壁 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101121024

感想・レビュー・書評

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  • 「砂の女」が面白かったのでこちらにもチャレンジしたが正直難解過ぎて理解出来ず入り込め無いまま読了。
    自分の存在の希薄さについて書いてるんだろうか…?
    理解出来ない己の未熟さを痛感

  • 自分というアイデンティティ、自分と他者とを区別しているもの、自分が社会生活を営むために必要としているもの。
    それは、名前だったり、肩書きだったり、影であったり、家であったりする。
    それらをなくしたとき、自分は自分といえるのか、社会に存在し続けることはできるのか。

    壁は、社会生活に疲弊した自己を確立するためにも必要であるけれど、またその壁によって社会から隔てられ、拒絶され、隔離されたりもする。

    ちょっとしたファンタジーやブラックジョークに富んだ揶揄、メタ的な表現もありつつ、深い洞察を必要とする、味わい深い物語でした。

  • 「壁」と「砂漠」という安部公房のキーワードが、今回の一冊にも盛り込まれた芥川賞受賞作。現実からかけ離れた設定は、シュールレアリスムそのものだが、背中合わせてで現実を非難している覚悟が見えてくる。

  • 再読。
    中学の時に読書感想文を書いて以来。だいぶ背伸びをしすぎた。もしも過去に行けるなら、やめとけ、と止める。
    きっと難しい語彙に溺れそうになりながら読んだのだろうけど、今回再読してみて、本作の空間に広がる広漠たる砂漠のような場所をだいぶ見晴らせるようにはなったものの、当時と近い感触をおぼえた。
    ほとんど成長してないんじゃないかとうすうす感じているがそれは見ないことにして。

    さて本作は3部構成。序文はあの石川淳。
    第1部 S・カルマ氏の犯罪
    第2部 バベルの塔の狸
    第3部 赤い繭
    (芥川賞受賞時は、第1部だけだったらしい。)

    読みながらの印象は、ジョルジョ・デ・キリコの絵みたいだった。じっさい作中でも何度かシュルレアリスムについて言及されていた。顔を持たないつるつるとした人間が作品内をしっちゃかめっちゃかに動き回っている感じ。
    カフカとゴーゴリとサルトルとブルトンを足して4で割ったような小説でもあった。

    「S・カルマ氏の犯罪」は「ぼく」が名前を失う話。というか、名前とともに名刺が逃げていく。
    「バベルの塔の狸」は詩人の「ぼく」がとらぬ狸に影を盗まれる話。
    「赤い繭」は、4つの短編が束ねられている(これがいちばん読みやすいかな)。

    本作でも華麗な詭弁と皮肉が炸裂する。とくに第1部は、最初の名前を失うというアイデアが詭弁だけの運動で動いていくような小説。正直、第2部、3部と比べてさして面白くなかったが、まだアンドレ・ブルトンも生きていた1951年当時としては、こうした偶然性で動いていくような、自動書記や悪夢やを装ったような作品が必要とされたのかもしれない。

    (個人的には第2部のほうがもっと壊れていて好き。途中、積分記号のついたごつい数式が現れるが、これはまったく意味をなさないものらしい。
    第3部はわりと端正な短編ばかりだ。)

    理不尽な裁判のシーンなんてもろにカフカを思い出さざるをえなかった。だからちょっと古いと思ってしまったのかも。それにしてもカフカと比べると安部公房のほうは何て健康的な社会風刺だろう。やっぱり、カフカのような不穏な論理のねじれや瘤がないから、とても見晴らしがよく感じる。なんというか、ニュートン的な等質な空間みたいなイメージ。だから支離滅裂な会話の応酬はは面白いんだけど時々飽きる。

    3つの部は一見無関係に見えるけれども、それらを縫い合わせているのはこういう発想だと思う。

    つまり、あるものが存在する「結果」ついてくる属性などが失われることによって、その存在そのものの実在が足元から揺るがされる。
    それは名前であったり、影であったり、魔法のチョークが描く絵であったりする。最後の短編の人肉ソーセージを入れてもいいかもしれない。これは夢が現実を凌駕するシュルレアリスム的発想といってもいいと思う。

