箱男 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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レビュー : 571
  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101121161

感想・レビュー・書評

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  • ◯大変面白いが難解だった。
    ◯なんとなく箱男という匿名性と、「見る、見られる」の関係性がテーマであるということは読んでいて分かったが、中盤以降顕著になる語り手の入れ替わりが難解であった。
    ◯この辺り、文庫本巻末の解説が非常に明快で分かりやすく、箱男という小説の面白さを増してくれる効果すらある。

    ◯個人的な感想としては、書かれた当時とは時代が経っていても、変わらずに現代を風刺していると感じた。ネットなどの匿名性文化がまさに箱男であり、覗き見ることの快感は共通して理解できる部分である。
    ◯人間の心理的な部分を独特の筆致で暴いている点が新しく、しかし人間の心理だけに普遍であり、とても興味深い普及の傑作。

  • 箱をかぶって生活する。

    社会生活に参加せず、箱の中で生活をする。
    いや、箱とともに生活すると言うべきか。

    箱男にとって箱はどんな価値を持っていたのか。

    衣服とも異なる。衣服は見る・見られると言う相互作用・間主観が生じるものの、箱の場合見るという機能は箱男に与えられ、他者は見られることのみであり見る事は与えられない。

    これは平岡解説の言う視点の交換、偽物と本物が入れ替わると言う価値の変化とも言えるかも知れない。

    そしてどうやら箱に入ると安心するようでもある。
    「すべての光景から棘が抜け落ち、すべすべと丸く見える。(中略)この方が自然で、気も楽だ。」(P.21 )

    箱は安心感の器、自分と他者・世界を隔ててくれる枠としての役割になるのかもしれない。

    箱と共に生活する箱男、そして箱の持つ機能・役割を考えると、「ひきこもり」という現象を想起させる。

    箱の中に避難し、自身の安全を確認する。多くの人は、毎回安心感がある場所に退避せずとも安心感は恒常性を保って外出したり、他者と交流したり、いわゆる社会生活を行う。

    しかし箱男は箱から出ることをしない。ライナスのようにブランケットを握り締めるよりもより強固な、安心感が保てるバリアがなければ自分を保つ事ができない。

    これはまさにひきこもりと同様の状態ではないか。

    「さなぎ」という言葉で箱男の心理が描写されるように、ひきこもりの心理もさなぎと例えられる事が多い。

    さなぎは撤退するためではなく羽化するための変態であって、ひきこもりもその人にとっての助走期間、人生の夏休みといえるのかもしれない。

    箱男も、若い看護婦と接した事でこの安心感の枠が揺さぶられる事になる。

    それは交流とも言えないほど低次元であり、おそらく箱男の妄想的知覚が主ではあると思うけれども彼の世界が大きく揺さぶられる事となった。

    やがて箱を捨てられるかもしれないという淡い期待がよぎる。

    『彼女との出会いで、もしやその機会をつかめたのかと、密かに期待していたのに・・』(P.64)

    箱男は看護婦に対して自分を無条件に助け出してくれて心的にも性的にも受け入れてくれると期待したのかもしれない。

    『小型精密機械』(P.122)のように言う事を聞いてくれる、望みを叶えてくれると信じたのだろうけども、病院の窓を覗きみたところで混乱が起きる。

    (偽?)医者と看護婦との親密(?)なやりとりを見た途端、医者を贋医者と評価し、贋箱男と認識する。

    おそらく、本当は自分(箱男)こそが看護婦を獲得するべきなのに立ちはだかった医者へ投影同一視が起きたのだろうとも考えられる。

    これ以降は場面が目まぐるしくかわり、関係念慮、妄想的知覚にエピソード、いわば支離滅裂な病理的な次元へ降りてゆく。

    どこで箱男を救えただろうか、などと考えるのは手前勝手ではある。しかし、少なくとも贋箱男と知覚した段階で何かできたのであれば、この後の物語もかわったのかもしれない。

    そして、実際のひきこもりも同じようにどこかのタイミングで何かできたのではないか、という局面があったのかもしれない。

    それでも、『全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話はまだ聞いたこともない。』(pp.14-15)のである。

    (間違っても無理矢理部屋から引き摺り出すのは悪影響しか残さない事をお忘れなく。)

  • 【始】
    これは箱男についての記録である。

    【終】
    救急車のサイレンが聞えてきた。

    読み進めていくうちに段々意味がわからなくなってきて、最後の方はやけくそでページをめくっていた。ただ、その意味のわからなさがやみつきになっている自分もいた。またちゃんと構造を把握した上で読み返せばもっと楽しめそうな気がする。

