- 本 ・本 (800ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101068107
感想・レビュー・書評
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時は平安末期、動乱の時代。権力が貴族から武家に奪い取られるという単純なものではなかったのが、語り手・藤原秋実も後の西行・佐藤義清も抱えていた地方の小領主たちの苦しみから語り始められていることに滲み出ています。そんな時代だからこそ西行は、永遠の「花」を追求し続けようとしたのでしょうか。アーティストとして生き抜いた、最初の人なのかもしれません。芭蕉が憧れてやまなかったことに納得です。
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花の季節に、西行墳のある弘川寺を訪ねようと思っていた。今年になって鳥羽の城南宮を尋ねた帰り、桜の季節までに評伝を読んでおこうと思いたって、辻邦生著のこの本を選んだ。
藤原鎌足を祖とする裕福な領主の家に生まれたが、母の願いで官職を得るために京都に出た。
馬術、弓道、蹴鞠、貴族社会の中で身につけなくてはならないものは寝食を惜しんでその道を極めた。
流鏑馬では一矢も外さない腕を見せ、蹴鞠は高く蹴り上げた鞠を足でぴたりと止めて見せた。
当時の社会で歌の会に連なることも立身出世の道だった。武芸が認められて鳥羽院の北面の武士になり、歌の道でも知られてきた。
鳥羽上皇の寵愛を失った待賢門院を慕ったことや、突然従兄の憲康を亡くし、その失意から出家したといわれてはいるが、辻邦生著の「西行花伝」は著者の想像力と、残る史実を基にした壮大な芸術論で、西行が歌の中で見出した世界が、語りつくされている。
そんな中で出家の動機がなんであろうと、その後、この世を浮世と見て、自然の移り変わりを過ぎ行くものとして受け止める心境を抱く切っ掛けが、出家ということだった。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
引用ーーー人間の性には、どこか可愛いところがある。そうした性の自然らしさを大切に生きることが歌の心を生きることでもある。肩肘張って生きることなど、歌とは関係がないーーー
「はかなくて過ぎにしかたを思ふにも今もさこそは朝顔の露」
時代は院政から武家に政がうつっていき、保元・平治の乱が起き、地方領主は領地境で争っていた。
西行は、待賢門院の子、崇徳帝の乱を鎮めるために力を尽くし、高野山に寺院を建立し、東大寺再建の勧進行のために遠く陸奥の藤原秀衡を訪ねたのは70歳の時だった。
「年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山」
こうして出家したとはいえ時代の流れに関わり続けながら、それを現世の姿に捕らえ、歌は広く宇宙の心にあるとして、四季の移り変わり、人の世の儚さを越えた者になっていった。森羅万象のなかで、花や月を愛で、草庵を吹く風の音を聴いて歌を読み人の世も定まったものではないと思い定めた。
そうした西行の人生を、辻邦生という作家の筆を通して感じ取ることが出来た。
「仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば」
「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな 」(百人一首86番)
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
と詠んだ時期、春桜が満開の時に900年の後、西行墳を訪れ、遠い平安・鎌倉の時代に生きた人の心が少し実感になって感じられた。 -
初めてのレビュー。記憶に新しい去年を振り返って、2012年は辻邦生を知ったのが大きな収穫。
「西行花伝」を読んで、それよりずっと以前に書かれた「背教者ユリアヌス」も知った。
平安末期から武士社会に移る時代に「もののあはれ」の美意識を求めた西行と、キリスト教が台頭し始めた時代、純粋さゆえ裏表を使い分けるキリスト教を受け入れられず古代ギリシャ・ローマに美を求めたユリアヌス。勝ち負けで片付けるなら、どちらも時代を生きる中で易くない道を選択したようにみえる。
「西行花伝」の最終章近くで、平家を倒し後白河院から権勢を奪い勝ち進む鎌倉殿の幻影を夕刻の大磯で西行の夢に現れさせている。その時の西行のつぶやきが「心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮」の歌で、頼朝とて飛び立つ鴫に涙したであろうと西行は幻の中で思ったのだとこの作中では構成されている。かつて大磯の鴫立つ沢に行って教科書で習ったような感慨にひたったけれど、こんな見方もあったのか・・。作者は西行を描くにあたって、この歌を単に世捨て僧の心の情景にはしていない。
勝利や成功に役立たない心を切り捨てるのは「心なき心」であり、『人は常にあらゆる動機で心を失う。』 のであれば、西行にも 『世を捨てたいという思いで、私とても、もののあはれに震える心を失っているのかもしれない。』 と言わせている。その矛盾を埋めるのが西行の多くの歌なのだろうか?
