われらの狂気を生き延びる道を教えよ (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.50
  • (20)
  • (26)
  • (56)
  • (7)
  • (2)
本棚登録 : 475
感想 : 32
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101126098

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 初期の短中編5編が入っている。この大江健三郎さんの独特の文体は初めて読んだときはまどろっこしくて戸惑ったが、慣れてくると逆にこの詳細な遠回しな比喩含めた文体が、気持ちよくなってきてこれじゃないと駄目だなと思ってしまうほどだ。
    どの作品も興味深かったけど、「走れ、走りつづけよ」が自分的にはブラックユーモア的にも感じ、大変面白かった。
    「核時代の森の隠匿者」は名作【万延元年のフットボール】の後日談的な話なので、さきに【万延~】を先に読むのをお勧めします。

  • 先日、ノーベル賞作家大江健三郎さん自選の短編集(『大江健三郎自選短編』)を眺めてみて、とても面白かったので、海外でも有名な作品の一つとなっている本作(短編)を読んでみました。
    まずもってオーデンの詩から引用されたタイトルがふるっていますね。それにたがわず内容もふるっていて、だれもかれも戯画的で、こらこら、もう少し足元から引いてみたらどう? と思わず言いたくなるような、何かに必死すぎた男たちは、あまりにも痛くてユーモラスで滑稽で、いやはや、人間ってかくもおかしくてかわいいものだなぁ~。

    ***
    「僕」のいとこはイケていると妄信するエリート青年、そんなファンキーな彼の痛すぎる迷走(「走れ、走り続けよ」)。

    世界中の子どもたちのために自ら「生にえ」になろうと迷妄する「善男」のけなげでグロテスクな滑稽さ(「生にえ男は必要か」)。

    都会のなかで野人のように暮らす「山の人」に困惑しながら、どこか懐かしい郷愁と羨望を抱いていく男(「狩猟で暮らしたわれらの先祖」)。

    父の呪縛に苦しみながらいつのまにやらその安寧をむさぼる中年男、父の背中を追い求めてさまよう男の明暗はいかに?(「父よ、あなたはどこへいくのか?」&「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」)

    戦争や核拡散といった時代背景をない交ぜながら、どれも残酷なほどユーモアに富んでいます。ひどく不機嫌で多様性を認めない、自分の考えだけが正しいと凝り固まった狂信性や独善を打ち破る力が「笑い」には備わっています。
    とりわけ「父よ、あなたはどこへ行くのか?」&「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」は、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの詩を引用しながら、まるで生身の父とユダヤの神(父)との確執に苦悩したフランツ・カフカ的な哀愁やペーソスに満ちた笑いがみなぎっています。あるいは私の好きなポール・オースターの『孤独の発明』にも似た、ある種の父親さがしの物語です。

    自分の思いどおりにならない幼い息子を全的に保護し支えているのは自分なのだという思い込みで生きてきた男。なんとも荒々しいショック療法? をきっかけに、じつは自分が子に支えられ、まるで片面的依存関係にあったことにハタと気づいた男の喪失感たるや、もう気の毒でひどく憐れです。面子丸つぶれになった男の落胆、やるせなさ、滑稽さ。そして男は解放感を得ながら自分の父親という呪縛からも解き放たれていく成熟物語。
    でも、ほんとうに男は救われ生き延びたのか? それは読み手の想像にまかされた、可笑しな円環作品で、「父」なるものの多義性や両義性にも富む、奥深い作品です。

    どの作品も詩情に溢れていて、芸術家としての大江さんの才気に感服し、まだ読んでいない他の作品もながめたくなるような魅惑的なものばかりです。
    もし! 『大江健三郎自選短編』のレンガのような分厚さ(P848)にたじろいでしまいそうな方は(笑)、まずこの作品を眺めてみるのはいかがでしょう(^^♪

  • 人間の内奥に居座る、根源的な黒いものを「狂気」として捉えている。
    福永光司著の「荘子」にて、人間は非合理で混沌な存在であると述べられているのを思い出したが、この説明のつかない非合理性は「狂気」の表出ではないだろうか。

    詩、私小説、エッセイを総合した、40年前の短編・中編集でありながら、「新しい」文学の試みだと思う。

    「走れ、走りつづけよ」も好きだが、やはり最後の中編「父よ、あなたはどこへ行くのか」は難解ながらも味わったことのない読書体験を得られた。掴みきれていない部分もあるので、必ず読み直したい。


  • キレキレのオーケン中期。
    文の生々しさと滑稽さのバランスが絶妙で、作中の作者の分身に愛おしさを感じる。
    当時のコテコテ多弁気味“私小説風小説”の作品群の中、表題の通り救いを求める作者の魂に触れた気がした一冊。