    いったい「壁」ってなんだろうと中学生の自分は考えながら読んでさっぱり五里霧中、今回もそうだった。が、ひとまずの結論。
    (あとがきを書いている評論家は壁と砂漠を関連づけて論じているが、ちょっと納得がいかなかった)
    たぶん、上で書いた因果の逆転のことを言っているのだろう。自分が生み出したものでありながら、そちらのほうが肥大化してしまい、自分の生存にとって障碍となるもの。本末転倒が必然として流れていく。

    いま思い当たったけど、ひょっとして養老孟司の「バカの壁」にすごく近いのでは!?

  • 独創的な世界観に満ち溢れた作品でした。
    安部公房の作品は、どこか不条理で、どこか無意識な部分が作品に抽出されているなと、私は感じていて。あまり言い表すことのできない難しい作品だったと感じました。そこも安部公房の素晴らしい部分でもあるのですが。シュルレアリスムの世界観を味わってください。私的には「砂の女」の方が読みやすいと思います。

  • 毎回文句言いながら読む安部公房。早4作目。
    ユーモラスながらその深い世界観に没頭してしまう。やっぱり好きなのかな・・・
    非現実的な設定なのに、圧倒的なリアリティ。
    馬鹿馬鹿しくも大問題で、悪夢であって欲しいと願いつつ読んだ。

  • 短編集と知らずに読み始めたが、この本は短編集である。壁をモチーフにして、ちょっと変わった世界に足を踏み入れた主人公たちが奮闘する。ちょっと寓話的な雰囲気もある。物語がどんどん現実離れした世界へと転がっていくので途中で何度も置いてけぼりになってしまったが、人間の孤独と空想みたいなテーマがあるのかな?と感じた。シュールレアリズムという哲学の用語が深く関係してるようなので、それについてしっかり知識を持てばもっと深く読み解けるかも。一番最後に載っている短編『事業』のインパクトが強すぎて、それまでの物語の印象が吹っ飛んでしまった感はある。

  • 安部公房(1924-1993)初期の中・短篇集、1951年。第一部「S・カルマ氏の犯罪」、第二部「バベルの塔の狸」、第三部「赤い繭」(「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」)からなる。名前 = identity = 自己同一性 の喪失という彼の多くの作品に通底するモチーフを通して、人間存在の実存的境位を追究しようとする。



    まずはじめに、世界における一切の存在は予め如何なる意味も本質も付与されていなかった。則ち「名前」をもたない、「名前」以前の何かですらない何か、であった。ただただそこに投げ出されて在った。そこでは、あらゆる存在が即自的な在り方をしていた。

    そこに思想史上の事件として「意識」が発現する。「意識」は二つの機制において発現する。則ち、①超越的な機制と②超越論的な機制と。①においては、主体は他者に対して超越的な機制を成す。主体は他者に意味を付与し以てそれを客体化する。そして他者は本質を"偶有"する道具的存在に貶められる。他者は名付けの暴力を被り、不定態としての自由を喪失し、或る意味=本質=価値=当為に束縛された定常態として主体の秩序体系の内に体よく整序されてしまう。則ち、一つの帰属先に固定されてしまう。主体たる意識は、云わば他者を客体として支配する。その支配に際して重要な働きをする器官は眼球であろう、それは他者を客体化する眼差しの始点であるから。

    こうした①と同時に、②が発現する。②においては、主体は自己に対して超越論的な機制を成す。主体は自己が何者であるかを自己自身で規定する、則ち自己自身を対象化する。さらに云えば、こうした自己対象化の機制それ自体を対象化する。このとき「意識」は「自己意識」となり、それは対自的な在り方をする。対象化とは否定のことであり、こうした自己否定は某かの定常態に到り着くことは在り得ず、無限に繰り出される否定の運動として反復されるしかない。超越論的機制は、自己参照の無際限な反復としてしか在り得ない。ここにあって、自らによる自らに対する名付けは自己存在に対して齟齬を来し逸脱し続ける。「自己意識の主体」と「自己意識の対象」とは一致することは不可能であるから。則ち、自己は自己に対して決定不能である。あらゆる土壌を喪失し、一切の帰属先をもち得ない。自己は何者でも在り得ない、如何なる本質を"偶有"することもない。ここに、本質に先立つところの「実存」の境位が開かれる。

