- Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101123257
感想・レビュー・書評
-
沈黙に続き読了。
実際のモデルは支倉常長。
当時のキリスト教への時代背景や、日本人のキリスト教への捉え方、政治利用など様々な事が学べて面白かった。
『人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを――たとえ、それが病みほうけた犬でもいい――求める願いがあるのだな。』詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
-
2019/11/16
-
-
物凄く面白かった。キリスト教との関わりの中から、他の作品と同じように、日本人の本質をことごとく見事にあぶりだした作品だったと感じる。
30年近く日本で布教活動をしてきたヴァレンテ神父の「日本人はこの世界の中で最も我々の信仰に向かぬ者達です。彼らにとってもし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかなれるようなものです。たとえば彼らの仏とは、人間が迷いを棄てた時になれる存在です。日本人は決して1人では生きていません。彼の背後には村があり、家があり、彼の死んだ父母や祖先がいて、彼らはまるで生きた生命のように彼と強く結びついているのです。一時的にであれ改宗したはずの彼が、棄教してもとに戻ったとは、彼がその強く結びついた世界に戻ったということです。」という、研究結果の報告文書に近いような諦めの言葉にも負けず、熱と烈しさを持って挑んだベラスコ神父の心理描写が、刻々と変化していく様も実に鮮やかだった。
司教就任のためにキリスト教や切支丹、さらには母国の同胞までもを世俗的に利用していたベラスコが、終盤では政治の世界で敗れはしたものの、魂の世界においては勝利したのであり、それはイエスキリストと全く同じ状況であったとする下りからも、つまりはキリスト教全体が包括する様々な価値観から、自身の人生に意味を与えるものを抽出して当て込んでいるのだと思う。「夜と霧」にあるアウシュビッツの囚人たちと全く同じで、「自分の人生に意味を持たせる」ために、神はいるのであって、安直なオプティミズムで受難を隠すためにいるのではない。そのためには時として苦しみ、嘆き、辛苦を徹底的に味わうことで、みすぼらしく痩せて困難にまみれた生涯を生き抜いたとされるイエスキリストの人生を体現し、意味を持たせることすらできる。
言っちゃえば、人がどんな人生を歩もうと、何もかも超越した神様が見てるぞーってなればどうとでも意味づけができるんだということ。意味づけのない人生こそ、何より虚しいものだと。人生が上手く行ってれば、感謝してたらいいし、上手く行ってないなら、上手く行くために頑張る活力を与えたり、反省懺悔させて救ったり、なんだかんだで「自分はこのために生まれてきたのだ」に近いものを授けてくれる。それがキリスト教なんじゃないか。
日本人は上にもあるように、家や村や家族あってのものなので馴染むわけがない。日本人は1人で生きていないってのは名言。その点、創価学会がここまで広まった経緯は、地方から出稼ぎで出てきた、つまり家も村も祖先も棄てた人達が共同組合みたいな成り立ちで出来たと聞く。なので地方民が集められたような街で勢力を広めていけたわけで、その点キリスト教みたいに1人で生きていかなければいけない人達を救うことができているのかもしれない。
従者として苦心を共にしてきた与蔵がキリスト教を強く信仰していた理由は、村での人生に意味づけができていなかったからだし、最後の与蔵の一言に侍が大きく頷いた理由も、自身の労苦が報われず主従関係が反故にされたことで、人生の意味を失ってしまったからだ。人生の意味をもう一度見つけてくださいと、与蔵が侍に伝えたかったのだろう。 -
遠藤周作の圧倒的無力感・孤独感を凝縮した野間文芸賞受賞の傑作。
鎖国下での宣教師と侍という特殊な立場の対比が興味深い。
長編の中でも尺のあるボリュームだが、その前半で何となく結末が分かってしまうにも関わらず読ませてしまうエネルギーと説得力。 -
転ぶ。
信仰とは何か?、ということすら、生きる上で全く考えることのない、無意味なくらいの、そんな侍の社会。
その社会で大切なのは、ただただ忠誠であり信仰とは似て非なるモノ。
その時代の人達が。
何故ヨーロッパに行くのか?
キリスト教が介在したのは何故?
危険を冒す理由があったのか?
という事は、史実でも、まさに本文中でも、たっぷり書かれている。
個人的に唸ったのは。
商売の利と信仰を天秤に計る人の心理
忠誠を示す為に信仰を選ぶ心のさざ波
司祭同士の出世争いの場にされた日本
功名心を信仰心で巧みに隠してく醜さ
棄教を前提に自分自身を欺くその描写
日本に戻った侍の心の描写が、その答えだった。
「侍は自分が見たのは、あまたの土地、あまたの国、あまたの町ではなく、結局は人間のどうにもならぬ宿業だと思った」
信仰と不信。
二つのテーマが、ぐるぐると廻り、巡り、描かれる一冊でした。
信仰があることがイイワルイではない。
自分がどうあればいいのか?とか、信じないといけないとか、奇跡なんて科学的じゃない、理論的じゃないとか、どうでもいい。
信仰することで救われる人がいるんだ。
ただただ、そのコトだけを知り認める心を持つだけでいいんだと、そんな読後の感想でした。 -
戦国時代、藩主の命令によってローマ法王への親書を携えて海を渡った東北の貧しい侍の話。侍から見た世界、キリスト教とは。4人の侍の性格の違いとたどった道筋の違い、そして太平洋から南米大陸、大西洋、ローマへの長い旅路の様子も興味深い。
忍耐強い侍の心理描写や従者との信頼関係も印象に残った。 -
[初版(第1刷)]昭和61年6月25日
-
『沈黙』と同様、読後に心に重くのしかかる1冊だった。遠藤周作の作品を読むたびに信仰とは何かを考えさせられ、カトリックである私は自己の信仰を見直すことになる。ここでは、使節団がノベスパニヤで出会った元修道士が語るように、自分は「教会や神父たちの説くイエス」は信じておらず、自分の信じるイエスは「金殿玉楼のような教会におられるのではなく、このみじめなインディオの中に生きておられる」ということ。信仰の原点を知らされた思いがした。
著者プロフィール
遠藤周作の作品






この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。





