死海のほとり (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123189

感想・レビュー・書評

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  •  先に『沈黙』と『イエスの生涯』を読了していたため
     テーマに新鮮味を覚えらなかったのが個人的に残念な点。

  •  この小説は二つの話が交互に出てくる。
     一つは現代(といっても戦後30年後くらいの話だが)においてかつてキリスト教系の大学に通っていたが、信仰を捨てた(あるいは見失った)、同級生だった二人の中年の男がイエス・キリストの足跡を辿る旅をする。
     もう一つは過去のイエス・キリストの生涯が書かれている。
     過去の話は実際にイエス・キリストと出会った人々が彼に対して何を感じたのか、ということに焦点が当たっているように思える。現代においては聖書やその足跡を辿って見えてくるイエス・キリストに対して何を感じるかということが主題に感じた。ただ、現代においては、後半はネズミと呼ばれる神学校時代の修道士に焦点が当たってくる。
     ここで過去の話に出て来るイエス・キリストは、奇跡も起こせないただ愛を説くだけの無能な人間として描かれている。そして、それは現代においてもそう見えるように描かれている。
     これは従来のキリスト像を持っている人にとってもしかしたら強烈なイメージを植え付けるかもしれないが、単にキリスト教への信仰というものを一度フラットに考えさせるためであると思う。
     奇跡を起こせないキリストが何故信仰を得るに至ったか。それを過去に出会った人の心情と現代における棄教者の旅を通じて描かれている。
     私はキリスト教徒ではない。しかし、キリスト教徒の気持ちが知りたいとは思う。彼等は奇跡ゆえにイエスを信仰するようになったのか。ただ、それはおかしな話で奇跡を起こすから家族を愛するのか。奇跡を起こすから他人を愛するのか。そんな自己利益のためだけに人を愛するのか。そうではないだろう。人を愛するという行為はそうではなくもっと呪いに近いように語られている
    (『「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
    「なぜ」
    「わたしが、その人をいつまでも愛するからです」』
    250ページ)

     小説内に明示されている謎は以下の二つだ。

    ・「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」
    ・過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」

     「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」については、作中でキリスト自身が発言している

    『(すべての死の苦痛を、われにあたえたまえ
     もし、それによりて
     病める者、幼き者、老いたるたちのくるしみが
     とり除かるるならば)』
    『「もっとも、みじめな、もっとも苦しい死を……」』
    (359ページ)

    というのが全てなのかもしれない。彼は愛のために生きた。だから、最後は愛ゆえに、全ての人類の罪を背負って死ななくてはならない。仮にそれが無意味な行為だとしても。
     だが、結局のところ「愛」とは何なのだろうか。自己犠牲の利他的な行動、共に苦しみ、共に悲しむことが単なる「愛」なのだろうか。神の愛は無償の愛だとして、人間の及ぶところではないとしたら。所謂神の救いや奇跡の類は愛ではないとして、我々は何を信じればいいのか。正義とは、正しさとは。もしかしたら、それを知っているのはイエスだけなのかもしれない。どことなく終末思想にすら感じた。イエスは神の怒りや律法に耐えかねて愛を求めた(150ページ)。そこに必要だったのは「愛」。経済でも子孫でも科学でもパンでも人類の永遠の発展でもなく「愛」。
     
     過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」について。
     まずなぜ信仰を得るのかについては、過去においては単純にキリストの優しさや人となりに触れたからだろう。現代において、「私」は親がそうさせたからというのが分かる(ちなみに、これは遠藤周作本人もそうらしい)。戸田については分からない。何か強烈な体験があったのだろうか。
     なぜ信仰を捨てるのかについては、過去においては、その惨めな奇跡も起こせないキリストの姿に失望したからであると書かれている。現代において、「私」については具体的には書かれなかったが、戦争体験やその後の小説家人生を経て、徐々にキリスト像を見失っていたのかもしれない(ただ、「私」は学生時代からそこまで深く信仰していたわけではない)。戸田については、聖書の研究をしていくうちに、従来イメージしていたキリスト像とかけ離れた現実のキリストが見えてきて、失望したのかもしれない。この二人は信仰の大きさに違いがあれども、ともにキリストを見失うというのが面白い。「私」は奇跡も起こせないキリストに失望するが、戸田については仮に理想像と現実がかけ離れていたとしても、そこまで失望してしまったのだろうか。
     そして、過去においても現代においても、再度信仰を得ることになる。ここでいう信仰は一度所持していた、ある意味で盲目的な信仰とは異なる。キリストが愛ゆえにその人の人生を横切ったために、キリストに付きまとわれ、囚われ、忘れることができなくなる。そして、人によっては、愛ある行動を他の人にも行っていくのかもしれない。

