侍 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123257

感想・レビュー・書評

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  • 藩主の命によりローマ法王への親書を携えて海を渡った一人の侍。多くのものを失い傷つき絶望し、7年もの後やっとの思いで故郷の地を踏んだ彼を待っていた運命はあまりに過酷だった。
    共に旅をした宣教師ベラスコはすごく傲慢で初めは嫌いだったが、読み進めるほどに彼の人間らしさ未熟さに興味がわく。
    宗教は好きではないが、最後に侍の心にその人が寄り添って少しでも楽になったのならいいなと思う。だけどラスト、ベラスコがその知らせを聞いたときの反応には正直がっかり。その思考は理解できなかった。
    小説としてはすごくおもしろかった。

  • 与蔵が侍に最後にかけた「ここからは……あの方が、お仕えなされます」という言葉に感銘を受けた。

  • 作者の作品、「沈黙」と双を成すキリスト教をめぐり時代に翻弄される人々の物語。あまりに無情な仕打ちを受ける主人公の侍。もう一人の主人公、野望をもったベラスコが悟りを開いていく過程をじっくり描いていて説得力があります。ベラスコが日本に再上陸することで結局は侍も残念な結果に。。侍はある程度納得しているのかもしれないが、残された家族はいたたまれないです。
    キリスト教は精神の安定を目指しているのは司教の考えであって、仏教も含め多くの宗教を信仰する庶民は現世の幸せを願うものでは、と考えてしまいます。
    人それぞれの価値観と尊厳を考えさせられる深い一遍です。

  • 2017 3 28
    7冊

  • 藩主の命によりローマ法王への親書を携えて、自分の狭い領地しか知らなかった侍は海を渡る。お役目達成のために受洗を迫られ、その後鎖国となった日本に戻ってきた侍の運命は…という内容。
    日本人が絶対的なものより、親族の結びつき、現世で利益となるものしか信用しないという見方は面白かった。
    宗教の受容が国、個人どのようにされたのか興味深い。

  • これまでの読本で、かなり上位にくる名作。
    侍の心理が、深く心に突き刺さる。また、宣教者達の日本分析が、五百年後の今もピタリと当てはまる。いくらグローバルを叫んでも、この日本人の本質は、先般読了した原発敗戦同様、肝に命じておく必要ありだ。

  • 支倉常長の海外渡航から死に至るまでを書いた重厚な1冊。

    これは旅行記ではなく、信仰についての問いかけに満ちている。前に読んだ「沈黙」は神の存在について考えさせられるものであったが、この本は神を信じる人間についての本にだと思う。

    ノベスパニヤにいた日本人が信じる神とローマで信じられている神との隔たりは強者と弱者の信仰の違いを語っているように感じ、そこに神という存在の不明瞭さからくる悲劇を思う。

    最後に支倉常長に寄り添う神はローマの神ではない。

    神とはなんなのだろうか。

    「沈黙」の時にも感じたが、やはり人の心の中にだけ神は存在し、そこに真実があるように思う。

    形に意味はなく、見えない部分こそが大切なのだ。

    それにしても支倉常長、全然わかってなかったが一言でいうと悲しすぎる。

  • 遠藤周作の作品は「痛快」という言葉がよく合う。
    「沈黙」よりも動きのあるストーリーなのに、なぜだろう、すごく長く感じてしまった。きっと自分の歴史の知識が乏しいことと、総じて暗いからなんだろうけど。
    遠藤周作の作品はノンフィクション風に描かれているので、まま信じてしまいそうになる。解説を見ると、船上での生活や洗礼儀式など、彼自身の体験を忠実に再現しているそう。リアリティに溢れているのも納得である。
    彼の表現は正確である以上に、人が潜在的に感じている感覚的な部分まで細かに言語化されている。こちらがとらえている人間以上の人間らしさを、まったくうまく描写してるんだよな〜とやはり痛快に思った。

  • 藩命により、日本人未踏のヨーロッパに行き、不本意のまま洗礼を受ける。苦難の末帰国した一行に待っていたのは、キリスト教禁制、鎖国した故国。支倉常長一行が長旅の末に至った信仰は、やむを得ずか、自らであろうか。2016.1.3

