キリストの誕生 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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レビュー : 46
  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123172

作品紹介・あらすじ

愛だけを語り、愛だけに生き、十字架上でみじめに死んでいったイエス。だが彼は、死後、弱き弟子たちを信念の使徒に変え、人々から"神の子""救い主"と呼ばれ始める。何故か?-無力に死んだイエスが"キリスト"として生き始める足跡を追いかけ、残された人々の心の痕跡をさぐり、人間の魂の深奥のドラマを明らかにする。名作『イエスの生涯』に続く遠藤文学の根幹をなす作品。

感想・レビュー・書評

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  • イエスの生涯に続いて刊行されました。
    イエスからキリストという存在へ変わっていく弟子たちの心理などを本当に質の高い内容で描かれています。「僕は大説家ではなく小説家なんですよ」とエッセイで何度も著者は口にしていました。
    それを決して忘れずに読んでいたものの、遠藤氏の文章はどうしても僕に夢をみさせてしまう。読者も多く、たくさんのレビューがあり、十人十色に評価をなさっていることでしょう。宗教と歴史と信仰の危ういバランスを絶妙にとりながら見事な結びまで持っていくその技量を楽しむ一冊として読んでもいいと思います。
    キリスト教に関わっている方なら、是非そこに自分の思いも加えてみてください。

  • 映画の「沈黙-サイレンス」を先日観た。
    小説の「イエスの生涯」を先日読んだ。
    その流れで、本書を手に取ることに。

    映画も小説も遠藤氏は、「神の沈黙」という事をテーマにされているんですね。

    ステファノの事件
    エルサレムの会合
    アンティオケの事件

    この流れがキリスト(教になる節目)を誕生させる物語などは、初めて知る内容だけに面白かった中、登場人物のポーロが一番気になった。

    ビジネス社会でベンチャー企業だと、ある程度の規模から鈍化することがあっても、熱く猛る信念で、常識を超えて突き進んでいく人が、ある意味無茶苦茶に引っ張る瞬間、異常な壁を軽々と越える時がある。
    それも名もなき人達だったりする。
    いつの時代も、目立つ人だけが歴史や本道を作るわけじゃない。

    イエスの使徒たち皆が、分かっていながらも「何か」に縛られている間に、ポーロという人の持つ、清々しい程の行動力という一点突破で、「ナザレのイエスの物語」だったものを、「イエス・キリストの物語」だけ集約し、昇華させた気がした。

    実話と想像と混在しているとは思いますが、実に心躍る一冊でした。

  • [その後の話]イエスの死に際して自らの弱さに苛まれたであろう彼の弟子たちは、何故にその後殉教をも恐れぬ熱心な信徒となったのか......。クリスチャンでもある著者が、回答定まらないその問いに答えようと、イエスの死後の弟子たちの歩みを再構成した作品です。著者は、本書と『イエスの生涯』を著したことで、さらなる思考が求められたと語る遠藤周作。


    『イエスの生涯』を事前に読んでいたからでしょうか、遠藤氏の考える弟子像というものがすっと頭に入ってきました。その像がいわゆる正統の教義との関係でどう考えられるかまでコメントできる見識がないのですが、遠藤氏自身の自画像が非常に深く弟子像に投影されているように思います。「弱さ」という点が1つのキーポイントになっているのではないでしょうか。


    キリスト教の立ち上がりまでの動きが大まかに理解できるのも本書の魅力の1つ。聖書やキリスト教については、それこそ勉強を始めると終わりの見えない世界だと思うのですが、とりあえず概略を把握しておきたいという方には、(遠藤氏の思いが如実に詰まった作品であるということに留意しつつ)非常にオススメできる一冊です。

    〜イエスは現実には死んだが、新しい形で彼等の前に現われ、彼等のなかで生きはじめたのだ。それは言いかえれば彼等の裡にイエスが復活したことに他ならない。まこと復活の本質的な意味の一つはこの弟子たちのイエス再発見なのである。〜

    どうぞ素敵なクリスマスをお過ごしください☆5つ

  • 結びはとりわけ肝に銘じたい。人はみな愛を裏切らぬ何か、永遠の同伴者を信じずには要られない。たとえ現実にはそれが沈黙していようとも、である。そういったものとしてキリストは生前から、そして死後も期待に応え続けてきた、と。しかしながら、キリストが持っていたXは分からないままである。
    それぞれの聖者を描き出す筆致は鮮やか。読み応えがある。

    どうも僕はそうやって信じる物語が好きらしい。確かに神は沈黙しているのだけど、それでも信仰されるという筋が好みらしい。心打たれてしまうらしい。
    奴隷道徳ということも頭の片隅に。

