- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101113074
感想・レビュー・書評
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抽象性に拘った表題作は地味ながら1番良かった。
他の数話はカフカ、安部公房等の水割りをした様に感じてしまった。
言葉選びは女性ならではの繊細さがあり、より自身の色が出た他作を読みたいと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
表題作「パルタイ」を含む5編の短編から成る短編集。ここでは、表題作の「パルタイ」にのみ触れる。
文庫本の裏表紙に、「パルタイ」のあらすじが、下記のように記載されている。
「革命党」に所属している「あなた」から入党をすすめられ、手続きのための「経歴書」を作成し、それが受理されると同時にパルタイから出るための手続きを、またはじめようと決心するまでの経過を、女子学生の目を通して描いた。
この短編は、倉橋由美子のデビュー作である。
明治大学在学中に大学の学長賞に本作で応募し、入選したもの。選者の文芸時評での推薦により話題となり、「文學界」に転載され、また、芥川賞候補となった作品。書かれたのは、1959年。「文學界」に転載されたのは、すなわち、倉橋由美子の文壇デビューとなったのは、1960年のことである。
小熊正二の「1968」を読んでから、当時の(あるいは、前後の)学生運動を扱った小説をいくつか読んでいる。三田誠広の「僕って何」や、島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」である。その流れで、本書も手にとったもの。
「パルタイ」とは、党・政党・党派の意味で、特に共産党を指して用いられた言葉であるらしい。この物語が書かれた当時、「パルタイ=党」といえば、日本共産党を指していたということであり、パルタイへの入党手続(あるいは、これからの退党手続)とは、日本共産党へのそれを指していたのだ。しかし、この物語は、政治的な問題を主題にしたものではないし、日本共産党に対して何らかの意思(賛同とか批判)を表明することを主題にしたものでもないと私は理解した。せっかく入党が認められたのに退党手続をすぐにとろうとするのは、もちろん、その党(日本共産党)に対して批判的な言動ではあるが、その批判の理路を物語にするというよりは、むしろ、もっと、主人公の女子学生の内面の変化(それが何であれ)を描いたもののように感じた。 -
再読だが内容は忘れていた。ずいぶん前のことだけれど年数を経たからではない。やはりわかっていなかったということだろう。
あのころは倉橋由美子の「夢の浮橋」とか「されどわれらが日々」(柴田翔)「我が心は石にあらず」(高橋和巳)など友人に薦められて節操もなく興味を持った。しかし、柴田翔や高橋和巳ほどには覚えていなかったのだ。
カミユやカフカ、サルトルも一応は読んでいたが理解していたのではないから、その影響を色濃く受けたという本書が私には響かなかったのだろう。
時代を経て再会し、深い意味を理解するとはなんとも奇妙なことだ。
表題作「パルタイ」は倉橋由美子のデビュー作、1959年1月明治大学学長賞入選作品にて世に出たのである。
他は「非人」(1960年5月)「貝のなか」(1960年5月)「蛇」(1960年6月)「密告」(1960年7月)
度肝を抜かれた、すごいシュールだ!
