「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち (新潮文庫)

  • 新潮社 (1986年1月1日発売)
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本 ・本 (317ページ) / ISBN・EAN: 9784101126159

感想・レビュー・書評

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  • お得意のノンフィクション風フィクション。
    人外の想像力を感じさせる、個人的大江文学全盛期の傑作。
    高安カッチャンを筆頭とした登場人物と描かれるオーケンの分身のやり取りがとにかく滑稽で面白い。
    その滑稽さと、作者が心のうちに秘めている“雨の木”へのひたむきで純粋な想いのコントラストに胸を打たれる。

  • 甘ったれた男の物語と読むこともできる。初期の短編の完成度に比べれば、どこか未整理なままを見せることを目的としているような節もある。ただ、凝り固まった思い込みを捨てれば、やっぱり豊かなイメージに溢れた氏の作品は単純に面白く(首吊り男は笑っちゃうし、泳ぐ男はミステリー調にも読める)、短編は読みやすい。

  • この本は好きだ。表紙がとてもキレイだったし。この写真のような表紙ではなくて、最初に出てた本は、もっと薄いブルーだった。
    それから、アレンギンズバーグが出てくるとこ。
    彼が若い男性の恋人と一緒にいるシーンがあったように記憶してる。昨晩やりすぎて疲れた顔をしてる、とか、そんな描写だったような。

    大江健三郎は、すごい。原発のデモでも彼の存在感は大きかった。彼には、空想的な理想主義者みたいなところがあってバカにする人もいるけど、そういう理想主義者も必要なんだよ。

    大江健三郎の本は、難しすぎて、誰も読まないし、オレも上手く読みこなせないし、村上春樹みたいな誰でも読める分かりやすい人気作家に比べれば、世界的な認知度も低く、スピーチもヘタクソで、ノーベル賞授賞式のここ1番のジョークも国際的にスベってたけど、ノーベル文学賞って、彼みたいに、売れないけどがんばってる人に送るべき賞だと思う。
    彼の小説は、いつも新しい。

    逆に、大江健三郎に比べれば、村上春樹なんて軽すぎるし時代遅れだ。
    彼の好きだった物、たとえば、MD聞きながらジョギングするとか、アイヴィーファッションだとか、ビーチボーイズだとか、アメリカ文化への強烈な憧れ、だとか・・・そんなものは、とっくの昔に過ぎ去ってしまった。

    今ではもう誰もMDなんかで音楽を聴かないし。
    アイヴィーファッションもしない。
    アメリカ文化に憧れたりもしない。

    それに、村上春樹の原子力への言及は、あまりにも口先だけだった。
    村上春樹の小説は、健三郎にとっての小説のような、人生そのものなのではなく、ただの仕事。
    午前中に小説書いて、午後からジョギングしたり、水泳したり、ビールを飲んだり、音楽を聴いたり、趣味で翻訳したり。
    そういうライフスタイルはオレも好きだし、彼の小説が世界各国の市場で売れたり、カフカ賞をとったりしたのは、うれしいことだし、彼のスピーチだって健三郎よりずっとうまいけど、流行作家以上ではない。

  • 玉石混淆

     この小説に似つかはしくないひと。
    1.エンターテインメントを読みたいひと。
    2.悩んでゐないひと。
    3.長文の構文に慣れないひと。
    4.大江健三郎に興味がないひと。
    5.性描写が苦手なひと。

     すくなくとも万人向けではない。スランプ期のもので、うじうじ悩んでる。文章も描写も自分語りも長く、冗長ではある。後期の小説のやうに、距離を置いてさっぱりしたところもない。
     読み通したわりには骨折損と感じるひとが多いか、あるいはすぐ投げ出すか。

     このなかでおもしろいと感じるのは「「雨の木」の首吊り男」と「泳ぐ男―水の中の「雨の木」」。高安カッチャンとペニーは私にとってはどうでもいい印象。
     大庭みな子や富岡多恵子、柴崎友香など女性作家がこれをほめたのは謎だ。(ただし、解説の津島佑子はあまり多くを語ってゐないので、察するところがある。)


    「頭のいい「雨の木」」
     この連作短篇集の中では、もっとも文体構文が晦渋。形容句がどこに係るか、きちんと見きはめないといけない。ハワイの会議で来た施設が、じつは精神病患者の叛乱にあってゐたといふ筋。だからなんだといふ気がする。


    「「雨の木」を聴く女たち」
     アル中の高安カッチャンとペニーの関係を、アル中の『活火山の下で』のマルカム・ラウリーとその妻になぞらへる。
     実際に死んだ中央公論社の編集者の塙の葬儀を、TV局の斎木犀吉。その妻を国際作家のファムファタル。と落しこんで私小説っぽい。ここの国際作家がどうも川端康成か、ガルシア・マルケスのことらしい(小谷野敦)。
     そして、現実にこの短篇を読んだ塙の実の妻に絶交される。(「筒井康隆全集 24」大江健三郎の解説)
     読めばわかるけど、大江はどうやらアル中で、だからラウリーに惹かれたらしい。しかし『活火山の下で』自体、大江以上に難解である。


    「「雨の木」の首吊り男」
     メキシコが舞台で、ユーモアがある。
     この作品集のなかで、まづ、これがおもしろく読めた。むろん長いが、雰囲気としてもメキシコの幻惑的なものがあるし、大学エル・コレヒオ・デ・メヒコの同僚といふ人物のキャラクターは好きだ。
     最後の言葉もいい。


