沈黙 (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101123158

感想・レビュー・書評

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  • 1.著者;遠藤氏は小説家。12歳の時に伯母の影響でカトリック協会で受洗。日本の風土とキリスト教の対峙をテーマに、神や人種の問題を書き、高い評価を受けた。「白い人」で芥川賞、「海と毒薬」で新潮文学賞・毎日出版文化賞、「沈黙」で谷崎潤一郎賞・・等を受賞。「狐狸庵山人」の雅号で軽妙洒脱なエッセイも多数執筆。ノーベル賞候補に上がる程で、今でも読み継がれている作家の一人。
    2.本書;「神の沈黙」を主題にした歴史小説。江戸初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人司祭(ロドリゴ)を主人公に「神と信仰」を問うた名作。出版当初は、カトリック教会からの批判と反発が非常に強かったそうです。とは言え、「沈黙」は、13か国語に翻訳され、戦後日本文学の代表作と言われる程、高い評価を得ています。某読書会のコメントです。「この作品は作者が人生をかけた渾身の一冊。物語としてもドラマチックで非常に魅力的」である、と。
    3.個別感想(印象的な記述を3点に絞り込み、感想を添えて記述);
    (1)『第Ⅳ章;セバスチャン・ロドリゴの書簡』より、(ロドリゴ=主人公)「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められる事に耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ」
    ●感想⇒世の中には、「強者・聖者・英雄」よりも、「弱者・平凡・英雄に畏怖する者」の方が多いと思います。私も後者に入ります。負け惜しみかも知れません。私は、体力や経済的な強者よりも、精神的な豊かさのある人になりたいと思うのです。恩師の言葉です。「人間の中には、“成功したのは自分の努力だ”と、天狗になる人がいる。何事も一人では限界がある。有形無形の支援あればこその成功だ。人に対する恩を忘れずに、人を慈しみ弱者に寄り添う心が大切だ」と。人の気持ちを理解し、寄り添える心を持つ方法は、人生の師・宗教・書物・・等で学ぶ事。精神的豊かさを養う為に。但し、師匠や宗教に教えを乞う前に、自分で勉強し、経験を積んで自らの哲学(人生観)を形成するべきだと考えます。
    (2)『第Ⅶ章』より、(フェレイラ=ロドリゴの恩師)「この国(日本)で我々の建てた教会で日本人達が祈っていたのは基督教の神ではない。私達には理解出来ぬ彼等流に屈折された神だった」「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない」「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在を持つものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」
    ●感想⇒NHKの「日本の信仰調査」によれば、“無宗教→49%、宗教を信仰している→39%(仏教→38%、キリスト教系→0.9%)”。他の調査でも、日本は人口の29%が神を信じていない無神論者。中国に次いで世界第二位と多く、日本人の信仰心は薄いと言えます。キリスト教を布教し難い国かも知れません。私が以前ブグログに載せた「日本人とユダヤ人」(イザヤベンダサン)に興味深い記述がありました。「日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間(人間性・人間味)を基準とする宗教。この宗教は、人間とはかくあるべきだとはっきり規定している」。ロドリゴは、「最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む」と踏絵し、背教。彼は、日本的な心の持ち主かも知れません。
    (3)『第Ⅷ章』より、(フェレイラ=ロドリゴの恩師)「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声(穴吊りにかけられた信徒たちのうめき声)に、神が何一つ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかった」「お前(フェレイラ)が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、縄もとき、薬もつけようとな。・・彼等(信徒)はもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけには行かぬと」
    ●感想⇒大変悩ましい問題です。信徒達を餌に棄教を迫る役人の卑怯さは筆舌に尽くし難い暴挙。信仰している神に助けを求めても、神は「沈黙」したまま。フェレイラには二者択一の方法しかない。悩んだ挙句、棄教して、百姓達を助ける。彼は、百姓の命を救う為に、教会を裏切り、教会の汚点となったのです。この決断の評価は難しく、意見は分かれるでしょう。私は、「世の為、人の為に役立つ人になりなさい」と常々教えられました。従って、私はフェレイラの人助けによる棄教に賛成です。宗教は、人を救済するために存在するとすれば、「物言わぬ神」よりも正義を貫く人に喝采を送りたい。フェレイラは、棄教により重い十字架を背負い、心の悩みに苛まれたと思うと、心が痛みます。
    4.まとめ;重い精神小説です。無神論者の多い日本で、果たしてキリスト教は意味を持つのかを考えさせられる小説です。先の感想でも述べたように、日本人はベンダサンの言う、日本教の信者であり、「神よりも先ず人間」である事を行動規範にしているのかも知れません。イエスの言葉です。「踏むがいい。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。その為に私はいるのだから。私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいた」。ここで、棄教したロドリゴは踏絵を踏む事で自分の信じる神の教えを理解します。私は、遠藤氏の日本人としての心根を見た思いです。感動に浸りました。(以上)

