「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (315ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101126159

感想・レビュー・書評

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  • お得意のノンフィクション風フィクション。
    人外の想像力を感じさせる、個人的大江文学全盛期の傑作。
    高安カッチャンを筆頭とした登場人物と描かれるオーケンの分身のやり取りがとにかく滑稽で面白い。
    その滑稽さと、作者が心のうちに秘めている“雨の木”へのひたむきで純粋な想いのコントラストに胸を打たれる。

  • 甘ったれた男の物語と読むこともできる。初期の短編の完成度に比べれば、どこか未整理なままを見せることを目的としているような節もある。ただ、凝り固まった思い込みを捨てれば、やっぱり豊かなイメージに溢れた氏の作品は単純に面白く(首吊り男は笑っちゃうし、泳ぐ男はミステリー調にも読める)、短編は読みやすい。

  • この本は好きだ。表紙がとてもキレイだったし。この写真のような表紙ではなくて、最初に出てた本は、もっと薄いブルーだった。
    それから、アレンギンズバーグが出てくるとこ。
    彼が若い男性の恋人と一緒にいるシーンがあったように記憶してる。昨晩やりすぎて疲れた顔をしてる、とか、そんな描写だったような。

    大江健三郎は、すごい。原発のデモでも彼の存在感は大きかった。彼には、空想的な理想主義者みたいなところがあってバカにする人もいるけど、そういう理想主義者も必要なんだよ。

    大江健三郎の本は、難しすぎて、誰も読まないし、オレも上手く読みこなせないし、村上春樹みたいな誰でも読める分かりやすい人気作家に比べれば、世界的な認知度も低く、スピーチもヘタクソで、ノーベル賞授賞式のここ1番のジョークも国際的にスベってたけど、ノーベル文学賞って、彼みたいに、売れないけどがんばってる人に送るべき賞だと思う。
    彼の小説は、いつも新しい。

    逆に、大江健三郎に比べれば、村上春樹なんて軽すぎるし時代遅れだ。
    彼の好きだった物、たとえば、MD聞きながらジョギングするとか、アイヴィーファッションだとか、ビーチボーイズだとか、アメリカ文化への強烈な憧れ、だとか・・・そんなものは、とっくの昔に過ぎ去ってしまった。

    今ではもう誰もMDなんかで音楽を聴かないし。
    アイヴィーファッションもしない。
    アメリカ文化に憧れたりもしない。

    それに、村上春樹の原子力への言及は、あまりにも口先だけだった。
    村上春樹の小説は、健三郎にとっての小説のような、人生そのものなのではなく、ただの仕事。
    午前中に小説書いて、午後からジョギングしたり、水泳したり、ビールを飲んだり、音楽を聴いたり、趣味で翻訳したり。
    そういうライフスタイルはオレも好きだし、彼の小説が世界各国の市場で売れたり、カフカ賞をとったりしたのは、うれしいことだし、彼のスピーチだって健三郎よりずっとうまいけど、流行作家以上ではない。

  • 「頭のいい「雨の木」」★★★
    「「雨の木 」を聴く女たち」★★★
    「「雨の木」の首吊り男」★★★
    「さかさまに立つ「雨の木 」」★★★
    「泳ぐ男 : 水のなかの「雨の木」」★★

  • 頭のいい「雨の木」
    「雨の木」を聴く女たち
    「雨の木」の首吊り男
    さかさまに立つ「雨の木」
    泳ぐ男―水のなかの「雨の木」

    第34回読売文学賞
    著者:大江健三郎(1935-、愛媛県内子町、小説家)
    解説:津島佑子(1947-、三鷹市、小説家)

  • ドキュメンタリー風の文章だが、99%はフィクションではないか。なぜならお話がよく出来すぎているから。が、いずれにしてもこの作家、もはや想像力の怪物だ!

    ■「頭のいい『雨の木』」
    招かれたハワイでシンポジュームをこなした'作家'は、午後、関係者によるパーティに参加する。それは精神障害者のための施設でのことであったが、そこの中庭に立つ一本の大木に’作家’は強い印象を受ける。なおそのパーティは施設のスタッフによって運営されていたのではなく、秘密裏に施設を乗っ取った障害者たちによるものだったとわかってくる。

    ■「『雨の木』を聴く女たち」
    ハワイ滞在中の’作家’が現地で、高安カッチャンなる赤門の同窓生に付きまとわれる。この男、厚顔無恥、傍若無人、アルコール依存症、そして変態。そして彼と行動を共にするその妻、中国系アメリカ人のペニー、これまたなかなかのくせ者だ。’作家’はこの男女にケチばかり付けられながら引っ張りまわされることになるが、彼らは“国際作家”大江健三郎に劣らないほどのインテリのうえ言葉に力があってある種の魅力を備えている……ことはまぁ否定はできない。ある日高安カッチャンとその妻が’作家’の泊まる部屋に押し入ってくる。その後の流れで’作家’はあわや3人による乱交セックスに巻きこまれそうになるが、なんとか成り行きを回避。後日。’作家’は東京に帰国することになるが、ペニーからの手紙で高安カッチャンが飲酒の果てに死んだことを知らされる。

