安土往還記 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1972年4月27日発売)
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本 ・本 (272ページ) / ISBN・EAN: 9784101068015

感想・レビュー・書評

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  • 宣教師とともに来日したジェノバ出身の船乗りの目を通して描く織田信長.
    感情に惑わされず「理にかなうことを唯一の武器に」孤独に生きる禁欲的な織田信長像が新鮮.
    辻邦生の文章も理知的でむだがない.

    それにしても,新潮文庫に現役でのこる辻邦生の小説はこの本と西行花伝だけというさみしさ.内容が古びたわけでもないし,大作家ではないにせよ,よい小説家の見本みたいなひとだと,私なんかは思うのだが,こういう文章を好きなひとがどんどん減ってるのかな.

  • 歴史小説という枠を超え、見事に描かれる人間・信長像。
    信長の信任が厚かったオルガンティノ神父と共に来日したイタリア人の友人の「私」が語り手です。この「私」 は小銃の名手であり、銃を用いた用兵や造船の知識を持ち、信長に鉄砲の三段構えを教えたり、本願寺との戦いに用いられた鉄甲船の造船にかかわったりするという設定です。
    もっとも、様々な事件は単なる背景で、あくまで信長の人格・精神を炙り出しが主眼です。信長を「事の道理に適わなければ、決して事は成らぬ」と考え「事が成る」事に全ての力を集中する人物であると規定。それゆえに西洋の論理的な理(建築学・天文学)を追い求め、理に反していると思えば自らの恣意など簡単に放り捨て、戦においては(残虐さからでなく)理を通すために徹底的なせん滅を目指す。一方で遠く海を超えて日本まで来て滅私の活動をする神父たちには心を許し、多大な庇護を与える人物だと定義します。そして様々な事件・事象を通しその検証をしている作品です。
    緊張感のある重厚で美しい文体でぎっちりと書き上げられた名作です。

    家に有った文庫本。多分再読です。奥付を見ると昭和47年4月発行、昭和48年3月二刷となっています。小口はまっ茶に焼け、フォントは小さく掠れ、行間は狭く。高校生の頃の私が背伸びしながら読んだ本の様です。

  • 辻邦生の安土三部作のうちで最も有名であろう。鬱屈する事情を抱えたジェノバ出身のある船員の書簡の形で、信長の周囲の人物たちの思考と行動とが、一種突き放した観察の乾いた描写で書かれ、そのことによって、孤高のシニョーレ信長が鮮烈に浮かび上がる。そういうしかけの物語。

    数十年にわたって再読三読している本(焦げ茶の単行本)だが、若いときには、その物語性、圧倒的に美しく知的な文章、ライトアップされた安土城に松明持つ馬を駆けさせる、といった耽美的ともいえる情景創造に驚き、正に耽溺しつつ読んでいたように思う。

    今、再読して特に思うのは、「理に適うことを持って事を成す」という西欧的思考を1960年代後半に既に突き詰めていたことの特異性である。
    一貫して執拗といえるほどに描かれるのは、信長における「「理に適うこと、事が成ること」が全てに優先される」という思考と姿勢と行動である。だからこそ日本社会において孤独であり、(イエズス会という政治的思惑があるのだが)宣教師達の思考と行動に触れ共鳴した。そして、そのことに深いところで気づいたのは、おそらく巡察司ヴァリニアーノとこの船員だけであったろう、ということが語られる。

    実際には、周囲の人物の思考と行動が信長との緊迫した関係性とともに書き込まれており、その一つ一つが信長の像を浮かび上がらせていく。
      ・生の喜びに溢れる好人物なのに、信長の思考を理解できない故に滅ぼされた荒木
      ・信長の論理を理解できる故に、限界まで自己を追い込み耐えられず滅びた明智
      ・日本的村社会に溶け込むことで宣教活動を成功させたオルガンティノ
      ・透徹した戦略的視点を持ち信長が理の人だと理解して近づく「美貌の」ヴァリニアーノ
      ・武器特需の波に乗ろうとする境商人・・・

