夜と霧の隅で (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101131016

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  • 1960年、第43回芥川賞受賞の表題作『夜と霧の隅で』の他、『岩尾根にて』『羽蟻のいる丘』『霊媒のいる町』『谿間にて』の5編。

    どの物語も、人間の精神というものの根底に流れる何かが描かれていたと思う。精神の深淵を覗くという行為は、ある意味自分というものが「無」になることかもしれないなと感じる。人間の意思や想いなんてものが届かない透明な函のなかで、それはただそこに在るというように。

    『岩尾根にて』
    目の前に在る現実(登山者)が曖昧な夢のように感じられる一方、足元に転がる死(墜屍体)が確かに現実に存在する。まるで過去この場で墜屍した者たちの魂魄が、山を登ることを永遠に繰り返しながら、漂い生きているような心持ちになった。
    それならば、生が不確かな存在で、死が確かなものとなるのかな。精神とはその狭間にあるのかもしれない。ここに存在すること、そのことに寂寥感が漂う読後感だった。
    なんだか足元がおぼつかない読み心地に、わたしの想像があらぬ方向へと向いてしまったようだ。作者の伝えたいこととは、かけ離れた感想になってしまったと思う。でもそう感じてしまったのだから、やっぱり記しておこうと思う。

    『羽蟻のいる丘』
    境界線の外から眺めれば穏やかな幸せに包まれているように見えるものが、事実は穏やかな狂気に満たされていたような感じ。太陽の日差しは眩しいのに、まるで体温を感じないような薄ら寒い印象を覚えた。

    『霊媒のいる町』
    精神科医のたわごとが味わい深い。
    「意識といい無意識といい、そういったものを区別することはつまらないことだ。」
    「俺たちは事物を見る。好奇心というものは最後まで残るものだからな。この好奇心のおかげで、俺たちはこれからも嫌な思いやつらいことやちょっぴり楽しいことを味わってゆくのだろう。なんというたわごとだ。」

    『谿間にて』
    熱情を抱き、あと一歩で成功者となれた人間の挫折、虚しさ。その後の人生で見せる執念。
    わたしには最初の頃の熱情と、その後の執念は似て非なるものだと思えた。執念に憑かれた人間とは、狂気に片足を突っ込むことなのかもしれないと思う。それが人間くささでもあるのかもしれないけれど。

    『夜と霧の隅で』
    小川洋子さんの著作で紹介されており、読みたかった作品。その思いを差し引いてもやっぱり秀逸な作品だったと思う。

    第二次大戦末期、ナチスは不治と見なされた精神病者に安死術を施すことを決定する。その指令に抵抗して、不治の宣告から患者を救おうと、あらゆる治療を試み、ついに絶望的な脳手術まで行う精神科医たち。彼らの苦悩苦闘を描き、極限状況における人間の不安、矛盾を追及する。〈あらすじより〉

    この作品は全てが作られたストーリーではない。

    1933年にナチスが制定した「遺伝病者子孫防止法」に発端し、1935年のユダヤ人排斥を主眼とする「国民血統保護法」「婚姻保護法」を経て、そしてついに、1941年、国家による精神病者安死術の施行にまで達してしまった事実を骨子としている〈解説より〉

    その事実の上に、ユダヤ人の妻を持つ日本人留学生高島を患者として登場させたことで、日本人の読者は、この暗澹たる狂気に向かわざるを得ない立場へと誘われる。
    しかしながら、精神を病むということの前では、日本人だろうが外国人だろうがそんなことは何の意味もなさない。
    高島は考える。
    ─精神を病むということは深く沈みきること、人間のもつ最も原始的な地盤に帰るということになるのかも知れない。
    そのくせ病人たちはそのような共通な同質なものになりながら、逆にお互になんらの疎通性も持たなくなる。かえって彼らは狭くるしい固有な小世界の中に閉じこもってしまうのだ。─

