死海のほとり (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
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本棚登録 : 713
レビュー : 74
  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123189

作品紹介・あらすじ

戦時下の弾圧の中で信仰につまずき、キリストを棄てようとした小説家の「私」。エルサレムを訪れた「私」は大学時代の友人戸田に会う。聖書学者の戸田は妻と別れ、イラスエルに渡り、いまは国連の仕事で食いつないでいる。戸田に案内された「私」は、真実のイエスを求め、死海のほとりにその足跡を追う。そこで「私」が見出し得たイエスの姿は?愛と信仰の原点を探る長編。

感想・レビュー・書評

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  • 『沈黙』で有名な、遠藤周作の小説。



    啞に口を開かせ、盲に見えるようにし、死んだものを生き返らせ。あるいは圧制者から自分たちを解放させる。そのような「奇跡」への人々の渇望。

    このような日々の直接の即物的な苦痛から解放させる業こそが奇跡と呼ぶことを認められるのであれば、きょうび、自分らが生きているこの生活状況などは奇跡の恩恵そのものとも見えてくる。病による意識の混迷、うわごとなどが悪霊の仕業と人々がみなが恐れ、家族でさえその病人をほとんど見放すようにして隔離した時代である。当時のユダヤ人にとってみれば、現代の科学、医療技術などほとんど魔法に見えもしよう。だれが、この現代の(すくなくとも日本の)日常にあるような快適、あるいは安心を予想したか。

    しかし、そのような神話のようにして伝承され当然懐疑の的ともされるべき、いわゆる「奇跡」、これがイエスと言う男の偉大さを保障するものであるとみなすべきか。

    否。イエスの偉大さはそんなところにあるのではない。技術でもってとって替えられるようなそんな効用に応えるべく期待された(期待される)「奇跡」などに、ということはできない。

    ではどこにそれは。

    …愛に。

    あぁあと思わず赤面してしまいそうな。歯が浮き上がるこの言葉。ではあるがしかしやはり、
    あの誰も救うことのできなかった愛にこそそれはある。
    人々が落胆した「毒にもならぬかわり、薬にもならぬ(p.294)」、そんな無力な愛に。そこにイエスの偉大さがある。

    愛などただ感傷的なたかが感情にすぎぬと、人は言うか。
    違う。イエスの愛はそれとは違う。なぜか。感傷は、痛みへの陶酔、もろい持続せぬ快楽の感情でしかない。それゆえ感傷は、外からやってくるそれ以上の圧倒的な負荷に耐えることはとうていできない。なるほどイエスの愛は、優しさは、たしかに何の役にもたたぬ、もっとも非力なものであったと一面では言うことができる。しかし、その愛は、空腹に耐えた。流血の痛みに耐えた。残忍に耐えた。嘲笑に耐えた。無理解と裏切りと孤独に耐えた…そして、死に耐えた。イエスは愛を、文字通り命をかけて、人々の前に示した。

    なぜ、あれほど無力で弟子にも見捨てられたイエスが死後、神の子と見られるようになったか。
    それは、イエスが我々の人生を横切るから、に他ならない。
    イエスと言う一つの生命が現象したこと、すなわち神のはかりしれない愛の現象であった、彼の生それ自体が、奇跡であり神秘であった。




    …というようなことを、おもわず納得してしまうような、そんな小説だった。いやはや。以下引用。


    (イエス)「わたしは……一人一人の人生を横切ると申しました」
    (ピラト)「それでは、私の人生も横切るつもりか(…)そして私の人生にも、お前の痕をつけるのか(…)だが私は、お前を忘れることができるぞ」
    「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
    「なぜ」
    「わたしが、その人をいつまでも愛するからです」(p.211)

  • [希求の末に]近くに赴いたついでにエルサレムに立ち寄った著者は、大学時代から聖書を研究していた戸田に案内を依頼する。キリスト教に対する熱度は往時の頃と比べて衰えながらも、イエスの足跡を必死に探す著者であったが、戸田は行く先々で皮肉な笑いとともにその思いを跳ね返してしまう......。エッセイ的記述に聖書の物語を挟み込んだ作品です。著者は、本書をしてもっとも「その人らしい」と言われる遠藤周作。


    遠藤氏が抱え込んでいた霧がかった心情を把握するために極めて適した一冊だと思います。個人的には遠藤氏はキリスト教の教え(特に無償の愛という点)そのものには共感を抱きつつも、現世に見られる数々の問題に対して人一倍の敏感さを備えてしまったが故に、その教えを最後まで信じきれなかったのではないかと。どこまで普遍化できるかは判然としませんが、遠藤氏の問題意識は極めて「日本的」「近代的」と言えるのではないでしょうか。