純粋さゆえ、周囲に利用され、キリスト教と対峙し、背教者の汚名を着せられながらも自分の哲学に従って突き進んだユリアヌスが、若くして戦死するのも哀れ。 次第にゾロアスター教や原始的儀式にひかれていくユリアヌスだが、それは西行にとっての歌と同じなのかしら。洋の東西も時代も違うけれど。-
大河「清盛」の世界やね。辻邦生さんは読んだことない。なるほど。そういう感じの小説か。大河「清盛」の世界やね。辻邦生さんは読んだことない。なるほど。そういう感じの小説か。2013/04/28
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西行という人についてずっと知りたかったが、ページ数が多く(700頁)、ずっと後回しにしていた一冊。
平安時代の美しい情景が目に浮かび、歌が満ち溢れていてそれだけで心が癒され楽しめます。
元々は武士であり、仕事も流鏑馬や蹴鞠などの芸術的才能にも優れていたという事にまずは驚き。にも関わらず早くより歌人として生きる事を決心して出家し修行の道を選んだあとも、世の争いを治めるべく僧でありながら政治にも多く関わっていたとは。
究極の悟りに至る姿に感銘を受けます。 -
素敵な言葉がありすぎて、忘れないように付箋を貼って行ったら、付箋だらけになってしまいました。自分の大切な世界を全力で守り、熱いところも有りながら、清清しい空気も感じる事が出来ました。日本語はこんな偉人たちによって練り上げられ、奥深い物になって行ったんですね。
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出家前の西行…佐藤義清(のりきよ)は今ならサッカーの有名選手、中田英寿みたいな人と想像してしまう。蹴鞠という平安時代の上流階級のスポーツの名手、北面の武士だった。
なんだか蹴鞠もサッカーのように足先でけり、膝で受けたり回転けりするらしい。そこへ持ってきてストイック、ますます中田ではないか。ストイックの余り出家してしまう。
おかしい想像だが、例をあげると
もう彼が出家遁世してからだが、さるお姫様(菩提院の前斎院、統子内親王)のお屋敷に訪れた時、転がって来て池に落ちそうな手毬を足技、身体をひねりながら救って手渡す場面。
『そして娘たちが頼むので、その手毬を使って蹴鞠の蹴り方、受け方などを演ってみせた―蹴鞠を膝で受けたり、うしろ向きに足の裏で受けたり、肩、膝、足と三段に弾ませたり、その他私が知っている蹴鞠の作法をごく簡単に演ってみせたのである。娘たちはその度に手を打ち、口々に驚きの声をあげた。』
その『娘たちはいずれも十五、六から二十歳前後の若やいだ年頃で、薄紫、萌黄(もえぎ)青など、色とりどり内掛けを着けていた。』
またその勾欄から転がってきた手毬は『美しい薄紅と紫の糸を巻いた手毬』なのだ。
西行は『坊主が手毬で遊んではいけないという法はないが』『若い娘たちの華やかな笑いや賞賛の叫びが、出家した身にも嬉しいのであろうか―』と思う。
そうして菩提院の前斎院とは密かに想っている高貴な女院(鳥羽院中宮待賢門院璋子)の娘。母君の貴(あて)やかなお姿に似た面影が。
などなど、辻邦生氏の筆は全編美しい流れの物語、ここはことさら流麗なのだが、なぜか中田さんが...。
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西行を借りて作者辻邦生氏の芸術至上主義の思いのたけが書かれている。
まるでヨーロッパ文明の香りに満ちているような物語を、読み進み味わった。
シェイクスピアの戯曲のようでもあり。
悟りをひらいた荒行『まるでどこか広い海原を沈むことなく歩きつづけてきた人のような、軽やかな強さが身体に溢れていた。』にはキリストを彷彿。
「保元の乱」など戦の場面ではイラクの戦場を思い浮かべた。
かと思うと、国木田独歩「武蔵野」ツルゲーネフ「猟人日記」を彷彿させる森の中に立つ姿。森羅万象に照準をあわせて。
私は昔「新平家物語」吉川英治を読んだ時の西行の印象「追いすがる妻、子を蹴飛ばして出家、出離した」が強く残っており、(吉川「新平家物語」を出して見たがやはり記憶にあるとおり)とんでもない風流人との感が、「辻西行」で違ってきたのだ。
私がなぜ辻邦生に興味惹かれるようになったか
日本の中世文化の中に西洋ぽいものがあるという驚きだった。
違う読み方もあるだろう。ぎっしりと辻邦生の思想の詰まった物語。
最後に西行らしいうたを
月を見て いづれの年の 秋までか この世にわれが 契りあるらん -
出家をするというのは、心が自由になるということなのかな、とこの小説を読んで何となく思った。
落ち着いた雰囲気の長編だからか、読みながら何となく別の考えに没頭してしまったりするので、小説の感想といえるのかどうかはわからないが、時々読み返して小説の世界に浸れるようになりたいと思う。 -
<蠱惑的な「祈りの書」>
1.西行の時代
西行の生きた時代はいつだったか?
