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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784101123172
みんなの感想まとめ
テーマは、イエスの生涯から続く弟子たちの心の葛藤と信仰の変遷です。著者は「神の不在」という重い問いを通じて、歴史の中に埋もれた信仰の深さを描き出しています。特に、イエスが十字架にかけられた後の弟子たち...
感想・レビュー・書評
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子供のころ、家が怖くて
寝る前はキリストに
家族の平和を祈っていた
たぶん、自分は聖書も
「神は信じる」事ではなく
生きている今から逃避のため
家庭の事情を一瞬でも忘却し
安眠したく「キリスト」と
キリスト誕生の時代背景を
知りたく本書を読んだ気がする。 -
☆☆☆ 2022年7月 ☆☆☆
P287 原始キリスト教のみじかい歴史を調べる時、私がぶつかるのは、いかにそれを否定しようと試みても否定できぬイエスのふしぎさと、ふしぎなイエスの存在である。なぜこんな無力だった男が皆から忘れ去られなかったのか。なぜこんな犬のように殺された男が人々の信仰の対象となり、人々の生き方を変えることができたのか。
『イエスの生涯』『キリストの誕生』の2冊で筆者が読者に語りたいのはまさにこの点である。『キリストの誕生』では弱虫で臆病だった弟子たちが原始キリスト教の創始者となり、キリスト教が広まっていく頃の事が語られる。
ペテロやポーロ(パウロ)といった弟子たちの物語。 -
イエスの生涯に続いて刊行されました。
イエスからキリストという存在へ変わっていく弟子たちの心理などを本当に質の高い内容で描かれています。「僕は大説家ではなく小説家なんですよ」とエッセイで何度も著者は口にしていました。
それを決して忘れずに読んでいたものの、遠藤氏の文章はどうしても僕に夢をみさせてしまう。読者も多く、たくさんのレビューがあり、十人十色に評価をなさっていることでしょう。宗教と歴史と信仰の危ういバランスを絶妙にとりながら見事な結びまで持っていくその技量を楽しむ一冊として読んでもいいと思います。
キリスト教に関わっている方なら、是非そこに自分の思いも加えてみてください。 -
『イエスの生涯』の続編。一般書籍の弟子関連本は少なく貴重な一冊として手に取った。新約聖書では使徒行伝(使徒言行録)からの話。福音書は何となく断片的に見聞きしていても、それ以降がよく分からない人向け。
前作感想の繰り返しになるけど、いわゆるテキスト的キリスト教入門本とは毛色が違う。そこがクリスチャン作家・遠藤周作たるところなんだろうな。それを非難するクリスチャンは多いらしいが外野の視点は自由だ。ちなみにざっくりでも新約聖書の概要くらいは知っていたほうが良いかもしれない。とはいえ知らなきゃ知らないで面白かったから聖書を先に読むか、こういった入門書で予習してから聖書を読むか…昔々の映画の宣伝みたいなことを思ったり(笑)。
前作同様、引用本のリストはない。40年以上前の作品の引用本を探すこと自体ムリなのだろうけど、それはそれとして記録としてまとめてほしい気はする。 -
『イエスの生涯』の前にこちらを読んでしまったがものすごく興味深く読ませていただいた。
日本人にとって、仏教よりもよほどとっつきにくいのがキリスト教、イスラム教だと思う。キリスト教について知りたいとは思うが、聖書はとても読めないなということできっかけとしてこちらの本を読んだ。
神格化される前の無力な人間であったイエスが、如何にして人類にとってここまでの大きな存在になったのか。人間の弱さ、悩み、もがき足掻く姿が遠藤さんの読みやすく飾らない文章で綴られている。
原始キリスト教団の群像劇として読んでも面白いです。
この本を読むと“沈黙”という言葉の重みがより解るのだなぁ。
キリスト教ってなんなん?と思っている人にぜひ読んでいただきたい一冊。
自分もイエスの生涯も読まなければ。
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『イエスの生涯』読了後、続巻のこれを読まないと、と思いつつなかなか進まなかったのに、読めば読んだで、早く読めばキリスト教のことがもっとよくわかったのにさ、という思い。ほんと、この2書はセットで読むべし。
西欧の文学作品を読むにつけ、神の存在が日本人と全く違って意識され来るのだが、その多くを占めるキリスト教とは何か?の知識は、新書版などの解説書を少々読んでもなかなかわからない。それだから遠藤周作氏が小説家の目で解き明かしてくれたキリスト教の成り立ちに目を開かされる思いがする。