  • 安部公房って変人だと思う。それを興味深く読んじゃう僕も変人なのか。

  • 2017.3.11
    たまにはさらっと小説でも読もうと思ったらびっくり。めちゃくちゃ難しい。結局なんのことかさっぱりわからなかった。
    しかし、「見る」と「見られる」ということに関してなら、確かになんとなく、その底にある恐怖は理解できる。特に数年前に対人恐怖で外を出歩くのもきつかった時は、まさに見られることの恐怖というものを全身で感じていたし、今でもその傾向が弱まったとはいえ、人の中を歩くのはきつい。深夜に散歩するのは楽しい。私を見るものが誰もいないからである。
    話が飛んだり、よくわからない挿入があったりで、ほんとなんのこっちゃという小説なんだけども、面白くないわけではないのである。この魅力というのは、一体なんなのだろうか。
    対人恐怖症がきつかった時、サンブラスをかけていればきつくないことに気がつき、しばらくサングラスをかけて過ごしていたことがある。あれは一種の、箱男現象だったのではないだろうか。こちらの視線は相手には見えない、しかし私からは相手が見えるのである。一方的な関係、見られることなく、見るものである。だとするならば、私は見ていることが見られるということを恐れていたということになる。しかし箱男はもっと、徹底している。社会的属性も捨てて、何者でもなくなり、何者としても見られなくなり、ただ見るという立場に立つ。全てを捨てて得た特権階級。そのそこには、見られているという恐怖がある、他者の視線を浴びせられているという恐怖がある、他者の視線により判断されるという恐怖がある。
    「他者の視線が無を分泌する」「地獄とは他人である」と言ったのは、サルトルである。私のこの経験と、サルトルとの対話を通せば、もう少しこの小説が、腹に落ちてくるかもしれない。

  • 「考えてみると、しじゅう覗き屋でいつづけるために、箱男になったような気もしてくる。あらゆる場所を覗いてまわりたいが、かと言って、世間を穴だらけにするわけにもいかず、そこで思いついた携帯用の穴が箱だったのかもしれない。」

    この文章にさしかかったとき、わたしの脳裏には『窓辺で手紙を読む女』(女が手紙を読み更けている情景をカーテン越しに覗く鑑賞者ーフェルメールの筆によって、鑑賞者は墓場まで隠し通すはずだった欲求をまんまと暴露される)があった。あるいはディアーヌの沐浴、それならスザンヌの沐浴・・・この際主題はなんであろうとかまわないが、人類は繰り返し自身の覗き癖を告白してきた。「箱男」は、普通なら隠しておきたいその欲求を着て歩く露出狂なのだ。「箱」とはすなわち、彼の身体の延長であり、ファロスなのかもしれない。

  • 初めて読んだ安部公房。
    面白い!けど、覗き覗かれる視点が錯綜していて混乱する!
    段ボール箱をかぶってみたいと思ったけど、
    本を開いて物語を読んでいる自分も既に覗くという行為をしているのか...?
    と思ったらゾッとした。

    かなり実験的で初めて読んだタイプの本。かっこいい。
    しばらく時間を置いてからもう1度読み返したい。

  • 主体と客体が入り乱れ、
    主観と空想と現実が、
    どれも定まらずに定位置に置かれる。

    とてつもなく粘ついて臭いのに、
    とてつもなく無味無臭な感覚が宿り、
    文学なのに視覚的で、
    静止画なのに動画の反乱のようだし、
    小説なのに舞台のよう。

    だから安部公房に惹かれてやまない。

    言葉がわかりやすいことと、
    内容がわかりやすいこととは同義ではない。

    「言葉の壁と 官能の海」

    こんなことをさらりと並べてしまえる人はいるか?

    突き詰めて、実存の物語。

  • 安部公房は、言語の使い方が常人と違う。
    語感だけで小説を書き上げている。
    適当なページをパッと開いて、一文を読んだだけで、瞬時に箱男の世界が蘇る。物語を持った一文一文が集まり、その集大成として、ストーリーを超越して、何万もの語感が大きな世界を形成している。

    本作「箱男」は表題通り、目の部分だけを切り取ったダンボール箱を被って生活する男の話である。
    見る、見られるという関係性がテーマになっていたようだが、ただただ難解で圧倒されて終わった。でも、読み終わってじっくりと考えて見ると、辻褄が合ってくる部分もある。

    「見られる」ことから解放されると、「見る」行為によって見える世界が変わる。
    これはわかる。見る側にはある種の優越感があり、見られる側には劣等感がある。目の前で対峙して見るのと、覗き穴から一方的に見るのとでは、同じ見るという行為でも気持ちが違う。