  • 支倉常長、どっかで読みたいと思っていたけど、事実を脚色しているとはいえ、未知の部分が多いのだから、中身を知るにはこの小説で十分だ。
    東北のしがない山中の小領主である「侍」が、メキシコ、欧州を旅して、当時世界を席巻しつつあったキリスト教の世界を目にする。
    一方、宣教師ベラスコは、現世しか見ない、神を信じない日本人にこそ、神の教えを広めたいと情熱、執念を持って旅を先導する。

    「侍」から見た時に不可解なものでしかなかったキリスト教が最後の最後で少し、政に振り回され、不条理としか言われぬ境遇に陥った時、ほんの少しだけ身近なものに感じられた。
    名前がありながら「侍」という表現で押し通したのは、彼が「日本人を代表する存在」という意識があったからだろうか。結局、ベラスコの熱情は侍には届かなかった。

    それにしても、情景から心理描写まで、もう、文章が美しい。

    ・(では主よ、私は日本を諦めるべきでしょうか。あれほど優れた才能と力とに恵まれた日本人を、あのぬるま湯のような心のままに置いておくべきでしょうか。あのい民族はなぜか私には聖書に書かれた「冷たくもあらず、熱くもあらぬ」」心を自分たちの特質として頑固に厳しく守り続けているように思われます。そんな彼らにあなたを求める熱さを……与えたいのです)P246

    ・「日本人には本紙的に、人間を越えた絶対的なもの、自然を越えた存在、我々が超自然と呼んでいるものにたいするような感覚がないのです。30年の布教生活で、私はやっとそれに気づきました。この世のはかなさを彼らに教えることは容易かった。もともと彼らにはその感覚があったのからです。だが、恐ろしいことに日本人たちはこの世のはかなさを楽しみ享受する能力もあわせもっているのです。その能力があまりに深いゆえに、彼らはそこにとどまることの方を楽しみ、その感情から多くの詩を作っております。だが日本人はそこから決して飛躍しようとはしない。飛躍してさらに絶対的なものを求めようとも思わない。彼らは人間と神とを区分けする明確な境界が嫌いなのです。彼らにとって、もし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかはなれるようなものです。例えば、彼らの仏とは人間が迷いを棄てた時になれる存在です。我々にとって人間とは全く別のあの自然さえも、人間を包み込む全体なのです。私たちは……彼らのそのような感覚を治すことに失敗したのです」P292

  • 『沈黙』よりももしかしたら、こちらの方が好きかもしれない。ずしーん、と心に重くのしかかってくる作品。
    自分のことや、友だちのことを考える時、信仰って一体なんだろう、と思うことがよくある。
    それでも信じ続ける理由?
    僕はまだ、よく分かりません。

  • (欲しい!/文庫)

  • 江戸時代初頭、仙台藩が送った遣欧使節の話である。主人公は、長谷倉六右衛門と宣教師ベラスコ。ベラスコの持つ、驕慢と野心、日本という困難な国で布教し、征服したいという野望。一方、侍の持つ、お役目に対する真摯さ、たとえ不条理なものでも定めと受け入れる愚直さ。この二人は対照的だが、読み終えてから気づいたのは、実は表裏一体なのではないかということ。
    物語は、月の浦から出航するまで、ノベスパニア、さらにエスパニア、ローマ、そして空しき帰路と展開していく。ヴァレンテ神父との対立の中、切り札である侍たちの洗礼がなされ、ベラスコの野望は成功し、使節団と国王との謁見が実現するかに見えた。ところが、江戸幕府がキリシタン禁制に舵を切ったことが発覚し、形勢は一転する。
    破れた悲壮さの中で、侍は御政道の現実を知る。そして、人間が求めるものは、生涯そばにいてくれ、裏切らぬものである、それがあの男の存在意義なのかもしれないと気づくのだ。
    この著作は、物語の展開や、登場人物の深さにおいて、誠に読み応えがあった。自刃で以て、自己を完結させた施設の一人田中。ベラスコは、自殺に等しい禁教となった日本への潜伏を試み、火刑に処せられる。私は生きた、という言葉を残して。それは、自殺を禁じられたキリスト教徒ベラスコの、自己完結の手段だったのだと感じる。