前に読んだ『イエスの生涯』には、元大工でユダヤ教徒だったイエスという名のひとが、律法に縛られたユダヤ教ではしっくりしないと悩み続けているうちに、ある時啓示を受け「寄り添う愛」にたどり着いた。しかし弟子は多くつどえど、弟子たちは本当のイエスを理解せず、裏切り、挙句の果てイエスは処刑され無駄に死んでしまう。その犬死のような死に意味があったのだった。
『キリストの誕生』では聖書(使徒行伝、マタイ、ルカの福音書・・・)などの文献から作者は、その後の弟子たちの動きを追う。原始キリスト教団の歩みというような語り口で、だんだん「なぜイエスの死」がキリスト教の普及に繋がったのかがわかってくる。一口に言えば裏切った弟子たちの猛烈な反省と後悔なんだけど、イエスと言う人の卓越した温かみがじわじわと「裏切り弟子たち」の胸に沁みとおってくるのを遠藤氏は切々と描くのだ。
西暦というのはイエスが生れたときから始まったと思っていたが、生まれたのは紀元前4年というのが通説らしい。ともかく紀元0年~紀元30年にイエスが生き、その後紀元50年、紀元60年までにエルサレムから地中海沿岸を通ってローマ、スペインまで伝播してしまった原始キリスト教の発信力はものすごいと思うし、それから現代までいろいろに歴史を重ねて(宗教戦争など酸鼻をきわめることがあるし)いるのだから、なんとも怖ろしい勢いと持続。ユダヤ教しかり、イスラム教しかり。いえ、一神教のみならず、主義主張にてこの世を動かす権力争いも宗教のようである。
根本的なことは「人間は誰かに、何かに」寄り添ってもらわないと生きられない」というのは真理だと思うから、それが何であれ続くものならば、互いに認め合っていってほしいものだ。 -
--概要--
・「イエスが死後どのようにキリスト(救世主)として認められていったか」というテーマ。『イエスの生涯』に続く著書とのこと(私はこちらは未読)。
・巻末の高橋たか子氏の解説にあるように、「イエスという人が実際にいた、そして十字架上で死んだ、ということがあった、それを素材として創作された話が新約聖書なのだという見方」で書かれている。ペトロ、ヤコブ等の弟子や宣教師ポーロなどの視点で、彼らがどのような体験・思いから書簡(=今日の新約聖書)を書いたのかが様々な資料の研究の上に述べられている。
・イエスの死、迫害、分派、弟子や伝道師の殉教、ユダヤ戦争での多くの信徒の死といった苦境の中で、「神がなぜ沈黙しているのか」「キリストはなぜ再臨しないのか」という解き難い謎が浮かび上がった。脱落する者もいたが、残った信徒たちはこれらの謎から信仰の意味を掴もうと悩み、もがき、苦しみ、それらの苦しみが信仰のエネルギイにもなっていった。
--感想--
・「Aという説がある。しかし、Bかもしれない。いずれにせよ、確かなのはC。」というような論調が多く、少し読みにくさを感じた(後半では慣れた)。
・私自身は聖書の記述を事実と捉える立場のクリスチャンであるが、その分聖書の記述を「そういうもの」と固定的に捉えてしまい、各書簡の著者が神とどのように向き合っていたかをあまり意識できていなかったと、この本から気付かされた。その観点を持って改めて聖書に向き合ってみたい。
・信徒を苦しめた「謎」については現在も同じことが言えると思う。戦争や犯罪、また自然的な災害や事故などについて「神がいるならば、なぜこのようなことが起こるのか」と言われたら答えられない自分がいる。次のフレーズに共感したため、諦めずに考えていきたい。
「ひとつの宗教はそれが組織化されるだけでなく、神についての謎をすべて解くような神学が作られた途端、つまり外形にも内面にもこの人生と世界について疑問と謎がなくなった瞬間、衰弱と腐敗の坂道を転がっていくのである。」(p.264) -
イエスの死後、原始キリスト教団の歩みを追い、イエスがいかにキリストに高められていったのかを辿る。イエスの架刑、ステファノの受難、ペトロやポーロ、ヤコブの死、ローマ軍によるエルサレムの蹂躙。これら幾多場面において突きつけられた「神の沈黙」、「キリストの不再臨」。わずかの期間に起きたこれら壮絶な出来事を経てもなお絶望しなかった原始キリスト教団の人たちは、愛のみに生きたイエスを忘れることができない。その意味でイエスはキリストとなり彼等ひとりひとりに再臨したのでは、と結んでいる。著者は「人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる」と記しているが、宗教の本質を端的に指摘しておられると思い、感嘆する。
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映画の「沈黙-サイレンス」を先日観た。
