イエスの生涯 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.75
  • (129)
  • (132)
  • (217)
  • (13)
  • (3)
本棚登録 : 1311
レビュー : 141
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123165

作品紹介・あらすじ

英雄的でもなく、美しくもなく、人人の誤解と嘲りのなかで死んでいったイエス。裏切られ、見棄てられ、犬の死よりもさらにみじめに斃れたイエス。彼はなぜ十字架の上で殺されなければならなかったのか?-幼くしてカトリックの洗礼を受け、神なき国の信徒として長年苦しんできた著者が、過去に書かれたあらゆる「イエス伝」をふまえて甦らせたイエスの"生"の真実。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • ヨーロッパなどの先行研究に触れながら、著者自身のイエス像を客観的な筆致で描く。
    受難物語では奇跡をみせずに、自らが架けられる十字架を自ら背負い、ゴルゴタの処刑場に向かったイエス。著者は、聖書はイエスの無力を積極的に肯定しながら、無力の意味を我々に問うていると指摘する。また、彼の生涯は愛に生きるだけという単純さをもち、愛だけに生きたゆえに、弟子たちの眼には無力な者とうつった、だがその無力の背後に何がかくされているかを彼らが幕をあげて覗くためにはその死が必要だったのである、とも指摘している。
    その答え、残念ながら今の自分には確たるものがない。

  • 小説というよりは評伝である。
    しかし、明確な問いが立てられ、それに明敏な答えを与えている点では学術論文にも等しい。
    遠藤周作は小説家だけではなく、なぜ哲学者にならなかったのだろうか。
    当世の安っぽい社会学者や思想家とは異なる、ちいさき者への優しさがある。

    イエスの名前やその最期を知ってはいても、なぜ磔刑に処せられたか、弟子に裏切られ、また復活の伝説が興されたのか、その詳細は日本ではあまり知られていない。

    『侍』でも描かれていた、現世利益をもとめる仏教観と、奇蹟でなく
    苦悩と悲哀に寄り添うキリスト教観の違い。
    イエスの愛は現代のキリスト教ではゆがめられている気がしないでもないが。

  • 2001年、911アメリカ同時多発テロの衝撃の後、イスラム教ユダヤ教キリスト教についての本を少しばかり読んだ。読んだけれどもよくわからないというのが本音である。

    その当時集めた中で今までなぜか読まず最後に残ったのがこの『イエスの生涯』もうすぐクリスマスだが、この本はイエス様が厩で生まれたとは書き始まっていない。ところがこれがわかりやすかった。遠藤周作氏の人柄と作家の力量だからだろう。

    西洋画に書かれた神々しい像は、後の時代の想像力によってなされたので、容貌も平凡な中東人がどうしてイエスキリストなのか?

    イエスはユダヤ人で大工さんであった。ナザレというところで30~40代まで近親者と働いて暮らしていたが貧しかった。そんな普通の人が思うところあったのか、困る身内の反対を押し切り、捨てて家出してしまう。そして放浪の生活。原始キリスト教に出合のだが、原点は貧困にあえぐ人々への同情。奇跡を起こすでもなく、救済者メシアでもなく、何にもできない無力者のイエスが政治的陰謀にはめられて、ゴルゴタの丘で十字架にかけられてむごたらしく殺される。その処刑されたということにキリスト教の意味があるという、遠藤氏の直観力が開示される。

    おおざっぱに言ってしまったが、遠藤氏が思索なさったことに妙に納得してしまった。
    この後編に『キリストの誕生』をお書きになったが。

  • イエスは他人から憎まれても他人を愛した、そんなイエスが何故十字架の上で殺されなければならなかったのか、いまだに良く分からない。不条理はこの世でよくあるということの典型だと思う。キリスト教の愛、無力、復活という考え方は初めてよく理解できた。重荷を負うているすべての人を休ませてあげる、敵を愛し恵むこと、苦しみを分かち合う、神の愛、イエスの再来等”沈黙”で書かれていたキリスト教的考えもよく分かった。日々の生活でも参考にしていきたい。