    ─人間の文化、道徳、殊に進歩に関する概念なんてものはたわごとだ。人間の底にはいつだって暗い不気味なものがひそんでいるのだ─
    そんな大きな狂気の流れのなかで、あえぐ精神科医たちの抵抗もまた狂気なのかもしれない。
    それでも彼らの苦悩を前にして、人間の精神とは、尊厳とは、生きるということはどういうことなのか、深く考えさせられる。
    精神科医でもある作者だからこそ、辿り着くことのできた境地なのだろう。

  • 北杜夫にとって精神科医である以上書かなくてはならないテーマだったと言っているが、今にしてみれば内容は薄いと感じた。
    ひとつ思うことは、戦争という背景があり精神科医の苦悩があってこそ現在のノーマライゼーションの考え方で人格が尊重されているんだなと考えさせられる作品だと思う。

  • 頭から順に読んでいくと文芸というか文学というか
    解説に云う「透明な論理と香気を帯びた抒情」というふぜい
    つまり「お話」のない小説でない文章で
    心境を情景描写に仮託しているようなそれである
    仮託とかいうことばを使う時点でそんなかんじお察し

    最後に収められている表題作は他と違って「お話」が明瞭な小説として読める
    こういうのだと読み下しやすい
    またこのお話からみればその他の作品にある作者が描こうとしていたものも
    なんとなく理屈づけられて見えるような気がしないでもない

    つまり小説すなわち筋書きのあるお話でないものは
    筋書きでいちおう方向が示されているものに比べてどうとでもとれるのではないか
    どの作者が書いたのかより不明瞭で
    詩歌のように短くなるほど表現技術の高低も素人に判別困難になる
    絵画でも音楽でも万人が評価するものが優れている証だとは思わないが
    評価できるひとにしか評価できないものは
    どうとでもとれるようにみえるものに多いようにみえるのが素人の感想

    文章は手段であり目的のあるものではない
    作品は目的を形にしたもので作者にせよ誰にせよ
    ひとのこころを動かすべく作られたものだが
    その機能が目的を果たしているかを判断するのは使用者の規格に適合するかで
    作者のもとにはないと言える

    この本については
    表題作は小説として無難に良く文句ないが
    その他は
    例えば高校向け国語の教科書に採用されるかどうかという「規格」で評価するなら
    ややいやはっきり落ちるといえると思う

  • 1960年上半期、芥川賞受賞作。選考委員10人のうち8人までが◎(他の2人は〇)と圧倒的な支持を受けての受賞だった(倉橋由美子の「パルタイ」もこの時の候補作だった)。言うまでもなく、V・フランクルの『夜と霧』に触発されての作である。本家がホロコーストを描いていたのに対して、こちらはタイトルにもあるように、その片隅で密やかに行われていた、精神病者の抹殺に焦点を当てた、精神科医でもある北杜夫ならではの小説だ。ただ、『夜と霧』が、まさしく当事者としての迫真性を持っていたのに比すれば、良くも悪くも客観的な視座だ。

  • 表紙が串田孫一の版で読んだ。最初に収録されている「岩尾根にて」が一番好きだった。自分と相手(と滑落死体)の区別がつかなくなる場面は映像で見たい。
    「夜と霧の隅で」では、精神病患者を助けようとするあまり、体制側と同じ思想(=人間は役に立たないと生きていてはいけない、何とか彼らを役に立つ人間にしなければ)に陥ってしまう医師の姿があわれだった。対照的に、半身不随でほとんど自分では何もできなくなった元院長は、患者たちから絶大な尊敬を集めていた。

  • 日本語を活字で見ることが好きだ。

    だから基本的には読み始めたものはどんなものでも倍速読みでもとりあえず読み終えようとする。
    だが、今回は、短編にも関わらず、何度も本を置こうとしたくて堪らなくなった。

    一言で言うと不快。
    ナチスによる精神患者の安楽死、その大まかすぎる粗筋のみに依拠して手に取ったことを後悔した。そんな短絡化できない気持ち悪さ。
    物語のプロットをここに書いてもこの作品の気味の悪さ、不愉快さはとてもではないが表しきれない。黒板に爪を立てたような、顔を背けたくなるような軋んだ音に満ちた正常を装った異常さ。