小説の「イエスの生涯」を先日読んだ。
その流れで、本書を手に取ることに。
映画も小説も遠藤氏は、「神の沈黙」という事をテーマにされているんですね。
ステファノの事件
エルサレムの会合
アンティオケの事件
この流れがキリスト(教になる節目)を誕生させる物語などは、初めて知る内容だけに面白かった中、登場人物のポーロが一番気になった。
ビジネス社会でベンチャー企業だと、ある程度の規模から鈍化することがあっても、熱く猛る信念で、常識を超えて突き進んでいく人が、ある意味無茶苦茶に引っ張る瞬間、異常な壁を軽々と越える時がある。
それも名もなき人達だったりする。
いつの時代も、目立つ人だけが歴史や本道を作るわけじゃない。
イエスの使徒たち皆が、分かっていながらも「何か」に縛られている間に、ポーロという人の持つ、清々しい程の行動力という一点突破で、「ナザレのイエスの物語」だったものを、「イエス・キリストの物語」だけ集約し、昇華させた気がした。
実話と想像と混在しているとは思いますが、実に心躍る一冊でした。 -
[その後の話]イエスの死に際して自らの弱さに苛まれたであろう彼の弟子たちは、何故にその後殉教をも恐れぬ熱心な信徒となったのか......。クリスチャンでもある著者が、回答定まらないその問いに答えようと、イエスの死後の弟子たちの歩みを再構成した作品です。著者は、本書と『イエスの生涯』を著したことで、さらなる思考が求められたと語る遠藤周作。
『イエスの生涯』を事前に読んでいたからでしょうか、遠藤氏の考える弟子像というものがすっと頭に入ってきました。その像がいわゆる正統の教義との関係でどう考えられるかまでコメントできる見識がないのですが、遠藤氏自身の自画像が非常に深く弟子像に投影されているように思います。「弱さ」という点が1つのキーポイントになっているのではないでしょうか。
キリスト教の立ち上がりまでの動きが大まかに理解できるのも本書の魅力の1つ。聖書やキリスト教については、それこそ勉強を始めると終わりの見えない世界だと思うのですが、とりあえず概略を把握しておきたいという方には、(遠藤氏の思いが如実に詰まった作品であるということに留意しつつ)非常にオススメできる一冊です。
〜イエスは現実には死んだが、新しい形で彼等の前に現われ、彼等のなかで生きはじめたのだ。それは言いかえれば彼等の裡にイエスが復活したことに他ならない。まこと復活の本質的な意味の一つはこの弟子たちのイエス再発見なのである。〜
どうぞ素敵なクリスマスをお過ごしください☆5つ -
「イエスの生涯」よりも難しい…。
う〜ん、難しい…というよりも、
弟子達や弟子の布教によって信徒になった人達によって
イエスをキリストとして高めるまでの過程やその心情が、
キリスト教徒でもなければ、
他の宗教に強い信仰があるわけでもない私には理解しづらい。
でもわかりたいと思ってしまう。なんだかちょっと羨ましい。
イエス死後、弟子達の自問自答や自責の念を考えると切なく感じる。
悩み続けるその姿に、同じ人間としての悲しみや弱さを見ることができ、
遠い昔に生きた人達を少し身近に感じられた。
弱さがあったからこそ強い信仰につながった、というのは納得。
イエスの復活についての考えも、なるほど〜と思った。
当時の政治や宗教などについて
もう少し知ってから読み直してみたい。 -
2015/02/16
日経新聞にて
リーダーの本棚
自衛隊統合幕僚長 河野克俊 -
結びはとりわけ肝に銘じたい。人はみな愛を裏切らぬ何か、永遠の同伴者を信じずには要られない。たとえ現実にはそれが沈黙していようとも、である。そういったものとしてキリストは生前から、そして死後も期待に応え続けてきた、と。しかしながら、キリストが持っていたXは分からないままである。
それぞれの聖者を描き出す筆致は鮮やか。読み応えがある。
どうも僕はそうやって信じる物語が好きらしい。確かに神は沈黙しているのだけど、それでも信仰されるという筋が好みらしい。心打たれてしまうらしい。
奴隷道徳ということも頭の片隅に。 -
あくまでユダヤ教の一派、それも異端派として十字架にかけられたイエスはもういない。存命中に関わった人間と、人間としては関わりが無く信仰の対象として伝えられた人間とが発生する。見聞きしたか、聞いたかで神格化の度合いは異なってくる。発生発展展開の時代がやってきた。
キリスト教がヨーロッパを席巻した後にも、宗派の違いで異端にされたり、火刑にされたり、戦争になったりってあったよなというのを踏まえると、人それぞれがキリスト教の中から信じたいエッセンスだけ抽出して、形作って固めて唯一無二にするみたいなことになるんだなって、解釈の違いってやつ?
