ひかりごけ (新潮文庫)

  • 新潮社 (1964年1月28日発売)
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  • 本 ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101091037

感想・レビュー・書評

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  • 『ひかりごけ事件』をモチーフにした短編。
    しかし件の事件が俗に『「ひかりごけ」事件』と呼ばれるようになったきっかけは、本短編が発表されたことに由来する……という。後半の戯曲部分の『我慢』という台詞が妙に印象的。
    同時収録の『流人島にて』も面白かった。


  • グロテスクなまでに鮮やかな風景描写が印象的。
    作者の色なのか、どの短編もヘビーでゴツい。個人的に好みな文体で良かった。

  • 食べなければ死ぬ、だが、食べ得るものは人肉しかない、という状況で部下の肉を食べて生き残った船長。彼は、食べる前、食べた後、裁判のときと一貫して「我慢している」。何を我慢しているか?弱音を吐くことを。食べた言い訳をすることを。食べれば生き残れる確率が上がるという状況で食べないという選択肢を採用すること、あるいは、止むに止まれぬ事情で食べたのであって、私は本当は食べたくなかったのだ、と心情倫理をもらすこと、ひっくるめて言い換えると、私は人間的だ、と主張することは簡単だ。そんな簡単な選択肢があるにもかかわらず、彼はなぜ我慢したのだろうか?それは、仮に食べずに精神的に救われたとしても生き残ることはできないし、仮に裁判を受け入れたとしても、食べられた人間=死者は決して許してなどくれないからだ。必要があれば、人間性、道徳、救済を括弧に入れること、そして、自分がしたことの結果に耐え、我慢し「生きる」こと。武田泰淳に教えられることは多い。

  • この作家すごいツボにハマるな。
    今まで表題作の題名と『犬が星見た』の武田百合子の夫っていうぐらいしか知識なかったけど。
    『流人島にて』:八丈小島の集団移住策がモチーフ。島民の土俗的な生活がありありと浮かび上がる。
    『異形の者』:三島の小説を思わせる、仏僧である主人公が感じる疎外感。心理描写が鋭い。
    『海肌の匂い』:独特の生活体系から"共産村"と呼ばれる地方の漁村が舞台。漁師達のキャラクターが際立ってる。
    んで表題作の『ひかりごけ』は何より羅臼村50年史から掘り出したというテーマが素晴らしい。目の付け所が違う。中盤から突然戯曲化するのは何だかコミカル。
    それにしても心理描写と登場人物の個性の出し方が完璧だな。

  • 4編の短編集だが、そのいずれもゴツイこと。『司馬遷』『十三妹』など中国物しか読んだことがなかったので意表をつかれた。

    死や宗教的な救済(あるいは救済の無さ)といった、現代の小説(あまり読まないけど)では正面から扱うことを避けるようなテーマとがっぷり四つに組んで、詩的な短編にまとめ上げる。文学的な力量もだが、仏門の生まれで中国文学も修めた素養や、戦前の左翼運動への参加や大陸出征といった経験も大きくものを言っている。誰でもブログを綴る今日では想像もできないが、かつて文学者とはこうした者だったのだ。

    表題作の「ひかりごけ」は羅臼で起きた実際の事件(難破船長人喰事件)をもとにしている。こんなネタを拾ってこれるのもなんだかすごい。

  • 私は、人間は「自己都合をつけたがる」本能を持っていると思う。
    つまり、例えば欲求(ここでは食欲)を満たしたいと思えば、普段だと食べ物に手を伸ばせばよいのだが、それが困難な状況では、人間は脳内で自分に合理的な理屈をこねくり回そうとするのである。
    その理屈が合法的な範囲内ならば、それでもいい。しかし合法的には不可能な場合はどうか。脳はどういう理屈を見つけ出すか。

    「ひかりごけ」には、食料備蓄の全く無い、冬の隔離された小屋に閉じ込められた4人が登場する。そのままいけば4人は共倒れとなってしまう。全員飢え死となるのか。
    登場人物の1人の船長の脳内に、ある理屈が浮かんだ。ーいや、全員生存は無理だが、生き残れる可能性がある。-

    その理屈=自己都合は、果たして正当か。
    作者はそれを極限状態下と、救出された後の平常時と、2種類の状態から照らし出そうとする。我々は法治国家で生活する以上、極限であろうと平常であろうと同じルールの支配を受ける。その一般論と、船長が極限下で捻出した自己都合とのせめぎあいが、この作品の核となっている。

