猟銃・闘牛 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.64
  • (25)
  • (48)
  • (60)
  • (6)
  • (1)
本棚登録 : 513
感想 : 35
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101063010

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ブックオフで見つけて、芥川賞受賞作なので買ってみた。

    読み終えて、なぜタイトルが『猟銃』なのか疑問に思った。
    三杉が手紙の最後に書き添えたことの意味を考えると、
    このタイトルの意味もなんとなく分かってきた。
    すると、やはり彼は全てを知っていたのだろう、
    どちらの蛇の正体も知っていたのだろう、と思った。

    『闘牛』については、津上の孤独の影が強すぎて、
    私は惹きつけられると言うより恐いと感じた。
    三浦に対して感じてしまう敵意は星廻りのせいだと言い切っていたのが、
    どうも納得できなかった。

  • 2018.05.30

  • 三篇の中篇。
    一人の男の不倫の模様を妻、愛人、愛人の娘の三通の手紙から浮き彫りにする「猟銃」。
    社運を賭して闘牛大会を開こうとする新聞記者を描いた「闘牛」。
    老学者の回顧を比良の風景に置いた「比良のシャクナゲ」。

    3作品の主人公たちに共通する性質はなにかに夢中になれない男の哀れさだ。
    「猟銃」」では、三人の女の手紙から浮かび上がる男の姿はなにかに堕っしきれない者の悲哀だ。妻からの手紙はやや通俗で興味本位な筆致だが、男の本質を衝いている。

    「闘牛」の主人公は自覚している。社運を賭した闘牛大会が失敗しようが成功しようがどうでもいい。彼の周りで狂騒する者たちを横目に、何かに夢中になれるものを探している。だが、どれだけ求めても探してもそんなものにたどり着けないこともわかっている。そこに悲哀が滲む。

    「比良のシャクナゲ」では俗物老学者の一生が描かれる。家族を犠牲にして研究に打ち込む研究者だが、自分の研究が忘れ去れるのではないかという不安と誰かに評価して欲しいという欲がある。ここで老学者の人生は破綻している。が、それに気付いていない。比良の風景との対比が彼の俗物性を際立たせている。


    無我夢中。忘我。過去にも先に囚われず、目の前のことに没入できる境地。男が夢中になれるのは危機と遊びと開高健が言い残していたが、危機も遊びもないなかで一瞬の生の充実を味わうのはこの3人の男には難しい。

  • 死ぬほど昔に読んだが、印象に残っているのは闘牛。あと、一冊全部読み終えて、充実感が半端なかったのも覚えている。
    この人の書く男の人はマッチョで強くて、結構わかりやすい。女の人は男勝りで強くて、でも最後は惚れる方。でも、薄っぺらくなってなくて、怒涛の展開で飽きさせないうまさがある。
    もともとは詩も書いていたという。毎日新聞の大阪本社屋上で、足立巻一らを読んでわいわいやってたとか。葉山郁生氏が言っていた。
    戦後、球場で闘牛をエンターテイメントとしてブチ上げるその空気感、汗臭さ、熱さの感じられるいい小説だったと記憶の隅に残っている。

  • 闘牛」は、井上靖の第二作目の作品である。処女作は『猟銃』で、芥川賞の候補には、この二作とも選はれていた。が、第二十二回の芥川賞は『聞牛」に決定している。

    新聞社内部の実話をもとに

     『聞牛』は、新聞社内部を描いたモデル小説だと言われている。モデルとなったのは、新大阪新聞が行った闘牛大会である。作品では伏せ字にしたり名社を変えてはいるが、阪神球場というのは、西ノ宮球場。B新聞というのは、井上賭がいた毎日新聞社であり、大阪新夕刊というのが、新大阪新聞のことである。生人公津上は、新大阪新聞の小谷正一氏のことであるが、そこまで現実と重複(だぶ)らせては、ノンフイクション物になってしまう。この小説は、あくまで、 『闘牛大会』という背景を借りた、恋愛小説として勝むべきである。
     同じ新大阪新聞社の創立当時を扱った小説に『夕刊流星号」があり、作者の足立巻一も社員であった。内部から見たエピソードのひとつとして書かれている「闘牛大会」の部分を合わせ読むと、さらに興味深い。

    終賭直後の生きる手懸りを”賭ける”

     編集局長である主人公は、たえず行動に駆り立てられながらも、行動の裏側には孤独とニヒリズムの影がまといつている。彼は、W市て年三回開かれる闘牛大会では、観衆の殆ど全部が牛の競技に賭けていると闘き、それだけで、社運を賭した闘牛大会をやろうと決める。
     『賭ける、これはいけると津上は思う。阪神の都会で行っても、W市と同じようにそこに集まる観衆のすべては賭けるだろう。終戦後の日本人にとっては生きる手懸かりといえば、まあこ人なところかも知れないと、津上は思う』
     彼は闘牛大会の実現に奔走する。久しぶりに会いに来た恋人のさき子さえ、じゃまあつかいに冷たくする。闘牛大会の初日、二日目と雨が降り、興行的には失敗する。が、津上は無感動に、競技を進行させている。これをみていたさき子は言う。
      『あなたは初めから何も賭けてはいないのよ、賭けれるような人ではないわ』
     しかし、反対に津上から、君はどう?と聞かれて、『もちろん、私も賭けてるわ』と 答える。実際さき子は賭けたのだ。いまリングの真中で行われている二匹の牛の闘争に 賭けたのだ。赤い牛が勝つたら津上と別れてしまおうと…。
      終戦直後に書かれた作品でありなが、今読んでも、不思議と古さを感じさせない。
     さき子の自立した生き方などは、現在そのものである。津上の生き方は、験争を深く体験した日木人の姿であり、五木寛之の作品に出てくる男の姿に似ているように思うのは、私だけだろうが。

  • 「闘牛」の題材になった定期興業は口蹄疫で約60年ぶりに中止に。代わりに読みました。それぞれの話で、みな孤独そうなのが良い。

  • 金持ちの孤独ってのが多いですね。何か思いいれでもあるんだろうか。それはともかく、どうしてこうも書簡形式の小説ってのは心ときめくんでしょう(猟銃)

  • ちょっと変わった世界観。登場する女の人がどの人も魅力的。

著者プロフィール

井上 靖 (1907~1991)
北海道旭川生まれ。京都帝国大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。1949(昭和24)年、小説『闘牛』で第22回芥川賞受賞、文壇へは1950(昭和25)年43歳デビュー。1951年に退社して以降、「天平の甍」で芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」で日本文学大賞(1969年)、「孔子」で野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章。現代小説、歴史小説、随筆、紀行、詩集など、創作は多岐に及び、次々と名作を産み出す。1971(昭和46)年から、約1年間にわたり、朝日新聞紙面上で連載された『星と祭』の舞台となった滋賀県湖北地域には、連載終了後も度々訪れ、仏像を守る人たちと交流を深めた。長浜市立高月図書館には「井上靖記念室」が設けられ、今も多くの人が訪れている。

「2019年 『星と祭』 で使われていた紹介文から引用しています。」

井上靖の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×