  • 務めのため異国に渡った侍の話であり、宣教者の信仰の話でもある。
    長谷倉(支倉)はスペインに渡って同化するどころか、その文化とも信仰とも、交わるところはない。翻弄されても日本人であろうとする姿は、今はなき侍の矜恃である。
    そこかしこに神がおり、人間以上のスーパーマンは不在の日本に、キリスト教は馴染まない。異文化を通じて日本人というものが浮かびあがってくる。

  • 藩主の命令でローマ法王に新書を渡すために派遣される三人の侍。案内するのが野心的な宣教師べラスコ。メキシコ、スペインへ苦難な旅が続く。異国の地でお役目のためキリシタンになることを迫られる侍たち。でも帰国すると日本は鎖国にキリシタン禁制。侍たちは捕らえられ・・。

    後味悪っ!と言いたくなるような結末で、救いのない話だった。ただメキシコ、スペインへの船旅は冒険旅行小説のように楽しく読めるし腹黒い野心家宣教師べラスコや派遣される侍・長谷倉の人物造形も巧く読ませる。

    遠藤周作の作品を読めば読むほど、これはキリスト教の話ではなくてキリスト教を通して日本人とは何なのか?日本って何だ?と、物語を貫く一本の軸として問い続けているように思う。「沈黙」にもそういうとこあるかな。

  • 貧乏な一人の侍が突如、殿様の命令によりメキシコへ派遣される。同行者には通訳兼神父のベラスコ。旅の途中で侍はお役目の為にキリスト教に帰依する。そして日本に帰ってきて…
    この本の最後にある解説を読んでびっくり。実話を元にしたフィクションだそうだ。大河ドラマにしたら視聴率とれるんではないか?

  • 徳川幕府が切支丹禁止令を出す頃の東北のある大名が遣わした遣欧使節団に関する事実。大海に出て世界を見てきた「侍」が数年後、日本に帰国して待っていた運命とは。もの悲しくもあり、人間とは?信仰とは?を問いかけられる。

  • 今年は、支倉常長らの遣欧使節団が旅だってから丁度400年。支倉(本作では長谷倉)やソテロ(本作ではベラスコ)をモチーフとした本作は、2人が諦めの心境の中でキリスト信仰に真に目覚めるまでの心の旅を描いているが、実は、著者の実体験がベースになっているとのこと。「沈黙」よりも分かりやすく、面白かった。

  • 『沈黙』に触発されておそらく初読、個人的には『沈黙』には及ばないかな。
    こちらの作品は主人公が二人設定されており、それぞれのストーリーが紡がれているため若干冗長な感がある。
    日本人にとっての自己とは何か?という考察、非常に興味深い。
    ヨーロッパはキリストという絶対的な客体との関係の中で自己を捉えるが、日本は家族・地縁・上司等客体であって客体でもない人間関係の中に自己認識の基盤がある。
    これは決定的な相違であり、だからこそ侍達には絶望が、パードレには(あくまでパードレ自身にとってだが)希望が最後に待ち構えている。
    侍達の境遇は現代日本の何処にでもありそうな話、つまり日本人の精神性はなおも変わっていないというこれもある意味悲しい話でもあります。

  • 重い、暗い話だ。
    宗教と自分の虚栄心、また社会制度の中で揺れ動く主人公達。
    真面目だ。
    神なのか家なのか、自分の屋台骨となる信念を持っている人たちはすごい。現代人にはあまり無い感覚だ。

  • 権力に翻弄された庶民の数奇な運命。。
    この話は知ってましたが、ここまでだったとは…。
    この作家の誠実さは、尋常ではない。

  • ベラスコ(ルイス・ソテロ)の烈しさはどこからくるのでしょうか。支倉常長の思いと慶長遣欧使節の事実も気になります。
    今年は出帆400周年なんですね。
    いつか仙台&石巻に行ってみたい。

