壁 (新潮文庫)

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レビュー : 468
  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101121024

感想・レビュー・書評

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  • 「壁」と「砂漠」という安部公房のキーワードが、今回の一冊にも盛り込まれた芥川賞受賞作。現実からかけ離れた設定は、シュールレアリスムそのものだが、背中合わせてで現実を非難している覚悟が見えてくる。

  • 主人公カルマ氏は自分の名前をどこかに落としてしまい、もはや誰でもなくなってしまった。その上、カルマ氏は、目に見えたものを胸の陰圧で世界のなにもかも吸い取る「犯罪的暴力性」を持った人になってしまう。
    そして、題名である「壁」は存在証明としての「壁」である。自然から社会を区切り、その中で我々が「存在」することを決めた「壁」。「壁」を越えてしまえばそれは、世界、つまり社会ではないのだ。
    シュールレアリズム的な面白さ。最高に知的。最高に最高。

  • この本は、学生の頃に読んだことがあったが、もう内容は忘れていた。

    「S・カルマ氏の犯罪」
    延々と続く悪夢を見せられているような思いがした。
    読むのがしんどい。
    それほど面白くなかった。
    名前が独り歩きし、何かに自分の人生が乗っ取られて、身動きが取れない、そんな混乱を描きたかったのだろうか?
    胡散臭い、嘘くさい、敵か味方かわからない者たちに囲まれて、もがき彷徨う。
    よくわからないけれど、ともかく気分の悪い作品だった。


    「赤い繭」
    正常と異常が絡み合って、ぶれてゆく。
    死ぬに死ねず、空っぽになった自分の中に夕日のほのかな光だけを抱きしめて、閉ざしてしまう。
    なんだか悲しい感じがした。

    「洪水」
    弱者から搾取し、虐げた結果、想定できなかった病理みたいなものに侵されていく。
    この物語の中には何かがあるのだけれど、今の私には、しっかりと捉えられない。
    もどかしいし、難しいなあ。
    貧しくて誠実な哲学者には、液体になった人間たちの苦しみや悲しみとその原因、そして、これから世界に起こることが見えたんだろうな。
    だから、重い吐息をついたんだろうな。

    「魔法のチョーク」
    手に余る能力を得たところで、破滅に至るのかもしれない、と思った。
    何かを創造したり、責任を負うことは、簡単なことではない。
    何が正しい判断なのか。
    ドアを開けてみないとわからないのかもしれない。

    「事業」
    恐ろしい。
    経済の悪い部分を極端に描いたら、こんな風になるんだろうか。
    「人肉」は他の物に置き換えて読むことができる。
    他の物に置き換えたとたん、世間一般によくある話、になってしまうような気がする。
    利益追求の冷淡さというか、合理性が極端になると非人道的になってしまう、というか。
    ただのホラー以上の何かを感じた。

    「バベルの塔の狸」
    妄想の世界に飲まれ過ぎると、身を亡ぼす、ということだろうか??
    手に入れることのできないものを追い求めるためには、肉体や理性は邪魔だ、ということなのか?
    なんだか、わかるような、理解しきれないような。
    シュールリアリズムって、ムズイね。
    ああ、そういうことか、と腑に落ちるまでに時間がかかりそうだ。
    ・・・一生気づけないまま、かもしれないな。


    2003.7.7
    シュールすぎて、想像ができない話もあった。
    「S・カルマ氏の犯罪」がそれだ。
    名前の喪失をきっかけに、物と人間との立場の逆転がおきる。
    空間と空間すら生物のようにつながり、移動する。
    不思議の国のアリスみたいだった。
    でも、アリスみたいに読みやすいわけではなく、中途半端にリアルだから、かえってわかりにくかった。
    「洪水」「魔法のチョーク」「事業」はさらっと楽しく読めた。
    よくまとまっているし、短いからわかりやすい。
    「バベルの塔の狸」も、話の筋がまとまっているので、わかりやすく面白かった。
    S・カルマ氏は、私にとっては駄作でしかない。
    しかし、それでも漠然とした不気味で不安なイメージが残っている。
    それが筆者の目的だったとしたら、S・カルマ氏も、それなりの作品なのであろう。
    しかし、やや長い割には理解もしやすい、バベルの塔の方が、私には面白かったし、気に入っている。
    微笑は完全な無表情。
    なんとなくわかる気がする(かな?)。