平安末期。
ということは、源平の騒乱期という、とんでもない日本史の転換期だ。
天皇家は、鳥羽天皇(院)•崇徳天皇(院)•後白河天皇(院)。
武家のトップは、平清盛•源頼朝。
和歌のトップは、藤原俊成•定家父子。
こうした歴史を作った人物たちと西行は同時代人だ。
2.平安のイケメン
西行(出家前は佐藤義清)は、若い頃は、国家のトップである上皇(院)を守る「北面の武士」だった。
これは、誰もが憧れる当時のエリート青年軍団。
ということは、眉目秀麗、運動神経抜群(乗馬と格闘技)、頭脳明晰であったということだ。
さしずめ、佐藤健と武豊(馬術の達人)と井上尚弥(拳闘)と藤井聡太を足して4で割ったような男だと言えるだろう。
男(院)からも、女(皇后)からもモテる。
このモテることが問題を引き起こしてしまう。
3.日本の楊貴妃
待賢門院と呼ばれる女性は、日本史上の楊貴妃のような存在だが、楊貴妃ほど知られていない。
西行は、その日本史上の美女(「傾城」国を傾けるほどの美女)とデキてしまうのだから、光源氏よりもヤバい。
二人の出会いは、花見の席。
佐藤義清(西行)は、待賢門院に母親の面影を見出して魅かれていく。
この設定に、辻が「源氏物語」を意識していたことが伺われる。
作者の辻は、待賢門院をどう描写するのか?
<その蟲惑する、熟れた果実のような豊満な肢体から、蜜のような香りが、ねっとりと重く漂ってくるようだった>と、描く。
辻は基本的に恋愛小説家だ。
恋愛の描写で本領を発揮する。
ここでも、恋愛の場面は、他のどの場面よりも精彩がある。
待賢門院に出会った時、彼女は桜の花の下に立っていた。
西行が歌に「花」を詠む時、そこには女院の面影が揺
らめいていると思うべきだ。
西行が「花」の下で死にたいと詠ったのは、女院の元に向かい、女院と一緒になることを意味したのだ、と言える。
待賢門院とは何者か?
院政を始めた白河院の養女だ。
白河院は、幼女の待賢門院を養女とし、光源氏が紫の上を育てるように、慈しみ育て、そして自分の女にした。
そして、彼女が適齢期になると、白河院の孫にあたる鳥羽天皇の妃とする。
しかし、47歳も年上の白河院を忘れられない待賢門院は、中宮でありながら、しばしば院を訪ねて、帰ってこなかった。
そんな時、彼女は懐妊する。
生まれた皇子は、鳥羽天皇の皇子として、皇太子となる。
しかし、鳥羽天皇は知っていた。
その子の父親が、自分の祖父であることを。
だから、その子は、鳥羽天皇にとって、「叔父」に当たる。
そこから、鳥羽天皇は、その子を「叔父子」と呼ぶようになる。
その子が、後の崇徳天皇(上皇)だ。
鳥羽天皇と待賢門院の間には、本当の皇子が生まれた。
それが、後の後白河天皇(上皇)だ。
待賢門院の生んだ、この二人の皇子が、平安時代を終わらせて、武士の世を生み出す「保元平治の乱」を招くのだ。
まさに、時代を転換させた「傾城」と言える。
その時代転換の渦中に、西行は生きる。
4.平清盛
平清盛と佐藤義清(西行)は共に「北面の武士」だった。
だから、清盛も、眉目秀麗•運動神経抜群•頭脳明晰だったのだ。
さしずめ、新田真剣佑とルメール(騎手)と那須川天心とカズ•レーザーを足して4で割ったような男だった。
清盛は、白河院のご落胤だったという説もある。
であれば、清盛は崇徳院の兄弟となり、後白河院の叔父となる。
清盛の、天皇家に対する物怖じしない態度は、その天皇家の血筋にあった、と考えると理解できる。
出家した西行は、歌はこの世を変成させる、と信ずる。
しかし、権力で人の心は動かせない。
権力の頂点に立った清盛がついに越えられない相手として認識していたのが西行だった。
この二人の対比は秀吉と利休を思わせる。
5.崇徳院
西行は、まず、鳥羽天皇(院)に仕え、のちに崇徳天皇(院)に仕える。
佐藤義清(西行)は虚空に一人立つ鳥羽院に大地を捧げるために歌を始めた。
言葉が人を救うと信じたのだ。
本書の主役の一人は明らかに崇徳院だ。
西行の人生は、生きている崇徳院をいかに導き、その死後はいかにその怨霊を鎮めるかに捧げられたと言える。