  • イエスの死後、原始キリスト教団の歩みを追い、イエスがいかにキリストに高められていったのかを辿る。イエスの架刑、ステファノの受難、ペトロやポーロ、ヤコブの死、ローマ軍によるエルサレムの蹂躙。これら幾多場面において突きつけられた「神の沈黙」、「キリストの不再臨」。わずかの期間に起きたこれら壮絶な出来事を経てもなお絶望しなかった原始キリスト教団の人たちは、愛のみに生きたイエスを忘れることができない。その意味でイエスはキリストとなり彼等ひとりひとりに再臨したのでは、と結んでいる。著者は「人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる」と記しているが、宗教の本質を端的に指摘しておられると思い、感嘆する。

  •  イエスの生涯の続編とでも言おうか、キリストの誕生という本書。単純に、何が違うのかと思ったが、読み進めるに従い、きちんと、イエスとキリストを使い分けて題名にしていたことに気付いた。

     いわずもがなだが、イエスは個人のことで、キリストは救世主という意味で使っている。本書は、イエスが十字架にかかって後、キリスト教が起こるまで、どのような騒乱などがあったか、ということだ。単純に、イエスが死んで直ぐにキリスト教が起こったわけではなく、既存宗教であるユダヤ教との確執など、大きな動乱があったことは思い浮かぶ。

     さて、イエスは死の直前、「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」という言葉を叫んでいるが、特に、ここの部分は、イエスといえども神に絶望したのか、と早合点してしまいがちだ。しかし、この解釈は、当時のユダヤ人の習慣を知らないために生まれたものであると著者は言う。この言葉は、詩篇二十二篇の「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」の悲しみの訴えであるが、詩篇を読んだ人は、この悲しみの訴えがやがて「我は汝のみ名を告げ、人々のなかで汝をほめたたえん」の神の賛歌に転調していくことを知っている。この言葉は、決して絶望の言葉ではなく、神を讃美する歌の冒頭部なのだ。事実、ルカの福音書によると、イエスがこの言葉の後しばらくして、「主よ、わが魂をみ手に委ねたてまつる」という詩篇三十一篇の祈りを口にして息を引き取るが、それはイエスが「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」から始まり、
    われ わが魂をみ手に委ねたてまつる
    主よ まことの神よ
    汝は我をあがなわれたり
    の三十一篇の祈りまでを苦しい息の中で祈っていたことをはっきり示しているのだ。つまり、十字架上で人々に語りかける力を失ってからもイエスは朦朧とした意識のなかで詩篇の1つ1つの祈りを唱えていたのであろう。

     生前のイエスは、ユダヤ教徒としても恥ずかしからぬ日常生活を守ったが、心のこもらぬ宗教規範や、義務だけのための宗教生活を重視しなかった。イエスはそうした形骸化したものよりも、人間の哀しみと愛だけに最も価値を置いた。「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のためにあるのだ」という言葉や「人の作った神殿の代わりに、私は三日のうちに別の神殿を建てるだろう」という発言は、彼がユダヤ教徒が何よりも大事にした律法やエルサレム神殿を人間の哀しみや愛よりも問題にしなかったことを示している。にもかかわらず、初期の使徒たちは、イエスを次第に人間以上のキリストとして崇めながらも、相変わらず、律法や神殿を重視する生活を続けていた。イエスの従兄弟ヤコブは敬虔なユダヤ教徒だったからこれらの二つを冒瀆するなど夢にも考えなかったろうし、慎重なペトロは、イエスの精神をしっていながら、表向き神殿と律法を尊重する態度を見せた。そこにステファノを中心とする「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」がこうした使徒たちに不満を持ったとしても不思議ではない。ステファノたちはイエスをユダヤ教のすばらしい改革者だと考えていた。イエスはエルサレム神殿も律法も愛よりは低いことを人生をかけて教えたからだ。そのイエスの改革の精神は使徒たちに受け継がれていない。更にこの「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」はかつて異邦人、つまり、ユダヤ教ではない外国人とも多く接触していたから使徒たちのように閉鎖的ではなかった。しかし使徒達はユダヤ教の枠の中で異邦人を仲間に使用とは夢にも考えなかった。ステファノたちはこのへんに不満を持ったのだろう。ステファノはこれらの使徒達と袂を分かち、独自にイエスの教えを伝え、広めていこうとするが、当然にして迫害に遭う。迫害の代表的な者はソウロという者だ。キリストの教えに同調する信徒たちは逃亡し、ステファノは石打ち刑にあう。しかし、信徒はこの迫害や逃亡によって、くじけるどころか、逆にその信念を強固にしていった。迫害によって、かえってイエスをキリストと頼む気持ちとイエスの再臨を信じる心は深くなっていた。

     ソウロは、信徒が迫害の苦しみに耐えてまで、なぜイエスの再臨を待っているのか、なぜ、彼らは神殿を否定しながら生き生きとした信仰をもっているのか、考えさせられたのは当然であろう。ソウロから見ると、彼らはイエスと呼ぶくだらぬ男をキリストと仰ぎ、その再臨を信じているのだ。

