野火(のび) (新潮文庫)

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  • 新潮社
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レビュー : 263
  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101065038

作品紹介・あらすじ

敗北が決定的となったフィリピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵。野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体に目を向ける…。平凡な一人の中年男の異常な戦争体験をもとにして、彼がなぜ人肉嗜食に踏み切れなかったかをたどる戦争文学の代表的作品である。

感想・レビュー・書評

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  • この傑作の前に、
    塚本監督の『野火』を鑑賞していて、
    そのビビットなフィリピンの自然と、
    説明が少ないからこそ迫りくるリアリティに圧倒されていたが、
    原作を読んだらなんと内的な物語なのか!

    極限の状況に置かれたからこそ見いだされる、
    倫理性や人間性、そして宗教性。

    内省することでしか生き延びられなかったという事実と、
    そのような状況に貶める非情な戦争の愚かさとを、
    両極的に浮かび上がらせる物語に、
    体の芯が凍てつくようだ。

  • 「戦争文学」の傑作と名高い作品を読む。
    なんか重そう、と今まで読むのを避けてたんだけど、まあ、面白い。濃い。しかも美しい。

    死を前にしたとき、南の島の自然がワサワサと押し寄せ感じる「自然の中で絶えず増大して行く快感」(P15)の感覚がなんともサイケデリック。
    「私は死の前にこうして生の氾濫を見せてくれた偶然に感謝した。」(P15)

    テレンス・マリックの美しすぎる戦争映画「シン・レッド・ライン」の映像を思わせる。

    月あかりのもと、「香しい汁と甘い実をつけた果実」があるながらも取ることのできない椰子の木の下、
    「私が命を断つべきは今と思われた。」(P47)
    と思ったとたんに生への執着に襲われ、まわりの椰子が過去の愛した女たちへと変わっていく・・・、というなんとも美しい幻覚。

    他人から見られている感覚、「贋の追憶」、自分を自分が見ている感覚、宗教体験・・・完全に飢餓からくる脳内麻薬ドバーッ!のドラッグ小説として楽しめる。

    さて、本題・・・・

    極限の状態での人肉を食べることの葛藤は、人間の尊厳といえるのか?
    「アンデスの聖餐」「生きてこそ」などの映画化で知られる、遭難者の肉を食べたウルグアイでの航空事故の際、キリスト教徒であったラグビー選手は、「聖餐」として友人らの肉を食べるのを受容した。教会も、死者の肉を食べることは罪にはならない、としている。

    本書の主人公の田村、「死んだら食べていいよ」と言って死んだ戦友を食べようと剣をむけると、左手がダメとおさえる。それは理性なのか?嫌悪なのか?道徳心なのか?
    「猿の肉」と言われて渡された干し肉は、人肉とわかりながらも食べるのに。
    これって、スーパーのパックの鶏肉はOKだけど、丸ままの鶏見ると無理、というのと同じなのか?
    丸鶏はOKだけど、首がついてたら無理、
    いや首はOKだけど羽がついててたら無理、
    とか・・・。
    あれ、なんか違うか?

    過去、市川崑が映画化していたけど、白黒でなんとも憂鬱な映画だった覚えが・・・。
    今年「鉄男」の塚本晋也による再映画化が公開、サイケデリックな映画・・・にはならないだろうなー。

  • これまで読むことがなかった戦争文学の代表的な作品。思っていたよりずっとスマートで読みやすい。
    文章がなめらかで映像的、自然描写は美しさすら感じる。著者の高い筆力があってこその技巧なのだろう。だからこその生々しさがある。敵との戦闘場面はほとんどないのにピンと張りつめた緊張感。極限の飢餓状態での人間の剥き出しの本性が淡々と内省的に表現されていている。
    「戦争」と「人間」を濃密に描いた傑作。

  • ◯とても面白い。
    ◯極限の精神状態における、生きることについての思索が、冷徹に貫かれている印象。ただ、後半になるにつれて、錯乱した状況を表すように、読解がかなり難しくなってくる。
    ◯そこまで分量のない小説ではあるが、読み終わった後に、自分が生きていることについてや、極限状態で事故を保ち続けることについて、考え、悩むことが尽きない。

  • 平成の終わりに戦争文学の傑作を読む。
    レイテにおける敗兵の狂気、飢え、諦め、執念。理不尽な死と直面して究極の選択を迫られる、
    そこに美しさなどあるはずが無い。
    ただ「野火」の詩のような表現、風景の鮮やかな描写。
    主人公「私」が自分と向き合う言葉、啓示のようなもの、それらの表現がとても美しく、
    文学として読むことができる。
    主人公「私」が友軍と時おり出会っては交わす言葉が、ここは戦場なのだ と生々しく、
    その他の詩的な表現との対比が際立つ。
    主人公「私」は結局誰と戦っていたのだろう。

  •  敗戦間近のフィリピン、レイテ島の戦線で、肺病にかかり
    部隊から追放された田村一等兵の姿を描く戦争文学。

     著者の大岡昇平さんは従軍経験があり、フィリピンにも戦闘
    に行った経験もあるためか、情景描写がとても濃密だったのが
    第一印象として強いです。

     また食料を持たない傷病兵が治療どころか医療所に
    入ることすらできないというのも驚きました。
    人間を人間扱いさせてくれなくするのがやはり戦争なの
    だろうな、と改めて思います。