    「もう名前と折合のつく見込はないんです」

    「もうこれ以上、一歩も歩けない。途方にくれて立ちつくすと、同じく途方にくれた手の中で、絹糸に変形した足が独りでに動きはじめていた。するすると這い出し、それから先は全くおれの手をかりずに、自分でほぐれて蛇のように身をまきつきはじめた。左足が全部ほぐれてしまうと、糸は自然に右足に移った。糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだが、それでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ、ほどけては袋を内側から固めた。そして、ついにおれは消滅した。/後に大きな空っぽの繭が残った。/ああ、これでやっと休めるのだ。夕日が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない」

    そして、自己意識の対象化(超越)という作用それ自体が当の自己意識の超越論的機制のうちの含まれる(内在)のであるから、自己意識にとって如何なる意味でも外部は存在しない。こうした自己関係的機制の外部のなさは、当の自己意識にとって「曠野」と呼ぶに相応しい。「曠野」はどこまでも「曠野」でしかなく、その外部に到り着くことは在り得ないのだから。

    「壁」は内側と外側を区別する。内側では、①超越的な作用により「名前」を付与された本質存在が秩序を成している。外側には「名前」を付与されない現実存在が混沌とした自由のうちに在る。そしてその境界たる「壁」、それは安定した秩序体系の裂け目から人間存在の決定不能性という「曠野」を垣間見てしまった者、則ち自己意識の限界としての自己関係的機制という在り方を自覚するに到った者、のことであると云えないか。

    「壁よ/私はおまえの偉大ないとなみを頌める/人間を生むために人間から生れ/人間から生れるために人間を生み/おまえは自然から人間を解き放った/私はおまえを呼ぶ/人間の仮設と」

    「見渡すかぎりの曠野です。/その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです」



    本筋とは関係ないが、読みながらふと思ったのは、現代の人間の生は次の三つの局面に截然と切り分けられてしまうのではないか、ということ。則ち、形而上学的な自閉と、ブルジョア的欺瞞からなる社会関係と、性衝動に基づく他者関係と。しかも、これらは互いに交わることなく、切断されてただ相互不干渉なまま並立しているだけではないか。



    本書『壁』は高校時代に既に購入していた。学校の教材かなにかで「赤い繭」を読んだのがそもそもの購入のきっかけであったと思う。何とも不思議な雰囲気の物語があるものだと随分魅了された記憶がある。しかし「壁」自体は当時の私には余りに観念的な内容であったために、第一部「S・カルマ氏の犯罪」のごく初めの個所で挫折してしまった。ことによると石川淳の「序」しか読んでいなかったかもしれぬ。数十年の空白を挟むことになったが、読み終えることができてよかった。大学に入ってからは哲学や思想を素人のいい加減さと根気のなさとで多少読みかじったが、今回読んだ「赤い繭」もやはり、そしていっそうに、美しい物語だった。そして「S・カルマ氏の犯罪」のあの最後の(これもやはり)美しい結末に到り着けてよかった。

  • 主人公カルマ氏は自分の名前をどこかに落としてしまい、もはや誰でもなくなってしまった。その上、カルマ氏は、目に見えたものを胸の陰圧で世界のなにもかも吸い取る「犯罪的暴力性」を持った人になってしまう。
    そして、題名である「壁」は存在証明としての「壁」である。自然から社会を区切り、その中で我々が「存在」することを決めた「壁」。「壁」を越えてしまえばそれは、世界、つまり社会ではないのだ。
    シュールレアリズム的な面白さ。最高に知的。最高に最高。

  • この本は、学生の頃に読んだことがあったが、もう内容は忘れていた。

    「S・カルマ氏の犯罪」
    延々と続く悪夢を見せられているような思いがした。
    読むのがしんどい。
    それほど面白くなかった。
    名前が独り歩きし、何かに自分の人生が乗っ取られて、身動きが取れない、そんな混乱を描きたかったのだろうか?
    胡散臭い、嘘くさい、敵か味方かわからない者たちに囲まれて、もがき彷徨う。
    よくわからないけれど、ともかく気分の悪い作品だった。