     やっぱり難しいと思うのが、キリストが言う「愛」の意味が自分でもよく分かっていないからかもしれない。また、その「愛」に殉じて生きることの意味、正しさ、正義、ひいては人生の意味。それがうまく自分の中でも答えが出てこない。そして、これからも戦い続け、消耗していくのかも。
     この作品は「イエスの生涯」と表裏一体と作者が仰っているので、引き続き読んでいきたい。

  • 著者は聖書原理主義や三位一体を否定している(と思う)。病人をひたすら癒しながら力を持たず暴力にさらされる姿を見習うべきか、迷った。万能の力を持つイエス・キリストのイメージが打ち砕かれた。

  • 信仰を追い求めてエルサレムにやってきた小説家の私と学生時代の友人でエルサレムに住む戸田が、イエスのたどった道を辿りながらイエスを追いかけるという話。
    戸田は気が付いていたみたい。イエスはけっこう造られた虚像であること。
    でも、その方がより現実的で、人間的なのかもしれない。
    あまりにも無力で、そんな男が多くの人を愛した。
    一人一人の人生を横切って残した痕。それは消えない。
    これから先も私と戸田には今まで通りイエスは消えないだろう。

  • 朝の礼拝で紹介された本です。

    【紙の本】金城学院大学図書館の検索はこちら↓
    https://opc.kinjo-u.ac.jp/

  • キリスト教でもなければイエスについてそこまで詳しいわけでもないのだが、イスラエルに滞在経験があり、ゆかりの地をあちこち回ったのでそのときの記憶とともに読み進めました。とかく神聖視されがちなイエスだが、実際のところその生涯は惨めでみすぼらしく、失望され、罵声を浴び続けてきた。しかしいつも苦しんでいる者悲しんでいる者のそばに寄り添うことをやめなかった。矛盾するようですが、自分はきっとイエスのような人間にはなれないと確信すると同時に、これまでで最もイエスを身近に感じられる、そんな小説でした。挟まれる私小説で語られる「ねずみ」のエピソードにより、そんなイエスの存在がよりくっきり浮かび上がる仕組みになっています。初めて読みましたがすごいです、遠藤周作。

  • 日本人の巡礼と、イエスの時代が交互に語られる方式。日本人は虚像のイエスと戦中に疑問をもってしまった信仰とに苦しんで捨てたのだと感じるイエスから逃れられていない。「真実のイエス」
    として語られる古代ユダヤパートのイエスは、愛を説き、迫害される人々に寄り添うけど誰も物理的に癒せずに人々を失望させ続けやがて迫害される。その姿は日本人パートで疑われている姿そのもの。

    古代ユダヤの人たちがあまりにも現代人の価値観すぎるけどむしろこれは仕様なのかもしれない。あくまでも語りたいのは日本人の信仰であって古代ユダヤの人たちはダシだったのかもしれない。

    遠藤周作のイエスは弱い。タイトル忘れたけど昔見た洋画のイエスも弱かった気がする。イエス像にも流行りがあるのかな。

    書きながら思ったけど、むしろ古代ユダヤパートひ、日本人がわの想像なのかもしれない。もしくは、戸田の中にいるイエス。

    地元図書館Bエ

  • やはりというか、暗く不気味な物語であった。現代の『私』の旅行記・回想と、イエスの生涯の一部が交互に語られていくが、何せよどちらも暗い。
    物心ついたときからキリスト教徒に「させられていた」主人公が、棄ててしまった信仰の原点を求めにエルサレムへ。だが、イエスの影など跡形もなく、曖昧な聖書の記述にそって決められた、イエスを記念する場所。
    民衆から見放され、ゴルゴダの丘へと至るイエスの姿は、後に西洋世界の、ひいては世界全体の歴史に大きな影響を与えることになったキリスト教のいう『神の子』のイメージからはあまりにもかけ離れている。とにかくみすぼらしい。
    そして、『私』の回想の中でたびたび登場する『ねずみ』。これもキリスト教徒でありながら姑息な人間で、最終的にはホロコーストの犠牲となってしまう。

    なぜ『私』が信仰を棄ててしまったか。戦時中の狂信的全体主義の中で、信仰を続けることが困難であったか。自ら選んで信仰したわけではないからか。はたまた、『ねずみ』がいたからか・・・。

    本書を読んでいると、ここまで多くの人間が、なぜキリスト教を信仰しているか、よくわからなくなってくる。全ての人間から見放されてしまったイエス、キリスト教徒でありながら、犠牲となってしまった『ねずみ』。宗教は私たちを幸福にするのか、不幸にするのか、筆者からその根源的な問いを投げかけられている気がする。それは現代においても変わっていない。