    純粋に物語として引き込まれることができるのも本書の魅力の1つ。人間の弱さを見せ続ける「ねずみ」と呼ばれた人物に関するエピソードは読む者をして深い思索に誘ってくれるはずです。なお、本作は『イエスの生涯』という作品と裏表をなしているのですが、個人的には『イエスの生涯』を読んだ後にこちらを読むことをオススメします。

    〜付きまとうね、イエスは。〜

    (涙を誘うものではなく)じーんと来る読書でした☆5つ

  • ■『死海のほとり』 遠藤周作著 新潮文庫

    【全編4 メシヤ降臨とその再臨の目的】
     遠藤周作の力作です。イエスの歴史的実像とは一線を画し、我々においてのイエス、そして救いとは何であるかを問うています。追記にありますが、同著者の『イエスの生涯』と表裏をなす作品であるということです。『イエスの生涯』はイエス自身の歩みとその真実にスポットを当てていますが、こちらの『死海のほとり』はイエスを取り巻く群像の目線からイエスを描き、2000年後のイエスから離れることができない男たちの目線からイエスを語ります。
     原理の理解としては、後編のイエス路程よりも、前編の「メシヤの降臨とその再臨の目的」のほうが、内容的には該当すると思います。イエスによる救いとは何であったのか、がより大きな焦点であると思いますので。

     作中は二つの視点が対位法のように独立ながらストーリーを組み立てていきます。時代的に2000年の隔たりがある二つの視点ですが、内的にはイエスを軸として、外的にはイスラエルを軸としながら最終的にはイエスによる救いの真実を実存的に問いかける地点で着地します。
     一つ目の視点は<巡礼>というタイトルで括られたもので、現代に生きる男がイスラエルの旧友を尋ねるところから始まります。男はカトリックの家に生まれ、親に連れられるまま教会に通い洗礼を受けた過去があります。戦時中、キリスト教系の大学寮に入っていたため、ノサックという神父とコバルスキという修道士との関係が生まれました。様々な同僚と共に厳しい環境を学生という身分で過ごしていきますが、自覚的な信仰など持ち合わせていない男はぼんやりとその神父や修道士の姿を見つめていました。ここで同僚として過ごしていたのが、のちにイスラエルにおいて訪ねる友人、戸田です。生まれながらのクリスチャンとしてぼんやりと自覚もないままに信仰を持っていた男に対し、ここで信仰に目覚めた戸田は、皮肉屋でもありますがバリッとした信仰を持ち、潔い姿で毎朝の祈りもささげていました。
     この話で肝になるのがここで登場するコバルスキという修道士です。ユダヤ系のポーランド人のこの修道士は、手足は細く子供みたいで、異常なほど臆病で、修道士かと疑うほどに狡く姑息な性格でした。非力で何をやらせてもぎこちなく、寮生からは「ねずみ」とあだ名されていました。戦時中なので信教の自由も拘束され、神父や修道士もひっそりとしかいることが難しい時代でした。そんな中でねずみは自分を守ることに必死で、最後には修道士の立場も追われ祖国に帰されるようになります。その後の噂では、ナチスにつかまり収容所に送られ、そこで殺された、ということでした。
     時代がすぎ、現代。作家になった男は、いろいろな夢も破れ信仰も捨て、諦めの中で人生を過ごしています。仕事の関係でヨーロッパに来ていましたが、その帰りにふと、イスラエルにおいて聖書研究をしている旧友の戸田を思いだし、その元を訪れることにしました。再開してみると、戸田も信仰を捨てていました。しかし二人に共通することは、信仰は捨てていてもイエスから離れることができない。何時までも心に付きまとうイエスの影に心とらわれながら、二人はイスラエルの巡礼をします。ほとんど観光地と化したイエス所縁の地を巡り、歴史を講釈し現実を鼻で笑う戸田と、そんな乾いた説明を聞きながら一々心に刺さるイエスに、「ねずみ」を思いだす男。巡りながらそんなイエス像とねずみが分かちがたく結びつけられることを、男は不思議に思います。

