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Amazon.co.jp ・本 (349ページ) / ISBN・EAN: 9784101092041
みんなの感想まとめ
自然や人間の心を繊細に描いた短編集で、風が象徴する自由や無常をテーマにしています。主人公の又三郎は、まるで風の神のように現れ、周囲の人々や自然と深く結びついています。作品を通じて、宮沢賢治自身の優しさ...
感想・レビュー・書評
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「新編 風の又三郎」(宮沢賢治)を読んだ。
この短編集のそこかしこで様々な風が吹いている。
宮沢賢治の人となりについては私はよくは存じ上げないが、作品を読む限りにおいてある種の諦観が一筋の川のように流れている気がする。
賢治作品中で「 風の又三郎」が一番好きなんだよ。
ずっと子供の頃から。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
宮沢賢治 貝の火
ホモイは、何の打算もなく相手を助け、その報いとして「貝の火」を授かった。ところがその力を手に入れた途端、慎ましさや他者への敬意を失い、威張り始めてしまう。この変化は、人間が地位や力を得たときに陥りやすい感情の弱さを鋭く描き出しているように思えた。
さらに、悪事を働かないという最低限の倫理すら、「貝の火を絶やさないため」という目的へとすり替わっていく。善意そのものを守ろうとした瞬間に、無償性は濁ってしまう。その一種のジレンマを物語に落とし込むことで、「善意とは何か」という問いを私たちに突きつけているのだと感じた。 -
この主人公は賢治本人じゃないか、と思うお話が多く収められています。とても優しくて純粋で、人間だけではなく、動物や自然や虫たちの気持ちも考えることのできる、そんな賢治の姿が感じられる一冊です。
風のようにやってきて、風のように去っていった又三郎は本当に風の神様だったのだと思います。ガラスのマントとガラスの靴をはいた又三郎に賢治は出会い、一緒に遊んだのだと思いました。 -
新潮文庫の新編の宮沢賢治は、童話が3冊。本書は、よく知られた「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「虔十公園林」を柱に、まわりを動物が登場する作品で固め、計16篇。
ツェねずみだの、クンねずみだの、カン蛙だの、ブン蛙だの、ベン蛙だの、ルラ蛙だの、登場するキャラからしてふるっている。ストーリーも多種多様。とくに「フランドン農学校の豚」はブラックで絶品。外来ヨークシャイヤや黒いバアクシャイヤ、そしてカント博士の名前まで出てくる。フランドンはもちろんフランドルのもじり。そしてこの作品、冒頭の原稿用紙1枚分がない! その欠落がさらに想像を掻き立てる。
表題作「風の又三郎」は、読むたびに、なんとも言い難い感興。そして「虔十公園林」。「雨ニモマケズ」にも通じる。賢治の理想の生き方が描いてある。それに名前もほぼ自分だし。 -
帰省した時に、本棚にあった中学の頃の課題図書を引っ張り出して読みました。しおりが中途半端なところで挟まったままだったので、きっと読み終えなかったのでしょう。自然と生き物の残酷さと、美しい表現(どうやったらそんな音が出せる?)、あー。宮沢賢治読んでるなって感じました。
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宮沢賢治の童話作品で有名なものの一つ。風の又三郎は、正に謎の転校生。
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岩手旅行に行くので宮沢賢治を深めよう第二弾。自然の描写が素晴らしく、でっかい何かを読んでいる感じがします。
本書の中では、やまなし、フランドン農学校の豚、鳥をとるやなぎが特に好きでした。畜殺する際に豚自身から許可証を取るという現代っぽさ。古さを感じないなと思います。 -
宮沢賢治の暗さ、恐ろしさを堪能。
風の又三郎目当てだったがたくさん読めて嬉しい。
どんぐりと山猫がかわいかったなあ。 -
賢治の作品をちゃんと読むのは初めて。教科書でさわりの部分を知ったり、NHK教育番組で賢治の詩を題材にした映像を見たり。表題作も確かNHKで知ったはず。主に童話を集めた本書を読むと、岩手・花巻の言葉のゆったりした雰囲気や、賢治が使う擬音、オノマトペの面白さを楽しめる。
