壁 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101121024

感想・レビュー・書評

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  • 主人公カルマ氏は自分の名前をどこかに落としてしまい、もはや誰でもなくなってしまった。その上、カルマ氏は、目に見えたものを胸の陰圧で世界のなにもかも吸い取る「犯罪的暴力性」を持った人になってしまう。
    そして、題名である「壁」は存在証明としての「壁」である。自然から社会を区切り、その中で我々が「存在」することを決めた「壁」。「壁」を越えてしまえばそれは、世界、つまり社会ではないのだ。
    シュールレアリズム的な面白さ。最高に知的。最高に最高。

  • 安部公房(1924-1993)初期の中・短篇集、1951年。第一部「S・カルマ氏の犯罪」、第二部「バベルの塔の狸」、第三部「赤い繭」(「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」)からなる。名前 = identity = 自己同一性 の喪失という彼の多くの作品に通底するモチーフを通して、人間存在の実存的境位を追究しようとする。



    まずはじめに、世界における一切の存在は予め如何なる意味も本質も付与されていなかった。則ち「名前」をもたない、「名前」以前の何かですらない何か、であった。ただただそこに投げ出されて在った。そこでは、あらゆる存在が即自的な在り方をしていた。

    そこに思想史上の事件として「意識」が発現する。「意識」は二つの機制において発現する。則ち、①超越的な機制と②超越論的な機制と。①においては、主体は他者に対して超越的な機制を成す。主体は他者に意味を付与し以てそれを客体化する。そして他者は本質を"偶有"する道具的存在に貶められる。他者は名付けの暴力を被り、不定態としての自由を喪失し、或る意味=本質=価値=当為に束縛された定常態として主体の秩序体系の内に体よく整序されてしまう。則ち、一つの帰属先に固定されてしまう。主体たる意識は、云わば他者を客体として支配する。その支配に際して重要な働きをする器官は眼球であろう、それは他者を客体化する眼差しの始点であるから。

    こうした①と同時に、②が発現する。②においては、主体は自己に対して超越論的な機制を成す。主体は自己が何者であるかを自己自身で規定する、則ち自己自身を対象化する。さらに云えば、こうした自己対象化の機制それ自体を対象化する。このとき「意識」は「自己意識」となり、それは対自的な在り方をする。対象化とは否定のことであり、こうした自己否定は某かの定常態に到り着くことは在り得ず、無限に繰り出される否定の運動として反復されるしかない。超越論的機制は、自己参照の無際限な反復としてしか在り得ない。ここにあって、自らによる自らに対する名付けは自己存在に対して齟齬を来し逸脱し続ける。「自己意識の主体」と「自己意識の対象」とは一致することは不可能であるから。則ち、自己は自己に対して決定不能である。あらゆる土壌を喪失し、一切の帰属先をもち得ない。自己は何者でも在り得ない、如何なる本質を"偶有"することもない。ここに、本質に先立つところの「実存」の境位が開かれる。

    「もう名前と折合のつく見込はないんです」

    「もうこれ以上、一歩も歩けない。途方にくれて立ちつくすと、同じく途方にくれた手の中で、絹糸に変形した足が独りでに動きはじめていた。するすると這い出し、それから先は全くおれの手をかりずに、自分でほぐれて蛇のように身をまきつきはじめた。左足が全部ほぐれてしまうと、糸は自然に右足に移った。糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだが、それでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ、ほどけては袋を内側から固めた。そして、ついにおれは消滅した。/後に大きな空っぽの繭が残った。/ああ、これでやっと休めるのだ。夕日が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない」

    そして、自己意識の対象化(超越)という作用それ自体が当の自己意識の超越論的機制のうちの含まれる(内在)のであるから、自己意識にとって如何なる意味でも外部は存在しない。こうした自己関係的機制の外部のなさは、当の自己意識にとって「曠野」と呼ぶに相応しい。「曠野」はどこまでも「曠野」でしかなく、その外部に到り着くことは在り得ないのだから。

    「壁」は内側と外側を区別する。内側では、①超越的な作用により「名前」を付与された本質存在が秩序を成している。外側には「名前」を付与されない現実存在が混沌とした自由のうちに在る。そしてその境界たる「壁」、それは安定した秩序体系の裂け目から人間存在の決定不能性という「曠野」を垣間見てしまった者、則ち自己意識の限界としての自己関係的機制という在り方を自覚するに到った者、のことであると云えないか。

    「壁よ/私はおまえの偉大ないとなみを頌める/人間を生むために人間から生れ/人間から生れるために人間を生み/おまえは自然から人間を解き放った/私はおまえを呼ぶ/人間の仮設と」

    「見渡すかぎりの曠野です。/その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです」



    本筋とは関係ないが、読みながらふと思ったのは、現代の人間の生は次の三つの局面に截然と切り分けられてしまうのではないか、ということ。則ち、形而上学的な自閉と、ブルジョア的欺瞞からなる社会関係と、性衝動に基づく他者関係と。しかも、これらは互いに交わることなく、切断されてただ相互不干渉なまま並立しているだけではないか。