     もう一つの視点は<群像>というタイトルのもとにまとめられた、2000年前のイエスと関係した6人の男の記憶です。奇跡を待つ男、アルパヨ、大祭司アナス、知事、蓬売りの男、百卒長の6人です。それぞれが何らかの形でイエスと関係をします。ある者は救われ、ある者は裏切られ、ある者は政治的に利用し、ある者はストレスのはけ口として、ある者は仕事の患いとして、ある者は同情するものとして。しかし全てに共通するのは、イエスを捨てるということです。この中のイエスは、本当に力がない姿で描かれます。人々に奇跡を求められても「私にはできない」と悲しき顔を浮かべ、病気の人がいればただそばで手を取って祈ることしかできない。「愛」ということがたびたび使われますが、愛とはこんなに非力なのかと、打ちのめされるほど、弱き姿で描かれます。
     描き方として巧みなのは、既成のイメージでイエスを見ることを極力避けるようにではないかと思うんですが、福音書に登場する主要人物の名前をあまり登場させません。特にアルパヨの視点からは、12弟子たちが直接描かれますが、そのままの名前をほとんど使っていません。アルパヨというのもアルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)を指していると思いますし、最後まで共にいるシメオンはシモン=ペテロのことでしょう。ちょっと本が手元にないので、確認が難しいんですが、あと二三そんな弟子たちが出てきます。全部がそういうわけではないんですが、ある程度抽象化させながら、イエスの事実ではなく真実を伝える努力がうかがえます。そういう描写に導かれて、イエスの姿が浮き彫りにされていきます。

     最後の章で二つの視点が交わります。2000年前のイエスの真実。奇跡を起こした超人的なメシヤではなく、愛を尽くすことしかできなかった力ないイエス。そして二人の信仰を捨てた男が、それでも捨て切れることができずに心をつかまれたイエス。それは「同伴者イエス」という姿で結ばれます。
     収容所に送られたねずみの最後を知っている人物から手紙がきました。収容所でもどこまでもあざとく、自分を守ることしかできなかったねずみでしたが、年下の男(手紙の送り主)には多少優しさを見せることがありました。収容所なので労働力にならない人間はすぐに処分されてしまいます。そしてその死体に残る脂肪を集めて石鹸にされるそうです。非力なねずみは立場のある人間に阿りながら、なんとか死をまぬかれようとしますが、最終的には同じ受刑者たちからも捨てられ、獄卒からも労働力外の烙印を押され、死を突き付けられます。小便をたらし、涙を流し、動けないねずみですが、最後にひかれていく前、その男に一日一度の食事であるコッペパンを渡すのです。
     ひかれていくねずみのとなりにある幻が見えました。それは同じく足を引きずり、襤褸をまとい涙を流しながらよろよろと歩く男の姿でした。それは紛れもない、同伴者イエスでありました。
     
     救いとは何であるか、考えさせられます。奇跡では人間は変わりません。私たちの心が真実の愛を持たなければ、環境は変わっていかないのです。イエスができた事、それは共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣く、それだけだったというのが遠藤のイエス像です。イエスは語ります。「それでもあなたのそばにいる」と。どこまでもいぎたなく生きたねずみでありましたが、最後にコッペパンをあげます。ねずみは救われたなと、私は感じました。同伴者イエスの愛が最後にしてねずみの心に現れます。痛ましさの中にも、意味のある者が生まれてくることを感じるのです。

     あくまでも遠藤のイエス像です。聖書を拡大解釈している部分はもちろんありますが、イエスの愛の姿に大きく迫る名作であります。

  •  遠藤の作品で五指には入る名著。しかし今までなぜか読む機会を失していた。私も33になり、イエスの昇天の歳であるから、特別な何もないけれど、思いだけは引き締まる中でこの書を読み始めた。過去に遠藤の著作にはどれだけ触れただろうか、20~30だろうと思われるが、その文体に触れるとなぜだか安心する。鮮烈な刺激とは違う、どこかこなれた、気を使わない暖かさを遠藤は与えてくれる。いつでも懐かしいのだ。早くに触れて、もう読み終わったというだけで意識から外れてしまわなくてよかったと思う。今だからこそ深い感慨があった。