    1999.10.19
    「S.カルマ氏の犯罪」はわかりにくかった。かなりシュールな世界で、めまぐるしく場面が変わるので、想像力がついていかなかった。それにひきかえ他の作品は面白かった。この本は「壁」という題名をつけられているが、今の私にはまだその意味がはっきりとはわからない。解説にあることもわかるような気はするが、「本当にわかっている?」ときかれると、返事にこまってしまう。阿部公房は面白いが、まだ深くは理解できない。

  • ◯大変面白い。砂の女を以前読んだが、こちらの方が読みやすい。
    ◯現代社会における個の喪失と、それに対する実存主義的な思考や、シュールレアリスム(個々の実存が消失している先の展開はリアルに感じさせる)がうかがえる。なるほど、安部公房の小説はこの辺りをキーにして読むのか、というのがわかりやすいのだ。
    ◯文壇と距離を置いていたと言われているが、なるほど、私小説的なものが多い中では異色に感じる。とにかく面白い。

  • 短編集と知らずに読み始めたが、この本は短編集である。壁をモチーフにして、ちょっと変わった世界に足を踏み入れた主人公たちが奮闘する。ちょっと寓話的な雰囲気もある。物語がどんどん現実離れした世界へと転がっていくので途中で何度も置いてけぼりになってしまったが、人間の孤独と空想みたいなテーマがあるのかな?と感じた。シュールレアリズムという哲学の用語が深く関係してるようなので、それについてしっかり知識を持てばもっと深く読み解けるかも。一番最後に載っている短編『事業』のインパクトが強すぎて、それまでの物語の印象が吹っ飛んでしまった感はある。

  • 安部公房(1924-1993)初期の中・短篇集、1951年。第一部「S・カルマ氏の犯罪」、第二部「バベルの塔の狸」、第三部「赤い繭」(「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」)からなる。名前 = identity = 自己同一性 の喪失という彼の多くの作品に通底するモチーフを通して、人間存在の実存的境位を追究しようとする。



    まずはじめに、世界における一切の存在は予め如何なる意味も本質も付与されていなかった。則ち「名前」をもたない、「名前」以前の何かですらない何か、であった。ただただそこに投げ出されて在った。そこでは、あらゆる存在が即自的な在り方をしていた。

    そこに思想史上の事件として「意識」が発現する。「意識」は二つの機制において発現する。則ち、①超越的な機制と②超越論的な機制と。①においては、主体は他者に対して超越的な機制を成す。主体は他者に意味を付与し以てそれを客体化する。そして他者は本質を"偶有"する道具的存在に貶められる。他者は名付けの暴力を被り、不定態としての自由を喪失し、或る意味=本質=価値=当為に束縛された定常態として主体の秩序体系の内に体よく整序されてしまう。則ち、一つの帰属先に固定されてしまう。主体たる意識は、云わば他者を客体として支配する。その支配に際して重要な働きをする器官は眼球であろう、それは他者を客体化する眼差しの始点であるから。

    こうした①と同時に、②が発現する。②においては、主体は自己に対して超越論的な機制を成す。主体は自己が何者であるかを自己自身で規定する、則ち自己自身を対象化する。さらに云えば、こうした自己対象化の機制それ自体を対象化する。このとき「意識」は「自己意識」となり、それは対自的な在り方をする。対象化とは否定のことであり、こうした自己否定は某かの定常態に到り着くことは在り得ず、無限に繰り出される否定の運動として反復されるしかない。超越論的機制は、自己参照の無際限な反復としてしか在り得ない。ここにあって、自らによる自らに対する名付けは自己存在に対して齟齬を来し逸脱し続ける。「自己意識の主体」と「自己意識の対象」とは一致することは不可能であるから。則ち、自己は自己に対して決定不能である。あらゆる土壌を喪失し、一切の帰属先をもち得ない。自己は何者でも在り得ない、如何なる本質を"偶有"することもない。ここに、本質に先立つところの「実存」の境位が開かれる。

