた吾一は、
    時をほぼ同じくして人の厚意でせっかくまとまりかけた中学進学への道を
    むざむざ断ってしまう父、愛川庄吾からのお説教を受けます。
    庄吾には『今』の時代がまったく見えていず、過去に家がお侍であった
    ことだけを笠に着て、自らを正当化することばかりに躍起になる。
    ここには天と地ほどのギャップが存在しています。

    過去に自分がこの本を読んでなぜ強烈な印象として残っているのか、
    理由としてこのパートでの『対比』が挙げられると思います。
    直前に偉人を引き合いに出して、その後、愚かな者の思い込みを
    語らせる。プロボクサーが職業的にやるパンチみたいに、
    うごきに無駄がなく威力は最大限というあんばいの計算された演出なように思いました。
    何十年経って読んでも、これはとびっきり最高に胸くそ悪い(笑)

    路傍の石全編を通して、山本有三が伝えたかったのは恐らくここだろうと。
    少年期、青年期にたびたびすさまじい重しとなる『父の存在』が
    話の大きな潮目を作っていて、過去と現在の狭間にある罪を精算する為に
    否応なしに対応を迫られた、若い世代の心の叫びがここにはぎっしりと詰まっていると思います。


    吾一に救いがあるとすれば、彼は周囲の雑音に負けず、
    様々な本から有益なことを学び自らの行動に反映させていく姿勢を
    決して忘れなかったことです。
    知識の蓄積と実践行動の両輪を回して取り組み、メキメキと結果を出し、
    出世していく姿がこれから拝めるか、そんな所でこの話は終わります。

    出来ればこの続きを知りたい気持ちもしますが、きっと吾一のことですから、
    青さ・若さから、成功の友を立ち上げて軌道に乗りかかったこの先も、
    出た芽を外圧からつぶされてしまったり、失敗は尽きないでしょう。
    でもそのたびに、立ち上がり奮起しては次のステージに進む。
    吾一はそういうタフな男です。

    いまは一見して、全てのものが満たされ豊かな暮らしをしている
    そんな時代なようにも見えますが、
    もしも山本有三が現世に居て同じような運命を辿ったとしたら、
    きっといまも同じように、児童の心の機微を捉えて影に隠れた貧困や、
    社会問題に踏みこんだ物語を書かれることと思います。

    そんな彼の意志を、ほんの少しでも改めて受け取ることができて
    良かったと思っています。
    路傍の石は自分の読書生活最初の1ページとして、
    これからも人生の節目節目で意識して手にとってみたいですね。

  • 逆境におかれながらも経済的、精神的に自立した人間になろうと、ひたむきに努力する吾一少年の姿に心が震えた。
    自分はいかにして生きるかという本質的な問いに対する答え、戦略を持つことの大切さを改めて感じた。
    すごく面白かったけど、検閲の網に引っかかって未完なのが残念。

  • 『路傍の石』を六十余年ぶりに読み返して
    ――昭和生まれの私が今、吾一から学んだこと――

    1. あの赤い背表紙の記憶
    小学校5年生──読書嫌いの私が、学校図書館でひときわ目立つ赤いハードカバーに手を伸ばしました。それが山本有三『路傍の石』との最初の出会い。母が内職をしていたちゃぶ台の隣でページをめくった記憶だけが残り、物語の中身はほとんど忘れていました。

    「読んだけれど、何も感じていなかった」

    そんな“読書の原点”を確かめたくて、60代最後の今あらためて本を開きました。

    2. “未完”だからこそ響くリアル
    『路傍の石』は1937年に新聞連載が始まり、検閲や戦争の影響で未完のまま筆が折られた作品です。物語の途中で終わるという“欠落”が、かえって吾一の未来を想像させ、読み手の心に余白を残します。

    私も昭和30年代──高度成長の入口で“何でも作れば売れた”時代──に育ちました。戦時下を生きた吾一とは時代背景が違うのに、**「何度蹴られても、転がるたびに磨かれて光る石」**というメタファーが、自分の半世紀を重ね合わせて妙にリアルに感じられたのです。

    3. 次野先生の痛烈な一喝
    「学校ってところは、忘れることを詰め込む商売なんだろう」

    教科書にない話をしただけでクビになった次野先生。昭和初期のセリフが、今の教育への違和感をズバリ言い当てているのに驚きました。

    10歳までの基礎教養を身につけたら、

    あとは**“学びたいときに学べる場”**へ自由にアクセスする。

    YouTubeや電子書籍があふれる現代でこそ可能な学び方なのに、私たちは依然として“忘れるための詰め込み”を続けていないか──先生の言葉が60年越しに胸に刺さります。