     二つの視点が対位法のように独立した旋律を奏で信仰する。一つのイエスという内的軸とパレスチナという外的軸を中心として。その視点には<巡礼><群像>というテーマが与えられ、現代のイエスを捨てきれない男の記憶と、2000年前のイエスを捨てた人々の記憶が、最終的には一点において交わる。
     <巡礼>においては、キリスト教の信仰を捨てた男がイスラエルを訪れ、大学時代の同僚に案内をしてもらいながら、イエスの足跡をたどる。同僚は大学時代に回心し、聖書研究の為にイスラエルに定住し、しかし信仰的情熱はすでにさめてしまっている男である。観光地になっているイエスにまつわる聖地を、でたらめとばかりに鼻で笑いながら案内する同僚。信仰は当の昔に失ってしまっているはずなのに、そんな同僚のもの言いに何か腹を立てる主人公。二人ともイエスを忘れることができない。キリスト教系の大学の寮で共同生活をしていた二人。その記憶をたどりながら、会話をぽつりと続ける。主人公の男がどうしても忘れることができない修道士の男がいた。コバルスキというユダヤ系ポーランド人で、ねずみと呼ばれていた。身体が子供のように細く、いつも泣きはらしたような眼をしている。人が怪我をすると貧血を起こし、自分が病気にかかると死にたくないと喘ぎ、人のおこぼれにはなんとかあずかろうとする、狡いねずみ。男はなぜかこのねずみが記憶から離れないのであった。
     <群像>の視点には様々な男が立つ。2000年前のパレスチナ。イエスの短い生涯に関わった6人の男がイエスを捨てる話である。病に倒れた子の回復を、イエスの奇跡にすがった男。イエスの弟子アルパヨ。大祭司カヤパの叔父である大祭司アナス、ユダヤ知事ピラト、ヨモギ売りの男、イエスの十字架をみとった百卒長である。全員がイエスに関わり、イエスを捨てる。個人的に、政治的に、信仰的に、義務的に、扇動的に、イエスを捨てるのである。全ての視点に通じる情念は、力なき男。愛だけを語った男。犬のように死んだ男、イエスである。

     二つの視点が交わる点は「同伴者イエス」としてである。修道士を追われポーランドに戻ったねずみはナチスの収容所に収監される。非力で何もできないが、自分のことにだけは執着するねずみは、収容所でも狡く出来るだけ楽をして、生き延びようと努める。しかし、労働力外とされてしまったねずみは小便をたらし、いやだいやだと泣く。待っているのは死のみである。最後にねずみは、自分の命のパンを年少の男に渡し、ひかれていく。そのコバルスキ・ねずみのとなりに、幻を見たという。同じように足を引きずりながら襤褸をまとい引きずられる男、イエスである。
     イエスは奇跡を起こさない。ただ、悲しきものの、苦しむものの、泣くもののそばにいて、共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣いただけだった。イエスに人を救う力はなかった。しかし、どんな者のそばにいて、その重荷を共に負う、それだけをなしたのだ。「同伴者イエス」それが、二人の信仰を捨てた男をつかんでいる。

    J.S.バッハ『マタイ受難曲』を聞きながら

    13/12/30

  • イスラエルツアーで一緒になったひとに薦められた本。実際に行った土地が舞台なので、とても読みやすかった。時期も合っていたのでますます。漠然と疑問に思っていたキリスト教についての取っ掛かりになる。

  • さすがの筆力。今まで軽めの小説ばかり読んでいたせいか、若干重めに思えたが、文章がキレイかつうまい。
    イスラエルで本当のキリストの姿を探し求めたが思っていたよりも惨めなキリストの姿が浮かび上がってくるにつれ、新たな視点や解釈を得ることができたという結びになっているが、キリスト教徒の作者による押し付けがなく普通に小説として読みやすい。
    信仰は各々の自由な解釈によって為されるのであると言っているような気がした。

  • 教会の聖地巡礼に持っていった本。
    10日間でガリラヤ湖畔からエルサレムを回りました。
    かなり昔の話。今は危険で行かれないと思う。
    持って行ったのはいいけど、現実のイスラエルに圧倒されてほとんど読めなかった。
    帰ってからゆっくり読みました。
    あてくしは戸田のような強い信仰は持ったことないので(持てよ!)、どっちかというと主人公に共感して読んでました。
    この本もそうだけど、遠藤周作のイエス像はいつも、聖クリストファーの逸話(汚い乞食の爺さんが歩けないので背負ってほしいといって、聖クリストファーは嫌なんだけどあまりにしつこいのでしょうがなく背負って歩いたら、爺さんがキリストに変容する)を思い出させます。
    クリストファー⇒キリストを負う者。

  • この中に描かれているのはヨーロッパ的な「偉大なるイエスの愛」とはまるで違う。どこまでも非力で、ある意味人間臭い、でもなぜかとてつもない愛を感じるイエスが描かれている。「偉大なるイエス」に違和感を感じ続けていた遠藤周作だからこそ書けた作品だと思うし、この作品に描かれている「イエスの愛」こそ遠藤周作が苦悩しながら見つけた愛だったのだと思う。作品の重厚感は圧倒的。

  • 彼らは互いに会えないにしても、互いの記憶の中で、それこそ急に忘れていたねずみとの思い出が急に甦ったように、今回の死海のイエスの軌跡を辿る旅を鮮烈なまでに思い出す日が来ると思う。
    記憶の中で、彼らは互いに会い続けるだろう。
    そして、<私>はその度に彼の首にある赤黒い火傷の痕を思い出すのだろう。