    透明人間になって街中を歩いたら、一方的に「見る」側になるわけだが、見え方は違うものだと思う。もっと身近な所だと、サングラスやマスクで「見られる」ことから解放されればされるほど、「見る」行為へ割くエネルギーが増すし、「見られる」ことによるイヤなプレッシャーから解放される。
    本作でも言っているように、見るのは良くても、見られるのはイヤなものだ。

    箱男は、見られることを完全に断ち切った人間である。
    目抜きのダンボールは、「見られる」という外界からの働き掛けを完全に遮り、「見る」という外界への働き掛けだけを手に入れた、究極の武装と言える。
    逆に、箱男を相手にした人間は、「見る」ことを許されず、一方的に「見られる」というプレッシャーを受け続け、さぞ居心地が悪いだろう。

    言い換えれば、箱男になることで、世界の全てのものを覗き穴から見ることが出来る。つまり、透明人間になったのと同じことが起きるのだ。周りの人からしたら、目には箱が見えるのに、彼を「見る」ことができず、「見られる」ままである。これは面白い。

    しかし、箱から見える世界が外界とすると、箱の内側のスペースは、一体何だろう?箱の内側は、箱男にしか見ることができない世界である。この世に自分しにか見えない世界など、他にあるだろうか?おそらく、箱の内側に形成された世界というのは、箱男になる事でしか手に入らない世界なのである。透明人間になっても、手に入れることは出来ない。

    箱男の物語は、箱の内側に綴られた落書きであった。箱男になる事でしか手に入らない世界に記述された物語である。
    一方的に「見る」ことだけを手に入れた者にしか読めない物語であり、箱男の物語というのは、他のいかなる者にも語り得ないことなのである。

    作中に、贋箱男と本物の箱男とが登場するが、物語を書いている当人が箱から出ない限り、物語中の箱男は本物ということになるのではないか。(書き手は他の人に見られた事がないのだし、そもそもこの物語は書き手にしか見えない世界に書かれている。したがって、この物語が他の人によって書かれているということはない。)

    また、本物と贋物との矛盾と言っているのは、その箱男が物語中に登場している点なのではないか。箱男の物語に、箱男が登場人物として登場している時点で、彼は書き手から「見られている」ことになる。
    この物語の書き手は、自分にしか見えない世界で物語を書きながら、一方でその物語に箱男を登場させてしまった。
    見られることを断ち切った箱の内側で、外界から見られるという構図を再現してしまったのだ。
    これが、矛盾の指している現象なのではないか?

  • 初読は高1の頃だったが、本を読んで、「なんじゃこれー」と思ったのを覚えている。このなんじゃこれーを理解したくて安部公房にハマったきっかけの本でもある。実験的な小説とでもいうのだろうか。兎に角、何が書いてあるのか、個々の記述間の繋がり、物語の筋がよく分からなかったのだ。その時は、文庫版の平岡氏の解説を読んで、何となく分かったような気にはなったのだが。

    それから4年経って、多分今回で3読目。特に終盤に顕著だが、読者に、目まぐるしく転換する場面を次へ次へと読ませようとする勢い、物語を駆動させようとする勢いが圧倒的だと感じた。うーん、流石に本物は違う。

    物語の核となる、見る者と見られる者の非対称な関係。「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。」自分自身の実感から言っても、こういうことは確かにあると思う。町中でも、誰かの視線を意識すると居心地が悪くなるものだ。冬などにマスクをして、顔を隠すとどこか気が楽になるというのもその類型だろう。顔を見返されることなく、一方的に相手を見ることができるのだから。見る(見返す)ことができずに見られるという状況は、背中を相手に晒すという状況にも対応するだろうが、背中にはその人の無意識が現れているからどこか危うい、という小池昌代のエッセイを思い出した。
    追記(2020/9/29)
    「見るー見られる」の非対称性をミシェル・フーコーも研究していたことを今日初めて知った。尤も、その文脈は本書のものと若干違うかも知れないが。以下、『現代思想のパフォーマンス』p.168からの引用。「観察する側は、あえて実力(たとえば暴力)を使わなくても、相手を「見る」だけで、その言動をコントロールできること。(略)観察される側もまた、すぐに観察される側にまわってしまうこと。」

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著者プロフィール

安部公房
大正十三(一九二四)年、東京に生まれる。少年期を旧満州の奉天(現在の藩陽)で過ごす。昭和二十三(一九四八)年、東京大学医学部卒業。同二十六年『壁』で芥川賞受賞。『砂の女』で読売文学賞、戯曲『友達』で谷崎賞受賞。その他の主著に『燃えつきた地図』『内なる辺境』『箱男』『方舟さくら丸』など。平成五(一九九三)年没。

「2019年 『内なる辺境/都市への回路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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