- 本 ・本 (512ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101123257
感想・レビュー・書評
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弱い人でも強い人でも心挫かれたときに、その辛さを分かち合ってくれる理解者としてのキリスト。そして現世利益を重視する日本人にとっては富めるものよりも貧しいものがあの世で救われる考えや、実存的でないものがあまり合わない。こうした遠藤周作さんの考えるキリスト教や日本文化論を感じられる1冊でした。
過去作『沈黙』よりも運命や身分、政治といった大きい力の前で従うしかない弱い人と抗う強い人が強調されている感じでした。
とくに強い人として描写される宣教師の身勝手で欲深いために、周りに迷惑をかけてしまうところは共感を感じました。
そんな強い人が心を折られ、そのなかで自分が成すべきことを見出し最期はある意味で救われるところは感動しました。
遠藤周作さんの考えるキリストは自分にとっては本に近いとも感じました。辛いときに同じ境遇やもっと苦しく絶望に陥っても、それでも生を全うする登場人物をみて、不思議と心が安らぐ感じに近いと思います。
そして、本作の侍も宣教師も苦難ばかりの長旅と失意の底に陥ります。彼らの旅に比べれば多少の現実の困難は大したことないかもですが、それでも彼らからしたら「わかるよ、辛いよな」という気持ちになってくれるはずです。
そのうえできっと裏表なく理解してくれる。とくに仕事や人間関係で辛いときはわかりあってくれて、人生に全うできるように肩を並べてくれるような気がします。
この作品を読んでわずかでもキリストに関われたのだからきっとそうだと私は信じてしまう。そんな読後感でした。
【お気に入りフレーズ】
泣くものはおのれと共に泣く人を探します。嘆く者はおのれの嘆きに耳を傾けてくれる人を探します。世界がいかに変わろうとも、泣く者、嘆く者は、いつもあの方を求めます。あの方はそのためにおられるのでございます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本人と信仰。
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ずしんときました。エゴと宗教、個人と社会、信じることと組織、結局は全て人間が作ったものなのに、それを自分で複雑にして潰しあってる。汚いところを隠さないと綺麗には見えない。。。
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沈黙に続き読了。
実際のモデルは支倉常長。
当時のキリスト教への時代背景や、日本人のキリスト教への捉え方、政治利用など様々な事が学べて面白かった。
『人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを――たとえ、それが病みほうけた犬でもいい――求める願いがあるのだな。』 -
なんというか、すごい本を読んだ。
300ページ超とそれほど分厚い本ではないのに、重苦しく読むのに10日と、とても時間がかかった。が、つまらないからでは決してない。
この本の感想を言葉で表す術がない。怒り、悲しみ、切なさ、理念、信念…少し、頭をひやしてじっくりと脳みそがことの本質を理解するのを待つことにする。いや、もしかしたら感想を書くこともできないかもしれない。私のような凡人にこの本の感想を書く資格などないのかもしれない。 -
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2019/11/16
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大事に少しずつ読んだ。
フィクションとはいえ 悲しい 日本 いにしえの時代の黒歴史。
なぜ日本は ラテンアメリカ諸国のように キリスト教 に征服されなかったのか ここに一つの答えがあるように思う。 -
ベラスコの最期のセリフ「生きた……私は……」に痺れた。それと沈黙と悲しみの歌がまた読みたくなった。
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物凄く面白かった。キリスト教との関わりの中から、他の作品と同じように、日本人の本質をことごとく見事にあぶりだした作品だったと感じる。