     我々日本人には理解しがたいが、当時、ユダヤ人の六百十三の律法のなかで最もきびしく守らねばならないのが、割礼と安息日の二つであった。割礼をユダヤ人たちはたんなる民族的風習とは決して考えていなかった。それは彼らの祖先に神が教えた神聖な契約の徴だった。割礼を行うのは神に選ばれた証明であり、神の民となった記号でもあったのだ。
     神はアブラハムに言われた。「男子は皆、割礼を受けねばならぬ。これは私とお前たち、及び後の子孫との契約であって、お前たちが守るべきことなのである」(創世記 十七の9~10)
    「割礼を受けぬ男子、すなわち前の皮を切らぬ者は私との契約を破るゆえ、民のうちから断たれるだろう」(創世記 十七の十四)
     この神の契約の徴をユダヤ人たちは行う。だが、異邦人たちは行わない。異邦人とはユダヤ人にとって割礼-神との契約をむすんでいない人間達のことなのだ。

     割礼と共に彼らが重視したのは安息日の厳守である。安息日とは週に一度、我々の暦の金曜の夕方から始まり、土曜の夕方に終わる。この間は今日でもエルサレムの店は閉じ、ホテルでさえ飲酒、喫煙は旅行者に許されぬ時もある。イエスの時代は更に厳格であり、エッセネ派では安息日に信者が排泄することも許されなかった。ラビ(教師)たちはさまざまの不可解な禁止事項を作ったが、たとえばその中にはランプを消すこと、綱を結び解くこと、二つの文字を書くことも許さぬというような常識を超えた項目さえある。我々には滑稽で不可解なこれらの禁止事項は、しかし安息日の神聖をあくまで貫こうとする信念から生まれたと考えれば、理解することができる。割礼も安息日もその根底には選ばれた民がユダヤ教の純粋を徹底的に保持しようとする意志のあらわれなのだ。それは観念などではない、血肉化された彼らの歴史であり、現実であった。割礼を行わざる異邦人を仲間にすること、それは、ユダヤ人たちにとって歴史を冒瀆することであり、神の神聖を犯すことであり、自分たちを裏切る行為だった。彼らはユダヤ教の会堂に異邦人が話を聞きに来ることは拒まなかったが、自分たちの共同体に入れることは拒んだ。もしそれに加わる意志があれば、割礼と安息日の義務を厳しく要求した。

     安息日と割礼の重要性。これを無視して我々は聖書をそのまま読むことは出来ない。あるいは、使徒行伝を軽々しく読むことも出来ない。たとえばイエスが「人は安息日のためにあるに非ず、安息日こそ人のためにあるなり」と発言したとき、それはたんに人間性の重視などという単純な問題ではなく、ユダヤ教が守った神聖に対して、愛の神聖さで挑んだ危険きわまる発言だったのだ。同時にまた、初期のキリスト教徒が異邦人に布教を試みるとき、いかに烈しい抵抗とためらいが教団の中でもあったかを考えねばならぬ。後世、キリスト教は、異民族に布教する時、その異民族の信仰と対立せねばならなかったが、イエスの死後十四年、原始キリスト教団がその母体であるユダヤ教を超えるためには、この割礼の障壁を破らねばならなかった。

     ただ一つの神以外のいかなうものをも信仰することを厳しく禁じたこのユダヤで、一人の男が神格化されることはほとんど不可能に近い。モーゼやダビデも神格化されなかった。なぜ、イエスだけがキリストに高められたのか。それを高めたのは弟子達と原始キリスト教団との信仰である。彼らの意志によってイエスは人間を超えた存在に神格化されていった。イエスは人の子といわれ、神の子となり、メシヤと呼ばれ、キリストになった。

  • 見捨てたイエスが処刑されるも弟子達を許してくれとかいってるし、すごく悪いことをしたなぁと。これはきちんと考えなきゃいけないぞと弟子達は恥じ、悔しく思った。誤解していた師を再発見したことで、イエスは人の中に復活した。こうして徹底的に考えたものがのちのキリスト教の母体となる。けどユダヤ教の枠を出ず、そのためか異教であるとはみなされずに容認されていた。けどちょっとずつユダヤ教に疲れた人たちにキリストが広まっていったので、あるとき弾圧されたもんだから逆にエネルギーが強まり、キリスト布教活動が本格化する。けどその後グループに亀裂が入る。異邦人相手に布教してもいいんじゃないかという派閥と、異邦人はやめようぜという慎重派。推進派のステファノが神殿よりも愛でしょっていったイエスに倣って、ユダヤ教が崇拝する神殿否定を行なったためにボコボコに殺される。殺しに参加したのがのちに出てくるボーロ。離散派とエルサレム残留派に完全に分かれていくが、離散派はどんどんユダヤ教以外の異邦人に浸透していく。その離散派にことごとく影響を受けたのがボーロ。彼はステファノ殺しに参加したが、それら はユダヤ教が重んじる律法主義に限界を感じでいたから、それを戒めるためにステファノに石打を食らわせたのだった。イエスか律法かと問われたかれはついに改宗し、異邦人布教活動の急先鋒となる。

