ぼく東綺譚 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (144ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101069067

感想・レビュー・書評

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  • 関東大震災の記憶が残る昭和初期の東京。作者に比した小説家の主人公がふとしたことから玉の井の私娼街で出会った娼婦の家へ入り浸り、ある夏を過ごした様子を作者自身の経験と重なり合わせた物語。さらに本小説の中で、小説「失踪」を書いている主人公という三重構造になっていて、それぞれの絡み具合が絶妙なところ。
    少しインテリが悪(?)をしているという描きぶりですが(笑)、昭和初期の東京の風情と風俗を五感で感じられるような描写に大いに興味がそそられました。馴染みになった男女の機微も見せ所ですが、現代人の自分には少し会話についていけない部分がところどころあり(笑)、物語の進展に乏しいと感じてしまうのは時代の感覚がズレてしまったせいだろうか。しかし、男女の和んだ風情が心地よく、情感溢れるたたずまいが良かったです。そして、客と馴染み娼婦の間柄が、ひとたび妻にすると別な女に化けるという達観した結婚観で主人公が女と別れるという流れはとても面白かった。(笑)後日談をわざと描かず、詩をもって飾るというラストも秀逸。
    作者自身によるエッセイ風のあとがきも当時の東京風景と荷風自身の思い出話が盛んで、当時の世相も絡んで興味深い。

  • 「濹」とは「すみ」に水を表す「さんずい」をつけて、「隅田川」を指している。
    荒川と隅田川に挟まれた、東向島辺りになるのかな…裏通りの娼婦街。
    小説家の大江は、驟雨に襲われたのを切っ掛けに娼婦のお雪と知り合う。
    夏を前にした夕立と共に出会い、秋の深まりと共に別れるまでの、儚い物語。

    と言えば聞こえはいいが、今の感覚で眺めると、まだ男性優位だった時代の、身勝手な男のロマンを描いた作品に思える。
    この点を、そんな時代だったのさ~と大目に見た上での感想が以下。

    時代の流れに取り残されたようなこの街の描写が、大江とお雪の物語を一層侘しく儚げに見せてくれる。
    古本屋、川に掛かる橋、路地口の「ぬけられます」の灯りのついた看板、円タク…等、細かに描写される。
    移りゆく季節と共に、それらが、結ばれることのない二人をドラマチックに取り巻いている。
    僅かに残っているであろう当時の面影を探して、街を歩いてみたくなった。

    小説家である大江は執筆中の小説「失踪」の筆が止まり、この玉の井周辺の独特の雰囲気や、お雪との交情を持って小説に取り入れようとする。
    その大江が現実の永井荷風と重なり、どこまでが小説としての作り話なのかはっきりしない。
    そこもまた読者としては、情が湧いてくるところ。
    街の描写にしろ、写し鏡のような大江の描き方にしろ、さすが永井荷風。

    そしてラスト。
    「然し此の老境に至って、このような癡夢を語らねばならないような心持になろうとは。……詩だか散文だか訳のわからぬものを書して此夜の愁を慰めよう。」等と言いながら、
    「残る蚊に額さされしわが血汐。ふところ紙に…」
    の散文で締め括られる。
    癡夢って貴方ねぇ…(笑)
    小説の為にお雪との出会いそのものを利用したのは貴方でしょうに。
    老いた身ではお雪を幸せに出来ないと思うのなら、元より本気にさせなければいいものを…。
    それなのに、居心地の良さからお雪を訪ねずにはいられない男の弱さ、身勝手さ。
    借金を返したら貴方のおかみさんにしてくれないかと問うお雪の言葉を、大江は、のらりくらりとかわしながらも、お雪は自分にとってのミューズだと思っている。
    ミューズとは、文芸や音楽を司るギリシャ神話の女神だ。
    大江はお雪が本気と知ると、袷を仕立てる金を渡し、それ以降お雪を訪ねない。
    そうしておきながら、彼岸の頃、風雨に倒れた庭のケイトウに、葉を削がれた秋海棠に、生き残った蝉とコオロギに、古詩を思い起こして侘しさに酔うのだ。
    ぬけぬけと「軽い恋愛の遊戯とは云いながら」等とのたまうのだ。
    全く、この時代の文芸家は…。
    時代、時代と自分をなだめてみても、やはり自分勝手な自己陶酔男感は否めない(笑)

    思えば作中、蚊がやけに登場する。
    人の血(温もり)を求めて近付いては、相手に跡を残して飛び去る蚊。
    けれど叩けばあっという間に潰れて拭き捨てられる。
    荷風は自分と重ねていたのだろうか。
    となると、萎れながらに色を増す痛ましきケイトウはお雪なのか。
    「君とわかれし身ひとり、倒れ死すべき鶏頭の一茎とならびて立てる心はいかに。」
    フランス文学の影響を受けていた永井荷風らしく、どこまでもロマンチックだ。