    「さかさまに立つ「雨の木」」
     「頭のいい「雨の木」」同様、ハワイのシンポジウムの描写が退屈で長い。没後、朝日新聞記者の記事に、大江が自身の作品のなかでこの短篇がいちばん晦渋だといってゐた。(https://www.asahi.com/articles/ASR3N4TZ6R3JUCVL03S.html)当人もさうおもってゐたんだ。と思った。
     やはり大江がスランプだったことの證左だ。

     ストーリー。かの高安カッチャンのペニーから手紙が届く。「「雨の木」を聴く女たち」で高安カッチャン矮小に描写したを僕を非難する内容。
     そして、日系アメリカ人の宮沢さん。核の話をハワイでしてほしいので、シンポジウム後、僕を迎へにくるといふ。
     当日のシンポジウムの描写につづき、シンポジウムでペニーに再開する。カッチャンの息子が父親の草稿に感銘を受けて、バンドを組んでLPを出した。バンド名は「地獄機械」。このLPジャケットのイメージがラウリーのさかさまに立つ樹木だった。
     終って、ホテルで待つが宮沢さんは来ない。ラジオを聞くとカルメ焼きの話題。(この部分はちょっと面白い。)
     翌朝水泳に出て、悪い夢を見た怒りにまかせて泳ぎつづける。その僕をペニーはとらへてゐて、
     ――やはりプロフェッサーだった。と声をかける。
     ――これから、「雨の木」のある施設に行ってみようか?
     ――「雨の木」? しかし私たちは死んだ人のことより、生きている人間のことをしよう。
     LPを聞くためにアパートに誘ふ。
     そこで、僕とペニーはセックスし、終って、ペニーはかういふ。
     ――私と高安の性交は、この一、二年高安が衰弱してきた後も、数は少なかったが、そのたびにうまくいった。それは良い性交(グッド・ファック)でした。(…)プロフェッサー、死んだ人のことより生きている人のことを、といったけれども、やはり死んだ人のことに戻ってしまったね。

     こんな女性像は妙にエロティックで、しかし実在はしないだらう。


    「泳ぐ男―水の中の「雨の木」」
     市川沙央がこれを読んで衝撃を受けた。――破廉恥。といってゐた(YouTubeの世田谷文学館より)。たしかに性的体験の暴露があり、グロテスクなほどだ。村上春樹めいた、いやそれ以上だ。
     これは『静かな生活』の最終話にも少し出てきた内容で、プールの乾燥室をめぐるOLと水泳青年と主人公・僕の関係を描く。
     もし大江がミソジニーなら、これがさうかもしれない。しかし、私はストーリーを楽しむといふ点ではありだ。

  • 「頭のいい「雨の木」」★★★
    「「雨の木 」を聴く女たち」★★★
    「「雨の木」の首吊り男」★★★
    「さかさまに立つ「雨の木 」」★★★
    「泳ぐ男 : 水のなかの「雨の木」」★★

  • 頭のいい「雨の木」
    「雨の木」を聴く女たち
    「雨の木」の首吊り男
    さかさまに立つ「雨の木」
    泳ぐ男―水のなかの「雨の木」

    第34回読売文学賞
    著者:大江健三郎(1935-、愛媛県内子町、小説家)
    解説:津島佑子(1947-、三鷹市、小説家)

  • 暗宙に伸び、世界を覆い尽くすレインツリー。
    それは暗黒の中でも目の前に在る。詳しい描写はないし、連作短編集だけどレインツリーの関連が希薄なんだけど(カッチャンやペニーの方が分かりやすい)、イメージとしての存在感がすごい。
    劣等感と誰かと繋がってなにかの意味を生み出そうとする切望と。
    言葉が連綿と続き修飾節だらけで格も変わり、述語がもはや対応してるのかよく分からない。そういう意味では読みにくいけど後半は割り切って流すことにした。

    あまり大江健三郎を読まないのだけど、ちらちら知的障害を持つ息子と原爆のワードが出てくるのは共通なのかしら?

  • 武満徹の「雨の樹」に導かれるようにして、二度目か三度目の再読。ハワイでの交流会の会場が実は精神科の患者たちが反乱してのっとったものだと後で知った顛末とそこで見たように感じた「雨の木」のこと。学生時代の友人の高安の、まるで太宰治「親友交歓」を思い出すような傍若無人な、最後は密輸の罪まで着せようとする、それでいて作家としては敬愛して止まないと言う屈折した思い。メキシコで彷徨い、息子の自分からの自立に戸惑い、また好漢なれど文学的ゴシップに興味のある助手カルロスをめぐる物語、再訪したハワイで高安の妻から救われ、また和解したわけでもなく交流したこと、ハワイでの微妙な緊張を孕む反核運動のこと、そして「雨の木」が焼けて無くなってしまったこと。最後は、そんなことはありえないのに、象徴的な意味として、見知らぬ誰かが結果として己を犠牲にして若者を救ったのではないかというイメージの提示。雨の木の存在によって覆い尽くされるような救いと、それが無くなった後の、ある種の自己犠牲による救いが描きたかったのだろうか。

  • 「「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち」(大江健三郎)を読んだ。救済の象徴であるような『雨の木』をめぐる物語はしかし読み手の感情を抉るように鋭利である。自分の中に一本の『雨の木』があればと思う。最後の「泳ぐ男---水のなかの「雨の木」」に対する違和感が拭えないよ。難しいなあ。

  • 正直この小説はよくわからない。理解し得たという実感がない。しかし何かが面白いのだ、だからずんずん読んでいる。

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著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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