小説に書けなかった自伝 (新潮文庫)

  • 新潮社 (2012年5月29日発売)
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  • 本 ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101122298

感想・レビュー・書評

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  • 新田次郎(長野県上諏訪新田村の次男坊として生まれたことに由来するペンネ-ム)が、中央気象台(現:気象庁)に就職し、妻子と満州国への赴任、ソ連軍捕虜としてシベリア抑留、艱難辛苦のなかで文筆活動を続け、懸賞小説『強力伝』で直木賞受賞、職場での冷ややかな視線、山岳小説家というレッテルに抵抗しながらも、事実を下敷きに幾多の代表作を紡いだ、新田文学誕生の自伝随筆。『流れる星は生きている』の藤原ていサンによる「わが夫 新田次郎」と『若き数学者のアメリカ』の藤原正彦サンによる「父 新田次郎と私」の寄稿文が、堅実公正の人柄を偲ばせる。

  • 作家デビューに至るまでの経験を総括しているのではないかと思います。
    二足の草鞋を履く・・・本名:藤原寛人さんは、気象庁の技術者でありながら、小説を書き続けました。富士山頂の測候所に携わっています。中でも、以下の文言が印象的です。
    この小説は、昭和52年1月に発行(今は絶版になっています)されており実に戦後30年以上を経てから発表となります。何故、この体験を書かなかったのか?については不明ですが、「小説に書けなかった自伝」には、こう記されています。

    ※以下引用
    『「望郷」のでき不出来よりも私はこれを書くことによって憑きものを落としたかった。
    私にとっての終戦後の一か年間は十年にも値するほど長かった。引き揚げてきてもなにかの折にその当時の夢を見てうなされた。(中略)「望郷」を書いている最中には毎夜のように当時の夢を見た。しかしこれを書き終えてしまえば夢は見ないだろうと思った。その期待は見事に裏切られた。憑きものは落ちないどころかむしろ忘れかけていた苦しい思い出がよみがえって、夢見はいっそう悪くなった。』
    ※引用終わり

  • 正直な人、正義感溢れる人。彼の問題意識は、素敵。

  • 新田作品は、雑誌で映画の紹介をしていたのを見て「劒岳〜点の記」を手に取ったのが初めてです。それから数冊読んで、この本に至りました。
    新田氏の文学の歴史が詰まったような作品であって、氏の人柄が垣間見えるものだと感じます。
    処女作からまた作品を読み返してみたら、最初に読んだ時と違う情景が浮かぶかもしれません。
    特に退職前後の話が印象に残りました。

  • ・悪い点は誰かが指摘するから、努めて良い点を指摘する方に回る(八木義徳)
    ・小説屋であったことは職場でもみんな知っていた。役所では言動を慎み、小説のことは噯気にも出さないようにする。仕事も人一倍熱心に勤めた。人の目は厳しい。麻雀で夜更かししての翌日の会議で居眠りは許されても、復業での居眠りは許されない。11時までには寝る。

  • 新田次郎の作品は読んだことがないのだが、正社員として働きながら、やりたいことを成功させるためにはどうしたら良いか、何かヒントを得たくてこの本を読んだ。
    感想としては、新田次郎の誠実性と体力に感服するばかりだった。
    正社員としてのハードな勤務の後での小説家としての二足の草鞋をここまで完璧にこなす人はいないんじゃないかと思ってしまう。
    自分もこんな風にできるかといったらきっとそうはいかないだろう。
    それでもやってやろうというパワーはかなり湧いてきた。
    新田次郎のようにそれを成し遂げたひとがいるのだ、それも40にもなるといった年齢で。
    年齢を重ねるごとに体力的にも世間的にも諦めなければならないことが増えていくといった風潮の中で、新田次郎の姿は英雄であり希望だ。
    単にがむしゃらに小説を書いていたわけではない、徹底した取材や、投稿作家時代などには他の作品からの勉強をする姿勢など、その誠実性には本当に年齢を感じさせないし頭が下がる思いだった。

    今度新田次郎の作品を読んでみようと思う。

  • 作家、新田次郎の誕生物語。昭和五十一年執筆。「流れる星は生きている」、「ヒコベエ」と時代的に繋がっている。

    著者のの作品では、学生の時に「孤高の人」を読んでえらく感動した記憶があるが、それっきりだった。著者こだわりの富士山ものを読んでみたくなった。

  • 新田次郎の小説は昔よく読んだが、小説家としてこのような苦悩や葛藤を背負っていたとは思わなかった。

    新田次郎と言えば一連の山岳小説が有名だが、小説を書くきっかけになったのは、「給料が少なかったので金を稼ぐため」で、本業である気象庁の仕事と小説執筆を両立させながらも、時に同僚から陰口を叩かれ傷ついていたこと。小説家一本に絞るために54歳で気象庁に辞職願を出したとき、本当は仕事を続けたいという気持ちから、不眠症になったということ。

    「孤高の人」で、登山家と船の設計技師という2つを両立させていた加藤文太郎の描写に妙にリアリティがあったのは、作者のこうした背景があったからかもしれないと感じた。

  • 烏兎の庭 第四部 書評 9.8.12
    http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto04/bunsho/siro.html

  • 「強力伝」で直木賞を受賞し、代表作は「孤高の人」。山に関する多くの小説を残してきた著者の自伝。小説家と編集者との関係を赤裸々に書いているのがおもしろい。

    著者は直木賞受賞後も、役所勤めと小説家の2足の草鞋を20年間はき続ける。17時に退社し、帰宅して19時から書斎にこもる生活。小説家になるには、技術や才能もさることながら、本人の作品に向かう集中力と職場や家族の理解が何よりも重要だ。

    小説家としては、全集を発表するほどの作品を残し、気象庁職員としては、富士山気象台に巨大レーダー建設の実績を残す。そして、父としては、ベストセラー「国家の品格」の著者である数学者の藤原正彦を子孫に残す。この自伝からは自身を誇る感情を表してはいないが、実直に自分の役割を果たす古き良き時代の日本男子の精神を感じる。

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著者プロフィール

新田 次郎(にった・じろう):1912-80年。長野県上諏訪生まれ。旧制諏訪中学校、無線電信講習所(現在の電気通信大学)を卒業後、1932年、中央気象台(現気象庁)に入庁。1935年、電機学校卒業。富士山気象レーダー(1965年運用開始)の建設責任者を務めたことで知られる。1956年『強力伝』で、第34回直木賞受賞。1974年、『武田信玄』ならびに一連の山岳小説に対して吉川英治文学賞受賞。

「2024年 『火の島』 で使われていた紹介文から引用しています。」

新田次郎の作品

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