  • 私が今まで読んだイエス・キリスト関連の本の中で、私が今のところイエス・キリストについて想像していることと一番近いなと思った。
    遠藤周作はキリストという縁遠い洋服を自分の身体に合うように和服に仕立て上げたから、硬派な洋服のキリスト教の人に批判されたりもしていたらしい。
    私も「奇跡の話ってイエスの凄さを訴える為の宣伝用に膨らませた部分だろ」とか「復活ってイエスが死んでしまったことに耐えられなかった人たちにとってイエスがかなり実感を伴ったイマジナリーな存在になったってことじゃ…」とか思っているから、硬派な洋服のキリスト教の人からすると、本当にはキリストを理解できていないということなんだろうなと思った。

  • 初めて読んだ遠藤周作の著作はこれで、十代の頃感銘をうけた本のひとつ。
    感情も、宗教に対する考え方も、ぐらんぐらんに揺さぶられた。
    私は多くの日本人が決して無宗教というのではないと考えるほうだ。それゆえに一神教に云う信仰を抱いているとは決していえないとも。
    遠藤周作はそんな日本人のためにイエスに着物を着せる試みを続けたひとだ。

    大人になったいまも信仰については実感としてよくわからない。実感としてわかる日なんておそらく来ないし、その必要はないだろうとも思う。そのくらい経験と文化の壁は厚い。けれど当時わからぬなりに本作を読んで、ひとつだけ身近なものにその類似形を知っていると思った。物語だ。物語と信仰は、救済の構造の一面でよく似ている。
    氏の言にもあったが、人のいちばんの苦しみは自らの懸命さが誰にも見られていないということだ。イエスは常に信仰者を見守る。徹底的に無力で、虐げられ、過酷な生のなかでも愛を失わない存在として、その生を最期まで見届けた者の内心に転生し、信仰というかたちをとることでひたすらに自身を信じる者の人生を見守り続ける。
    翻って物語のなかでは、誰の目もない孤独のさなかで意味の無さに苦悶しながら死ぬ者も、必ず読者に見られている。物語と読者の関係は時に自己投影や共感によってその立場を反転させながら、信仰と似た構造を維持している。映画も漫画も小説も、そして聖書も。
    信仰の高邁は永続的な問いを超克しながら連続される点にこそあると思われるし、一般的な物語の効果までを同じ土俵で語るのはあまりにインスタントでナンセンスだ。
    けれどこの部分的類似の根元、物語のつまらないや面白いや、信仰の有無や相違をもっともっと遡ったさきには、大昔から脈々と同じ祈りが流れているんじゃないかと思う。生を全うしようとする生きものの、かほそいそれがいく筋も集った奔流。遠藤周作はごく自然に私の手を引いて、その奔流に浸からせる。そうしてから振り返って見るイエスというひとは、だからいつのまにか私に親しい。

  • 面白い。もっと知りたくなる。

  • 自らもクリスチャンである遠藤周作氏が信仰の対象である神の子「イエス」の軌跡と歴史考察を踏まえイエスの実像に迫りその心情を捉える。

    日本人にとって宗教そのもの自体が解り難い。信仰が思想や信念に根差したものである以上、幼少期から血肉に刻み込まれないと肌感覚では掴めない。そうした点も踏まえ遠藤周作氏は日本人に向けたキリスト教観、「和装のイエス」を啓蒙するために小説という手法を用いているように思う。「イエスの生涯」を遠藤周作氏の言葉を借りて言うならば「愛に生きた人」である。即効性を求める日本人に対して「ただ寄り添うてくれる人」の存在と意義を著者は伝えようとしている、そこには自身の信仰への迷いも伴いながら。

    遠藤周作氏は、彼のこうしたカトリックの視点がノーベル文学賞候補から外れるきっかけになったらしいが、何か主張とテーマを持って書き続けるというのは作家としては正しく素晴らしい姿だと個人的に思う。