    ■「『雨の木』の首吊り男」
    ’作家’(僕)はかつてメキシコシティで学院(コレヒオ)の教授をやっていた。メキシコシティには死のイメージが満ち溢れている。骸骨柄のデザインや、新聞紙面にこれみよがしに載せられたドぎつい死者の写真など。同僚のカルロスは日本文学には詳しいのだが、文学者のゴシップめいた背景ばかりに興味を示している。’作家’に対しても、かつて’作家’が日本でふと漏らしたひと言から「自殺志願者」と決めつけており、’作家’に対してそうした視点からの好奇の目を改めようとしない。
    ある日、カルロスの先妻が’作家’を訪ねてきて、カルロスとの仕事上での付き合いをやめるよう迫ってくる。彼女がいうには、彼女とカルロスとがよりをもどす機会を’作家’が妨げているというのだ。これは完全に彼女の言いがかりなのだが、先妻はテロ組織がらみの逸話まで披露して、そうしないとカルロスの命が危険にさらされることになるとさえいって’作家’を脅迫する。’作家’は悩んだすえカルロス本人に相談してみるのだが、彼に一笑に付されただけで一件落着。結局、危険とおおらかさが同居するメキシコならではのお国柄を身をもって体験したという笑い話に終わった。
    そんな’作家’だったがある日東京からの電話で、残してきた障害者の息子が体調を崩していてこのままでは失明の可能性があると伝えられる。’作家’は強いショックを受けるがすぐに家族のもとには駆けつけられない。そんなジレンマの果てに、’作家’はなぜかマンゴーを大量に買いこみ、自室に閉じこもって鬱状態に陥る。何日も学院に顔を見せないそんな’作家’を周囲も心配しだして、カルロスが先頭に立ち’作家’の部屋に押し入る。彼らは’作家’を正気付け、さらに元気を取り戻させるためまずは酒場に連れていき、続いてみんなで売春宿に繰りだすことになる。飲みすぎた’作家’は売春宿では役に立たなかったが、パンツを脱がされ、かわりに花柄の売春婦のパンツをオムツのように穿かされ面白がられる。――「そして僕は、自分が生まれてきたばかりの女の赤ん坊であって、それは思春期をむかえた息子の花嫁としての将来のためだという、奇妙にねじ曲がった夢想をいだいた」。
    メキシコシティを離れて何年も経ってから’作家’は、カルロスが末期の癌であることを知らされる。肉体的な苦痛を極度に嫌がっていたカルロスはかつて、もし自分が病気などで苦痛を強いられるような事態になったら自分を殺しにきて――というような頼みごとを’作家’にほのめかしたことがあった………なぜなら彼の頭の中には’作家’は自殺に理解があるという思い込みがあったから。’作家’はメキシコシティでの日々に思いを馳せ、すでに目が見えなくなった息子を連れて旅行かたがた、カルロスに会いに行くことを夢想する。

    ■「さかさまに立つ『雨の木』」
    あのペニーとの繋がりが完全についえてしまってしばらくしてのこと、’作家’は反核シンポジュームのために再びハワイにやってくる。シンポジュームの席で’作家’は英語力のなさから誤解され窮地に立つことになるが、それを敢然と弁護して救ったのが誰あろう、客席にいたペニーであった。
    ’作家’は、今回のハワイ滞在ではシンポジュームだけでなく、草の根反核活動家たちとの個人的な交流もそもそもの目的のひとつにあった。しかしシンポジューム上でのひとりの急進派パネラーの発言に活動家たちの心情が過敏に反応してしまい、彼らとの関係が悪化。結局彼らと連絡がとれない状態におちいる。その結果、当初予定していた作家のスケジュールは空いてしまい、その余白にペニーが入りこんできた。
    ペニーは’作家’の「『雨の木』を聴く女たち」を読んでおり、かつて’作家’への手紙で、そこに書かれた高安カッチャンの醜態、加えて大江健三郎のおためごかしの解釈を激しく非難してきたことがあった。が、今回面と向かったペニーの物腰は思いのほか柔らかい。ペニーは彼女独特のドライな口調で作家に説明する。………高安カッチャンの先妻の息子がミュージシャンで(ザッカリーKという)、高安カッチャンの残したノートや草稿を要求してきた。ペニーは惜しげもなくそれを譲ったのだが後日、彼は高安カッチャンの思想に心酔した曲をつくり、今そのレコードは世界中でヒットしているのだという。売上による印税の一部は律義にペニーに送られてくるとも。かつて大江健三郎との共作を断られた高安カッチャンであったがそれは想定済みで、高安カッチャンは今のこうした事態、あるいは成功(息子を通して自分の言葉が世界に届く)をとっくに見越していたのではないか……などと。
    ヒマになった時間を潰そうと海で泳ぎまわる’作家’だったが、ペニーに誘われるまま彼女とセックスをする。終わったあと、ペニーがいつものドライな口調で、かつcomparative(with 高安カッチャン)に作家とのセックスについて論評する。
    東京に帰ったあと、ペニーから手紙がまた届く。手紙には写真が添えられており、障害者施設の大火事で上半分が燃えてしまった「雨の木」が写っていた。