    ナチスの命令に抵抗する医師たちのもがき苦しみ?そんなつまらない文で要約なんてできない。読み手の反発と嫌悪を引き摺り出す歪んだ文章。
    他の作品を読むと同一の作者とは思えない。こんなにも全ての登場人物に共感できない作品は久しぶりだ。

    文章をなぞるだけでは分からない。考えに考えを重ねて、立ち止まってひとつひとつ見つめ直さないとわからない。同時に分かろうとすることで染み込んでくる気持ちの悪い正体を振り払いたくなる衝動に駆られる。分かったと思っても分からない。そんな作品がみちっと詰められた狂気。

    この作品だけでは判断がつかない凄まじい筆力だ。

  •  客観的に間違っていることを頑固に信じるのが妄想だ。でも誰だって客観的に生きているわけではない。個人だって国家だって民族だってそうだ。
     
     精神を病むと言うことが深く沈みきること、人間の持つ最も原始的な地場に帰ると言うことになるのかもしれない。

    上記が心に響きました。第二次世界大戦中のドイツの精神病院を舞台に、精神病患者の心や脳に触れようとするものの、触れられない霞がかっているそれは何とも言えない小説でした。

  • 暗いけど雰囲気あっていい

  • ​ひさしぶりに文学な作品を読んだ。

    小説と文学の違い(とわたし流の分け方)は、
    地の文が説明、解説になっているものと、
    文が練れていて、雰囲気が漂うもの
    とである。

    もちろん、前者でも後者でもいいものはいい。
    コクがあるものが傑作なのであるし、読む楽しみになる。

    この短中編集に収めてあるのは
    「岩尾根にて」「羽蟻のいる丘」「霊媒のいる町」「谿間にて」「夜と霧の隅で」

    どの作品も心揺さぶられるのだが、やはり芥川賞の「夜と霧の隅で」が印象深い。

    第二次大戦中、ドイツ南部の町にある公立精神病院の医師たちは、
    ナチス政権による民族浄化というとんでもない思想の影響を受けざるを得ないその苦悩がある。

    それが単にドキュメンタリーではなく、文学的で深みがある文章が心にしみた。

    迫害されるユダヤ人だけではなく、精神疾患者たちにとってもむごい政策というか仕打ち。
    そして病んでいる本人たちには何もわからないのだ。

    患者を治療しているドイツ人医師たちの悩みはさまざま。
    そこに同盟国の日本人医師も留学生としていたが病み、入院してその不条理を経験する。
    その妻がユダヤ人という設定も悲しい。

    わたしが映画や文章などで知ったことよりも、この中編は胸に響いた。
    それが文学の力と思う。

  • 北杜夫氏の初期作品集
    氏がそう状態の時に書いた、さまざまなユーモアあふれる小説ではなく、深い思索に入った時に書かれた作品が集められている。
    自然に入る、山に入る作品についても、その自然の描写、山の描写は主題ではない。そこに置かれた人の内面を抉り出すように書き残す。
    そして表題作の「夜と霧の隅で」
    ナチスドイツの優生思想の中に置かれた、精神科の医師たちの姿。
    北杜夫という偉大な作家の、ひとつの面にじっくり浸ることができる作品。

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著者プロフィール

北杜夫
一九二七(昭和二)年、東京生まれ。父は歌人・斎藤茂吉。五二年、東北大学医学部卒業。神経科専攻。医学博士。六〇年、『どくとるマンボウ航海記』が大ベストセラーとなりシリーズ化。同年『夜と霧の隅で』で第四三回芥川賞受賞。その他の著書に『幽霊』『楡家の人びと』『輝ける碧き空の下で』『さびしい王様』『青年茂吉』など多数。『北杜夫全集』全一五巻がある。二〇一一(平成二三)年没。

「2023年 『どくとるマンボウ航海記 増補新版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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