- 本 ・本 (349ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101092041
感想・レビュー・書評
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帰省した時に、本棚にあった中学の頃の課題図書を引っ張り出して読みました。しおりが中途半端なところで挟まったままだったので、きっと読み終えなかったのでしょう。自然と生き物の残酷さと、美しい表現(どうやったらそんな音が出せる?)、あー。宮沢賢治読んでるなって感じました。
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宮沢賢治の童話作品で有名なものの一つ。風の又三郎は、正に謎の転校生。
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この主人公は賢治本人じゃないか、と思うお話が多く収められています。とても優しくて純粋で、人間だけではなく、動物や自然や虫たちの気持ちも考えることのできる、そんな賢治の姿が感じられる一冊です。
風のようにやってきて、風のように去っていった又三郎は本当に風の神様だったのだと思います。ガラスのマントとガラスの靴をはいた又三郎に賢治は出会い、一緒に遊んだのだと思いました。 -
岩手旅行に行くので宮沢賢治を深めよう第二弾。自然の描写が素晴らしく、でっかい何かを読んでいる感じがします。
本書の中では、やまなし、フランドン農学校の豚、鳥をとるやなぎが特に好きでした。畜殺する際に豚自身から許可証を取るという現代っぽさ。古さを感じないなと思います。 -
宮沢賢治の暗さ、恐ろしさを堪能。
風の又三郎目当てだったがたくさん読めて嬉しい。
どんぐりと山猫がかわいかったなあ。 -
賢治の作品をちゃんと読むのは初めて。教科書でさわりの部分を知ったり、NHK教育番組で賢治の詩を題材にした映像を見たり。表題作も確かNHKで知ったはず。主に童話を集めた本書を読むと、岩手・花巻の言葉のゆったりした雰囲気や、賢治が使う擬音、オノマトペの面白さを楽しめる。
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文章自体は確かに子供でも読める文学。でも、子供にこれを考察させるのってかなり難儀なんじゃっないかなぁって。考えればいくらでも裏読みできるし。やっぱり大人になってからもう一度は読んでおいたほうがいいなぁと感じました。
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高原の果ての学校に、風とともに現れた転校生がいた。「青白い」「すらりとした」少年は、姿を見せるたびに不思議な風を伴って現れる。生徒たちは彼を「風の又三郎」と呼び始めるが、この名付けは単なるあだ名以上の意味を帯びていた。それは言葉を超えた存在を、人間の言葉で捉えようとする試みだったのだ。
風は物語の中で、決して単なる空気の動きではない。「カァン カァン」という金属音は、人間世界と自然世界が接触する際の軋みのような響きを持つ。「ごうごう」という唸りは、特に「せきのもんまへ」から吹いてくる風の声として、人間の言語以前の、自然の根源的な叫びを表現する。そして「さあっ」という微かな音は、可視世界と不可視世界の境界が一瞬融解する瞬間を捉えている。これらの音は、風という存在の多層性を示すと同時に、この世界の裂け目から吹き込んでくる異界の気配を表現している。
「うねうねと」立ち上る砂埃や、「かたまって」動く風の描写は、風が単なる物理現象を超えた存在であることを示している。それは時として「まるで手のように」という比喩で描かれ、人間の形態と自然の力が交差する地点を示す。風に与えられる「青さ」は視覚的には捉えられないはずの風に色彩を付与し、可視と不可視の境界に存在することを暗示する。この「青さ」は又三郎の「青白い」容姿とも呼応し、彼の存在の両義性を強調している。
学校という空間自体が、すでに日常と非日常の境界に位置している。高原のはてにぽつんと建つその校舎は、人間の秩序と自然の秩序が出会う場所だ。そこで風が吹くとき、時間は通常の流れから逸脱を始める。風がもたらす時間は、直線的でも循環的でもない、あるいはその両方を同時に含んだ特異な性質を持つ。それは時として途方もなく緩慢に、また時として電光のように速く流れる。
「せきのもんまへ」から吹く風は、太古からの時間を運んでくる。それは地質学的な時間、人間の歴史以前の時間である。この風に触れるとき、生徒たちの意識は日常的な時間の枠組みから解き放たれ、より深い時間の層へと導かれる。風は未来の時間を予感として現在に持ち込む。生徒たちは風の音に、まだ見ぬ出来事の気配を感じ取る。これは単なる予測や不安ではない。風が運んでくる未来は、すでに現在の一部として存在している。
異界の時間においては、「前」と「後」という区別が曖昧になる。又三郎が教室に入ってくる場面では、彼の存在そのものが時間の通常の秩序を攪乱する。生徒たちは彼を「初めて」見る瞬間に、すでに「昔から知っている」ような感覚に捉えられる。これは異界の時間が持つ同時性、あるいは全時間性の表れである。
運動会の準備の場面で、突然の風に校庭の砂が舞い上がると、その中に又三郎の姿が溶け込んでいく。この描写は単なる幻想的な演出ではない。物質と非物質の境界の揺らぎを示し、人間の形を持った又三郎が、常に風という非実体的な存在へと変容する可能性を孕んでいたことを表している。風に触れることは、生徒たちにとって異質な時間との出会いともなる。彼らの皮膚は、通常は不可触なはずの時間という次元を感知する器官となり、風の音は別世界からのメッセージとして聞こえ始める。
異界の時間との接触は、生徒たちの時間感覚そのものを変容させる。学校の時間割に象徴される直線的・機械的な時間は、その絶対性を失う。強い風が吹く中、生徒たちは通常の時間の流れから解放される。それは単なる混乱ではなく、むしろ新しい時間性への目覚めとして描かれる。彼らは一瞬の中に永遠を、永遠の中に一瞬を見出すような体験をする。
より根源的な変容は、存在の様態そのものに及ぶ。風を通して異界の時間に触れることは、自己の存在の質を変容させる経験となる。生徒たちは、自分たちが純粋に「人間的」な存在であるという自明性から解放される。特に注目すべきは、この変容が不可逆的な性質を持つことだ。一度異界の時間に触れた後、彼らは完全に元の存在様態には戻れない。それは喪失としてではなく、むしろ新たな可能性への開けとして描かれる。
物語の結末で、又三郎は風とともに消えていく。しかしこの消失は、異界の時間の中では別の意味を持つ。それは終わりであると同時に始まりでもある。異界の時間において、消失は新たな位相への移行として捉えられる。又三郎が去った後も、この変容の効果は持続する。それは一時的な「異常事態」ではなく、世界の見方そのものの根本的な転換として描かれる。生徒たちは、日常的な時間の中にありながら、つねに異界の時間の可能性に開かれた存在となる。
賢治は、このように風を媒介として異界の時間を描き出すことで、人間の時間認識の限界と可能性を示唆している。風が運んでくる異界の時間は、私たちの日常的な時間感覚を相対化し、世界と自己についての新しい理解の可能性を開くのである。 -
どっどど どどうど どどうど どどう
どぶんどぶん、だあんだあん、ぼちゃぼちゃ
耳慣れないけど心地いい
日本語が分からなければ理解できないのではないだろうか。この音が分からなければ面白さは目減りしてしまうだろう
日本人でよかった
単衣を着て赤いうちわをもった先生は天狗なのか?と思った。
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宮沢賢治の作品