    「もう名前と折合のつく見込はないんです」

    「もうこれ以上、一歩も歩けない。途方にくれて立ちつくすと、同じく途方にくれた手の中で、絹糸に変形した足が独りでに動きはじめていた。するすると這い出し、それから先は全くおれの手をかりずに、自分でほぐれて蛇のように身をまきつきはじめた。左足が全部ほぐれてしまうと、糸は自然に右足に移った。糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだが、それでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ、ほどけては袋を内側から固めた。そして、ついにおれは消滅した。/後に大きな空っぽの繭が残った。/ああ、これでやっと休めるのだ。夕日が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない」

    そして、自己意識の対象化(超越)という作用それ自体が当の自己意識の超越論的機制のうちの含まれる(内在)のであるから、自己意識にとって如何なる意味でも外部は存在しない。こうした自己関係的機制の外部のなさは、当の自己意識にとって「曠野」と呼ぶに相応しい。「曠野」はどこまでも「曠野」でしかなく、その外部に到り着くことは在り得ないのだから。

    「壁」は内側と外側を区別する。内側では、①超越的な作用により「名前」を付与された本質存在が秩序を成している。外側には「名前」を付与されない現実存在が混沌とした自由のうちに在る。そしてその境界たる「壁」、それは安定した秩序体系の裂け目から人間存在の決定不能性という「曠野」を垣間見てしまった者、則ち自己意識の限界としての自己関係的機制という在り方を自覚するに到った者、のことであると云えないか。

    「壁よ/私はおまえの偉大ないとなみを頌める/人間を生むために人間から生れ/人間から生れるために人間を生み/おまえは自然から人間を解き放った/私はおまえを呼ぶ/人間の仮設と」

    「見渡すかぎりの曠野です。/その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです」



    本筋とは関係ないが、読みながらふと思ったのは、現代の人間の生は次の三つの局面に截然と切り分けられてしまうのではないか、ということ。則ち、形而上学的な自閉と、ブルジョア的欺瞞からなる社会関係と、性衝動に基づく他者関係と。しかも、これらは互いに交わることなく、切断されてただ相互不干渉なまま並立しているだけではないか。



    本書『壁』は高校時代に既に購入していた。学校の教材かなにかで「赤い繭」を読んだのがそもそもの購入のきっかけであったと思う。何とも不思議な雰囲気の物語があるものだと随分魅了された記憶がある。しかし「壁」自体は当時の私には余りに観念的な内容であったために、第一部「S・カルマ氏の犯罪」のごく初めの個所で挫折してしまった。ことによると石川淳の「序」しか読んでいなかったかもしれぬ。数十年の空白を挟むことになったが、読み終えることができてよかった。大学に入ってからは哲学や思想を素人のいい加減さと根気のなさとで多少読みかじったが、今回読んだ「赤い繭」もやはり、そしていっそうに、美しい物語だった。そして「S・カルマ氏の犯罪」のあの最後の(これもやはり)美しい結末に到り着けてよかった。

  • まだ10代の頃読もうとして挫折してしまって以来ずっと本棚で眠っていたのを今なら読める気がして何年かぶりに読んでみた。
    そしたらすらすら読めるし面白いしで一体なんで昔は読めなかったのかわからないくらい良かった。