  • 報われない道程だと知りながらも、「武士」ゆえに拒否することも、引き返すことも出来ない・・・
    宗教、伝統、階級、そして鎖国に否応なく翻弄される、宣教師と支倉常長たち一団のローマ法皇謁見までの長い長い旅路を、遠藤周作の美しい筆致で、重厚に描いた作品です。

  • 名前は聞いたことがあるが、よく知らない支倉常長。ローマまでの道のりはどれほどの苦しみがあったのか、垣間見ることができた。キリスト教とは距離を置いていた支倉の気持ちやその葛藤についてもっと描ききってほしかった。

  • 支倉常長をモデルにした作品。あと宣教師。
    タイトルからして、支倉常長をモデルとした長谷倉を中心にして物語が回るとおもいきや、宣教師とのツートップである。故に、沈黙に近い感じの作品。

  • 先日、慶長遣欧使節資料が世界記憶遺産に申請されたというニュースを聞いて読み返してみた。
    『沈黙』と共に、キリスト教とは・日本人にとっての宗教とは…ということを考えさせられる一冊。

  • 遠藤周作の作品に出てくる登場人物ってどうしてこんなにイメージしやすいんだろう。中でも、『侍』は使節として送られる代表3人と、彼らを繰ろうとする宣教師それぞれが全く異なる個性を持っていると認識出来て面白かった。

  • 時代はまさに,家康が幕府直轄領に切支丹の教えを禁じだした時である。そんな時代,布教に対し,命をかけなければならないような日本に,宣教師ベラスコ(実在したルイス・ソテロ神父)がキリストの教えを広めるため,そして自分の栄達のため,策謀を張巡らせつつ,本当のキリストの教えとは何なのか悟っていくていく物語。また,そんなベラスコの熱意に対し,侍がどのようにイエス・キリストのことを考えたか。日本人の心がどのようにキリスト教を捉えているのか,日本人特有の現世利益を求める姿を例にあげつつ,侍の心とベラスコの心を交互に捉えながら話は進む。

    当時,本来であれば,日本は宣教師であるベラスコを追放するべきなのだが,利用価値があるとして,通詞の役目を与え,ノベスパニヤとの通商を始めようとしていた。幕府直轄領では禁教するが,その他の国ではお咎めなしという都合のよい施策を打っていた。このため,江戸を追われた信徒は西国や東北に逃亡することも黙認していた時代だった。

    フランシスコザビエルが,半世紀前に日本に上陸し,この国の伝道はすべてザビエルの創設したペテロ会が独占してきたが,十年近く前に法王のクレメンテ八世が他の修道会にも日本への布教を認め,ペテロ会と他の会との軋轢が増した時代である。ベラスコはペテロ会と対立するポーロ会の宣教師で,日本での布教が厳しくなったのは,ペテロ会が長崎に植民地に等しい土地を得ていたためだとなじった。九州を占領した秀吉は,布教に名を借りた侵略だと激怒し,禁教令を布いた事は周知の事実である。ベラスコは,自分に任せておけば,日本人をうまく操れる,日本人には利益を与え,我々には布教の自由をもらうといった取引を自分は巧みに行うことが出来ると思っていた。国家は宗教を利用し人々を支配し,宗教は国家を利用し布教を進めようとする。宗教が広まっていくのは,先進国の技術を途上国は輸入させてもらう代わりに布教の自由を与える。宗教と国策は切っても切れない縁で繋がっていた。