    「赤い繭」
    正常と異常が絡み合って、ぶれてゆく。
    死ぬに死ねず、空っぽになった自分の中に夕日のほのかな光だけを抱きしめて、閉ざしてしまう。
    なんだか悲しい感じがした。

    「洪水」
    弱者から搾取し、虐げた結果、想定できなかった病理みたいなものに侵されていく。
    この物語の中には何かがあるのだけれど、今の私には、しっかりと捉えられない。
    もどかしいし、難しいなあ。
    貧しくて誠実な哲学者には、液体になった人間たちの苦しみや悲しみとその原因、そして、これから世界に起こることが見えたんだろうな。
    だから、重い吐息をついたんだろうな。

    「魔法のチョーク」
    手に余る能力を得たところで、破滅に至るのかもしれない、と思った。
    何かを創造したり、責任を負うことは、簡単なことではない。
    何が正しい判断なのか。
    ドアを開けてみないとわからないのかもしれない。

    「事業」
    恐ろしい。
    経済の悪い部分を極端に描いたら、こんな風になるんだろうか。
    「人肉」は他の物に置き換えて読むことができる。
    他の物に置き換えたとたん、世間一般によくある話、になってしまうような気がする。
    利益追求の冷淡さというか、合理性が極端になると非人道的になってしまう、というか。
    ただのホラー以上の何かを感じた。

    「バベルの塔の狸」
    妄想の世界に飲まれ過ぎると、身を亡ぼす、ということだろうか??
    手に入れることのできないものを追い求めるためには、肉体や理性は邪魔だ、ということなのか?
    なんだか、わかるような、理解しきれないような。
    シュールリアリズムって、ムズイね。
    ああ、そういうことか、と腑に落ちるまでに時間がかかりそうだ。
    ・・・一生気づけないまま、かもしれないな。


    2003.7.7
    シュールすぎて、想像ができない話もあった。
    「S・カルマ氏の犯罪」がそれだ。
    名前の喪失をきっかけに、物と人間との立場の逆転がおきる。
    空間と空間すら生物のようにつながり、移動する。
    不思議の国のアリスみたいだった。
    でも、アリスみたいに読みやすいわけではなく、中途半端にリアルだから、かえってわかりにくかった。
    「洪水」「魔法のチョーク」「事業」はさらっと楽しく読めた。
    よくまとまっているし、短いからわかりやすい。
    「バベルの塔の狸」も、話の筋がまとまっているので、わかりやすく面白かった。
    S・カルマ氏は、私にとっては駄作でしかない。
    しかし、それでも漠然とした不気味で不安なイメージが残っている。
    それが筆者の目的だったとしたら、S・カルマ氏も、それなりの作品なのであろう。
    しかし、やや長い割には理解もしやすい、バベルの塔の方が、私には面白かったし、気に入っている。
    微笑は完全な無表情。
    なんとなくわかる気がする(かな?)。



    1999.10.19
    「S.カルマ氏の犯罪」はわかりにくかった。かなりシュールな世界で、めまぐるしく場面が変わるので、想像力がついていかなかった。それにひきかえ他の作品は面白かった。この本は「壁」という題名をつけられているが、今の私にはまだその意味がはっきりとはわからない。解説にあることもわかるような気はするが、「本当にわかっている?」ときかれると、返事にこまってしまう。阿部公房は面白いが、まだ深くは理解できない。

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著者プロフィール

安部公房
大正十三(一九二四)年、東京に生まれる。少年期を旧満州の奉天(現在の藩陽)で過ごす。昭和二十三(一九四八)年、東京大学医学部卒業。同二十六年『壁』で芥川賞受賞。『砂の女』で読売文学賞、戯曲『友達』で谷崎賞受賞。その他の主著に『燃えつきた地図』『内なる辺境』『箱男』『方舟さくら丸』など。平成五(一九九三)年没。

「2019年 『内なる辺境/都市への回路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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