     印象的な場面は飢えの中、田村が死体の肉に手を
    伸ばそうとする場面。
    死体の肉を切る刀を持った右の手首を半ば無意識的に
    つかむ左手。そしてその左手を奇妙な思いで眺める
    田村の姿に、極限状態の中で揺れる人の理性と本能の
    姿を強く感じる場面でした。

     そしてその理性と本能の戦いがどのような結末を迎える
    のか、というところはとても読みごたえがあり考え
    させられるところでもあります。

     概念や宗教的な場面もあって難しいと言われれば、
    難しい作品でもあるのですが、純粋に戦争の悲劇を知る
    という単純な意味で読み継がれてほしい作品です。

     ちなみに、この作品は田村の回想形式で書かれていて、
    終盤は病院に入院する田村が今、思うことが書かれて
    いるのですが、それがとても印象的だったので、引用文の
    登録ページとは別にレビュー内でも引用させていただ
    こうかと思います。

    『この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、
    私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとして
    いるらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、
    それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたい
    らしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の
    山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時
    彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は
    子供である。』

     これからの日本がどの方向に転ぶかは分かりませんが、
    この言葉だけは全ての日本人の心に刻み込まれてほしいな
    と強く思います。

  • こういう本当に力のあるブンガク読むと、現代のチャラチャラしたものは読めなくなるなー。

  •  女は淫売で、男は人喰い人種。そう宣言することで大岡文学が始まったことを、いったいどれくらいの人が覚えているのだろう。
     今や、その、大岡昇平さえ忘れられて、「戦争」や「軍隊」という言葉が軽佻にもてあそばれ始めている。この小説を原作とした映画「野火」を見た。戦場のグロテスクが評判だったが、大岡が「野火」で書いた人間の悲劇には、それでも、まだ、届いていないと思った。
    https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/201909270000/

  • 6年半ほど前に、平和でのんびりとしたフィリピンのミンダナオ島に行った時の事を鮮明に思い出した。
    湿っぽい赤茶色の土がゴツゴツと隆起した土地に、草木がみずみずしく、激しい日差しに黄緑色に照らされ延々と生い茂っている。
    広大な大地のそこら中に水の気配があり、木陰に隠れながら水流に沿う形で、レンガと木材と藁で作った民家が点々と立ち並ぶ。
    熱帯のはずなのに、冷たい水の気配と、赤茶色の湿っぽい土と、鬱蒼と茂る緑のおかげで、不思議と気持ちよく過ごしやすい。

    民家の前には、バイク、軽トラック、盥と洗濯板、バスケットボール、犬、ニワトリ、ヒヨコ、豚、そこら辺の鳩など、あらゆる物が共存し、自然と調和している。

    ミンダナオ島の現地民達は、町長を中心とするコミュニティ内で分け隔てなく支え合い、本当の意味で自然と共存して生きている。自然に逆らうのではなく、全てが自然に合わせる形で存在している印象だった。
    この時自分がカバンに南京錠を掛けていった事を非常に恥ずかしく思ったほどに(今振り返ればきっとそれで正しかったのだろうけど)、明るく純朴な人たちだった。


    …そんな経験から、この物語をフィリピン人の視点で読んでいた。日本視点で読んでいた人には、この物語は<憎きアメリカ>といった感情を与えたのかも知れない。

    もしそうなら、そんな読者は危険分子だと思う。日本軍もアメリカ軍も等しく卑劣であるという点を認められなければ、広島に原爆を落としたアメリカを非難する筋合いは無い。

    日本人や近隣のアジア諸国はすぐに右翼左翼というレッテルを貼るが、そんなのはクソ程にどうでも良い。
    右翼左翼といった分類分けにこだわり、人命第一・平和を希求する国際人としての感覚を身につけようとしないナショナリストが、いずれ戦争を起こすのだと思う。
    増してや、グローバルに人とモノが行き交い、血縁さえも多様になった今となっては、誰もが平和を希求する国際人であって、国家など曖昧になっている。


    それにしても、今から80年前にあの場所で大平洋戦争があったとは、本当に信じがたい。明るい人達がのんびりと暮らすミンダナオ島には、戦争や暗い過去の気配は微塵もなかった。

    今後とも二度と悲劇が起こらず、平和に繁栄し続ける事を、心から願っている。

  • 日本軍は一体何と戦っていたのだ。

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著者プロフィール

大岡昇平

明治四十二年(一九〇九)東京牛込に生まれる。成城高校を経て京大文学部仏文科に入学。成城時代、東大生の小林秀雄にフランス語の個人指導を受け、中原中也、河上徹太郎らを知る。昭和七年京大卒業後、スタンダールの翻訳、文芸批評を試みる。昭和十九年三月召集の後、フィリピン、ミンドロ島に派遣され、二十年一月米軍の俘虜となり、十二月復員。昭和二十三年『俘虜記』を「文学界」に発表。以後『武蔵野夫人』『野火』(読売文学賞)『花影』(新潮社文学賞)『将門記』『中原中也』(野間文芸賞)『歴史小説の問題』『事件』(日本推理作家協会賞)『雲の肖像』等を発表、この間、昭和四十七年『レイテ戦記』により毎日芸術賞を受賞した。昭和六十三年(一九八八)死去。

「2019年 『成城だよりⅢ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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