  • 東京の下町にある喫茶店。珈琲の豆を挽く音を聞きながら、目を移した先の本棚で、タイトルに目を引かれたのが出会いだった一冊。

     何の前知識も無しに頁をめくると、待っている“わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない”という最初の一行。

     活動写真の上演ポスターが張り出される不忍池を抜け、ポン引きを交わしながら私は土手を歩いて馴染みの古本屋へと至る。
     “私”の歩みは、とても自然でこころなしか、実際に自分がその土地を歩いてみるよりも、現実感を持って、飄々と景色を眺めながら、しっかりとした足取りで読んでいるこちらも、気づくとともに歩き出している。

     徐々に明らかになっていくのが、物語は、小説を創作する“私”の見る景色と聞く会話であり、“私”は創作中の小説の人物と情景とに命を吹き込むために、見聞きしていく。

     まるで創作の裏側を覗いているようにも思っていると、
     “檀那、そこまでいれてってよ”
     突然に、“私”自身の物語が動き出す。
     “私”は自分の創作のために歩み、その歩みが必然的に、“私”の物語までをも動かし始めるという展開は後から、考えれば考えるほどなんと巧なんだろうかと、感嘆せずにはいられない。

     ここで出会った“お雪”は、娼婦の境遇でありながらも、自分を卑下するでもなく、底抜けの明るさで、“私”と打ち解けていく。
     すると、浮き彫りになっていくのが“私”自身の物語。

     夜な夜な下町を練り歩くのは、中年から老年に差し掛かろうとする今、知己は皆この世を去って行き、急変していく都市の中に、一人取り残されていった孤独な“私”がそうさせていた。

     “私”を財産もあって、食うには困らない高等遊民の悠々自適な生活を見せつけられているように感じる人もいるかもしれない。
     そんな金持ち老人の“懐古主義”と、“恋愛遊戯”にも一見見て取れる“私”には、上記のような“行き場のなさ”が隠されている。

     “お雪”の人となりは,このどぶの内の私娼窟とともに、“私”の“うしなはれた物語”を彷彿とさせていく。
     逢瀬を重ねるたび、世を忍ぶ“私”と世から卑しまれる“お雪”との間にある芽生えていく情念が、二人を取り巻く環境の、浮世の様子との乖離しているさまも、いっそう二人を浮きだたせていく。

     しかし、ここに一つの行き止まりが生まれる。 二人、惹かれあっていく先に〝私〟が見たのは〝私〟と添うことで、奪い損なわれてしまうであろう〝お雪〟の清純な性質だった。

     娼婦への絶対的な観察眼を持ち、生活をともにしたこともある“私”にとって娼婦の美しさとは、“卑しい”とされる境遇にいてこそ、同じように、世間から蔑まれる身分にいる人間や事柄に対しての寛容な心を持つことができ、身一つで世間と相対する心意気が育まれるものである。

     それが見受けのような“女を囲う”ことをしてしまえば、忽ちに、その性質が失われてしまう。まるで、大海で荒波のなか、血の匂いを敏感に追いかけて、獲物に食らいついていた鮫が、水族館に入れられると、餌付けされ、魚を襲わなくなり、その攻撃性まで失われるのと同じように。

     “私”が身を引き、“お雪”の部屋で、会話もおざなりに、それきり。という形で、フェードアウトしていく。
     “墨東綺譚はここで筆を擱くべきであろう”とあるが、“私”の行動の是非は、読者で決めてもらいたいという余韻も残されているのを感じた。

     “お雪”との邂逅は、言わずもがな墨東綺譚の最大の見どころと言ってもいいかもしれないが、私にとっては“私”の歩みそのものがもっとも本作で味わった部分だ。

     浅草公園から始まり千束町、左に言問橋、右は入谷町の街道を進み、山谷堀へ。砂町、亀井戸、千住、玉ノ井、そして寺島町へと、小説の舞台を探し求める歩く“私”は、その風景の中から、人々の営みだとか。日常、その土地の辿ってきた過去を拾い上げて、季節の風物とともに愛でる。

     災害で、戦争を経験して、町が、言葉が、暮らしが変わっていった。明治、大正、昭和。10年一昔になった。どんなにか、人々は戸惑ったことだろう。古きと新しきが綯い交ぜになって、取り残されていくばかりだった“私”が“お雪”との邂逅で、筆を執る力を取り戻し、そして確固として存在する過去を、原稿のなかに収めた。この“お雪”すら、いわば、失われていく時代の描写だったのだと、読み終えて心に刻むばかりである。