    今でこそ、ロジカル・シンキング云々と取りざたされているが、1960年代の後半に、理に適うことを至上とする西欧の思考と、時々の現場感覚を優先する日本的感性とを、ここまで明確に書き分けていたことは稀有なことだったと思う。数十年「西欧の光」を追い続け、テクニック的には西欧的論理思考の方法を手に入れた我々は、もともと持っている感性の論理との間にどういう折り合いをつけているのだろうか・・・などと思う。

  • 本作については、まづ新潮文庫カヴァーの紹介文を引用しませう。


    争乱渦巻く戦国時代、宣教師を送りとどけるために渡来した外国の船員を語り手とし、争乱のさ中にあって、純粋にこの世の道理を求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする“尾張の大殿(シニョーレ)”織田信長の心と行動を描く。ゆたかな想像力と抑制のきいたストイックな文体で信長一代の栄華を鮮やかに定着させ、生の高貴さを追究した長編。文部省芸術選奨新人賞を受けた力作である。


    ええ、以上であります。これで終つてもいいのですが、ちよつとだけ蛇足を。
    冒頭で、本書が世に出た経緯を著者は書いてゐます。著名な蔵書家の書庫から発見された古写本に、かなり長い書簡の断片が別紙で綴ぢ込まれてゐたと。それを作者が翻訳を試みたと述べてゐます。なほ、原文はイタリア語であつたが、C・ロジェール氏の仏文試訳から翻訳を行つたといひます。

    ......ふふふ。中中手が込んでゐますな。イザヤ・ベンダサンか。まあいい。その書簡はイタリアの船乗りが書いたことになつてゐて、どうやら布教のため、宣教師を日本へ送り届ける役割を担つてゐたやうです。
    その船乗りの名前は作中では明らかにされず、「私」といふ一人称で語られるのみであります。
    その「私」が、戦国時代の日本で尾張の大殿(シニョーレ)と出会ひ、大殿の庇護の下で布教活動に勤しみます。そして大殿が本能寺で自害するまでを、友人に宛てた書簡といふ形式で叙述してゐるのです。大殿とは、むろん織田信長のことですが、実際には信長の「の」の字も出てきません。一貫して「大殿」と表現されます。

    天下をほぼ平定したといつても、毛利氏との戦が続いてゐることもあり、大殿の表情には陰影が絶えません。戦場に於いては、容赦ない殲滅作戦を展開する大殿ですので、側近たちも戦戦兢兢として心休まらないやうです。
    しかしながら「私」の眼に映る大殿は、ただひたすら「事が成る」ことを眼目に生き、徹底した合理主義を求める孤独なリーダーの姿でした。
    腐敗した仏教界を嫌悪したり、その反動か宣教師たちに常識外れの厚遇をみせるのも、すべて「事が成る」ことを目指してゐたからだらうと。で、次のやうに理解を示すのであります。


    私が彼の中にみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極限に達しようとする意志である。私はただこの素晴らしい意志をのみ─この虚空のなかに、ただ疾駆しつつ発光する流星のように、ひたすら虚無をつきぬけようとするこの素晴らしい意志をのみ─私はあえて人間の価値と呼びたい。


    当時の信長の周辺で、かかる分析をした人はゐなかつただらうな、と思ふのですが、そこを海外から来た船乗りの目を通じた大殿といふことにして、不自然にならず実に新鮮な信長像を描き出したと申せませう。文章も無駄が無く、引き締つた文体で心地良い。
    信長について、ある程度予備知識を有する人なら、更に愉しめるでせう。ぢやあ又。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-644.html

  • 確かに流れるような美しい文体だと思う。信長と渡来したヨーロッパ人のお互いに響きあう交流も本当かもしれない。そうした展開はこの小説を読むべき点だと思う。私にはその後の主人公たちの姿を詳細に書き上げてほしいなと思った。かなわぬことであるが、そこが残念なところだった。

  • 信長を題材としているが、その主旋律は「宿命とそれに対する処し方」。主人公は、人殺しの過去を肯定するために、あらゆる宿命に打ち勝とうとする。信長、そしてヴァリニャーノは、事を成すことに生命をかけその宿命としての孤独に震える。そのなかで信長はキリシタンに全幅の共感を覚える。孤独さこそが唯一の友の条件だという、逆説的だが腑に落ちる説を展開している。こうしたテーマはもちろん、抑制のうちに洩れる美しい描写もすばらしかった。特に、信長とヴァリニャーノとの別れのシーン。光と闇が交錯し、「また会いたい」(が、もう逢えないだろう)という悲しみが浮かび上がってくる。
    いささか冗長な部分もあったが、じっくり読むに堪える小説だった。