30年近く日本で布教活動をしてきたヴァレンテ神父の「日本人はこの世界の中で最も我々の信仰に向かぬ者達です。彼らにとってもし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかなれるようなものです。たとえば彼らの仏とは、人間が迷いを棄てた時になれる存在です。日本人は決して1人では生きていません。彼の背後には村があり、家があり、彼の死んだ父母や祖先がいて、彼らはまるで生きた生命のように彼と強く結びついているのです。一時的にであれ改宗したはずの彼が、棄教してもとに戻ったとは、彼がその強く結びついた世界に戻ったということです。」という、研究結果の報告文書に近いような諦めの言葉にも負けず、熱と烈しさを持って挑んだベラスコ神父の心理描写が、刻々と変化していく様も実に鮮やかだった。
司教就任のためにキリスト教や切支丹、さらには母国の同胞までもを世俗的に利用していたベラスコが、終盤では政治の世界で敗れはしたものの、魂の世界においては勝利したのであり、それはイエスキリストと全く同じ状況であったとする下りからも、つまりはキリスト教全体が包括する様々な価値観から、自身の人生に意味を与えるものを抽出して当て込んでいるのだと思う。「夜と霧」にあるアウシュビッツの囚人たちと全く同じで、「自分の人生に意味を持たせる」ために、神はいるのであって、安直なオプティミズムで受難を隠すためにいるのではない。そのためには時として苦しみ、嘆き、辛苦を徹底的に味わうことで、みすぼらしく痩せて困難にまみれた生涯を生き抜いたとされるイエスキリストの人生を体現し、意味を持たせることすらできる。
言っちゃえば、人がどんな人生を歩もうと、何もかも超越した神様が見てるぞーってなればどうとでも意味づけができるんだということ。意味づけのない人生こそ、何より虚しいものだと。人生が上手く行ってれば、感謝してたらいいし、上手く行ってないなら、上手く行くために頑張る活力を与えたり、反省懺悔させて救ったり、なんだかんだで「自分はこのために生まれてきたのだ」に近いものを授けてくれる。それがキリスト教なんじゃないか。
日本人は上にもあるように、家や村や家族あってのものなので馴染むわけがない。日本人は1人で生きていないってのは名言。その点、創価学会がここまで広まった経緯は、地方から出稼ぎで出てきた、つまり家も村も祖先も棄てた人達が共同組合みたいな成り立ちで出来たと聞く。なので地方民が集められたような街で勢力を広めていけたわけで、その点キリスト教みたいに1人で生きていかなければいけない人達を救うことができているのかもしれない。
従者として苦心を共にしてきた与蔵がキリスト教を強く信仰していた理由は、村での人生に意味づけができていなかったからだし、最後の与蔵の一言に侍が大きく頷いた理由も、自身の労苦が報われず主従関係が反故にされたことで、人生の意味を失ってしまったからだ。人生の意味をもう一度見つけてくださいと、与蔵が侍に伝えたかったのだろう。 -
『沈黙』を読んだ時と同じく、宣教師の「キリスト教を日本に布教することへの熱すぎる使命感」みたいなものには、やっぱりその気持ちよく分からないなぁ…という気にさせられたけど、『沈黙』よりもこの『侍』の方が私は好きだった。
主人公が日本人だったからだろうか。日本の小さな村の中の世界しか知らなかった長谷倉が、海を渡りノベスペニアやヨーロッパを知っていく過程で世界の広さを思い知っていくと同時に、やっぱり先祖代々の墓や家族がある日本への思い入れを強く感じるところ、みすぼらしくみじめに見える男の像をなぜヨーロッパ人は敬うことができるのかと不可解に思い続けていたが、日本に帰って御政道の何かを知り理不尽な扱いを受け続けた末にキリスト教を信じ続ける人の気持ちが分かったような気がするところ、結局どこの国でも宗教世界の中でも争いや駆け引きがあって人間はどこでも変わりないのだと諦めの気持ちをもつがそれをうまく言えないところ…
そういう長谷倉には共感を覚えることができた。そして、彼を通して見ると、一緒に旅を続けた宣教師に対する日本政府の仕打ちのひどさにも少し同情することができる気がした。
(P447)
あまたの国を歩いた。大きな海も横切った。それなのに結局、自分が戻ってきたのは土地が痩せ、貧しい村しかないここだという実感が今更のように胸にこみあげてくる。それでいいのだと侍は思う。ひろい世界、あまたの国、大きな海。だが人間はどこでも変りなかった。どこにも争いがあり、駆引きや術策が働いていた。それは殿のお城のなかでもベラスコたちの生きる宗門世界でも同じだった。侍は自分が見たのは、 あまたの土地、あまたの国、あまたの町ではなく、結局は人間のどうにもならぬ宿業だと思った。そしてその人間の宿業の上にあのやせこけた醜い男が手足を釘づけにされて首を垂れていた。「我等、悲しみの谷に泪して御身にすがり奉る」テカリの修道士はその書物の最後にそんな言葉を書いていた。このあわれな谷戸とひろい世界とはどこが違うのだろう。谷戸は世界であり、自分たちなのだと侍は与蔵に語りたかったが、うまく言えなかった。
著者プロフィール
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