イエスの生涯 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123165

感想・レビュー・書評

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  • 私が今まで読んだイエス・キリスト関連の本の中で、私が今のところイエス・キリストについて想像していることと一番近いなと思った。
    遠藤周作はキリストという縁遠い洋服を自分の身体に合うように和服に仕立て上げたから、硬派な洋服のキリスト教の人に批判されたりもしていたらしい。
    私も「奇跡の話ってイエスの凄さを訴える為の宣伝用に膨らませた部分だろ」とか「復活ってイエスが死んでしまったことに耐えられなかった人たちにとってイエスがかなり実感を伴ったイマジナリーな存在になったってことじゃ…」とか思っているから、硬派な洋服のキリスト教の人からすると、本当にはキリストを理解できていないということなんだろうなと思った。

  • 面白い。もっと知りたくなる。

  • 自らもクリスチャンである遠藤周作氏が信仰の対象である神の子「イエス」の軌跡と歴史考察を踏まえイエスの実像に迫りその心情を捉える。

    日本人にとって宗教そのもの自体が解り難い。信仰が思想や信念に根差したものである以上、幼少期から血肉に刻み込まれないと肌感覚では掴めない。そうした点も踏まえ遠藤周作氏は日本人に向けたキリスト教観、「和装のイエス」を啓蒙するために小説という手法を用いているように思う。「イエスの生涯」を遠藤周作氏の言葉を借りて言うならば「愛に生きた人」である。即効性を求める日本人に対して「ただ寄り添うてくれる人」の存在と意義を著者は伝えようとしている、そこには自身の信仰への迷いも伴いながら。

    遠藤周作氏は、彼のこうしたカトリックの視点がノーベル文学賞候補から外れるきっかけになったらしいが、何か主張とテーマを持って書き続けるというのは作家としては正しく素晴らしい姿だと個人的に思う。

  • イエス・キリストは好き嫌いで語れないけど、ナザレのイエスは大好きになった。

    イエスとはイエズア Jeshouahであり、当時、腐るほど沢山の人に付けられていた名前。呼び名も容姿もごくごく平凡だった。
    人間なるが故、大衆が期待する奇跡もない。それゆえ民衆は去り、弟子たちすら保身が勝り立ち去る。ユダすらも平凡な苦悩するひとり。
    2000年たった今でも、人間そのものはナザレのイエスが生きた時代と何ら変わらない。

    弱虫、卑怯者、駄目人間。そのくせ「仕方がなかったのだ」という自己弁解しながら最後の瞬間、師を見棄てる。そんな弟子たちが、何故、強い意志と信仰の持ち主になったのか?
    この「なぜ」という問いこそが、読んだ経験もない聖書のテーマなんだと霧が晴れる様に心に入ってきた。

    イエス・キリストは知らないが、ナザレのイエスは、悲しみの人であり切ない人であったのだろうと、感じた。

  •  イエスが育ったナザレの街でイエスが見たものは、貧しき者は不幸であり、泣く人が慰められない現実である。ユダの荒野に行った際も、生きるものの何一つな死海とその背後の山々は怒る神、罰する神、裁く神しか暗示していなかった。旧約の世界が抱き続けたこのあまりに厳格な父なる神のイメージ。それを受け継いでいる洗者ヨハネとその教団。その中でイエスは彼らに欠けているものを見抜いておられた。だが、『神の愛』とか、『愛の神』とかを口で語るのはやさしいのだ。過酷な現実に生きる人間は、神の愛よりもはるかに神の冷たい沈黙しか感じない。過酷な現実から愛の神を信じるよりは、怒りの神、罰する神を考えるのがたやすい。だから旧約の中で時として神の愛が語られても、人々の心には恐れの対象となる神のイメージが強かった。心貧しき人や泣く人に現実では何の酬いがないように見えるとき、神の愛をどのようにしてつかめるとうのか。イエスはこの矛盾に気づいた。ここでイエスは、自分の生涯を貫くテーマとして、愛の神の存在をどのように証明し、神の愛をどのように知らせるかにかかっていた。現実に生きる人間の目には最も信じがたい神の愛を証明するためにイエスがどのよに苦闘されたか、それがイエスの生涯をつらぬく縦糸なのだ。

     洗者ヨハネは、聞くものを震え上がらせるような威嚇(神の裁き、怒り、罰の暗示)の言葉を発する。だが、イエスの宣言は福音である。福音とは字のごとく、悦ばしき事の知らせだ。神の罰や怒りなどには少しも触れていない。ヨハネとイエスを並べてみるとき、われわれは、暗い宿命を背負った旧約の世界がついに終わったというように感じる。長い世が明け、光が差し込んだという印象を受けるのだ。ユダの荒野とは余りに違うガラリヤの湖畔のそれを思い浮かべる。ガラリヤの湖畔は、羊の群れが草を食み、湖に影を落とすユーカリの木。野には黄色い菊やコクリコの赤い花が咲き乱れている。遠い湖には漁師の舟が浮かんでいる。人間はかくも悲しいのに、自然はかくもやさしい。マタイ福音書の11の28に『重荷を背負うている全ての人よ、来なさい私のもとに、休ませてあげる、そのあなたを』とかかれたイエスの言葉を読むとき、我々は湖のほとりに立って両手を広げたイエスの姿を思い浮かべる。