  • 信仰を見失った私は、エルサレムに旅立ち、そこでイエスの足跡と生涯を辿る。なにかのきっかけになればと淡い期待を抱いてエルサレムを訪れた私だったが、そこにあったエルサレムはイエス時代から何度も破壊され、再建された街であり、イエスの足跡を追うのはほぼ不可能だった。群像、としてイエスに関係のあった人物の視点を描いた小説と現代の私が章ごとに交互に表れながら、愛と信仰の原点を探る。

    沈黙以来、久々に読書において圧倒的にキリスト教を感じた。遠藤周作の書くキリスト教はまさにわたしの奥深くに根付くキリスト教と同種のもの。作中のイエス像はかなりわたしのイエス像と近い。ナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺と絡めて書いてあるのがとても虚をつかれた感覚。
    久しぶりに原点に戻った。信仰しているとかしていないとか、洗礼を受けているとかいないとか関係無く、やっぱりわたしにはキリスト教が必要。

  • 聖書の奇蹟の数々をうさんくさく感じていたが、キリスト教徒でも同じなのだろうか。
    イエスの最期をたどる男たちの旅と、イエスに死を与えた者、死を見届けた者たちの断片。 イエスの受難は戦時中の人間の弱さと絡みついていく。
    罪ある者も赦されるという母の愛があるからこそ、ひとは救われるのだろう。

  • 解説:井上洋治

  • この物語は、同じイスラエルの地≪死海のほとり≫を舞台に、時代の異なる二つの物語が対位的に展開される。すなわち、主人公がイエスの足跡をたずねてイスラエルを巡礼する現代の話と、イエス・キリストが伝道のためにパレスチナの地を旅する過去の話が交互に進行する。昭和48年の文学としてはこのような技法は画期的といえるのではないだろうか。主人公<私>はカトリック信者である作者の分身であろう。救い主としてあまりに無力であるが、隣人と共に喜び共に苦しむイエスの姿を描き、「永遠の同伴者」としてのイエス像を鮮烈に打ち出した作品である。

  • 聖地エルサレムを訪れる「私」の現代の物語と聖書の挿話を小説として描く過去の物語が相互に進行する。「私」の物語は実話かと思いきや創作であるが遠藤周作氏の実体験に基づくものと考えても差し付けないだろう。

    特に印象的なのは小説的手法を用いて等身大のイエスを描いたことだ。「人として」のイエスを描くことで同列の人間たち、現代の物語の冷めながらも何処かで神を捨てきれない戸田や卑屈に神に縋り続けたねずみ、過去の物語での様々な登場人物の目線や感情を通して、筆者自身も見出せてない信仰心の「在り方」を問うことに成功している。信仰と奇蹟を結び付ける人々と寄り添うことに神の愛の本質を説く信仰、その差が落胆や失望を生むのだが人によっては信仰をより強固なものにさせる。

    並行して「イエスの生涯」も読んでいるが、等身大のイエスを描く手法は賛否両論はあろうがよりリアリティを持って信仰というものについて考えさせらるきっかけになろう。

  •  著者のイエスの生涯もよかったが、本書も良書である。
    イエスを主役とするイエスの時代の物語と、著者が現地で感じたことについて対談形式で進む物語と、章立てが交互に進んでいく。

     旅の中で、著者はイエスの時代に起こったことが聖書に書かれているが、それが本当にあったことなのか、それとも現実ではないのか、など友人に語りかけたりしているが、それは、著書”イエスの生涯”における、事実と真実という書き方に置き換わるのだろう。