最初期にも解釈違いが起こってた上に、"総本山"が跡形も無くなるんだったら、そりゃ地域ごとに芽吹いた信仰がバラバラになるよな。人は信じたいものだけを信じ、見たいものだけ見たいもの。 -
神格化された人を、しかもかなり過去の、実在の人物だなんて考えたこともなかった。ましてやそれが民族を超え、厳格に信仰してた唯一の神をも超えた人まで出て、全世界に広がる。
今ある新興宗教は、どちらかというと教祖が絶対的な立場にあり自ら神格化して表現してるけど、生前も、ましてや死後に信仰が広がるって、本当に教義が素晴らしく、その人格たるや想像も絶する。 -
烏兎の庭 第三部 7.26.08
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto03//diary/d0807.html#0726 -
2019/10/14完讀
這本書是論述耶穌如何變成キリスト的過程,作者不停再問,這樣一個無力的人,用他的生命不斷地訴說愛,但是因為無力被徒弟們背棄,為何會演進到最後成為一神教的神子。
作者認為第一階段主要是徒弟們紛紛背棄耶穌,在耶穌過世之後它們才紛紛聚集,得知耶穌非但沒有怪他們,還未他們祈禱,耶穌受難的慘烈過程也讓他們心中背叛的罪惡感不斷發酵,也不斷問為何神要這樣對待他都不救他?於是在悲苦的心裡掙扎之後,與彌賽亞傳說和東方宗教裡的復活主題結合,徒弟們漸漸開始覺得,耶穌是因為要復活,是因為要接受復活後神給的榮光,因而才會有這麼慘烈的受難。(是否神格化還在模糊階段)。這個論述可以讓他們逃離良心的苛責,也讓他們的心靈有寄託和發展。而耶穌三日(抽象)復活的故事,也是這些徒弟在心裡掙扎之下各自的幻視宗教經驗。
鋒頭過後徒弟們回到耶路撒冷開始布教,這時信徒裡也增加了說希臘語的猶太人,他們見過國際世面。然而原始的徒弟教團,由於見識到耶穌就是因為公然對神殿和安息日等傳統猶太教議題表示意見(安息日是為人而存在。耶酥的發言都是由愛出發,和傳統猶太教嚴厲而裁判的神不同)因而遭到毒手,因此徒弟教團(本來就是猶太教徒)在ペトロ等人的領導下嚴格遵守律法和尊重神殿,但是希臘語猶太人卻認為應該要挑戰這點。這個歧異最後甚至擴大到是否傳教只限制在猶太人身上(沒有割禮的人就是沒和上帝有契約的人,這是亞伯拉罕和上帝的約定)。希臘語猶太人史蒂芬諾受難事件之中,徒弟團還是一樣又保持膽小和卑怯的沉默。後來希臘語猶太人因為被追捕迫害(徒弟教團保持沉默所以沒有被處理)就離開耶路撒冷,開始往四周傳教。而徒弟團還是幾乎繼續待在耶路撒冷(後來ペトロ有出去傳教)等待復活,對於向異邦人傳教,徒弟團部分人士還是抱持抵抗的態度。
ポーロ是當時追捕並攻擊史蒂芬諾的其中一人,但他心中對猶太教的律法的懷疑,在接觸這些受害教徒的自白之後轉向為教徒。他沒有見過耶穌,因此對他的生命並無興趣(這點是他和徒弟團最不同的),只對他的死亡和復活有興趣,他把耶穌之死,直接與東方宗教獻祭結合,只是東方宗教猶太教裡面的獻祭是為了平息上帝之怒,然而他把耶穌的受難翻轉為,上帝為了讓他的兒子來替世人承擔罪孽,因此需要有耶穌來流血獻出自己,然後復活和榮光是將要到來的高潮。而且他掌握到耶穌的愛和傳統的猶太教的神(易怒、殘判)是不同的,他直接開始針對異邦人傳教,但是這引起傳統教團的反彈,一方面當然是擔心耶穌和史蒂芬諾的慘劇又要發生一次,此外非我族類這種猶太教的選民觀的宗教情緒並不是那麼容易克服。ポーロ的復活思想在羅馬帝國的體系和交通之下開始傳播,而且復活說本來就東方的東西,傳教過程很多人也可以接受這個說法。而他本人甚至遠至希臘半島傳教。然而後來決定要回耶路撒冷和徒弟團談判只在猶太教體系(尊重律法、神殿,只在猶太人間傳道)傳道這件事(已經爆發好幾次爭吵但都沒有解決,甚至徒弟團尾隨著在後面破壞他的傳教結果),然而卻被捕,他便提議把自己送到羅馬受審,其實他想順便去那邊傳教。
