- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101126012
感想・レビュー・書評
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読んでも正直よくわからない。大江健三郎氏をサルトル的実存主義文学と称すらしいがそれもどういうことかよくわからない。でも不思議と読み進めてしまう。何か深淵な漆黒のどす黒い人間の負の感情が蠢いているような奇妙な魔力がある。「死体の奢り」が処女作というのも驚きだ。そりゃノーベル文学賞もとるわけだ。
彼独特の視点による文章や自在に切り替わる視点も凄いが、「人間の羊」や「戦いの今日」で描かれる負の感情の連鎖が凄まじい。感情の対象となる原因発生、ストックホルム症候群に似た被害者らの連帯感(懺悔)、感情の反転とすり替え、そして虚脱、この一連の変遷の捉え方と表現が見事だ。すべて気が滅入るようなテーマではあるが文学とはかくあるべきといえる作品である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
個人的にかなり好きな短編集だった。
内容の重く暗く救えないような空気感とは裏腹に
大江健三郎さんの文章があまりに綺麗。
自分はこんな言い回しが思い付くか?出来るか?と
考え込んでしまうくらい、表現に溢れていた。
特に好きなのは「人間の羊」。
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私のような戦争戦後体験がなく、そして人生経験も少なく、さらに読書初心者にとっては、かなり辛い読書体験になりました。
むずかしいと聞いていた大江健三郎さんですが、文章とストーリーの難しさはあまり感じませんでいた。
なにが辛かったかというと、時代を反映し全体に流れている「卑屈さ」みたいなものだったように思います。
それは敗戦国に命あるものとしての卑屈さ、でしょうか。息が詰まるような閉塞感とその継続からくる諦めみたいなものが人物の心理に通底しているような気がしました。
この読書には感動も発見もありません。しかし、自分と全然重なるところはないのに、どうしてか共感ができるような心境になってしまいます。置かれた状況は全く異なりますが、ただ、なんとなく、自分と一緒だ、と思うところがあるのです。 -
人は自分に無いものを前にすると生き方全てを曝け出す。
それはどんなに目を背けても必ず自分に返ってくる。
この本の内容を痛いとも辛いとも思う自分は傲慢だったのだ -
読後感が深く残る短編集。
どの短編作品も重々しく、時には嗚咽を覚えるような嫌悪感さえある。どうしようもなく暗く荒んだ気分になるが、退廃的な世界感が最初から最後まで引きつける。 -
いつか読みたい、いや、読まなきゃと思っていた大江健三郎。読みやすい文体、しかし閉塞感いっぱいのシチュエーション。短編ってこともありかなり物語に入って読めた。個人的には「人間の羊」が印象に残った。
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大江健三郎は、一時期、若手の評論家諸氏から、かなり、攻撃されていましたが、彼の作品群の日本文学における重要性は、今後も増し続けていくのだろう...大江健三郎は、一時期、若手の評論家諸氏から、かなり、攻撃されていましたが、彼の作品群の日本文学における重要性は、今後も増し続けていくのだろうと思います。
僕は、本作は未読ですので、機会がありましたら、ぜひ、読んでみたいです。2021/11/15
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薄暗くてじめじめとした雰囲気が作品全体から感じられる。一つ一つの作品に粘着質でずっしりとした重みがあって、考えさせられる。おすすめです。
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短編小説集だが、完璧な“何か”と当人の対比というのが一貫したテーマだった(人間の羊以外)。
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大江健三郎(1935-)の初期短篇。人間の孤独や政治の欺瞞の在りようが、読み手の五官の神経(特に触覚と嗅覚)や臓器感覚に訴えかけてくるような独特な表現を通して、描かれている。
□「死者の奢り」
死んでしまった《物》と生きている《人間》と、その二者に間にはどれくらいの距離があるのか。死体を前にして、青年は観念的に、妊娠している女子学生は胎児を下腹に感じながら、死体処理歴30年の管理人は自分の子や孫を想像しつつ、それぞれが死と生との距離を測ろうとしているように見える。《人間》はいずれはみな死んでしまうのだから、《物》との距離は然程遠くはないのか。しかし、意識を備えている《他者》は、《物》とは異なり、別の意識の持ち主である《私》が発する眼差しや思惑を撥ねつけ調和を拒もうとする。生は希望のない徒労のようなものなのか。冒頭の死体処理室の描写が妙に美しく感じられ、アニメーションで観てみたいという気持ちになった。
「あれは生きている人間だ。そして生きている人間、意識を供えている人間は躰の周りに厚い粘液質の膜を持ってい、僕を拒む、と僕は考えた」
□「他人の足」
物語の冒頭、脊椎カリエス療養所は、少年たちにとってまるで母の子宮であり、彼らはその羊水のなかを揺蕩っているような、生活への不安も「健常」への強迫観念もない、無時間的で、重ぼったく惚けたような安逸に包まれた、或る種のユートピアのように描かれる。「僕らには外部がなかったのだといっていい」。しかし、如何なる自閉的な《内部》に退却してみようとも、《政治》から逃れることはできない。《他者》としての学生が闖入して以来、「凡てが少しずつ、しかし執拗に変り始め、外部が頭をもたげたのだ」。そこには《政治》にまつわる欺瞞もあれば、正義の名のもとの全体主義化だって起こり得るだろう。我々はどこにいても《政治》に対して無垢では在り得ない。この意味では、我々には《政治の外部》はない。
世界とは、あらゆる《外部》性の閉包であり、それ故にもはや《外部》の余地が残されていないもの、と云えるのではないか。
「この男は外部から来たんだ、粘液質の厚い壁の外部から、と僕は思った。そして、躰の周りには外部の空気をしっかり纏いつかせている」
□「飼育」
読んでいてぎょっとさせられるほど残酷な物語であるが、詩的に美しく昇華されているようでもある。事件を通して少年はもはや子どもではなくなるが、そこで彼が喪失したものを思うと、そしてその喪失を通して果たされることとなった成長ということの彼にとっての意味を思うと、哀しくなる。前二作に比べて、一文の中に比喩が多くなったりまた長い修飾節が挿入されたりと、意識的に凝ったであろう文体が読みづらく感じられた。
「僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、橇遊び、山犬の仔、それらすべては子供のためのものなのだ。僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまっている」
□「人間の羊」
読んでいて苦々しい気持ちにさせられる。腕力を振るう物理的な暴力も特定価値を押し付ける政治的な暴力も、どちらも他者の人格を無視したところで可能となるものであり、エゴイズムそのものであることには変わらない。体験から被る衝撃は、ときに人から言葉を奪う。自己を無化する暴力的な世界を自分の理性で解釈し(再)構築することを、億劫がり拒否してしまう。当の屈辱が自分の言語によって何かしら言い訳がましく別物にすり替えられるような仕方で再現されてしまうことは、それ自体が再度の屈辱となってしまうから。
「啞、不意の啞に僕ら《羊たち》はなってしまっていたのだ」
□「不意の唖」「戦いの今日」
「飼育」「人間の羊」もそうだが、当時の大江は、あるいは敗戦から間もない当時の日本人は、米兵に対してどのような感情を抱いていたのだろうか、と思わされた。根底にあるのは、敗戦国の劣等感だろうか、恐怖心だろうか。それとも作中の米兵とは、別の何かの象徴だろうか。ただこうしたどぎつい物語の中に、作者の屈折した拘泥のようなものが顕れてしまっているのは、確かだろうと思う。
著者プロフィール
大江健三郎の作品






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