     本書を読みながら、前に読んだ(見た)三浦綾子氏の”イエス・キリストの生涯”の美術画を片手に読み進めると、なおよいと思う。

     『神よ、なぜ、私を見棄てられました』と十字架の上で声をあげるが、それがなぜだったのか、まだ私にはわからない。色々、まだ読んでみようと思う。

  •  先に『沈黙』と『イエスの生涯』を読了していたため
     テーマに新鮮味を覚えらなかったのが個人的に残念な点。

  •  この小説は二つの話が交互に出てくる。
     一つは現代(といっても戦後30年後くらいの話だが)においてかつてキリスト教系の大学に通っていたが、信仰を捨てた(あるいは見失った)、同級生だった二人の中年の男がイエス・キリストの足跡を辿る旅をする。
     もう一つは過去のイエス・キリストの生涯が書かれている。
     過去の話は実際にイエス・キリストと出会った人々が彼に対して何を感じたのか、ということに焦点が当たっているように思える。現代においては聖書やその足跡を辿って見えてくるイエス・キリストに対して何を感じるかということが主題に感じた。ただ、現代においては、後半はネズミと呼ばれる神学校時代の修道士に焦点が当たってくる。
     ここで過去の話に出て来るイエス・キリストは、奇跡も起こせないただ愛を説くだけの無能な人間として描かれている。そして、それは現代においてもそう見えるように描かれている。
     これは従来のキリスト像を持っている人にとってもしかしたら強烈なイメージを植え付けるかもしれないが、単にキリスト教への信仰というものを一度フラットに考えさせるためであると思う。
     奇跡を起こせないキリストが何故信仰を得るに至ったか。それを過去に出会った人の心情と現代における棄教者の旅を通じて描かれている。
     私はキリスト教徒ではない。しかし、キリスト教徒の気持ちが知りたいとは思う。彼等は奇跡ゆえにイエスを信仰するようになったのか。ただ、それはおかしな話で奇跡を起こすから家族を愛するのか。奇跡を起こすから他人を愛するのか。そんな自己利益のためだけに人を愛するのか。そうではないだろう。人を愛するという行為はそうではなくもっと呪いに近いように語られている
    (『「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
    「なぜ」
    「わたしが、その人をいつまでも愛するからです」』
    250ページ)

     小説内に明示されている謎は以下の二つだ。

    ・「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」
    ・過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」

     「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」については、作中でキリスト自身が発言している

    『(すべての死の苦痛を、われにあたえたまえ
     もし、それによりて
     病める者、幼き者、老いたるたちのくるしみが
     とり除かるるならば)』
    『「もっとも、みじめな、もっとも苦しい死を……」』
    (359ページ)

    というのが全てなのかもしれない。彼は愛のために生きた。だから、最後は愛ゆえに、全ての人類の罪を背負って死ななくてはならない。仮にそれが無意味な行為だとしても。
     だが、結局のところ「愛」とは何なのだろうか。自己犠牲の利他的な行動、共に苦しみ、共に悲しむことが単なる「愛」なのだろうか。神の愛は無償の愛だとして、人間の及ぶところではないとしたら。所謂神の救いや奇跡の類は愛ではないとして、我々は何を信じればいいのか。正義とは、正しさとは。もしかしたら、それを知っているのはイエスだけなのかもしれない。どことなく終末思想にすら感じた。イエスは神の怒りや律法に耐えかねて愛を求めた(150ページ)。そこに必要だったのは「愛」。経済でも子孫でも科学でもパンでも人類の永遠の発展でもなく「愛」。
     
     過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」について。
     まずなぜ信仰を得るのかについては、過去においては単純にキリストの優しさや人となりに触れたからだろう。現代において、「私」は親がそうさせたからというのが分かる(ちなみに、これは遠藤周作本人もそうらしい)。戸田については分からない。何か強烈な体験があったのだろうか。
     なぜ信仰を捨てるのかについては、過去においては、その惨めな奇跡も起こせないキリストの姿に失望したからであると書かれている。現代において、「私」については具体的には書かれなかったが、戦争体験やその後の小説家人生を経て、徐々にキリスト像を見失っていたのかもしれない(ただ、「私」は学生時代からそこまで深く信仰していたわけではない)。戸田については、聖書の研究をしていくうちに、従来イメージしていたキリスト像とかけ離れた現実のキリストが見えてきて、失望したのかもしれない。この二人は信仰の大きさに違いがあれども、ともにキリストを見失うというのが面白い。「私」は奇跡も起こせないキリストに失望するが、戸田については仮に理想像と現実がかけ離れていたとしても、そこまで失望してしまったのだろうか。
     そして、過去においても現代においても、再度信仰を得ることになる。ここでいう信仰は一度所持していた、ある意味で盲目的な信仰とは異なる。キリストが愛ゆえにその人の人生を横切ったために、キリストに付きまとわれ、囚われ、忘れることができなくなる。そして、人によっては、愛ある行動を他の人にも行っていくのかもしれない。

     やっぱり難しいと思うのが、キリストが言う「愛」の意味が自分でもよく分かっていないからかもしれない。また、その「愛」に殉じて生きることの意味、正しさ、正義、ひいては人生の意味。それがうまく自分の中でも答えが出てこない。そして、これからも戦い続け、消耗していくのかも。
     この作品は「イエスの生涯」と表裏一体と作者が仰っているので、引き続き読んでいきたい。

  • 著者は聖書原理主義や三位一体を否定している(と思う)。病人をひたすら癒しながら力を持たず暴力にさらされる姿を見習うべきか、迷った。万能の力を持つイエス・キリストのイメージが打ち砕かれた。