    • ダイちゃんさん
      村上マシュマロさん、今晩は。ダイです。丁寧かつ分かり易いコメントを頂き、有難うございました。参考になります。「世の為、人の為」と、偉そうな事...
      村上マシュマロさん、今晩は。ダイです。丁寧かつ分かり易いコメントを頂き、有難うございました。参考になります。「世の為、人の為」と、偉そうな事を書いてしまいました。問題や課題に際し、この事を判断基準にしたのは事実です。結果が良かったか、悪かったか・・・?マシュマロさんの「プラス様々な人の傾聴かな」、良い言葉です。私は反省しかり、気をつけます。レビューを書くに当たり、「沈黙」を再読しました。難しい本でしたが
      、マシュマロさんのコメント、励みになりました。今後ともよろしくお願いいたします。
      2022/08/17
    • 村上マシュマロさん
      こんばんは、ダイちゃんさん。村上マシュマロです。コメントの返信をどうもありがとうございます。お礼が遅くなり、申し訳ありません。
      こちらこそ今...
      こんばんは、ダイちゃんさん。村上マシュマロです。コメントの返信をどうもありがとうございます。お礼が遅くなり、申し訳ありません。
      こちらこそ今後ともよろしく宜しくお願い致します。
      残暑が厳しいのでどうぞご自愛下さいませ。
      2022/08/17
    • ダイちゃんさん
      返信コメント頂き、恐れ入ります。終息感なきコロナと国際情勢。ご自愛を。
      返信コメント頂き、恐れ入ります。終息感なきコロナと国際情勢。ご自愛を。
      2022/08/18
  • ブクログ内での評価も高く、手にしてみましたが、大満足の一冊でした。

    時は島原の乱(1637-1638年)が鎮圧された頃の江戸初期。

    キリシタンへの弾圧が強まる中、命をかけて日本に渡ったポルトガル人ロドリゴの物語。

    隠れキリシタンとなった日本人に対して行われる容赦のない取り締まりで捕らえられた信徒に待つのは残忍な拷問。

    逃げまどうロドリゴも信徒に裏切られ囚われの身に。

    神は何故助けてくれないのか?

    何故何も言葉をくれないのか?

    苦悩するロドリゴは徐々に自ら神に対して疑心を抱くようになる。

    私自身もそうですが、日本人は世界的にみても宗教とは少し距離を置いた人種だと思います。

    神よりもどちらかと言えば先祖を祀り、亡くなった人のために経をよむ。

    キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・ユダヤ教等々、世界には多くの宗教が存在し、多くの信徒がいます。

    もちろん日本人の中にも熱心な信徒の方もたくさんいらっしゃるのも理解しています。

    本作はキリスト教が中心の為、本作での「神」=「イエスキリスト」なのですが、「神」とは何なのか?

    弱い人間を導き、道を示してくれる導師?

    人々が苦難の時、迷い、悩んだ時、「神」は人々を救うために何かを語ってくれるのでしょうか?

    「沈黙」

    すごくすごく深い作品でした。


    説明
    「転びキリシタン」もまた、「神の子」なのか?
    カトリック作家が描く、キリスト教文学の最高峰。

    島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。
    神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。

    著者の言葉
    長崎で見た、踏み絵の木枠についた指の跡のことを、東京へ帰ってからも私は忘れられませんでした。夕べに散歩する時、夜に酒を飲む時、黒い指跡が目に浮かびました。
    そして三つのことを考え続けたのです。ひとつは、踏み絵を踏んだ時の気持ち。次に、踏んだのはどんな人だったろうか。そして、私がその立場にたたされたら踏むかどうか。
    強い信念を貫き通すより、踏む可能性の方がはるかに高いと思ったな。拷問は苦しいだろうし、やはり家族まで殺されるのは可哀そうです。私は弱虫なのです。これは、今日会場にいらっしゃるみなさんの三分の二は私と同じだろうと思う。
    小説というのは、やみくもに書くのではなく、自分の視点から書くものです。そして『沈黙』は、〈迫害があっても信念を決して捨てない〉という強虫の視点ではなくて、私のような弱虫の視点で書こうと決めました。弱虫が強虫と同じように、人生を生きる意味があるのなら、それはどういうことか――。これが『沈黙』の主題の一つでした。(「波」2016年10月号、講演採録より)

