同時代ゲーム (新潮文庫)

  • 新潮社 (1984年8月28日発売)
3.54
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本 ・本 (608ページ) / ISBN・EAN: 9784101126142

感想・レビュー・書評

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  • 同時代ゲーム読了。いやー時間かかった。
    この難解な一見訳の分からない、作者の物凄い創造力に満たされた文章を読破できたことは、今後の読書にも自信をもてる。
    あまりにも奇怪な登場人物にクスッと笑ってしまうが、あまりにも文学的なので笑っちゃっていいものか悩んだ。
    面白いか面白くないかでは表現できない、混沌とした小説だったので自分としては高評価だった。
    なにしろ、長時間よく読破できた。でも不思議と途中で挫折しようとは思わなかった。それは大江さんの脳内に少しでも入りたいと思ったからかも知れない。

  • うおおぉーーー!読み切ったぞーー!
    寝落ち最多記録更新!3行で眠くなって、次に開いた時によく憶えてなくて1ページ前から読み直すから、アラ不思議、読んでも読んでも元に戻ってしまうミステリアスな読書迷宮から3週間かけて戻って参りました!
    ひろがるうれしみ。初読み大江さん。

    内容としては至極シンプル。主人公の〈僕(露己)〉が〈妹(露巳)〉へあてた手紙の中で、故郷の四国山中のとある村〈村=国家=小宇宙〉の「神話と歴史」や兄弟知人の動向を伝えた文章を読む、というもの。

    ひたすら冗長に村の歴史が語られ、兄弟の悲惨なあゆみを聞き齧り、これは一体なんなのだといい加減に頭が痛くなってきたところで《第六の手紙 村=国家=小宇宙の森》の章終盤にて、タイトル『ゲーム』というワードが突如飛び出してくるのであります。「ひとつの三次元の空間についてそれ固有の時間があり、つまりは空間×時間のユニットとしてこの世界があるのだ」(p584)「ほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかから、ゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう……。いまわしらが生きておる、この今につながってくる歴史も、そういうもののひとつにすぎんか知れんが!」(p585)というセンテンス。

    このあたりをどう読むか。

    わたしは、いわゆるメタフィクション的な、所詮作品の中の登場人物が、作品の中の村の歴史を語り継いだところでその歴史は作者(=神的なもの)の匙加減でいかようにも荒唐無稽に「組みかえ」られるのだからさ、その全ての可能性を見渡す事なんて出来やしないんだしさ、多少ハチャメチャでも自分が好きにやりたい事を好きにやれば良いじゃん、という風に受けとりました。
    じっさい、この真理に気付きかけたのかどうかわかりませんが、〈僕〉は「素裸の躰を真赤に塗って満月の谷間から森の奥の暗闇へと駈け登って行った」(p558)挙句に糞尿を撒き散らし屁を放ちながら山を分け入り、歩き回った末に「塗りつけた紅がもう尻の割れめにしか残っておらぬ僕」(p582)に至ったところでスンッと悟るのであった。「僕の肉体と精神のなかには、確かにその外縁はかぎられているが、そのなかは層をなして無限の広がりをもつ、小宇宙としての森がはいりこんだのだ。」(p583)という。すっかりデトックスされたようなスッキリ爽やかな場面であります。ととのっています。イっちゃってます。

    個人的には〈僕〉の弟〈ツユトメサン(露留)〉の野球エピソードがくだらないながらも大好き。ツユトメサンのとこだけは眠くならずに読めました。ほんとに。p486〜のくだりは思わず笑っちゃいます。完全にギャグ漫画展開。最期はしょぼん。

    文学史的なことはよくわかりませんが、わたしの感想としては「とにかく眠かったけど、読書したな」という満足感と疲労感が3:7くらいの振り返り。

    読書体力が増したのは間違いない!