     作中には引用された漢詩、“私”の詩が折に触れ、登場し、漢字も、手持ちの辞典にはないものが多かったのだが、古いはずの言葉は、驚くほど新鮮に感じられる不思議。

     作後贅言には、鋭い、近代社会への考察が記されていて、墨東綺譚は、そんな近代化一色になっていた風俗へのアンチテーゼとして読むこともできる。しかし、あくまで本文は、心情の風景だと注意されたい。

     同じ道でも、歩く人にとっては、風景が異なり、
     同じ時代に生きていても、人によっては住みにくく、人によっては住みやすい。
     “私”は、住みにくい住みにくいともがき苦しみながら、同時代を懸命に生きる“お雪”によって、こころにその景色を映すことができる。
     それが読んでいる者に伝わって、それぞれの墨東綺譚は、輝きだすのだろう。

  • 描写が美しい。あらすじはどうってことない。

  • 情景描写が綺麗で読みやすく、風情を感じられる文章だった
    朝読の時間に読んでたので、あの10分間だけ江戸の気風が残る昭和前期の下町に迷い込めて楽しかった

  • 昭和初めころの向島、お雪という身をひさぐ女性に惹かれる「わたくし」という小説家が、出会いから別れるまでを詩情豊かに描く。

    と、いくら文学的に言っても、映画となると扇情的。山本富士子さん出演のポスターも、小説から受ける雰囲気とはめっぽう違うなあ、とネット検索してて思う。

    そしてまだ行ってないスカイツリーにのぼってみながら、想いを馳せてもいいかな、と不埒な考えも。そう、描写されている当時廃線になった東武鉄道の「玉ノ井駅」あたりは、今やスカイツリーラインの「東向島駅」の辺らしい。

    そんな無粋なことはさておき、江戸情緒好きでフランス帰りの洒落者が、枯れたような枯れないような風情でお雪のもとへ通う夏から秋にかけてを、情味豊かな詩的文脈を楽しめばいい。

  • 昭和初期の下町東京、今とは違う玉の井の風俗と人々を風情たっぷりに書く。震災後で戦前という激動の東京の雰囲気。入り組んだ路地裏の私娼街を荷風はラビラント(迷宮)と呼び、溝の汚さと蚊の鳴く声が、家の二階の窓から呼びかける女の声に、味わい深い侘しさを感じました。

  • 「わたくし」が初めてお雪の家に上がり込んだときの会話が素晴らしい。長いこと遊んできただけあって、いっさい無駄玉を撃たない。リアル世界でもこんなだったらいろいろすっきりしたものだろう。

    結局「わたくし」はお雪から離れようとするのだけれど、すっぱり切りがたい逡巡する心の描写がせつなかった。男がずるいのは確かだけれど、あの年で一直線の恋なんてできないのもよくわかる。あんまりわかりたくないけど。

    結末の唐突さもよかった。人と切れるときはいつだって突然だ。説明なんかない。

  • 描写は細かく美しい。ただ、現代の価値観だと、このおじさんなにやってんだろう…としかならないストーリーでした。当時の様子を知るための小説としては良いかもしれません。

  • 小説家、大江匡は6月末のある夕方、玉の井付近を散歩していた。
    大粒の雨が降り出し、大江が傘を広げると、浴衣姿の女が傘に入ってきた。女は娼婦のお雪であった。
    大江は雪に誘われるまま、部屋に上がり、なじみを重ねることになる。ある日雪は、借金がなくなったら妻にしてほしい、と言い出す。雪は大江に本気で惚れてしまった。

    雪を本当に家庭の幸福な女にするのは自分ではない、と大江は考え、身を引く。

    -お雪は倦み疲れた私の心に、偶然過去の世の懐かしい現役を彷彿たらしめたミューズである-

    9月の末、お雪が入院したことを聞く。
    そこで哀しみの中で話は終わる…

    第二次大戦前の東京の情景、悲しい恋の行方、永井荷風の文章、すべて味わい深い佳作です。

    -わたくしとお雪とは、互いに其本名も其住所を知らずにしまった。ただ墨東の裏町、蚊のわめく溝際の家で狎れ親しんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である…-

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著者プロフィール

東京生れ。高商付属外国語学校清語科中退。広津柳浪・福地源一郎に弟子入りし、ゾラに心酔して『地獄の花』などを著す。1903年より08年まで外遊。帰国して『あめりか物語』『ふらんす物語』(発禁)を発表し、文名を高める。1910年、慶應義塾文学科教授となり「三田文学」を創刊。その一方、花柳界に通いつめ、『腕くらべ』『つゆのあとさき』『濹東綺譚』などを著す。1952年、文化勲章受章。1917年から没年までの日記『断腸亭日乗』がある。

「2020年 『美しい日本語 荷風 Ⅲ 心の自由をまもる言葉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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