    本書「解説」より
    主人公の必死の祈りにもかかわらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままである。果して信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は、本当に存在するのか、と。
    これは、キリスト教徒にとっては、怖ろしい根源的な問いであり、ぼくら異教徒の胸にも素直にひびいてくる悩みであろう。このモチーフを追いつめてゆく作者の筆致は、緊張がみなぎり、迫力にあふれていて、ドラマチックな場面の豊富なこの長篇の中でも、文字通りの劇的頂点をなしている。
    ――佐伯彰一(文芸評論家)

    遠藤周作(1923-1996)
    東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごす。神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て1955年「白い人」で芥川賞を受賞。結核を患い何度も手術を受けながらも、旺盛な執筆活動を続けた。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品や歴史小説、戯曲、映画脚本、〈狐狸庵もの〉と称されるエッセイなど作品世界は多岐にわたる。『海と毒薬』(新潮社文学賞/毎日出版文化賞)『わたしが・棄てた・女』『沈黙』(谷崎潤一郎賞)『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』(読売文学賞)『侍』(野間文芸賞)『女の一生』『スキャンダル』『深い河(ディープ・リバー)』(毎日芸術賞)『夫婦の一日』等。1995年には文化勲章を受章した。

  • 初出1966年。自分が生まれる前。
    それでも堅苦しさを感じさせず、暗くつらい物語だったけど挫けず読み切った。自分を褒めたい。
    ただ最終章は一転、書簡のみの記述になる。「〜〜候」「〜候し〜候ありて〜申し候」と候100回くらい言われもうどんだけやねんとツッコミ入れたくなる。どうやら後日談のようで、主人公の信仰心がなんとか神の御許に召されたのかなと雰囲気で理解した。

    ゆるふわ系仏教徒としては、キリストの教えはほぼ門外漢。以前に、傑出したコミック『チ。』を読んだ時の予備知識にも助けられた。
    その共通点はただ一つ、宗教の迫害は痛ましい。という事実だ。集団が集団を変えようとする時、人を変えようとする痛みの何倍もの負のエネルギーが発生する。アメリカが、中国IT企業やアプリを締め出したのも実は紳士的で理性的だったと思えるほど。集団の本性は残虐だ。

    苦しみに満ちた現世を清らかに生きる術が宗教だとしたら、これほどの倒錯もない。そして、このストーリーにして下記の一文は難解すぎる。


    ── 罪とは、人がもう1人の人間の人生の上を通過しなながら、そこに残した痕跡を忘れることだった─

    神はすべてを覚えたもうか。
    あるいは空に帰すものか。
    色即是空、空即是色。
    毎日拝んでいても、死者だけが覚えてくれているのかもしれない。それで満足できない自分も確かに居る。


    信仰はわからん。
    まだまだ苦しみ足りない私に、扉は閉ざされて沈黙したままだ。

  • 今年の新潮100冊、最後の4冊目。
    プレミアムカバーだったので選んだ。
    「罪と罰」と並読していたのだが、あまりにも胸が痛むし、悲しい未来しかみえないしで、どんどん読む手が遅くなった。
    結局1ヶ月以上かかった。

    キチジローは強くないかもしれないが、弱いとも思わない。
    他人の命を売るなんて、ただ弱いだけの人間にはできない。
    神経の図太さとあわせても、彼はたくましい人間だ。
    司祭はただただ気の毒。

  • 「なんのため、こげん責苦をデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなにもわるいことばしとらんとに」

    キチジローの偽らざるごくごく素朴な問いが、通奏低音のように物語を貫いている。

    人々を救うべき信仰が、人々の命を奪っているのなら、もはや悲劇であり滑稽ですらある。

    それでも神は沈黙していただけではないと言えるのか?自分の理解はそこまで及ばなかったけれど、人生の一冊に出会えた気分です。

  •  人に絶対勧めたい本を★5つにすることにしている。
     この本、本当にありとあらゆる力のこもった凄まじい本だったから、印象的には★5つなんだけど、でも、絶対勧めるかというと、うーんまぁ勧めたいけどけっこう読んでてしんどかったから、微妙なところ。
     そういう意味での★4つ。