    本書に存在する一縷の望みといえば、イエスが最期に残した言葉くらいのものだろうか。

  • 愛すること・人間の美しさ

    弱さ・醜さ

    これらが果たして不可分ではなかったかと、いろいろな人間の底をつないでいくような小説
    さすがの筆力

  • イエス・キリストの真の姿に迫る名作。イエスの実像は聖書に描かれている姿とはかけ離れた、みすぼらしく、人々から嘲られ、惨めな一生を送ったと描かれるが、イエスが周囲の人々に示した愛は、関わった人々の心に深く刻まれていく。並行して語られる現代の物語との後半のシンクロは圧巻。
    僕はキリスト教信者ではないし、聖書物語も信じていないが、この小説でイエスが示した愛は信じる。

  • 愛はこの世で一番、非力で無力なものであった、とイエスが十字架で処刑される際、周囲の人間はつぶやいた。が、すべてが終わった瞬間、愛はこの世で一番美しく、力強く、人々の心に生き続けた。何故、イエスが人々の心に残り、我々の人生に影響を与え続けるのか?目を閉じ胸に手をあてて心に問い続けたい。

  • 遠藤周作の作品を読むと、望みもしないで生れ落ちてしまったこの美しい世界でなんとか生きていくための「同伴者」としてのイエス像を描いていると思う。

  • エルサレムにキリストの面影を求めにきた作家とキリスト教を捨てた友人、そしてキリスト自身の最期の物語とを、重ね合わせながら進んでゆくお話。

    遠藤作品は、キリスト教をテーマにした作品が多いのは周知だが、西洋的なものでなく、日本の風土と習慣、そして思想にいかに昇華するか、を描いている点に私はいつも惹かれる。

    「沈黙」「侍」「深い河」と読んだが、これらにあるような一環したドラマとしての面白さはなく、淡々と、苦しいほどに綴られていくが、遠藤周作の、”キリスト教”観が、とても解る一冊だと思う。

  • いろいろあると思うが、私は腑に落ちた。この本は、手元に置いておくことにする。

  • 出口先生の現代文から影響をされてロドリゴさんも神父さんもまだなのです。いい本なのです。がんばります。

  • ちょっと詰め込み過ぎのように思う。
    大祭司アナスがほったらかしのように思うし、ピラトももうちょっと書いてほしい。
    実のところ、この本の中で、ピラトが母を見捨てたところがいちばん心に来た。

  • 古い単行本は味がある。
    昭和48年発行の単行本を古本屋で見つけました。遠藤周作さんは歴史に出てくるいろんな人たちの作品がおもしろくすてきですが、宗教者としての作品はとても比重が高いように感じます。読み応えのあるとても良い作品でした。

  • 人間なら誰しも経験する思考の壁。
    殉教者としてのイエス、人間としてのイエス、宗教者としてのイエス。
    いずれのイエスも高尚な魂ではなく、地面を這いずって力を振り絞って見つけた姿である。

    巡礼者として、現代の死海のほとりに立ち、古のイエスの姿を追う遠藤。
    だれしもが一度は心のほとりに立つのではないだろうか。
    哲学書にも思える小説なのだが、強いカリスマ性はなく、むしろ弱い心の中を行き来する人間の弱さを見つける旅かもしれないと思った。

    次に続く、イエスの生涯やイエスの誕生を読み合わせて、初めてこの人間の迷い、イエスの迷いの心がわかる気がした。

  • 神に恨みを述べるイエスの最後(最後から2番目?)の言葉がいつも気になる。この小説では特に。

  • 「死海のほとり」遠藤周作

    「エルサレム市の裏通りにある倉庫のようなホテルで戸田を待った。ながい間、会わなかったこの学生時代の友人は、ローマから出した葉書を受けとってくれているなら、今日、私がこの国に着いたことを知っている筈である」

    かつて神父になろうとまでした戸田は「まだ、あんた、あの男のことが気になるの」と皮肉をもって私を迎える。聖書学を続けている戸田の信仰は、学生の頃と比べ純粋さを失った。私も同じだ。しかし同様にイエスにこだわっている。

    そんな調子で思い出話をしながら、気だるくイエスの痕跡をたどる二人に復活は訪れるのか、みたいな作品です。結構ガツンときます。おすすめです。

    04 けいじ

  • 日本人の視点からしか描けないキリスト像。奇跡など起こせず、みじめな、まさに人間以下のものとして死んでいった「駄目な人」として描かれている。キリストが残した「愛」の形とは何か…。それが分かったとき、キリスト教への考え方が変わった。