在遠路傳教的過程他已經吃了很多苦,曾經被捕也差點被殺,這次被送到羅馬後後來使徒行傳對他的終末並未交代(裝成最後很順利的樣子)。然而作者推測,最後他應該是在尼祿治下死得很卑微沒價值(當時有些把基督徒當作轉移憤怒的對象,根本沒有任何審理,就讓他們如草芥般死去,例如讓他們被狗咬死,或者把他們塗上易燃物燒死),所以魯卡根本不敢紀錄。而出外傳教的ペトロ和耶路撒冷的ヤコブ後來也似乎都是殉教,但也沒有任何紀錄。沒有紀錄的原因,可能就是耶路撒冷遭到羅馬攻擊滅城這一個事件。這場戰爭終究沒有等到奇蹟,因此教團受到一個很嚴重的信仰危機,因為他們一直在等復活也堅信復活(否則他們良心也過不去,因為耶穌只是犬死而已,必須要讓這個死有價值),但是這個時刻並沒有到來,他們又再度面臨一次信仰的考驗,跟前幾次一樣,就是為何神依然沉默?基督為何不降臨?讓那些傳教者受難,讓耶路撒冷滅城,依然不吭聲?不少人因此回信猶太教,在這信仰危機當前,作者認為因此使徒行傳沒有交代後續,不然就像在傷口撒鹽。然而這個滅城慘劇,也讓教團裡這兩派爭執不下的問題應然而解,徒弟團的崩壞,反而讓這個宗教開始走出猶太教和猶太世界,變成國際化的宗教。而作者提到「一つの宗教はそれが組織化されるだけでなく、神についての謎を全て解くような神学が作られた途端、つまり外形にも内面にもこの人生と世界の疑問と謎がなくなった瞬間、衰弱と腐敗の坂道を転がっていくのである」,所以他認為原始基督教團之所以可以保持活力,也正是因為為何神沉默與耶穌不降臨這兩個問題無法解決,所以才能保持原始教團的活力,因為大家會繼續痛苦地掙扎並思考,這也是他們的エネルギー的來源。然而中世時代當這個神學體系一完成,基督教也就開始面臨衰退了。
作者理性地分析到這裡,身為一個教徒可以如此客觀的審視這些資料,實在很了不起,但也不禁讓人想著如果這一切都是一堆人後來想出來的(很可能跟原始耶穌本來的想法不一樣),那這些後世的教徒到底是在信仰什麼?作者提到,在一神教的土壤中,先知一大堆但終究是先知而已,唯一可以由人成為被禮拜的對象難如登天也只有耶穌;而他的故事和傳說,並不是花了很多世代,他短短的人生也在短短的時間內迅速被神格化,這也是獨一無二的一件事。而他的信徒們在面對如此多的絕望,大哉問無法解決,耶穌也沒降臨拯救耶路撒冷,然而依然願意跟隨這個宗教,這或許就是耶穌的人德,這也是作者無法回答的問題。
作者說,這個如狗般無力,只是不斷地宣揚愛,活在愛裡,想用愛證明神的存在,但又如狗般被殺,生前就是一個徹底無力的存在。然而他卻能讓那些背叛他,沒有勇氣的徒弟或信徒們堅決追隨他,甚至被神格化,成為人們永遠的同伴者,這就是他的不可思議之處,也就是神祕之處。「『世の果てまで私はお前たちと苦しむだろう』それは人間がいかなる思想を持とうと、実はその魂の奥では変わらざる同伴者をひそかに求めているからである。人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向き合うならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれたこことに望みを失った者は、真の理解者を心のどこかで探しているのだ。...だから人間が続く限り、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続く限り、人間は必ずそのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前でもその死後でも応えてきたのだ」,作者也說這就是不管教會或信徒曾經犯下多少錯誤,耶穌依然超脫地被世世代代的人們所需要的原因。讀到這裡,我似乎可以理解,為何前面如此冷靜地分析這個宗教的成因,如此冷靜地看耶穌身為"凡人"的無力面,但是還是不影響這個信仰的絲毫的原因。或許這個人的愛就是他的才能,穿越時空讓孤獨的人,不被愛的人,沒有人可以信任的人,都不再孤獨,讓我想到巡禮者的同行二人的,都是在面對人的內心最原始的渴求。讀完這本,我終於可以了解遠藤小說信仰裡的本質了。我想,我也被說服了。某種程度上,我突然很羨慕這些教徒。
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