     どんなに辛い状況になっても、当然のように何もしてくれないし、何も語りかけてくれない神。じゃあ本当にいるの?もしかしていないの?神なんか本当はいませんでしたってなったら、神を信じて全てを捧げてきた自分という存在はいったいなんなの?そういう絶望が、一般人じゃなくて宣教師という立場から描かれているという点で余計に深刻度を増していて、辛かった。
     神様の存在をいちばんに考えて生きてきて、それが何よりの自分のアイデンティティになっている。それを放棄することがどれだけ大変で苦しいことなのか。そこまで強く持つ信念ってなんなんだろうって考えた。今のわたしにそんなものないし、死ぬような思いをしたり拷問されたりしてまで守りたいものって全然ない。やばそうになったらたぶん全体的に平気で捨てるんだろうと思う。
     だからこういう人たちの思考回路は全く未知の領域で、ただただ目から鱗っていうか、そういう世界もあったんだな、って想像するのが精一杯だった。

     大学のとき、哲学概論かなんかの試験で「哲学と宗教の違いは何だと思うか」っていう問題が出て、「宗教は盲目的だけど哲学はそうじゃない」みたいなこと書いてそれだけ丸をもらえたのを今でも覚えている。あの先生の名前なんだったっけ。「先生は哲学なんかを長い間ずっとやっていて、もしかして実は物凄いお金持ちで何もする必要がない人なんですか」って聞いたら笑ってた、ハイデガーの第一人者みたいな感じの教授。田中なんとかさん。
     結局、それが神様であっても何か目に見えるものとか存在であっても、わたしは何かに盲目的に自分の全てを捧げる人生は嫌だなって思う。少しでも疑いを持ってしまったり、失ってしまったりした瞬間、自分のそれまでの人生が選択権なく否定されることになるし、自分の芯みたいなものが一瞬で全部ポキって折れてなくなるし。全面的に何かにもたれかかってれば楽だけど。でもそのもたれかかれるものがなくなっても、結局生きていかなきゃいけないし。
     って書いてて思ったけど生きることへの執着がすごい。とりあえず生きていきたいんだなわたしは。
     それはそうと。
     元気なくなったときにちょっと勇気づけてくれるもの的な感じで頼るのはありかなって思うけど、宗教への関わり方として果たしてそんなんでいいのかって気もするし。だからたぶんこれから先も宗教とは関わりのない生き方をするんだろうな。

  • 罪悪感で苦しむ人にオススメだと自分は思いました。
    恥ずかしい話、自分は過去に恋愛で部活の人間関係をめちゃくちゃにしてしまったことがあります。そのことに関して10年経っても悔いて罪悪感に苛まれています。
    そんな自分はこの作品に出てくるキチジローに共感してやまないのです。
    この作品は鎖国中の日本に密入国した宣教師ロドリゴがキリシタン禁制による残忍な拷問や奸計を前にして神の存在に疑問を抱いていく話です。
    そのなかでロドリゴの前に度々現れるキチジローはキリシタンでありながら軽い拷問に恐れをなしたり、欲に眩んで何度もキリスト教を捨てては出戻るやつです。そんな彼の家族もキリシタンです。実は家族まとめて引っ捕らえられたときに彼だけはキリスト教を捨てて生き延び、兄妹は火刑に処され殉教したという過去が彼にはあります。
    自分の命可愛さに背教し、同時にキリスト教と身内を見捨てて逃げたという後ろ暗さを経験したキチジロー。彼の言い分は、自分は弱い人間として産まれたから殉教なんて強い意志を必要とすることはできないとのことです。はたから見たらとんだクズ野郎ですが、なぜか憎みきれない。むしろ共感のような他人事として見れない複雑な思いを彼に対して持ってしまう。
    それはキチジローのいう弱いゆえに逃げるのは仕方がないじゃないかという甘えを読者である自分も経験しているからなのかもしれません。自分は弱い人間だから逃げてしまうのは仕方ないんだ、だから許してくれ!という言い訳。そしてこの逃げ口上は相手に対しても自分にとっても十全なものとはならないことを、同じ経験をした人ならわかるんじゃないでしょうか?
    十分でないからこそ、反省したと思っても同じ過ちを繰り返してしまう。自分でいえば仲間の大切さをわかりながらも、我欲のために壊してしまい、そのたびに自分を弱い人間に見せて被害者のような面をしながら逃げてしまう。若気の至りといえば可愛いですが、それで仲間の輪を拠り所にしていた人たちからしたら本当に迷惑です。
    自分の意志の弱さとでも言えばいいのか、それを自覚的な人間にとってはわかっているのに直せず過ちを繰り返して苦しみを増やす気持ちが痛いほどわかります。そして、そこで同じように出口のない苦役の山を迷うキチジローを見るとこの苦しみは自分独りではないという不思議な気持ちになります。それは物語のなかでロドリゴが見出すものに近いのではないかとも思えます。
    苦しみのなかにいる人に寄り添うような、そして出口はないがただただ隣人と共にあるという安心とも言える感覚を感じる読後感でした。