  • 単純に好みや自分へのフィット感の問題なのかもしれないけれど、個人的に「生きるために書かねばならぬ」という逼迫性が感じられる作家は少なくて、ある時期までの村上春樹もそうだったと思うのだけれど、もうここ10年以上彼は自分ではなく他者のために小説を書いていて、そういうのを成長と呼ぶのかもしれず、ある程度まで行ったら天井に手が届いてしまうものかと思ったけれど、大江健三郎を読むにつけ、彼程、スタイルはその時々によって変更されつつも、基本的には長きに渡って自分の為に書き続けている人は私の知る限り他にいない。やはり『燃え上がる…』のような、K伯父さんとして自分は三歩程度下がって他者に語らせるスタイルよりも、『取り替え子』のように田亀とぶつぶつ対話するような、「自分」(もちろん大江健三郎そのものとは言わないけれど、小説の中での、あるいは象徴的大江健三郎とでも言おうか)が直接コトに巻き込まれていくスタイルのほうがしっくりくる。
    なぜならば、彼は今も生きていて、自分の大切な人が死んでいったとしても、自分だけは何故だか死なずに生きていて、「自分」が消えないのだから生き続けるキツさは永遠につきまとって、自分の中に流れている音楽のようなものが、少しずつ、しかし執拗に変奏されながらも流れ続けているのはとても自然なことだ。

    極めて個人的な体験が、普遍的なものとなりうる、という、彼が29歳?の時に語った言葉に私はここ10年くらいずっと励まされているけれど、その言葉は彼自身をも長く支えていると思う。とても長く。
    そして『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という壮大なタイトルのこの本、一体どういう内容なのかと思ったけれど、感触としては一番、彼流に言うならばもっとも「猛然」としていると私には感じられた。『同時代ゲーム』や『新しい人よ目覚めよ』から遡った形での読書になったけれど、それらほど冷静でもなく(といっても…というかんじだけど笑)、『個人的な体験』や『叫び声』の頃程、まとめきらねばならぬ、という小説的配慮にとらわれている感じも薄く、かといってその二つの間の転換期というような迷いもなく、なんかもう必死に、猛然と憤然と書かれている感じが、生々しく、今の私にもっともぴったり来た。

    ところでわれわれは直截に他人のために書くことなんてできるのだろうか?

    以下はメモ。

    「あまりにも根源的にわれわれを急襲する認識は、まずわれわれの存在の根に直接突き刺さり、それからやっと意識の表層にコダマを返してくる。そしてその時われわれの意識は自分がかつてその衝撃を経験したことがある、というニセの感覚を持つのである。」p.298

    あるいはその「認識」はあまりにもしっくり来すぎるが故に「発見」という形を取らないのではないだろうか。この文の前に「沈んだボールが水面に戻るように浮かび上がって来ていなかったのだ」とあるけれど、ボールはもともとあって、それがその「認識」をきっかけとして浮上してくるような…。

  • 3.11以降のこの時代に、この時期の大江を読むことには感慨を覚える。核の時代の孤独と閉塞感は今に通じる感覚があるのではないか。恐怖によってのみ連帯する人々の中で自由とは狂気と同義なのだろうか。
    しかし、詩篇を核とした大江流の私小説が見事に結実し、見事な完成度を誇る作品群である。

  • われらの狂気を生き延びる道か術かがこの本(とかこうする行為)、ていう話。(しらんけど)実は意味もなく恥ずかしいけど大江健三郎の作った言葉の端々にはハッとこれだよと気付かせられるおれなので、恥ずかしいけど(にかいいった)☆5つにしまつ。恥ずかしいのはシャイだからです。しるかー

  • プロローグでその後の小説の核となる狂気の話、詩と小説の話を紹介していて、それが面白かった

  •  二十代の初めに、一度読もうとして途中で挫折し、それから恐らく二度とくらい買い直して、それも読まずに古本屋に売って、何ヶ月か前に購入したのを、やっと読んだ。
     僕は買った本は全て、最初から最後まで読むことにしているが、この本はなぜかなかなか途中から読み進めず、挫折したのだ。
     多分、大江健三郎の文章(文体)に着いて行けなかったのだろうと思う。
     しかし、今回思いがけなく面白く読んだ。
     僕が読むのだから、見当はずれだったり、真意を汲み取れずに読んでいる箇所も多いだろうが、それまで大江作品に感じたことのない笑いの要素を、所々に感じた。
     大江自身の作による詩と、オーデンとブレイクの詩をモチーフにした三つの短編と二つの中編が入っている。

     「父よ、あなたはどこへ行くのか?」の「俳骨湯麺とペプシコーラ」というフレーズが、とても面白かった。
     脳に障害のある息子とその父親の自分が、一方的であるけれども感じる息子との共感。
     それを象徴しているようだが、ギャグのようでもある。
     
     現実に脳に障害のある子供を持って、その日常を小説に書くとして、このような表現方法で作品が書けること自体が、天才である。
     やっとなんとか大江の作品を読めるくらいまでにはなったかと、自画自賛しているところだ。
     

  • 大江の描く人間は情熱的であるほど滑稽でグロテスクでそれがやたら心地いい。

全32件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

大江健三郎の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
谷崎潤一郎
安部公房
三島由紀夫
遠藤 周作
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×