    本書『壁』は高校時代に既に購入していた。学校の教材かなにかで「赤い繭」を読んだのがそもそもの購入のきっかけであったと思う。何とも不思議な雰囲気の物語があるものだと随分魅了された記憶がある。しかし「壁」自体は当時の私には余りに観念的な内容であったために、第一部「S・カルマ氏の犯罪」のごく初めの個所で挫折してしまった。ことによると石川淳の「序」しか読んでいなかったかもしれぬ。数十年の空白を挟むことになったが、読み終えることができてよかった。大学に入ってからは哲学や思想を素人のいい加減さと根気のなさとで多少読みかじったが、今回読んだ「赤い繭」もやはり、そしていっそうに、美しい物語だった。そして「S・カルマ氏の犯罪」のあの最後の(これもやはり)美しい結末に到り着けてよかった。

  • まだ10代の頃読もうとして挫折してしまって以来ずっと本棚で眠っていたのを今なら読める気がして何年かぶりに読んでみた。
    そしたらすらすら読めるし面白いしで一体なんで昔は読めなかったのかわからないくらい良かった。

    それでも今まで読んできた他の安部公房作品よりは馴染みづらくて、自分が内容をどれくらい理解できてるのかちょっと不安だけど…。

    第二部のバベルの塔の狸が一番読みやすかったし面白かった。

  • この作品を一言でいえば、変身の物語。三部作の主人公は、自分以外の何かになる。

    S・カルマ氏は名前を喪失することで、アイデンティティを失ってしまう。裁判の後、かつて所属していた社会集団からも放り出され、その結果、自ら壁となる。静かに果てしなく成長する虚無の象徴として。つまり、それは既成秩序からの解放である。これは壁に於いて絶望的に発見された世界であり、いみじくも現代社会への不合理を世の中に訴えかけている。

    表題の壁とは、個人と社会との壁でもあり、現代人の誰もが抱える心の闇との葛藤が変身なのかもしれない。

    個人的には、魔法のチョークが1000本くらい欲しいかも。

  • 全章を通して、非科学的・あべこべでとにかく不気味。なのに妙に冷静で論理的という、類を見ない異色の世界観を持っている。高度に哲学的な童話といった感じ。

    原因と結果、外と内、生と死、陰と陽、科学と非科学、空想と現実、
    本来は絶対的な壁で遮られているありとあらゆる二極的な現象が統合され、一点に集まった世界を描こうとしているように思える。

    文体は読みやすく、概念的だけど理解しやすい。
    まったく新しい思考回路を追体験できる、貴重な一冊。

  • 名前を失くすということがどういうことか。まあたしかに困るでしょう。しかし、そんな状態に陥っても自分の味方になってくれる人がいる。そんなところにロマンスも感じさせる作品でした。学者裁判が気味が悪くていい。
    『バベルの塔の狸』なんかは映像化したら面白そうですね。微笑が無表情だというお話はなるほどと思わされました。
    第三部では『魔法のチョーク』、『事業』が好き。

  • この作品の言おうとしていることのどれくらいを理解できたのだろうか。
    日常の慣習、常識などの見方が180度変わってします。
    随所に出てくる哲学的なものの見方。
    人間というものは、小さいのか大きいのか、
    果たして無なのか。
    謎が深まるばかりだった。

  • こんな奇妙で面白い文章を書く人がいたのかと今頃驚いた。
    春樹と似てるか、と思ったりもするけど、春樹よりまだ読み応えは柔らかく軽い、
    奇怪だけど、ブラックまで落ち込むわけでもなく
    皮肉も含むけどそれを見つけるころには物語は次のステージにするっと移行していく

    そして科学的思考をもった登場人物はきっと作者の脳内のそのままの投影なんだろうな、と読んでいて感じる。
    科学と活字、文と理、空想と具象はどこかでにじむようにつながっていくのかという感触。

    私の好きなタイプの文章だった。
    こういうものを現代文学のなかでも海外小説に見つけたりするけれど
    逆をいうと日本文学にはもうないのかもな、と思ってしまった。

  • 学生の時以来の再読。話の展開をすっかり忘れてしまっていたので(苦笑)、ある意味新鮮な気持ちで読めた。
    現実の世界と自然につながる、一続きな幻想の世界のイメージに飲み込まれる。「そんなことありえないだろう」と思うようなことが起きるのに、それが本当に起こらないか、と問われると起こりえないとは断言できないと思わされてしまう。それは話の端々に飛び出す、現実世界を鋭く切り取ったような言葉や表現の力だと思った。

    二部のバベルの塔の狸の話が好みだった。
    本人も気づかない間に、人は誰しもひっそりと“とらぬ狸”を生み出してるのかも知れない。

  • 自己とはなにか?名前とは何か?世界とは何か?神とは何か?

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著者プロフィール

安部公房(あべ こうぼう)
1924年3月7日 - 1993年1月22日
東京府北豊島郡滝野川町生まれ、満洲で少年期を過ごした。
1948年『終りし道の標べに』(「粘土塀」)により単行本デビュー。1951年「壁 - S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞。その後は劇作も手がけた。1958年「幽霊はここにいる」で岸田演劇賞、1963年『砂の女』で読売文学賞、1967年『友達』で谷崎潤一郎賞、1975年「緑色のストッキング」で読売文学賞をそれぞれ受賞。他、受賞作多数。国内外に大きな影響を及ぼしており、ノーベル文学賞の候補者としても名前が挙がっていた。
主な代表作として『壁』『砂の女』『他人の顔』『箱男』など。

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