    それにしても、昔の「別れ」の重み。二度と会えないことがほとんどであり、一期一会という言葉がいまのように軽薄に使われることはなかっただろう。だから、昔の人は別れでよく泣く。それが今生の別れだから。さようなら(ば、私はいかねばならぬ)という言葉は、出会いと別れの鮮烈な無常をじつによく表している。
    See you、再見という言葉にも、明るさより悲しさがあふれている。いまは、会おうと思えばいつでも会えるがゆえに、結局あやふやな別れを迎える。別れを自覚的に生きることは大切なことなのだ。そうでないと、その人と交わることができなくなるからだ。

  • イエズス会の宣教師たちとともに、戦国時代の日本にやってきた船員の視点から、織田信長のすがたをえがいた作品です。

    遠いキリスト教文化圏からやってきた主人公のまなざしで、日本文化の異質性が叙述されるなかで、信長の「意志」(ヴォロンタ)の普遍性がきわだたされています。それは、海を越えて日本にやってきた主人公たちの行動を支える原理でもあり、この普遍的な「意志」によって文化的なへだたりを越えた共振が成立しています。

    彼のような強い「意志」をもたない仏教徒たちに対する残虐な行為に対する非難をくぐり抜けて、傑出した行動力と合理的な知性に裏打ちされた英雄の精神が印象的でした。

  • この時代小説は、戦国時代の日本で布教しに来た「宣教師」を送り届けにきた外国人船員の日本回顧記録。

  • この本は、イタリアジェノバ出身の船員の目を通して、信長という時代の変革者の人物像と安土という時代の様相をとても知的な文体で描いている。
    私はこれまで延暦寺焼き討ちなどに見る徹底的に非情なやり口に信長のことがどうしても好きにはなれなかったが、本書で描かれる「事がなる」ために自己を抑制し「理に適う」方法を徹底的に追求するという人物像に、近代的な人間の先駆者としての孤独と時代の変革者としての強い覚悟を感じて見る目が変わった。
    彼がキリスト教の布教に寛容で、西洋の文化にとても強い好奇心を抱いたのは、布教のために命を賭けて海を渡る宣教師等の使命感と、その「事を成し遂げる」ための「理に適う」行動に自分と同じものを感じ強く共感したからなのかも知れない。
    それに比べたら、比叡山などの既成の神社仏閣は既得権益にどっぷり浸かってあまりにも腐敗していたのだろう。
    帰国するヴァリニャーノ神父のために信長が催した夏の祭典で描かれる安土城の松明の情景は秀逸。

  • かなり異色な小説。1人のキリシタン宣教師から見た信長像を追っているんですね。

    この設定によって、まるでその場にいて信長に接しているような気になってきます。絶妙な距離感なんですよね。信長がどのような人物なのか、宣教師は掴みかねていて、一緒に探っていく作業のようでもあります。

    実際、著者は歴史史料から信長像をたどっているそうで、そのあたりも史実を重視しています。

    信長像も新鮮でした! 宣教師に分からないことを素直に質問していて、当時の日本人には理解できない考えをしていたことも分かります。

    同時代にいるかのような不思議な感覚を味わえます。おすすめです!

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著者プロフィール

作家。1925年、東京生まれ。57年から61年までフランスに留学。63年、『廻廊にて』で近代文学賞を受賞。こののち、『安土往還記』『天草の雅歌』『背教者ユリアヌス』など、歴史小説をつぎつぎと発表。95年には『西行花伝』により谷崎潤一郎賞を受賞。人物の心情を清明な文体で描く長編を数多く著す一方で、『ある生涯の七つの場所』『楽興の時十二章』『十二の肖像画による十二の物語』など連作短編も得意とした。1999年没。

「2014年 『DVD&BOOK 愛蔵版 花のレクイエム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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