俘虜記 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.57
  • (35)
  • (39)
  • (83)
  • (7)
  • (3)
本棚登録 : 605
レビュー : 47
  • Amazon.co.jp ・本 (576ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101065014

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 大岡昇平については、私は完全に食わず嫌いをしていた。
    よく見かける、生きて帰った途端、軍はだめだって言い出す人の作品だと思っていたのだ。

    ところがどっこい(死語?)、全然違う。
    戦争、というより日本人ということを突きつけられる。厳しい、との一言。

    今でも俘虜ではないか、という一文がねぇ…言葉もない。
    これいつ書いているかと考えると、この時代、そして軍を経験した人が、ここまで冷静にあの時のことを、厳しい目で書けるってすごいよなぁ。
    戦争の残虐さなんじゃない、人間の恐ろしさ。

    日常でも見かける人々がいる。
    だからこそ、読み進めていてどこか居心地が悪い。私もその中の一人なのだから。

    私も俘虜だ。

  • 戦争に関する著書は、ノンフィクション、小説問わず数多くある。特に第二次世界大戦(太平洋戦争)に関する本は、星の数ほどあるだろう。その戦争の意義や勝敗の意味、その後の社会に与えた影響を分析する著作も枚挙にいとまがない。では、それらの著作の中で、戦争の最中に敵軍の俘虜となり、虜囚として過ごした日々を克明に著したものがどれほどあるだろう。

    戦いの記録は山ほどあり、我々はそれらによって日本も諸外国もいかに苛烈を極めた戦闘を繰り広げてきたかということを程度の差こそあれ知っている。だが、翻ってみると、戦争で捉われの身となった俘虜が収容所でどんな生活を送ったのか、ということについては意外なほど無知である。

    著者がいうように、俘虜という身分はもはや「兵士」ではない。不謹慎を承知の上で戦争をゲームと例えるならば、俘虜はすでにゲームオーバーとなったプレーヤーが、ゲームそのものが終了するのを待つ身ということになるだろう。捉えられ、閑暇を貪る身となった者たちの日常を描く作品が極端に少ないのも、そう考えれば当然と言える。

    俘虜となった者たちにも、しかしながら等しく日常は存在する。戦闘に明け暮れる兵士たちの日常がすなわち戦争であるが、俘虜となりもはや戦争への参加を許されない身分となった者たちが、ただひたすらに戦争が終わり、帰還できる日を待ちわびる日常もあるのだということを、『俘虜記』は教えてくれる。

    俘虜の一人に大岡昇平という人物がいたことの幸運を、我々は喜ぶべきかもしれない。大岡氏は俘虜という閑暇に満ちた生活を、冷徹に観察し、つぶさに記憶し、静謐に描いたのだから。こうして内部に身を置いた者以外にはほとんど知り得ない俘虜の生活が、本作によって詳らかにされたのである。米軍以外の俘虜となったり、他の収容所に幽閉されたりすることでの違いはあっただろう。それでも、俘虜の生活という一見怠惰にも見える日常を生きいきと、克明に描き、その中から米軍と日本軍の、つまりは米国と日本の(当時の)考え方の違いは浮き彫りになる。

    大岡氏はさらに、俘虜の生活を描く中に、自身の省察を挟み込む。例えば俘虜生活の観察を通して、日米の違いを感じ取り、日本軍の敗戦について確信に近い予感を得ていた。俘虜となった絶望、あるいは怠惰に流された生活を送っていただけでは、これらの洞察は得られない。虜囚の身となりながらも、自己を含めたあらゆるものを客観視して、分析できる冷静さを備えていた大岡昇平に対して、だから私は快哉を叫びたい。

    抑制の効いた文章は、ドラマティックな展開を期待することなどできようはずもない俘虜の生活がテーマゆえ、時に退屈を感じる人もいるだろう。それでも、「俘虜」という戦争がある以上、おそらく永遠に残り続ける身分とその生活をつぶさに記録した作品として、『俘虜記』を読むことは貴重な経験となったと思う。