     イエスは、次第に彼らの夢の対象となった。それぞれの者達がそれぞれのユメをイエスの上に託した。大部分の住民達にとってイエスは洗者ヨハネやかつての預言者と同じ様に、あるいは自分達の指導者となるかも知れぬ人だった。民族主義者の目には、イエスはやがてローマをパレスチナから追い、ユダヤ人の誇りを取り戻す可能性のあるひとだった。熱心党の連中はイエスは自分達の武力行為を支援するリーダーとして考えたかもしれなかった。そして女や老人達にとってはイエスは力ある業を示し、病気を治してくれる聖者のように思えた。これらの誤解の渦の中でイエスの布教ははじまった。イエスはおびただしい群衆に囲まれ、自分が如何に誤解されているかをその悲しみのうちで知っておられた。

     群集がこれまで育ったユダヤ教は、愛という概念を決して無視はしていなかったが、愛を最高のものとして信仰するものではなかった。『心貧しき人』『柔和な人』『泣く人』『心清き人』だけをかくも高めて考えることもなかった。だから私は皆さんに言いたいとイエスは言葉を続けた。『敵を愛そう。あなたを憎む人に恵もう。あなたを呪う人も祝そう。あなたを讒する人のためにも祈ろう。右の頬を打たれたれば左の頬を差し出そう。上着を奪う人には下着をも拒まぬようにしよう』と。このような愛の教えを人々はいかなる律法学者からも祭司からも聞いたことはなかった。この愛の原理は、人間には不可能な全身的な誠実、純粋、真実、自己否定を求めるものだった。『すべてをあなたに求める人に与えよう。あなたの物を奪う人から取り戻さないようにしよう。他人にしてもらいたいことを、そのまま他人にしてみよう。自分を愛する人を愛するのはやさしいことなのだ。自分に恵む人に恵むことはやさしいことなのだ。しかし、敵をも愛し、報いを望まず恵むこと、それが最も高い者の子のすることではないのか。許すこと、与えること。』おそらくこれは人間にはなすことの不可能な愛の呼びかけだったのだ。群集は動揺した。イエスからこのような答えが返って来るとは思わなかった。自分達がそのユメを託したイエスのイメージと余りにも違っていた。イエスに対する民衆の幻滅と離反して、イエスが最終的に十字架に掛けられるのであった。

     作者は本書では、事実と真実という言葉を用いている。聖書には、真実が書いてあるのであり、それが本当に起こった事なのか、どうかは、ハッキリはしない。ただ言える事は、真実ではあるということなのだろう。イエスの生涯を記すと、こんなことはありえないという事実かどうかに基づいた検証をするか、はたまた、目の見えない人を見えるようにしたことは事実だ、と奇跡は全て本当にあったことだ、と全て事実と捉える事の両極端になりがちだが、著者はそのあたりは、事実と真実という上手い言葉に置き換えて書いている。イエスの生涯をざっとつかむには良書だといえよう。

  • 西欧文化の理解のためと、「沈黙」を読んでキリスト教に興味がでたため読んでみた。
    史実と創造が合わさって事実はわからないことが多いが、丁寧に分析や推定をされていたため、キリスト教を理解する上でベースとなる知識を得ることができたと思う。2000年前の1人の出来事がこれほど世界中に影響を与えていることは他には無いだろう。

  • 文字通りイエス・キリストの生涯について聖書から導かれる客観的推論と作者独自の解釈を加えた読物。神は何故沈黙するのか、という大テーマについてイエスが歩んだ人生から彼独自の示唆を与えている。

  • 日本人でありながらキリスト教に魅入られた人というのは、おそらく本場のキリスト教の価値観で育った人たちとは違うキリスト教を信仰するのだと思います。遠藤周作の語るキリスト教は、私たちには馴染みやすいのですが、他の作品を呼んでみるとやはりキリスト教としては異端なのかもしれません。

  • 1994年 頃

  • 事実と魂の真実

    人間は現実世界では結局、効果を求める、病気を治す足の回は歩ける、盲人は目を開く、

    聖書の奇蹟物語、望が叶えられなかった時、人々はどのように激しく怒ったか、

    人間にとって1番辛いものは、貧しさや病気ではなく、貧しさや病気が生み出す孤独と絶望の方だ、
    必要なのは、愛であって、病気を治す奇跡ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としている、

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著者プロフィール

遠藤 周作(えんどう しゅうさく)
1923年3月27日 - 1996年9月29日
東京生まれ。父親の仕事で、幼少時代を満洲で過ごす。帰国後にカトリックの洗礼を受けた。1941年上智大学予科に入学したが、中退。慶應義塾大学文学部仏文科入学・卒業後、カトリック文学を学ぶためにフランスへの留学。帰国後の1954年『アデンまで』を発表し小説デビュー。1955年『白い人』で芥川賞を受賞し「第三の新人」として脚光を浴びた。
1958年『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞及び第12回毎日出版文化賞、1966年『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞、1979年『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞、1980年『侍』で第33回野間文芸賞などそれぞれ受賞。1995年に文化勲章を受章している。
上記受賞作のほか、1993年刊行『深い河』もキリスト教と日本人をテーマにした代表作と見なされており、映画化された。60年代以降「狐狸庵山人」(こりあんさんじん)を名乗り、様々なエッセイを記した。数々の作品が欧米で翻訳され高い評価を受けており、存命中ノーベル文学賞候補だったこともよく知られている。

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