    この問題はラスコーリニコフによっても提示されているが、どちらが正しいかは今の私にはわからない。私も状況によれば、船長にも、ラスコーリニコフにもなる恐れをもっている。

    ある角度から、ある瞬間にだけ光って見えるというひかりごけ。見た者でないと、その光について語ることはできない。
    我々は生きる以上、この命題から逃れられないかもしれない。
    (2007/8/21)

  • どれも昭和二十年代発表の作品で、特に表題作以外は男くさい印象。腕っぷしの強さに意味があった時代の人たちが登場する。でも、個人というより世界の話なんだと思う。

    「ひかりごけ」は特にだけれど、存在のありようを当事者が制御できない様がずっしりと描かれる。全力で戦ってもどうにもできない、でも逃げ出してもどうでもいいことにならない息苦しさ。普段はあまり考えたくない。

    船長さんは無罪でいいと思うのだけれど、これって意見が分かれるのだろうか。

  • だいたいの内容は知っていたが、ちゃんと読んだのは最近。
    印象としては読者に解釈を投げっぱなしであるというものだ。演劇の台本という形で書かれているからにはそれはそういうものであろうが。

    例えば、本小説を貫くキーワードは「我慢」であろうが、我慢するという言葉について語る時、何について?ということがセットになるのが通常である。しかしながら本小説では最後までそれは明らかにされていない。

    また洞窟のシーンでは人を食べることの正当性について、愛国心を持ち出すが、裁判のシーンでは天皇陛下を「あの方」と呼び、さらに自分たちと同じ人間に貶める発言をしたり、二つの幕では主人公の船長は全く人間が変わってしまったようである。それは著者が演者を別にするように指示することからもうかがえるが、その変化はいつ起こったものなのか、またその根底にあったものが何かは述べられていない。

    人間を食べたものにしか現れない光の輪をつけた聴衆が品弦が食べたものには見えない光の輪を見ようと、船長を取り囲むシーンに対して、著者はゴルゴダの丘をイメージするように呼びかけているが、私にはそのように神聖なものではなく、非常に不気味なシーンに思える。

    たとえるのであれば、動物園で「人間」が展示されているのを人間がそれと知らずに見ているような感じである。

    個人的には中学教師の印象が強いので、彼の生い立ちがどういうものかについて知りたい気がする。

  • 高校3年生のとき、一学期まるまる使って読みました。
    忘れもしない作品です。



    前半が罪の場
    後半が罰の場


    人は皆罪人で、人を食べた船長が神になったという
    先生の解釈には衝撃を受けました。











    人は皆罪人です。罪人だと認識していないから罪人なんです。






    どっかの宗教かって思うかもしれないけど

    私たちは人の命を食べなくとも
    毎日動物や植物の命を
    頂いて生きている
    人の命を食べると罪で
    動物の命を食べても罪ではないのか







    もう一度深く考えてみる必要がある








    そんな戒めの物語です。

  • 192ページ1行目に「私たち肉食獣」とあるのに気付いたときは驚いた。
    戯曲部分で皆の首の後ろに光の輪が点る。船長は西川に人を喰うと「普通の人間」じゃなくなると言うが、そもそもその「普通の人間」は我々(劇中の検事を含む)が考えているような平和的なものなのか?
    作者は「私たち肉食獣」と記すことで戯曲部分への伏線を張っていたのだ。

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著者プロフィール

武田泰淳
一九一二(明治四十五)年、東京・本郷の潮泉寺住職大島泰信の息子として生まれる。旧制浦和高校を経て東大支那文学科を中退。僧侶としての体験、左翼運動、戦時下における中国体験が、思想的重量感を持つ作品群の起動点となった。四三(昭和十八)年『司馬遷』を刊行、四六年以後、戦後文学の代表的旗手としてかずかずの創作を発表し、不滅の足跡を残した。七六(昭和五十一)年十月没。七三年『快楽』により日本文学大賞、七六年『目まいのする散歩』により野間文芸賞を受賞。『武田泰淳全集』全十八巻、別巻三巻の他、絶筆『上海の蛍』がある。

「2022年 『貴族の階段』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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