  • 従軍した著者が語る捕虜収容所の実体験。正直、南方の収容所のエピソードはだいたい似通っている。日本人の戦記ものに特有の、軍隊の上下関係や食料調達などの滑稽さ・理不尽さ・悲惨さを描くのが普通だがこの作家のは違う。明晰な文章や視点が明らかに異質で息を呑む部分がある。特殊な状況に遭遇した自身の感情を冷静に分析していくのは面白い。理知的なはずの著者がところどころで感情をあらわにするのは見ものだ。のちの「野火」などで使われるモチーフがでてくる。

  •  戦争を内から見つめた文学。渦中にいた著者が見た、「戦争」とは。読み始めるのが少し怖かったけど、意外なことに、凄惨な描写はほとんどない。どこまでも冷静な筆致で、主に俘虜収容所で考察した日本社会、現代の文明に関する批評が書かれている。

     この本は、大きく捉まるまでと捉まったあとに分けることができる。
     捉まるまでの情景や心理描写は、戦場で紙とペンを持っていたわけではないだろうから、彼の記憶によってのみ書かれたものだ。しかし、その生々しさはズシンとくる。死につきまとわれると、人はどうなるのか。目の前の米兵を打たなかった心理。緊迫感を持ってページを繰り続けた。
     捉まったあと、つまり俘虜になってからは、一気に弛緩する。豊かな国アメリカの俘虜になるということは、毎日2700kcalの食事をとり、煙草を喫み、博打に興じ、文化・芸術を求め、同性愛者においては自己を主張できるということだ。不正はあっても犯罪はない。このような生活で著者は、人間を、日本社会を、戦争を指揮した軍人を、現代の文明を静かに見つめている。頭の良さに感服してしまう。
     これこそ次世代に読み継がれるべき本なのでは。今の社会のおかしさを考える上でも、この本のどこかにヒントがある気がする。

  • 昭和20年1月フィリピンにおいて米軍の捕虜となった体験をもとに、極限下の生の実存を描く。

  • 長い…とにかく長かった。
    それに加えて記録を語るのが敗戦色濃厚となった頃にかき集められた年嵩のいった補充兵なのだから軍隊特有の昂りも荒ぶりもなくまるで傍観者のような目線であり読んでいても退屈極まりない。
    個人的には「捉まるまで」だけで十分だと思うのだが当時の生きた資料として、そして識者の眼で見詰めた戦争の実態と愚かさを知るためにもやはりこの長さは必要であって耐える読書も決して無駄にはならない。
    俘虜の記を通して思うことは兵士とは単なる戦争の道具にしか過ぎないということ…そんなもののために捧げる命とはいったい何なのだろうか

  • また新たな視点で「戦争」についての示唆を得られた1冊。

    「米軍が俘虜に自国の兵士と同じ被服と食糧を与えたのは、必ずしも温情のみではない。それはルソー以来の人権の思想に基く赤十字の精神というものである。人権の自覚に薄い日本人がこれを理解しなかったのは当然といえば当然であるが、しかし俘虜の位置から見れば、赤十字の精神自体かなり人を当惑さすものがあるのは事実である」(p80)

    「天皇制の経済的基礎とか、人間天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、俘虜の生物学的感情から推せば、8月11日から14日まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である」(p323)

    「我々にとっての日本降伏の日附は八月十五日ではなく、八月十日であった」(p323)

  • 同胞の俘虜たちへの徹底的な人間観察が興味深い。描写は細かいが、対象から心的にやや距離を置いてる分、読む側に恣意や誇張を感じさせない。
    著者が感じる通り、米軍に捉まってからの生活の方が、各地で戦闘中の兵士や故郷の人々より、衣食住に余程恵まれており、結果退屈と堕落に至るという皮肉。本人同士に恨みはないのに、殺し合わなければならない不条理。その相手とも、一旦一定エリア内で暮らしをともにすれば、それなりの交流が生まれる。ここには強い人間よりは弱い人間が多く登場するが、それらすべて含め、どんな状況にも"慣れる"という、人間の(ある意味の)たくましさを感じもした。

  • 大岡昇平さんの小説はテレビドラマを見て読んだ「事件」以来かな。俘虜の心理を自ら分析してみせるくだりが秀逸です。俘虜となってから日本に帰るまでが描かれているのでけっして楽しい展開ではありませんが、戦時中の日本人の考え方など理解できました。