崇徳院の悲劇を克明に描くことで、西行の境地と対比を成すばかりか、その過程で西行は一歩一歩高みに昇っていく姿が印象的に描かれる。
5.タイトルの意味
「西行花伝」という題名は、世阿弥の秘伝書「風姿花伝」の<風姿>を<西行>に置き換えたものだろう。
<風姿>の相ですっくと立つ<西行>の周りには、桜の花が舞っている。
西行と桜花の区別がつかなくなり、森羅万象と別でありながら一致する境地を、この題名は表すのだろうか。
世阿弥にとって、芸の奥義は花だった。
そして西行の生は花だった。
そして、「花」の向こうには待賢門院が居る。
西行は、花の下で死にたいと歌い、その通りに桜満開の如月に死んでいった。
この「西行花伝」は、西行が最愛の弟子藤原秋実に残した秘伝=花伝と考えることができる。
しかし、書いたのは西行ではない。
書いたのは、弟子の秋実だ。
秋実は、西行の死後に西行の発言、西行に縁のある人々の発言を集めて、西行の人生全体を再構成していく。
それによって、西行の辿り着いた奥義を明らかにしようとした、と言える。
だから、結局、西行が弟子の秋実に残した「秘伝書」と言っても良いのだ。
そして、秋実が作者の辻邦生自身であるとすれば、辻は、西行が歌うことでしか残さなかった境地を、秋実となって再現しようと図ったのだ、と言えるだろう。
6.人間としての生き方
本書で問われるのは、人間としての生き方だ。
悲惨な動乱の時代に、世間から超絶しながら、それでいて世間に関わることは可能か、という問いが問われるのだ。
その問いに対して、往相(世間からの超絶)と還相(世間との関わり)を同時に生き切った人物として西行を描くことで、人間の極限的な生が可能であることを示した小説だと言える。
7.浪漫主義
西行にしても、慈圓になる前の若き僧にしても、次代の文化を担う藤原定家にしても、誰もが美しく描かれる。
そこには浪漫主義者辻の理想とする人物像が造形されている。
史実が伝える西行は世俗臭の芬々とした巨人であるし、慈圓は兄九条兼実とスクラムを組んで鎌倉幕府を背景に政治を仕切った怪僧であるし、定家は天才だが昇進に汲々とする下級貴族だった。
実生活では、誰もが聖人でもなく、美しくもない。
それでも明日をも知れぬ激動の時代を生き抜いたこと自体が尊いのではないか、と本書は主張しているかのようだ。
8.祈りの書
初読では、その文章を流麗と感じ、辻の最高傑作だと感動したが、今回の再読では、美しく造形した理想の生き方を提示した<祈りの書>だと感じた。
保元平治の乱という登場人物に馴染みの薄い動乱も
「宮尾版平家物語」を読み、NHK大河ドラマ「平清盛」
を観、「待賢門院」「後白河院」と読書を重ねることで、ようやく親しみを持って眺められるようになった。
すると、本書で登場する人物の一人一人が意志と感情を持って時代に対峙した人間として、共感を以て立ち現れてきた。
特に、普通は共感を覚えないはずの、藤原忠実とその二人の息子たち(対立する忠通と頼長)、勝ち残った忠通の二人の息子兼実と慈圓に対して親しみを感じながら読み進めることが出来たのには驚いた。
これぞ、辻の筆のなせる技だ。
9.西行を描く視点
西行をいかに描くか。
視点を著者とするのではなく、著者の代理として西行の弟子藤原秋実を設定する。
その秋実が、西行由縁(ゆかり)の人々を訪ねて、その人々の語りを聞くことで、西行の姿を多面的、立体的に立ち現れてくることを目指す。
そして、その企ては見事に成功している。
辻邦生は、もっと読まれても良い。
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山川草木のみならず、老病死苦すらも御仏の慈悲の現われと受け入れるのは、正直なところ理解の域を超えてる。それにもかかわらず、森羅万象 (いきとしいけるもの) に恵みが溢れていると見る西行の生き方が、目覚めともいうべき悟りがとても魅力的に思える。
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傑作!
著者プロフィール
辻邦生の作品