  • 久々に読みづらかったなぁ。でもたまにはこういうのも読んでおかないとね。

  • 2017/02/05

  • 信仰を追い求めてエルサレムにやってきた小説家の私と学生時代の友人でエルサレムに住む戸田が、イエスのたどった道を辿りながらイエスを追いかけるという話。
    戸田は気が付いていたみたい。イエスはけっこう造られた虚像であること。
    でも、その方がより現実的で、人間的なのかもしれない。
    あまりにも無力で、そんな男が多くの人を愛した。
    一人一人の人生を横切って残した痕。それは消えない。
    これから先も私と戸田には今まで通りイエスは消えないだろう。

  •  死海のほとりでイエスの足跡を辿る現代の旅と、イエスが迫害されゴルゴダの丘で処刑されるまでの過去の物語を交差させながら、奇跡の人ではない新しいキリスト像を提示しています。

     弱者のそばに寄り添いともに苦しむことしかできなかったイエス、しかしそのことは常人にはできないことであり、苦しみを抱えた人たちにとって大きな慰めであったのは間違いないと思います。

     この小説は、遠藤氏ご自身が一生を掛けて答を求め続けた「信仰とは何か」という問いかけと氏が到達したそれへの答が示されているのだと思います。圧倒的な文章力できわめて構築性の高い物語が形作られています。

  • 朝の礼拝で紹介された本です。

  • キリスト教でもなければイエスについてそこまで詳しいわけでもないのだが、イスラエルに滞在経験があり、ゆかりの地をあちこち回ったのでそのときの記憶とともに読み進めました。とかく神聖視されがちなイエスだが、実際のところその生涯は惨めでみすぼらしく、失望され、罵声を浴び続けてきた。しかしいつも苦しんでいる者悲しんでいる者のそばに寄り添うことをやめなかった。矛盾するようですが、自分はきっとイエスのような人間にはなれないと確信すると同時に、これまでで最もイエスを身近に感じられる、そんな小説でした。挟まれる私小説で語られる「ねずみ」のエピソードにより、そんなイエスの存在がよりくっきり浮かび上がる仕組みになっています。初めて読みましたがすごいです、遠藤周作。

  • 日本人の巡礼と、イエスの時代が交互に語られる方式。日本人は虚像のイエスと戦中に疑問をもってしまった信仰とに苦しんで捨てたのだと感じるイエスから逃れられていない。「真実のイエス」
    として語られる古代ユダヤパートのイエスは、愛を説き、迫害される人々に寄り添うけど誰も物理的に癒せずに人々を失望させ続けやがて迫害される。その姿は日本人パートで疑われている姿そのもの。

    古代ユダヤの人たちがあまりにも現代人の価値観すぎるけどむしろこれは仕様なのかもしれない。あくまでも語りたいのは日本人の信仰であって古代ユダヤの人たちはダシだったのかもしれない。

    遠藤周作のイエスは弱い。タイトル忘れたけど昔見た洋画のイエスも弱かった気がする。イエス像にも流行りがあるのかな。

    書きながら思ったけど、むしろ古代ユダヤパートひ、日本人がわの想像なのかもしれない。もしくは、戸田の中にいるイエス。

    地元図書館Bエ

  • やはりというか、暗く不気味な物語であった。現代の『私』の旅行記・回想と、イエスの生涯の一部が交互に語られていくが、何せよどちらも暗い。
    物心ついたときからキリスト教徒に「させられていた」主人公が、棄ててしまった信仰の原点を求めにエルサレムへ。だが、イエスの影など跡形もなく、曖昧な聖書の記述にそって決められた、イエスを記念する場所。
    民衆から見放され、ゴルゴダの丘へと至るイエスの姿は、後に西洋世界の、ひいては世界全体の歴史に大きな影響を与えることになったキリスト教のいう『神の子』のイメージからはあまりにもかけ離れている。とにかくみすぼらしい。
    そして、『私』の回想の中でたびたび登場する『ねずみ』。これもキリスト教徒でありながら姑息な人間で、最終的にはホロコーストの犠牲となってしまう。

    なぜ『私』が信仰を棄ててしまったか。戦時中の狂信的全体主義の中で、信仰を続けることが困難であったか。自ら選んで信仰したわけではないからか。はたまた、『ねずみ』がいたからか・・・。

    本書を読んでいると、ここまで多くの人間が、なぜキリスト教を信仰しているか、よくわからなくなってくる。全ての人間から見放されてしまったイエス、キリスト教徒でありながら、犠牲となってしまった『ねずみ』。宗教は私たちを幸福にするのか、不幸にするのか、筆者からその根源的な問いを投げかけられている気がする。それは現代においても変わっていない。