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文章自体は確かに子供でも読める文学。でも、子供にこれを考察させるのってかなり難儀なんじゃっないかなぁって。考えればいくらでも裏読みできるし。やっぱり大人になってからもう一度は読んでおいたほうがいいなぁと感じました。
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風のように去る又三郎、話も風のように過ぎていきよくわからない。趣旨が読めなかった
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ゴーシュ、乱暴だな(笑)
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宮沢賢治の描く世界に自分も飛び込んでみたいと思うことがある。広がる青空と、草がいっぱいに生い茂った野原、そして谷を流れる川。山男や風の又三郎、ブドリが生き、生き物たちが不思議な会話を交わす世界。こんな世界で暮らしたなら、世界の見方がどんなふうに変わるのだろうかと。鮮やかになるというよりはむしろ、落ち着いた彩りの世界かもしれないと思った。
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「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」に並ぶ賢治の代表作を本の題名とし、賢治の多様性を読者に知ってもらえるようさまざまな作品が収録されている。「やまなし」(あの有名なクラムボン、二疋の蟹)、貝の火(兎のホモイ)、フランドン農学校の豚、虔十公園林など特別長くないお話でも魅力があり印象に残る作品の数々に、どの話を読んでも学べることが多い。また、あとがき解説の中で天沢氏が記しているが、本書の作品構成は前半を動物たちの物語、後半を人物中心の物語であり、前半後半で違った雰囲気を味わえるのも本書の特長である。言葉は創作も多く、昔の言葉や方言も多いため、物語によってはある程度知識がないと若干読みづらい場面もあると思われるが、注解を見ながら読めるので安心して手に取りやすい。いつの時代になっても色褪せない賢治ワールドをすぐ読めるのはありがたいことだ。
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優れた寓話は常に象徴性をもつて読み手に訴えるとこらがある。「グスコーブドリの伝記」が最も心に残る。「やませ」のおそろしさが、人間というものを介して伝えられる。
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令和のファンタジーが続いたので、古典を。綺麗な童話や物語だけでなく、卑しさ、狡さ、残酷さや、食物連鎖なども織り込み、素直に書かれていて、静かな気持ちで読むことができる。正しい行動がいつの間にか主客転倒してしまう「貝の火」、自己中心的な行動が身の破滅を引き起こす「蜘蛛となめくじと狸」「ツェねずみ」、知恵遅れと言われた少年が林を大切に育て地域の宝になった「虔十公園林」、「グスコーブドリの伝記」や「風の又三郎」もなんだか懐かしい。
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淑徳大学OPACリンク
https://x.gd/Koyw1E -
高原の果ての学校に、風とともに現れた転校生がいた。「青白い」「すらりとした」少年は、姿を見せるたびに不思議な風を伴って現れる。生徒たちは彼を「風の又三郎」と呼び始めるが、この名付けは単なるあだ名以上の意味を帯びていた。それは言葉を超えた存在を、人間の言葉で捉えようとする試みだったのだ。
風は物語の中で、決して単なる空気の動きではない。「カァン カァン」という金属音は、人間世界と自然世界が接触する際の軋みのような響きを持つ。「ごうごう」という唸りは、特に「せきのもんまへ」から吹いてくる風の声として、人間の言語以前の、自然の根源的な叫びを表現する。そして「さあっ」という微かな音は、可視世界と不可視世界の境界が一瞬融解する瞬間を捉えている。これらの音は、風という存在の多層性を示すと同時に、この世界の裂け目から吹き込んでくる異界の気配を表現している。