  • 時代は、島原の乱鎮圧後、切支丹禁制厳しい鎖国日本。ポルトガルの若き司教達が、残された教徒の為、密入国を企てる。

    その一人、ロドリゴ司教の書簡の形をもって、物語は語られる。

    当然、信徒も救えぬ、過酷な状況が待ち受ける。
    「救い」とは、信仰の懐疑。
    「沈黙」を続ける神。
    キリスト教のみでなく、全ての信仰の限界点。

    役人に対峙した、パードレ・ロドリゴは言う。
    「強制的な情愛の押し売り」かと。
    そうなのだ。一神教は他宗教を認め難く、他国でも、その地の教会を破壊したりしてきた。
    布教された他国は植民地化されたりもした。
    日本でも、日本人を奴隷として引き渡すことさえあったという。

    役人は言う。
    「日本は沼地なのだ。布教の根は腐る。」
    日本は、西欧が考えていたものとは、違うであろう、

    文化歴史、宗教観とも確立したものがあった。

    随分若い頃、一度読んでいる。その時は、強固な信仰心に、改宗の強要に屈しない強さに、感動したが、拷問表現の凄惨さに、最後まで読めなかったと思う。

    最後にロドリゴ・パードレは
    神は沈黙していたのではなく、一緒に苦しんでいたと悟る。しかし、それは敬虔な信仰と過酷な経験を経ての悟りであろうと思う。私には「沈黙」が続いている。

    感想と感情が入り混じってしまうが、著者が洗礼を受けた信者でありながら、信仰に対する疑問を投げかけ続けているのは、キリスト教を日本にカスタマイズしたかったのではないのかと思ったりする。

    日本人の希薄な宗教観の批判を時折聞くことがあるが、薄いだけでなく、広いところに良さがあるのでは、と思うのよ。

    l

  • 「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
    「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」
    「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」
    「あなたが20年間、この国でつかんだものはそれだけですか」
    「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなづいた。(236p)

    映画を観たので原作を紐解いた。どうしても確かめたかった点があったからである。それは後述するが、フェレイラとドロリゴの対決場面や井上筑前守との対決場面は、基本は映画と同じで流石に詳しく描かれていた。

    この会話は、加藤周一の「日本文化史序説」を読んでいる私には頷く所の多いものだ。日本の「土壌(文化)」には、確かにそれがある。しかし、それと日本人一人ひとりにその能力が有るか無いかとはまた別問題であるし(実際に「ホントの神」を信じた宗教家は何人かいる)、ましてやそういう文化的土壌があるからといって、人間の思想を権力が強制・弾圧するのは言語道断ではある。と、370年後の私が言っても仕方ないのだが。スコセッシ監督は、台詞をかなり選んではいるが、原作にかなり忠実であったことを確認した。問題のキチジローの描き方も、彼の存在そのものの解釈は様々に出てくるかもしれないが、基本的原作に忠実であった。

    「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました」
    「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
    「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
    「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」(294p)

    私の解釈は、キチジローはやはりロドリゴの揺れる心の分身であったのだ。

    映画ではロドリゴの日本人妻が彼の葬式時に密かに聖像を含ませた。紐解いて確かめたかったのは、これは原作にもあるのか、ということだった。「あれは妻を教化するほど、信仰を捨てなかったことだろう。あの場面の意味をどう考えるか、でこの作品内容は大きく変わる」という映画仲間もいたほどだ。結論からいえば、あれは映画のオリジナルだった。しかし、

    聖職者たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日(こんにち)までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。(295p)

    このラストのロドリゴのモノローグを映画的映像に「直した」のが、あの場面であったことがわかるのである。

    無神論者の私が映画の時に感じた「一般的な思想弾圧」に対する感慨は、原作の時には微塵も感じることができなかった。純粋にキリスト教について、私は様々な感慨を持った。そしてそれこそが、おそらく小説と映画との違いなのだろう。

    2017年4月13日読了

  • 舞台は島原の乱後の五島列島におけるキリスト教の布教活動と先に日本に渡った恩師の安否確認のためにローマ教会からくる司祭の物語。最終的には棄教という選択を選ぶことになるが、それまでの葛藤の心理が臨場感溢れている。当時の日本がいかにして異教を排除していたかが分かる。踏み絵のことは授業で習っていたが、本当の意味でこの本を読むことで理解できる。穴吊りという拷問は本当に恐ろしい。

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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