  • イエス・キリストは好き嫌いで語れないけど、ナザレのイエスは大好きになった。

    イエスとはイエズア Jeshouahであり、当時、腐るほど沢山の人に付けられていた名前。呼び名も容姿もごくごく平凡だった。
    人間なるが故、大衆が期待する奇跡もない。それゆえ民衆は去り、弟子たちすら保身が勝り立ち去る。ユダすらも平凡な苦悩するひとり。
    2000年たった今でも、人間そのものはナザレのイエスが生きた時代と何ら変わらない。

    弱虫、卑怯者、駄目人間。そのくせ「仕方がなかったのだ」という自己弁解しながら最後の瞬間、師を見棄てる。そんな弟子たちが、何故、強い意志と信仰の持ち主になったのか?
    この「なぜ」という問いこそが、読んだ経験もない聖書のテーマなんだと霧が晴れる様に心に入ってきた。

    イエス・キリストは知らないが、ナザレのイエスは、悲しみの人であり切ない人であったのだろうと、感じた。

  •  イエスが育ったナザレの街でイエスが見たものは、貧しき者は不幸であり、泣く人が慰められない現実である。ユダの荒野に行った際も、生きるものの何一つな死海とその背後の山々は怒る神、罰する神、裁く神しか暗示していなかった。旧約の世界が抱き続けたこのあまりに厳格な父なる神のイメージ。それを受け継いでいる洗者ヨハネとその教団。その中でイエスは彼らに欠けているものを見抜いておられた。だが、『神の愛』とか、『愛の神』とかを口で語るのはやさしいのだ。過酷な現実に生きる人間は、神の愛よりもはるかに神の冷たい沈黙しか感じない。過酷な現実から愛の神を信じるよりは、怒りの神、罰する神を考えるのがたやすい。だから旧約の中で時として神の愛が語られても、人々の心には恐れの対象となる神のイメージが強かった。心貧しき人や泣く人に現実では何の酬いがないように見えるとき、神の愛をどのようにしてつかめるとうのか。イエスはこの矛盾に気づいた。ここでイエスは、自分の生涯を貫くテーマとして、愛の神の存在をどのように証明し、神の愛をどのように知らせるかにかかっていた。現実に生きる人間の目には最も信じがたい神の愛を証明するためにイエスがどのよに苦闘されたか、それがイエスの生涯をつらぬく縦糸なのだ。

     洗者ヨハネは、聞くものを震え上がらせるような威嚇(神の裁き、怒り、罰の暗示)の言葉を発する。だが、イエスの宣言は福音である。福音とは字のごとく、悦ばしき事の知らせだ。神の罰や怒りなどには少しも触れていない。ヨハネとイエスを並べてみるとき、われわれは、暗い宿命を背負った旧約の世界がついに終わったというように感じる。長い世が明け、光が差し込んだという印象を受けるのだ。ユダの荒野とは余りに違うガラリヤの湖畔のそれを思い浮かべる。ガラリヤの湖畔は、羊の群れが草を食み、湖に影を落とすユーカリの木。野には黄色い菊やコクリコの赤い花が咲き乱れている。遠い湖には漁師の舟が浮かんでいる。人間はかくも悲しいのに、自然はかくもやさしい。マタイ福音書の11の28に『重荷を背負うている全ての人よ、来なさい私のもとに、休ませてあげる、そのあなたを』とかかれたイエスの言葉を読むとき、我々は湖のほとりに立って両手を広げたイエスの姿を思い浮かべる。

     イエスは、次第に彼らの夢の対象となった。それぞれの者達がそれぞれのユメをイエスの上に託した。大部分の住民達にとってイエスは洗者ヨハネやかつての預言者と同じ様に、あるいは自分達の指導者となるかも知れぬ人だった。民族主義者の目には、イエスはやがてローマをパレスチナから追い、ユダヤ人の誇りを取り戻す可能性のあるひとだった。熱心党の連中はイエスは自分達の武力行為を支援するリーダーとして考えたかもしれなかった。そして女や老人達にとってはイエスは力ある業を示し、病気を治してくれる聖者のように思えた。これらの誤解の渦の中でイエスの布教ははじまった。イエスはおびただしい群衆に囲まれ、自分が如何に誤解されているかをその悲しみのうちで知っておられた。