    8刷
    2024.9.13

  • 以前1/3くらいで挫折。今回も1年くらいかかった。これまでのいきさつと作者の現状の説明と故郷の歴史とのない交ぜと、大江独特の硬質な文体に慣れるまでの「第一の手紙」が一番の難所。大きな歴史としての時間、家族の昔とその後、双子である主人公と妹の目を通して"現在"として移動する時間、と複層的な構造を往還しながら着地点がわからないまま運ばれていく。小説何個分にもなりそうな登場人物やプロットがたいして掘り下げられもせず惜しげもなく投入される。なんか"けり"もつかないまま放り出されて終わるのも凄い。とにかく圧倒的。

  • 伊坂幸太郎の『夜の国のクーパー』著者あとがきで、この作品からの影響について書かれていたので興味が湧いて久しぶりに大江健三郎の長編を。なるほど、伝説や巨人、孤立した小さな村が大国を向こうにまわして戦争を始めたりするあたりは共通しているかも。しかし伊坂作品ではさすがにエンターテイメントとしてそれらの素材が昇華されていたけれど、大江健三郎はもっと難解。発表当時賛否が分かれたというのも頷けます。

    物語の外郭はある意味ファンタスティック。江戸時代に藩に追われて移住した人々が新しく築いた「村=国家=小宇宙」。森の中の隠れ里として独立したその共同体内で、百歳を超えてなお生き、さらに巨人化した創建者たちと、そのリーダーである「壊す人」の伝説をベースに、さまざまな伝説の人物、幕末維新期の一揆の指導者や、第二次大戦前に「大日本帝国」を敵にまわして戦われた「五十日戦争」などの壮大な歴史が、父=神主に伝承者として教育された主人公を通して、双子の妹への手紙という形で語られる。

    大江作品をすべて読んではいないけれど、随所に他作品との共通のモチーフが見られました。共同体ごとの失踪は短編「ブラジル風ポルトガル語」でも描かれていたし、一揆の指導者をめぐるあれこれは「万延元年のフットボール」、演出家と劇団員は後期の作品のあちこちに登場するし、森のフシギもまたしかり。そういった共通点は他の作品にも見られるけど、これはとくに集大成感が強かった。

    巨人化し、不死となる「壊す人」はマルケスの「族長の秋」の大統領を彷彿とされられました。読んでいて単純に一番面白かったのは「五十日戦争」の章。大日本帝国軍を向こうに回して対等に戦う村の人たちの戦術にハラハラドキドキもしたし、幽霊になって戻ってくる犬曳き屋や、自ら作った迷路から出られなくなってしまう子供たちの話など印象的なエピソードが多くて好きだった。

  • 狭く深く掘り下げるほどに、世界が広く濃く大きくなっていく。語り手、村=国家=小宇宙の世代を超えた歴史、語り手の家族たちの数奇な人生。さまざまな時間が「同時代」のことのように語られ、その中でも否応なく「時間」のにおいを感じざるを得ない。そして、最後の最後で本当に同時代のこととして解体された。閉じ方の完璧さ。
    解説もよかった。解説に書かれなきゃたぶん一生気づかなかったと思うけど、確かにこの小説はどこの章から読んでも問題ない。


  • 大のオーケンファンにして著作もほぼ拝読しているが、これは少し読者に優しくなさすぎる。
    内容や作品の文学的な重要性は別にし、作者の想いが強く入りすぎて文があくどい。読了後に純粋な評価をするには中途の苦痛が大きい。
    伊坂幸太郎大絶賛品だが、作者の見る角度が自分とは違うのかもしれない。