  •  太平洋戦争末期、南方で俘虜となった日本軍兵士たちの歪んだ心理状態をつぶさに書いている。

     大岡昇平の著書を読んだことがなかったので、彼の作品の中からこの「俘虜記」を選んでみた。暗号手として任務についていた由である。とにかく大岡氏の学識の豊富さには驚いた。特に外国文学には精通しているようだ。当時一般の兵士で、英語が読め話せるということはかなりのインテリと言っていいだろう。軍隊ではこういう人物が訳の分からない上官からイジメを受けやすいそうだ。俘虜になってからは別だが。

     私の叔父は海軍の航空機の整備兵だったと聞いている。あまり詳しいことはわからないが、やはりガダルカナル方面へ向かう途中、米軍機の爆撃にあって撃沈され帰らぬ人となったという。菩提寺には彼の出征当時の写真が収められており、お盆などお参りに行くたびその写真を見て手を合わせたものだ。だから当時兵隊さんたちは戦場でどんな生活をし、どんなことを考えていたのか知りたいと思っていた。大岡氏はこの作品の中で極めて冷静に周りの俘虜たちを観察し記録している。小説というよりは記録文学である。

     奇しくもちょうど今、NPTの国際会議が開かれ紛糾している。全体会議の合意が出来ないらしい。核保有国と非保有国との足並みが揃わないのだ。日本は唯一の被爆国として、世界のリーダーたちが被爆地を訪問することを明記するよう提案したが、中国の反対で実現しなかった。私はやむを得ないような気もする。

     大岡氏はこの中で面白いことを言っている。原爆投下の報に接した大岡が驚いたのは、原子爆弾という新しい兵器の登場であり、しかもそれがあまりにも破壊的であったからだと書いている。しかし反面「戦争の悲惨は人間が不本意ながら死なねばならぬという一言に尽き、その死に方は問題ではない。」とも言っている。

     私も概ね同様に考える。確かに原爆により亡くなった広島、長崎の人々は大変気の毒だが、例えば東京大空襲で亡くなった東京市民とはどんな違いがあるのだろう。亡くなった人にしてみれば、大岡の言うように死に方は問題ではないのかもしれない。

     核兵器は無くして欲しい代物だが、現実問題として可能なのだろうか。これまでのように広島、長崎に固執した感情論は世界ではもはや通用しないのではないのか。悲しいが中国には日本は戦争の被害国ではないと言われる始末だ。

     もう一つどうしても記しておきたい。それは、もし飢えたら人肉を喰うかという問題である。ある一人の上官がそんな提案をしたそうだが、結局大岡の部隊は幸い最後までそんなシチュエーションにはならなかった。だから大岡はそんなことはなかっただろうと思っている。

     しかし最近でも山中に墜落した旅客機の生き残った乗客たちが、亡くなった他の乗客の肉を喰って飢えを凌いだという噂があった。また昔の中国では人喰い風習が実際にあったらしく、これについては魯迅も書いているし、有名な小説水滸伝には度々人を喰う場面が登場する。博学な大岡はそんなこと百も承知だろうが、人喰いなんて想像もしたくなかったのに違いない。

全47件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

大岡昇平

明治四十二年(一九〇九)東京牛込に生まれる。成城高校を経て京大文学部仏文科に入学。成城時代、東大生の小林秀雄にフランス語の個人指導を受け、中原中也、河上徹太郎らを知る。昭和七年京大卒業後、スタンダールの翻訳、文芸批評を試みる。昭和十九年三月召集の後、フィリピン、ミンドロ島に派遣され、二十年一月米軍の俘虜となり、十二月復員。昭和二十三年『俘虜記』を「文学界」に発表。以後『武蔵野夫人』『野火』(読売文学賞)『花影』(新潮社文学賞)『将門記』『中原中也』(野間文芸賞)『歴史小説の問題』『事件』(日本推理作家協会賞)『雲の肖像』等を発表、この間、昭和四十七年『レイテ戦記』により毎日芸術賞を受賞した。昭和六十三年(一九八八)死去。

「2019年 『成城だよりⅢ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

大岡昇平の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
宮部みゆき
フランツ・カフカ
安部公房
ドストエフスキー
司馬遼太郎
遠藤 周作
三島由紀夫
ジャン ジュネ
有効な右矢印 無効な右矢印

俘虜記 (新潮文庫)を本棚に登録しているひと

ツイートする
×