のようでもあるが、世相を揶揄しているような内容でもある。
「パルタイ」…ある革命的な党に入ろうとした女子学生
「非人」…ある組織の経営の中で翻弄され、いじめられるる「ぼく」
「貝のなか」…女子寮における人間関係の憂鬱
「蛇」…カフカの「変身」を思わせる騒動、学生編
「密告」…銅版画の如く描かれる印象的で残酷な青春像
リアルであって現実離れ、ありえないようなグロテスクな世界。
『わたしと他者との存在関係であることばというものを逆手にとってもうひとつの世界、わたしにとってほんとうのレアリテがつまった世界を構築することをひそかな愉しみとして…』
と倉橋由美子自身の後記に書かれているように、存在論理を形而上学上にイメージするのに実在の日常性のなかに閉じ込めるから、歪んだ現実になるというのである。こんな日常はありえないけれど日常に近いのである。
著者青春時代の若々しい芸術的カタルシスでもある。これは最先端の芸術であった。感性の鋭い人たちがさぞ共鳴しただろうと思う。現代から見るとこのくらいは当たり前になっている。ああ、だから新しかったのだ。
「パルタイ」が一番普通。でも読み込めば読むほどにその重苦しさに呻く。苦しい芸術ってのもあるのだ。 -
聖少女に引き続き。
パルタイがデビュー作なのか。ずいぶんの「労働者」「学生」「組合」の話が出てきて、反政治臭がする。熱く語る彼や、何もわからないまま飲み込まれていく主人公の戸惑いと組織の仕組み。
非人。集金人。寮費の滞納。主張の失言と自信のなさ。しっぽ。
貝の中。貝の蒸れて生臭く密集した女性たちのルームメイト。
いくつかの短編を読んで、登場人物がKやらLやらというところと、不条理で自分だけ噛み合わない社会での立ち位置の不安定さに、カフカの『城』を思い出した。
密告が一番良かった。幻想的で粒ぞろいの比喩。言葉の紡ぎ方。PとQ。Lへのサディズム。「ぼくは無を分泌してあなたがたの世界に円筒形の穴をうがち、世界の裏、無の、虹色の反世界をみていた。」 -
そーいう時代やったんやなあと思いながら読みました。
閉鎖的な空間ていうのはきつい束縛があって、それはその分だけ自由なのかもしれないと望んでいるんだけども、でも全然救いようがない感じ。
「非人」「蛇」「貝のなか」辺りがよかった。 -
著者デビュー作を含む短編集、久々の再読。
表題はドイツ語で党を意味するParteiで、
左翼的活動家集団に対するアイロニーに満ちた二人称小説。
確か3冊目か4冊目くらいに読んだ倉橋本だったと思う。
もし、これを一番最初に手に取っていたら、
ファンにはならなかったような気がしないでもない。
小説・マンガ問わず、不条理ものはとても好きだけど、
倉橋初期作品は観念的過ぎるので、ちょっと苦手。
でも、短い分『スミヤキストQの冒険』よりは、ずっと取っつきやすい。
しかし、全編を覆う体臭・腐臭が紙面から立ち上ってくるようで、つくづく気色悪い。
この作品集における歯や口腔への度重なる言及や、
狭いところに人がギュウギュウ……という息苦しい描写は、
著者が歯科衛生士だったことや、
大学での窮屈な寮生活の体験が反映されているのだろうか? -
収録作品を不等号で示すと、
「密告」>「パルタイ」>「貝のなか」>「蛇」>「非人」
といった感じ。
「密告」が4点で、「非人」が2点。全体としては3.5点。
文体をはじめ、かなり意識して実験していて、それがある部分においては成功していて面白くなっている。
たとえば、「あなた」という二人称を、三人称のように扱っている点。なかなか新鮮で、「パルタイ」にせよ「密告」にせよ、出だしの掴みをはじめ、功を奏している。
しかし、実験が実験段階のままで終わっている部分があるのも事実。
「存在そのものに対する羞恥の感情」などと形容されてしまうのがその証拠。これでは文体の実験もなにもあったもんじゃない。
たとえば、「蛇」などがそうした(ある程度の批評性を兼ね備えた)主題をとらえやすく、この意味では安部公房と似通っている。
なにかしらの批評性を小説にもたせるとき、イマージナルなものを扱っていくと、一見不可解ではあるのだが、それがイマージナルであるがゆえに、受け入れられやすくなる。
前衛であると同時に通俗。
いま・ここ、を扱わずにイマージナルなものを扱うというのは、結局そういうことにならざるを得ない。
だとすれば、その小説がもつ批評性なんてたかがしれているわけで、場合によっては、もともと通俗を自覚しているものよりも、鼻持ちならない俗悪になることだって、おおいに、ありうる。
『パルタイ』はそもそもそこまで気負っていないし、「前衛」などと気取ってもない。
したがって、嫌みはないのだ。ただ、なんというか、所々があまりに教科書的で、退屈してしまう。
処女作品集だからかもしれないけれど。
このまま、二人称の流れでビュートルの『心変わり』と倉橋の『暗い旅』も読もう。 -
表題作の「私」の、ちょっとさめたところが逆にリアル。
一人称と、設定をはっきり説明しない構成のため、
全体に変な夢を見ているような味わいでした。
(09.08.29)
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図書館(09.08.16) -
く-4-7