     群集がこれまで育ったユダヤ教は、愛という概念を決して無視はしていなかったが、愛を最高のものとして信仰するものではなかった。『心貧しき人』『柔和な人』『泣く人』『心清き人』だけをかくも高めて考えることもなかった。だから私は皆さんに言いたいとイエスは言葉を続けた。『敵を愛そう。あなたを憎む人に恵もう。あなたを呪う人も祝そう。あなたを讒する人のためにも祈ろう。右の頬を打たれたれば左の頬を差し出そう。上着を奪う人には下着をも拒まぬようにしよう』と。このような愛の教えを人々はいかなる律法学者からも祭司からも聞いたことはなかった。この愛の原理は、人間には不可能な全身的な誠実、純粋、真実、自己否定を求めるものだった。『すべてをあなたに求める人に与えよう。あなたの物を奪う人から取り戻さないようにしよう。他人にしてもらいたいことを、そのまま他人にしてみよう。自分を愛する人を愛するのはやさしいことなのだ。自分に恵む人に恵むことはやさしいことなのだ。しかし、敵をも愛し、報いを望まず恵むこと、それが最も高い者の子のすることではないのか。許すこと、与えること。』おそらくこれは人間にはなすことの不可能な愛の呼びかけだったのだ。群集は動揺した。イエスからこのような答えが返って来るとは思わなかった。自分達がそのユメを託したイエスのイメージと余りにも違っていた。イエスに対する民衆の幻滅と離反して、イエスが最終的に十字架に掛けられるのであった。

     作者は本書では、事実と真実という言葉を用いている。聖書には、真実が書いてあるのであり、それが本当に起こった事なのか、どうかは、ハッキリはしない。ただ言える事は、真実ではあるということなのだろう。イエスの生涯を記すと、こんなことはありえないという事実かどうかに基づいた検証をするか、はたまた、目の見えない人を見えるようにしたことは事実だ、と奇跡は全て本当にあったことだ、と全て事実と捉える事の両極端になりがちだが、著者はそのあたりは、事実と真実という上手い言葉に置き換えて書いている。イエスの生涯をざっとつかむには良書だといえよう。

全141件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

遠藤 周作(えんどう しゅうさく)
1923年3月27日 - 1996年9月29日
東京生まれ。父親の仕事で、幼少時代を満洲で過ごす。帰国後にカトリックの洗礼を受けた。1941年上智大学予科に入学したが、中退。慶應義塾大学文学部仏文科入学・卒業後、カトリック文学を学ぶためにフランスへの留学。帰国後の1954年『アデンまで』を発表し小説デビュー。1955年『白い人』で芥川賞を受賞し「第三の新人」として脚光を浴びた。
1958年『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞及び第12回毎日出版文化賞、1966年『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞、1979年『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞、1980年『侍』で第33回野間文芸賞などそれぞれ受賞。1995年に文化勲章を受章している。
上記受賞作のほか、1993年刊行『深い河』もキリスト教と日本人をテーマにした代表作と見なされており、映画化された。60年代以降「狐狸庵山人」(こりあんさんじん)を名乗り、様々なエッセイを記した。数々の作品が欧米で翻訳され高い評価を受けており、存命中ノーベル文学賞候補だったこともよく知られている。

イエスの生涯 (新潮文庫)のその他の作品

イエスの生涯 Kindle版 イエスの生涯 遠藤周作
イエスの生涯 単行本 イエスの生涯 遠藤周作

遠藤周作の作品

イエスの生涯 (新潮文庫)を本棚に登録しているひと

ツイートする