    本書に存在する一縷の望みといえば、イエスが最期に残した言葉くらいのものだろうか。

  • 生涯に渡って「信仰」を問い続けた作家・遠藤周作氏による長編小説です。

    本書は大きく2つのストーリーが入れ子の構造になって構成されています。ひとつは現代のエルサレムを訪れてイエスの足跡を辿っていく「わたし」の物語、もうひとつはイエスが生きた時代、イエスを取り巻く人々の「群像」を描きながら、イエスの生涯を描いた物語。

    エルサレム巡礼を描いた物語では、おそらく著者自身がモデルになっているのであろう「わたし」と、その友人であり聖書学者である「戸田」の二人のやり取り、そして二人が出会った人々との絡み合いの中で、著者が長年にわたって問い続けたテーマが次々に浮かび上がっていきます。エルサレムの街の描写がとにかく秀逸で、けだるい雰囲気がありありと伝わってきます。

    イエスの生涯を描いたパートは、いわゆる全知全能の神みたいなイメージとはまったく対極にある、著者ならではともいえる「何もできない」イエス像が、他の作品を比べても群を抜いて強調されていました。遠藤氏の描くイエス像には批判も多いと聞いたことがあります。その理由は本書を読めばすぐに明らかになると思われます。

    全体を通して、とにかく「厳しさ」が溢れ出ているような作品でした。本当に読むのがつらい。しかしこれだけの厳しさをもってして、ようやく伝えることができるものが、イエスの伝えてきた「愛」というものなのかもしれない。

    "だが、ねずみ型の人間は……ねずみ型の人間は、どうもがいてもそんな真似はできぬ。世界には、イエスがどうしても見棄てる人間がいるのかもしれぬ。窓の外の雨は砂の流れるような音をたてて、物憂く降り続いている"(P.344)

    この問いには、壮絶な結末においてひとつの回答が提出されます。どうしようもなく重い問いと、重い答えです。わたしには到底耐えかねるものです。本書を読み終えた時、自分の中で、「真摯」という言葉が屹然と浮かび上がってきました。

    そういえば我が家には『ガリラヤの春』(小堀グラフィックス)という、イエスの足跡を辿った写真集があり、それを眺めながら読んでいました。我々にはあまり馴染みのない場所で展開される物語ですので、何かしらイメージできるものを参照しながら読むと、臨場感が出て良いと思います。

  • 愛すること・人間の美しさ

    弱さ・醜さ

    これらが果たして不可分ではなかったかと、いろいろな人間の底をつないでいくような小説
    さすがの筆力

  • イエス・キリストの真の姿に迫る名作。イエスの実像は聖書に描かれている姿とはかけ離れた、みすぼらしく、人々から嘲られ、惨めな一生を送ったと描かれるが、イエスが周囲の人々に示した愛は、関わった人々の心に深く刻まれていく。並行して語られる現代の物語との後半のシンクロは圧巻。
    僕はキリスト教信者ではないし、聖書物語も信じていないが、この小説でイエスが示した愛は信じる。

  • 愛はこの世で一番、非力で無力なものであった、とイエスが十字架で処刑される際、周囲の人間はつぶやいた。が、すべてが終わった瞬間、愛はこの世で一番美しく、力強く、人々の心に生き続けた。何故、イエスが人々の心に残り、我々の人生に影響を与え続けるのか?目を閉じ胸に手をあてて心に問い続けたい。

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著者プロフィール

遠藤 周作(えんどう しゅうさく)
1923年3月27日 - 1996年9月29日
東京生まれ。父親の仕事で、幼少時代を満洲で過ごす。帰国後にカトリックの洗礼を受けた。1941年上智大学予科に入学したが、中退。慶應義塾大学文学部仏文科入学・卒業後、カトリック文学を学ぶためにフランスへの留学。帰国後の1954年『アデンまで』を発表し小説デビュー。1955年『白い人』で芥川賞を受賞し「第三の新人」として脚光を浴びた。
1958年『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞及び第12回毎日出版文化賞、1966年『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞、1979年『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞、1980年『侍』で第33回野間文芸賞などそれぞれ受賞。1995年に文化勲章を受章している。
上記受賞作のほか、1993年刊行『深い河』もキリスト教と日本人をテーマにした代表作と見なされており、映画化された。60年代以降「狐狸庵山人」(こりあんさんじん)を名乗り、様々なエッセイを記した。数々の作品が欧米で翻訳され高い評価を受けており、存命中ノーベル文学賞候補だったこともよく知られている。

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