    ベラスコも同じように,布教を許してもらう代わりに,ノベスパニヤとの通商の道を開けと藩主伊達政宗に言われる。これによりノベスパニヤ行きが決定したわけだが,それには日本の使節が必要になる。そこで選ばれたのが,本書の題名になっている”侍”こと長谷倉六右衛門(実在した支倉六右衛門のこと)だ。
    船の中でベラスコは日本人がキリスト教に興味を持つだろうと思っていたが,そうはならなかった。日本人は幸福の意味とは現世の利益を得ることであり,それは富み,戦に勝ち,病気が治ることで,それらを目的とした宗教なら受け入れるが,超自然なもの,永遠に対してはまったく無感覚である。その現世利益のためだけに,使節団と共にノベべスパニアに渡った商人連中は切支丹になった。役に立つものなら,何でも取り入れるという日本人独特の考えである。薬師如来も病気平癒のため崇められる。宗教に現世利益を求める日本人は,キリスト教の言う,永遠とか魂の救いとかを求める宗教は生まれない。ましてや復活など。ペテロ会は当初はそんな日本人の特性に対し,鉄砲を売り込み,その代わりに宗教を広める許しを得てきたが,利権確保をやりすぎて失敗したのだ。

    ベラスコがキリスト教を日本人にも広めようとする中,侍は,無力でみすぼらしいキリストの姿に神々しさも尊さも感じない。美しい仏像にはおのずと頭が下がる思いがするし,清らかな水の流れる社の前に立つと手を打つ気分にもなれる。日本人は本質的に人間を超えた絶対的なもの,自然を超えた存在,切支丹が超自然と呼んでいるものに対する感覚がない。反対に,この世のはかなさを感じること,はかなさを楽しみ享受する能力を合わせ持っている。持っているだけでなく,その能力があまりに深いゆえに日本人はそこに留まることの方を楽しみ,その感情から多くの詩を作る。そこからは決して飛躍しようとはせず,飛躍して更に絶対的なものを求めようとは思わない。日本人は人間と神を区分けする明確な境界がないのだ。人間はいつかは神になれる,近づける存在だと思っている。だから日本人は,人間とは次元を異にしたキリストという神を考えること,捕らえることが出来ない。

    日本人は決して一人では生きていない。『彼』という一人の人間は日本にはいない。彼の背後には村があり家がある。それだけではなく,死んだ父母・祖先がいる。その村,家,父母,祖先はまるで生きた生命のように彼と強く結びついているのだ。彼とは一人の人間ではなく,村や家を背負った総体なのである。フランシスコザビエルが日本で布教を始めたときぶつかった最も大きな障碍はこれだった。日本人たちはこう言った『切支丹の教えは善いものだと思う。だが自分は自分の祖先がいない天国に行くことは祖先を裏切ることになる。死んだ父母や祖先と自分たちとは強く結びついている』と。これは単なる先祖崇拝ではなく,強い信仰といわず何と言おう。

    侍をはじめ,多くの日本人は,キリストの,あのようなみすぼらしい,みじめな男を敬うことが出来ない。あのように痩せた醜い男を拝むことは出来ない。しかし,切支丹はこう言う。キリストがみすぼらしく生きられたがゆえに信じることが出来る。醜く痩せこけ,この世の哀しみをあまりに知ってしまったキリストは,人間の嘆きに眼をつぶることが出来なかった。だからキリストはあのように痩せて醜くなられた。もしキリストが自分たちの手も届かぬほど,気高く,強く生きられたなら,切支丹とはならなかったと。キリストは生涯みじめだったゆえに,みじめな者の心を知っている。みすぼらしく死なれたゆえに,みすぼらしく死ぬ者の哀しみも知っている。キリストは決して強くもなく,美しくもなかった。キリストは一度も心驕れる者,充ち足りた者の家には行かなかった。醜い者,みじめな者,みすぼらしい者,哀れな者だけを求めておられた。泣く者はおのれと共に泣く人を探す。嘆く者はおのれの嘆きに耳を傾けてくれる人を探す。世界がいかに変わろうとも,泣く者,嘆く者は,いつもキリストを求める。そのためにキリストはおられるのだと。

    後段で著者はベラスコに自分の嘆きとも言える言葉を吐かせている。今はキリスト教の司教も司祭も心は富み,心は充ち足りている。今あるキリスト教は,かつてイエスキリストが考えられた姿ではないと。

  • 何故、それでいいの?
    消化不良な感じが飲み込めない
    重いテーマで読み応えありです。

  • 2012.1.19(木)¥178。
    2012.1.25(水)。

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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