「うねうねと」立ち上る砂埃や、「かたまって」動く風の描写は、風が単なる物理現象を超えた存在であることを示している。それは時として「まるで手のように」という比喩で描かれ、人間の形態と自然の力が交差する地点を示す。風に与えられる「青さ」は視覚的には捉えられないはずの風に色彩を付与し、可視と不可視の境界に存在することを暗示する。この「青さ」は又三郎の「青白い」容姿とも呼応し、彼の存在の両義性を強調している。
学校という空間自体が、すでに日常と非日常の境界に位置している。高原のはてにぽつんと建つその校舎は、人間の秩序と自然の秩序が出会う場所だ。そこで風が吹くとき、時間は通常の流れから逸脱を始める。風がもたらす時間は、直線的でも循環的でもない、あるいはその両方を同時に含んだ特異な性質を持つ。それは時として途方もなく緩慢に、また時として電光のように速く流れる。
「せきのもんまへ」から吹く風は、太古からの時間を運んでくる。それは地質学的な時間、人間の歴史以前の時間である。この風に触れるとき、生徒たちの意識は日常的な時間の枠組みから解き放たれ、より深い時間の層へと導かれる。風は未来の時間を予感として現在に持ち込む。生徒たちは風の音に、まだ見ぬ出来事の気配を感じ取る。これは単なる予測や不安ではない。風が運んでくる未来は、すでに現在の一部として存在している。
異界の時間においては、「前」と「後」という区別が曖昧になる。又三郎が教室に入ってくる場面では、彼の存在そのものが時間の通常の秩序を攪乱する。生徒たちは彼を「初めて」見る瞬間に、すでに「昔から知っている」ような感覚に捉えられる。これは異界の時間が持つ同時性、あるいは全時間性の表れである。
運動会の準備の場面で、突然の風に校庭の砂が舞い上がると、その中に又三郎の姿が溶け込んでいく。この描写は単なる幻想的な演出ではない。物質と非物質の境界の揺らぎを示し、人間の形を持った又三郎が、常に風という非実体的な存在へと変容する可能性を孕んでいたことを表している。風に触れることは、生徒たちにとって異質な時間との出会いともなる。彼らの皮膚は、通常は不可触なはずの時間という次元を感知する器官となり、風の音は別世界からのメッセージとして聞こえ始める。
異界の時間との接触は、生徒たちの時間感覚そのものを変容させる。学校の時間割に象徴される直線的・機械的な時間は、その絶対性を失う。強い風が吹く中、生徒たちは通常の時間の流れから解放される。それは単なる混乱ではなく、むしろ新しい時間性への目覚めとして描かれる。彼らは一瞬の中に永遠を、永遠の中に一瞬を見出すような体験をする。
より根源的な変容は、存在の様態そのものに及ぶ。風を通して異界の時間に触れることは、自己の存在の質を変容させる経験となる。生徒たちは、自分たちが純粋に「人間的」な存在であるという自明性から解放される。特に注目すべきは、この変容が不可逆的な性質を持つことだ。一度異界の時間に触れた後、彼らは完全に元の存在様態には戻れない。それは喪失としてではなく、むしろ新たな可能性への開けとして描かれる。
物語の結末で、又三郎は風とともに消えていく。しかしこの消失は、異界の時間の中では別の意味を持つ。それは終わりであると同時に始まりでもある。異界の時間において、消失は新たな位相への移行として捉えられる。又三郎が去った後も、この変容の効果は持続する。それは一時的な「異常事態」ではなく、世界の見方そのものの根本的な転換として描かれる。生徒たちは、日常的な時間の中にありながら、つねに異界の時間の可能性に開かれた存在となる。
賢治は、このように風を媒介として異界の時間を描き出すことで、人間の時間認識の限界と可能性を示唆している。風が運んでくる異界の時間は、私たちの日常的な時間感覚を相対化し、世界と自己についての新しい理解の可能性を開くのである。 -
新編「風の又三郎」に収録されている「フランドン農学校の豚」が面白かったです。同じ豚が主人公だというだけのような気もするのですがGeorge Orwellの"Animal Farm"と同じように皮肉の強いお話で、人間社会の冷酷さや一人ひとりの無力感を感じさせられずにはいられません。
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