    それでも今まで読んできた他の安部公房作品よりは馴染みづらくて、自分が内容をどれくらい理解できてるのかちょっと不安だけど…。

    第二部のバベルの塔の狸が一番読みやすかったし面白かった。

  • 第1部
    シュールリアリズムの文学を初めて読んだが、小説でこんなことまでしていいんだという小説の新たな境地を見れた気がする

    突飛な設定や、非現実的なことが頻発する世界でも、しっかりと物語として成立していることが作家の力だと感じた

    また、物語として、随所に読み進めたくなるように、物語の起伏が設定されていて、物語のドライブを感じた

    また、随所の比喩も、文体に溶け込んでいて、面白い表現が多く、読んでいて飽きなかった

    名前を無くし胸の空虚感に苛まれた男に対して、名刺が新たな自分として存在しているという構造で、対比がわかりやすい

    涙がたびたびモチーフとして現れる
    その涙の意味とはなんなのか

    主人公は見たものを胸の中に吸収することができる

    主人公は世界の果てとされる、荒野を胸に吸い込み、その中に成長する壁が存在する

    主人公はラクダと荒野を吸収した罪で、裁判にかけられる

    理不尽に裁判は進んで行き、主人公は有罪だという人が大半、しかし、同僚のY子が無罪を主張し、主人公はそこに愛を感じる

    裁判が終わると、主人公がこの世界にとどまる限り、法廷は被告の後を追って行く、となる
    そして、私設警官に監視下に置かれる

    名刺が主人公の部屋で、死んだ有機物から生きている無機物へ!という標榜で、革命を起こすと、主人公の色々なものが喋り出し、動き出す

    その後、主人公は成長する壁となる

    成長する壁とは一体なんなのか
    見渡す限りの荒野に広がる成長する壁とは一体なんなのであろうか

    世界の果ての荒野にそびえ立つ成長する壁

    第2部

    バベルの塔の狸

    狸に影を食われた主人公が、透明人間になり、影を取り返そうとするが、バベルの塔につれていかれる

    バベルの塔とは、夢すなわち現実となる場所である

    自分の夢が叶ってしまうと人間がどうなるのか

    シュールリアリズムが大切なモチーフになる

    塔の入り口は人々の意識の暗がりである

    バベルの塔から脱出した主人公は夢見ることをやめ、腹が減ったと現実的なことを考える

    夢見ることの功罪が書かれているように感じた

    第3部

    第3部でも、ありえないことが展開されていくのに、そこに何かしらの意味があるように感じる

    壁が重要なモチーフとなっている

    魔法のチョークでは、壁が大切な役割を担っている、壁に描いたドアの外には世界の果てのような荒野が広がっていた
    その荒野は死であり、現実であるようにおもう
    その世界を壁とチョークを使って再構築しようとするが、失敗に終わる、そして主人公は壁の一部となって涙をながす、世界を変えるのはチョークではなくて、壁であると悟る

    壁は死よりも強いなにものかであって、それは夢であるように感じた。自分の夢は時には死よりも、抵抗も不可能なものであるものだと考えた
    夢想の危うさを表現しているように感じた

    最後の「事業」でも、ユートピアを夢想する人間を人肉にして食べてしまうという構図が無闇に夢想する人間には価値がないと言っているように感じた

    総じて、いろんな解釈ができる作品で、自分なりに読むことができて楽しかった

    新潮文庫の解説を読んで

    安部公房の壁と砂漠の同質性、内部と外部の同質性の発見が安部公房の独創性である

    そして、類似性の感じるカフカの作品との違いは、その軽重および明暗の相違で、はるかに軽く、はるかに明るい印象がある。それは作者自身の、人間が存在権を失った世界に対する態度の取り方の相違である
    文学作品とは、ある種の状況における作者の態度の取り方であるなあと考えさせられた

    また、壁を凝視することと果てなき荒野を旅することは同質であり、世界も自我の内部も壁に閉ざされている、つまり未来に向かってこみ無限の可能性をはらんでいる場であり、共に突破し、変革すべき対象でしかないという解釈が響いた
    未来へのベクトルが伸びている不条理な文学だと感じた

  • 頭がおかしい、馬鹿げてると思う一方で、妙な説得力を持った作品だとも思う。とにかくシュール。

  • 初めての安部公房。
    「既視感」のある小説だった。
    シュールレアリスムの世界である。
    またあらためて読み直したい。

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著者プロフィール

安部公房
大正十三(一九二四)年、東京に生まれる。少年期を旧満州の奉天(現在の藩陽)で過ごす。昭和二十三(一九四八)年、東京大学医学部卒業。同二十六年『壁』で芥川賞受賞。『砂の女』で読売文学賞、戯曲『友達』で谷崎賞受賞。その他の主著に『燃えつきた地図』『内なる辺境』『箱男』『方舟さくら丸』など。平成五(一九九三)年没。

「2019年 『内なる辺境/都市への回路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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