    ■「泳ぐ男――水の中の『雨の木』」
    アルコール依存症および精神衰弱の治療のため、’作家’(僕)はスイミングスクールに通っている。そこにはプールのほかにサウナも設けられているのだが、サウナで’作家’は、外資系のOL猪之口さんが水泳選手の玉利君に、自分の性器や乳房をさりげなく見せつけている現場に遭遇する。予想外の’作家’の登場であったはずにもかかわらず猪之口さんは臆することなく、かえって’作家’を介して大胆さをより演出するように、「自分には強姦され癖がある」というな露骨な体験談を披露しだす。’作家’は、これは明らかに猪之口さんが玉利君を誘惑しているのだと理解する。「猪之口さんは僕(作家)が話を聞きたがっていると確信しているふりをしていたが、本来の聞き手としては玉利君に狙いをさだめて話した。そのしだいに昂ってくるアルトの声音は、筋や膜として立派な素材からなりたつ声帯に発しているという感じがあり、直接、彼女の性器についても情報をつたえそうな、猥雑な魅力があった」。
    ……ある日夜の公園で、ベンチに縄で括りつけられ、強姦されたうえ絞殺されている猪之口さんの死体が見つかる。現場から逃走した男は追いつめられたあげくその場で首をくくって自殺する。’作家’は自分がその犯行を犯したという暗い夢に悩まされる。しかし’作家’自身が犯行現場を検分して殺害状況を考察し、サウナで三人でいたときの玉利君の不愉快そうな様子を考えあわせてみるに、この犯罪には玉利君が大きく関与しているのに違いない、そんな疑惑が’作家’の中でどんどん膨らんでいっって……。

  • 暗宙に伸び、世界を覆い尽くすレインツリー。
    それは暗黒の中でも目の前に在る。詳しい描写はないし、連作短編集だけどレインツリーの関連が希薄なんだけど(カッチャンやペニーの方が分かりやすい)、イメージとしての存在感がすごい。
    劣等感と誰かと繋がってなにかの意味を生み出そうとする切望と。
    言葉が連綿と続き修飾節だらけで格も変わり、述語がもはや対応してるのかよく分からない。そういう意味では読みにくいけど後半は割り切って流すことにした。

    あまり大江健三郎を読まないのだけど、ちらちら知的障害を持つ息子と原爆のワードが出てくるのは共通なのかしら?

  • 武満徹の「雨の樹」に導かれるようにして、二度目か三度目の再読。ハワイでの交流会の会場が実は精神科の患者たちが反乱してのっとったものだと後で知った顛末とそこで見たように感じた「雨の木」のこと。学生時代の友人の高安の、まるで太宰治「親友交歓」を思い出すような傍若無人な、最後は密輸の罪まで着せようとする、それでいて作家としては敬愛して止まないと言う屈折した思い。メキシコで彷徨い、息子の自分からの自立に戸惑い、また好漢なれど文学的ゴシップに興味のある助手カルロスをめぐる物語、再訪したハワイで高安の妻から救われ、また和解したわけでもなく交流したこと、ハワイでの微妙な緊張を孕む反核運動のこと、そして「雨の木」が焼けて無くなってしまったこと。最後は、そんなことはありえないのに、象徴的な意味として、見知らぬ誰かが結果として己を犠牲にして若者を救ったのではないかというイメージの提示。雨の木の存在によって覆い尽くされるような救いと、それが無くなった後の、ある種の自己犠牲による救いが描きたかったのだろうか。

  • 「「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち」(大江健三郎)を読んだ。救済の象徴であるような『雨の木』をめぐる物語はしかし読み手の感情を抉るように鋭利である。自分の中に一本の『雨の木』があればと思う。最後の「泳ぐ男---水のなかの「雨の木」」に対する違和感が拭えないよ。難しいなあ。

  • 正直この小説はよくわからない。理解し得たという実感がない。しかし何かが面白いのだ、だからずんずん読んでいる。

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著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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