  • 110115購入。110123読了

  • いつもあなたはいる

  • p31
    「おいきなさい、触れませんから」
    p84
    「そばにいる。あなたは一人ではない。」
    p99
    (俺に何の関係がある。俺はもう、あの人から離れたのだから)
    p101
    あの人の運命を気遣うよりも、あの人に従った自分に累が及ばぬかという不安のほうが先に胸を走った。
    p149
    大工が言っているのはただひとつ―結局、私のような老人には時には世間知らずの若者たちが口にしすぎるために肌寒く響く、あの愛ということだったのだ。
    p152
    大工の生涯は、結局、一人の人間もつかまえることができなかったのだl
    p244
    「これでも俺、この国に来て随分、勉強したんだよ。」
    p288
    「私のことを・・・・忘れないでください。」
    p310
    その声はもう聞き取れなかったが、彼が何をつぶやいているのか、百卒長だけが知っていた。
    p341
    「いいさ、俺は今日、食べたくないのさ、とかれは恥ずかしそうに呟きました。」

    いやー、やっと読みました。・・・・重い。最初から最後までずーっと同じテーマで、どんどん重く深めていく感じでした。考えさせられる。時々気恥ずかしくなってしまうけれど。
    心に刺さる。

  • 「わたし」の聖地巡礼の旅と、イエスの生涯が交錯するお話。

    イエスを人間らしくとらえ、描いている。

  • 死海のほとり

  • 奇跡など起こせない無力なイエス。弟子からも見捨てられながら、愛のみを語って惨めに死んでいったイエス。
    信仰に躓いたがゆえに求め、探し当てたイエスの姿は、福音書に書かれた力ある救世主とはかけ離れたものだった――。

    福音書の脇役たちが見た「何もできぬ男」イエスのエピソードと、「私」がイエスの足跡を求めて死海のほとりをさまようエピソードや学生時代の回想が交互に語られる。バラバラに見えたエピソードは次第に像を結んで、最後には『同伴者イエス』を浮かび上がらせていく。
    それはまるで、著者のクリスチャンとしての葛藤と悟りとをそのまま表しているようだ。

    三部作である『イエスの生涯』『キリストの誕生』と共にお勧めしたい。

  • 限りなく優しく非力なイエス

  • 私の知っている奇蹟と神秘のイエスではなく、1人の人間としてのイエスが描かれている。「役立たず」「何も出来ぬ男」とののしられ、ただ泪を流すだけのイエス。(何も出来ない人間は嫌われるのか?だったらこの世は生きるにあまりに辛すぎる。)疲れきったイエス。分かっている、分かっている。民衆を責めてはいけない。彼らは知らぬのだから。何が哀しいかって、私もその場に居たら、知らない民衆の一人になるだろうから。彼らと同じく、目に見えるものしか信じないだろうから。

    熱心なキリスト教徒だと勝手に思っていた。その遠藤周作にこんな苦悩があるとは知らなかった。てっきりカトリックの洗礼も自ら進んで受けたものと。キリストとの関係が彼の心に重くのしかかる。この、矛盾で溢れかえっている世に堪えられなくて、僕も遠藤氏と同じく、キリストを風化させざるを得なかった。どちらが正しいのか分からなくて。僕はただ真実が知りたい。この世の真理を問いたい。僕はファウストにもイワン・カラマーゾフにもなろう。

    ‘死の匂い’人生のむなしさ、空虚さ、はかなさ、無力さ、わびしさ、そんなんで胸が一杯になる。神という絶対者の前に自分がどれだけ惨めで、か弱い邪悪な存在であるかを思い知らされる。後戻りができない。虚脱感が僕を襲う。そんな投げやりの人生観にすごく共感する。この死んでいく感じ、たまらない。灰色の世界観。

    人間は貴女が思っている程悪い存在ではない − 最近やっと分かってきた。だから余計に自己嫌悪に駆られる。(イヤな俺、イヤな俺)30、偽善、人間性悪説・・・遠藤氏の作品に共感を覚えないではいられない。

    「神もさびしいのだ」40、絶対者ではなく、人間的な神。決して強い存在ではなく、寧ろ弱い存在。共に泪を流してくれる存在。そうと知ったら優しくなれる。何か人懐こくて、温かいね。

    強い原罪意識の中で壊れないはずがない。汚れ、穢れに惑溺しながら、悲しみ、哀れみ、蔑みの中で、狂人として生きていくしか術がない。だから、あなたにどれだけ救われ、慰められたか。
    40「神は…辛い者のながす泪や、棄てられた女の夜の苦しみのなかにかくれているのだ」
    88「神殿や祭りや神に羊を捧げる犠牲より大事なもの・・おのれの惨めさを噛みしめること」

  • ボクが買ったのは、箱入りハードカバーの上製本だ。

    周作さんでは、最も影響を受けたのがこの『死海のほとり』で、特に「アルパヨ」の章は鮮烈なイメージを受け取った。

    (この項、書きかけ)

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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