    その頃エルサレムでは事件が。暴君カリグラが即位し、自分を神として礼拝しろと言ってきた。もちろん反対したユダヤ人がカリグラの銅像を壊したところ、カリグラは軍隊を派遣しユダヤ人殲滅に動き始めた。世の終わりに近い終末観の中で、キリスト教は多くの改宗者を獲得していく。キリスは見捨てないと。カリグラ暗殺など諸所ありユダヤ教は難を逃れる。

    なぜ、エルサレムの慎重派やユダヤ教が異邦人嫌うかというと、ユダヤ人は律法に定められている割礼と休息日を守っているから。それによって神に選ばれたものだと信じているから。それをしない異邦人は受け入れられない。それでも異邦人布教を続ける離散派にとのあいだに、とうとう会議が開かれることになった。これがエルサレム会議。離散派急先鋒のボーロは、かつてユダヤ教信者であったゆえにユダヤ教の律法の限界を考え抜いた末に感じていた。律法の限界とはつまり「私の欲している善はしないで、欲していない悪を行なっているのだ」とのこと。キリスト以前のイエスに焦点をあてていたエルサレム慎重派(弟子派)と、イエスではなくキリストとしての復活に興味があるボーロ。ボーロは律法の限界から人間を解放してくれ、神は人間とを和解するものとしてキリストを地上に送った。罪もない彼を人間の身代わりとし、人間の全ての罪を彼に負わせ、死を与えることで、救いの道を開かせた。ユダヤ教の枠を超えて布教しようとしたのだ。かたや弟子派も、そもそもユダヤ教から改宗したものも多い。それはそもそもユダヤ教は異民族に国土を蹂躙されてきた歴史があり、そのため常に異邦人を意識しなければならず、改宗したのもキリストこそがそのユダヤ人の苦しみを理解してくと信じだからであった。会議の結果、妥協点として異邦人達がいくつかの条件付きなら教団に入れようと決着した。

    その後外で布教を続けたボーロも弟子派のいるエルサレムも滅亡するが、外に布教活動を続けた結果、西アジアやギリシャ、ローマ帝国の各地へ広がっていき、信仰は守られ続けていると。

    成り立ち、仕組みが手に取るようにわかった。神の沈黙への課題はそれぞれどう昇華しているのかわからん。昨日飲んだ中山さんがクリスチャンだったのは驚いたけど酒の席とはいえこの手の話はご法度なので、わきまえて調べていきたい。

  • キリスト教がどのようにして誕生したかを,聖書ばかりでなく多くの資料をベースに小説家の視点で考察した名著だ.ステファノ事件,エルサレム会議,アンティオケ事件などが信徒たちに与えた影響,さらにイエスと会ったことのある使徒たちとポーロの議論の中で,神の沈黙,イエスの復活などをどう扱うのか悩む人たち.永遠の問題だが,それなりの解答が与えられたような気がする.

  • 2017/01/15 読了

  • 宗教概念を越えて、人生に迷う時に頁を繰る一冊です。人が求めるものとは何か、人を生かす力とは何なのか。
    己の人としての意味は何であるのか。
     
    そうした問いかけと道標であると思い読む本のひとつです。

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著者プロフィール

遠藤 周作(えんどう しゅうさく)
1923年3月27日 - 1996年9月29日
東京生まれ。父親の仕事で、幼少時代を満洲で過ごす。帰国後にカトリックの洗礼を受けた。1941年上智大学予科に入学したが、中退。慶應義塾大学文学部仏文科入学・卒業後、カトリック文学を学ぶためにフランスへの留学。帰国後の1954年『アデンまで』を発表し小説デビュー。1955年『白い人』で芥川賞を受賞し「第三の新人」として脚光を浴びた。
1958年『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞及び第12回毎日出版文化賞、1966年『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞、1979年『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞、1980年『侍』で第33回野間文芸賞などそれぞれ受賞。1995年に文化勲章を受章している。
上記受賞作のほか、1993年刊行『深い河』もキリスト教と日本人をテーマにした代表作と見なされており、映画化された。60年代以降「狐狸庵山人」(こりあんさんじん)を名乗り、様々なエッセイを記した。数々の作品が欧米で翻訳され高い評価を受けており、存命中ノーベル文学賞候補だったこともよく知られている。

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