  • 大学入ってから読んだ本のなかでNo. 1。

  •  おおえー。
     冒頭からメキシコ、なんでやねん、というのは、これはすっごく大雑把に、南米への、つまり南米文学へのオマージュと、僕は取ったのだけれど、おそらく全体的にも、深層を探らせるように曲がりくねった文体を用いながらも、面白さを表層にとどめ続ける、何か、そのような得意な手法を著者は採用しているような、そんな印象をまずは持った。
     小説世界の神話化。ブームの火付け役となったマルケスの『百年の孤独』がどういう小説なのかということを、端的に言い表すなら、池澤夏樹の「フラクタル構造」というのが一番わかりやすく、しかも的確だと僕は思うんですが、神話というのは、「神話」という容れ物の中に、無数のエピソードがたくさん詰まっている。それは、全体の連関のうちにおいて存在感を発すると同時に、ただ一つのエピソードを抜き出しても、それぞれに別個の面白さが存在するものとして書かれている。「フラクタル構造」なわけです。フラクタル図形っていうのはどこを拡大してもそこに同じ図形が見出せる、あれですね。つまり「神話」というのはそのようなものとして書かれるものであって、完結した物語とエピソードの関わり方が単線的じゃない。ネットワーク的に、ウェブ的に、物語とエピソードが関わっていく。マルケスはそれを小説に導入し、迷宮のような語り口を獲得した、そういう意味で斬新な作家であったわけだけれど、それに触発される形で小説世界の神話化というものが、世界的に試みられるようになった。今超適当に考え付いた話ですが、そう遠くはないんじゃないかと勝手に思ってます。まあいいや。
     物語構成素の、並列的連関。フラクタル化。
     長ったらしくこんなことを持ち出してきたのは当然この『同時代ゲーム』もそうした手法で書かれていると僕は想像したからなんですが、それというのもこの小説の一番の醍醐味はどこかというと、わざとらしい大仰な口調での語りが、ありえない想像力の爆発を生んでいるところにある、と思ったからです。
     壊す人を中心に、描き出される村=国家=小宇宙の歴史。それは常人には覗き得ない異形の世界であり、SF的なまでに荒唐無稽なキャラクタが次々に現れては、地殻変動でも起こすかのように物語がごりごりと動いていく様は、正直言ってばかばかしい。ばかばかしいまでに、呆れるまでに、やりきってる。ここまでやるか、という感じがある。そしてその「ここまでやるか」感がこの作品の肝である、というように僕は思う。深層を探らせるように曲がりくねった文体を用いながらも、面白さを表層にとどめ続ける、というのはそういうこと。「いったい何が起きるんだ」とわくわくさせつつ、起きることのあまりのばかばかしさにずるっとずっこける感覚。決して悪い意味で言ってるわけじゃないので勘違いしないでほしいですが。その爆発的な笑いがこの作品の独創的なところであって、また一番面白いところだと思うのです。
     日本という国家と地方との関係において、パロディ的にグロテスクに統一幻想を暴き立てる、みたいな、僕も自分で何言ってるかよくわかってないですが、そういう話も、あるでしょうし、それも主題的な位置を占めているとは思いますが。しかしこの面白さはそこにとどまるものではないでしょう。

     再びメキシコ、第一章。
     読みにくい、といわれるけれど、ここにこれから展開される内容は、すべて開陳されているから、結局これ以外なかったはずだし、そうやって読めば、とても面白い章だと思う。ドタバタコメディ的な描写も多いけれど、それが後の爆発的想像力に直結される語りだったと思わされた時は、結構びりびりきましたよ。
     妹よ。

  • ストーリーのみを追えばSFファンタジー小説だが、緻密に練り上げられた文章で読書の醍醐味を堪能させてくれる文学小説だ。

  • M/Tと森のフシギの物語はこの作品の後に続くものらしい。

    長く、退屈な作品だった。
    「森のフシギ」のようには入り込めなかった感あり。
    でも味わいはなんとなくあるにはある。
    結局視点は主人公から変わらず、書簡形式によって若干他者を匂わせるが、その相手も一度も登場しない。
    結局この主人公が想像しているだけのことなのかと思うと、著者は想像している主人公を想像していることになる面白みはあるんじゃないか。

    それぞれ違う時代の出来事を絵巻物のように一つの時間に閉じ込めるという小説の機能を利用して、後世にも冷凍保存しようとしたのではないかとと思う。

    オシコメ、シリメ、フシギなど大江作品頻出キャラが勢揃い感がある。

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著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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