    4. 「働く」とは何かを問い直す
    作中では、今では消えてしまった職業や徒弟制度がリアルに描かれます。

    手に職を付けること=生き延びる手段だった時代

    学校よりも**現場で学ぶ“労働の学校”**が当たり前だった文化

    昭和の高度成長を経て、ホワイトカラー至上主義が定着した今こそ、吾一のように「働きながら学ぶ」スタイルを見直す価値があると痛感しました。

    5. 60代の今、吾一に教わったこと
    学びへの飢えこそ最大の幸せ

    未完で終わる人生も、道半ばの輝きがある

    “石”は蹴られ続けても磨かれる──転んでもただでは起きない図太さ

    6. おわりに──読者への invitation
    もし昔に挫折した本が本棚で眠っているなら、ぜひもう一度開いてみてください。年を経た今のあなたにだけ聞こえる**“行間の声”**が潜んでいるはずです。『路傍の石』はその好例──かつて私が途中で閉じたページの先に、こんな豊かな学びと気づきが待っていました。

  • 八十年前以上に書かれた小説らしがらぬ感情がハラハラするストーリーだった。妙にこのえがかれた境遇と取り組み方が、私の仕事に対する向かい方を刺激した。時代は変われど心のモチベーション意識には普遍なんだろう。不合理であり弱者はずーっと弱者みたいな、そんな境遇を己の力と努力で脱したい。
    また、血の繋がりあるだけで全ての過去を許してしまう状況も共鳴してしまう。大変面白く読むことができた。

  • 一気に読んだ。ここで終わんの!!!て感じ。
    今でも十分やのに速記を覚えたり、手を繋ぎ合わないとという話を自分なりに解釈して味方にしたり、素直さと貪欲さに痺れた。
    少年が頑張る話、いつまでも好きやわ…

  • 働かないで家にも滅多に帰ってこず、吾一の貯めたわずかばかりの貯金さえ使い込んでしまうような父。生活のために内職をして体をこわし早くに亡くなってしまう母。吾一は奉公先を飛び出し東京で一人なんとか生きていく。子供ながらにその強さには感心する。次野先生の「吾一」とは「われひとり」この世にたった一人の大切な存在なのだと言うことばを胸にひたすらに努力して自力で学校にも通い、勉強を重ねる。だが再び父親に独立しようと貯めておいたお金を使い込まれる。彼は何度も何度も蹴られる路傍の石であった。

  • 本の内容はあえて省く。この本の書かれた時代が偶然にせよ、完結にまでいたらせなかったことが非常に残念ではある。主人公が厳しい境遇にありながらたくましく生きていくことは素晴らしいことであるが、自分の乏しい経験からするともはや時代遅れと感じている。
    20年以上も前になるが、自分がいた会社で統括部長がその年にが新入社員に訓示したことは「石の上にも三年という言葉があるが、今はそんなことはない」というものであった。去る者はとっととされ、自分のやり方についてくるものだけついてこい、と自分は理解したが当時会社の中でもプロジェクトがあまり思わしくない状況であり、目の前は誰が見ても泥船でありそれを立て直すことに運命づけられた新人ははっきりいってハズレくじを引いたとしかいいようがない。
    話がズレて申し訳ないが、少子化の時代でこの本を読むことは自らの幸せを感じることになることに一見みえるが、成人のそのあとはとても明るいものとは思えない。作者はこのような時代になるとはとても想像しなかったろう。

  • 吾一が今後どうなるのか続きが気になる。

    昔読んだことがあり、読み返すつもりが違う本と勘違いしていたのかもしれなかった本。

    運命に翻弄される不遇の少年の話と思って読み始めた。
    ところが、吾一は、思っていたよりも、強い上昇志向(倍働いて出世する、色恋よりも仕事を優先)と未来を掴み取ろうとする意志の強さを持っており、実際は、不遇の運命に挑戦し続ける話であった。
    一方で、無理して仕事をしても健康な吾一に対して、あっさり亡くなってしまった人間や、必死に吾一が身につけたスキルが変な方向に利用されるなど、頑張れば報われる話ではない。
    まさしく人生など自分など路傍の石でないか、なんのために生きているのかと考えさせられる。

    “いかに生きるでなく、いかにして生きるか、、のほうがおれたちのようなものにはもっと問題ではないのか。”
    平成の終わりまできても未だに、後者のレベルで人類は生きている気がする。どうやって食べてくかでなく、どんな人生をどんな風に生きたいかをちゃんと答えられるようにならないとなと思う。

  • 主人公の吾一と同年代である若いときに読むのもいいけれど、大人になって改めて読んだらまた、大人の登場人物の心情や日露戦争前後の社会の空気など、いろいろ違うものが見えて面白かった。

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