- 本 ・本 (402ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101134093
感想・レビュー・書評
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きっかけはもちろん「黒澤版」。
「椿三十郎」(1962) の原案ということを見知っており、かつこれに先立ち「赤ひげ診療譚」も読破したから否応なしに期待値が高まった状態で手にした。そして驚かされるのが本文庫が全十一編からなる短編集であるという事実。黒澤監督はドストエフスキーだってシェークスピアだって映画化しておきながら、こうした短編でさえもきちっと消化して昇華させる。いやはやもはや脱ぐ帽子が足りないほどの脱帽ぶりである。
当初「日日平安」はその原作のままのノンビリとしたタッチを描くつもりだったのが映画会社側からNGを出され、結果としてもっと大胆に殺陣を取り入れた話の筋に書き直さざるを得なかったというエピソードは読み始める前から聞き知ってはいたものの、なるほど読み進めるうちにその「構想版」の主人公の配役として小林桂樹を当てるつもりだったというのががっつり納得がいった次第。その小林桂樹、きちんとその「翻案版」においてもなかなかの役どころをつかみ、いい感じで使ってもらっていたからなお微笑ましい。
個人的には書名以外の他の筋の中で「末っ子」と「橋の下」が気に入った。いや、「失蝶記」も含めるべきか…。んー、そんなことをやっていると結局全部を選んでしまいそう。
あとがきはどうやらこの短編集を編んだ方ご本人だったようなのだが、その方がどういうバランス感覚をもった意図でこの十一編を選んだかということが分かりやすく記されており、それを読むことによってますます山本周五郎の「~もの」をあれこれ読んでみたくなること請け合い。
あー、また別の「底なし沼」に片足を踏み入れてしまったような、そんな気持ちも。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
思わぬ出会いから、なんの欲も
顧みないで、ただ親切を貫いた
結果、
日日平安が後からついてきた。
スピーディーな展開で、
読みやすかった。 -
黒澤続きで久々に手に取りました。
あの母親と娘のやり取り、面白いんですよね、他がダメということではないんですが、あのシーン、すごく印象に残ってます。
それはともかく、その原作含めて粒揃いだと思います。
生きていると色んな事がありますが、真面目にやっていれば絶対に悪いことは無い、だから我慢するときは我慢する、それを見てくれている人は必ずいる、という作家の揺るぎなき確信に素直にうなずきます。
でもそれぞれの作品には作家の巧妙な仕掛けもあり、色んな意味での一級品揃いの短編集です。 -
日日平安を読んでいて、この短編が、世界の三船が躍動した映画 ‘椿三十郎‘ の原作という事に気づく。山本周五郎は、滑稽話として描いた武士の世界が、黒澤明の手にかかると、スピード感のある見ごたえのあるあの映画に変わる、のですね。久しぶりに手に取った山本周五郎、どの短編も良いですね、★四つです。
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オーディブルは今日から山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』より、音声収録された作品を順番に聞くことに。
「城中の霜」は安政の大獄で老中井伊直弼より斬首に処せられ、あまりの無念さに武士の通例に反して泣きじゃくったとされる橋本左内をめぐる小品。幼馴染の香苗の目を通して左内の心情を描く。
「水戸梅譜」は水戸光圀に陰ながら忠誠を尽くした五百旗頭親子の物語。命を顧みない忠臣といえば聞こえはいいが、わが子の行く末を案ずるあまり、自分の命を差し出さなければならなかった親の無念はいかばかりか。職業選択の自由のありがたみをあらためて思う。
オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。
「嘘アつかねえ」は、うらぶれた横丁の無愛想な屋台「やなぎ屋」に集う、大うそつきの酔っぱらいの松と、その嘘を嘘と知りつつに付き合う信吉の話。「はいんなよ、ちゃん、……早く……」
「日日平安」は、黒澤映画『椿三十郎』の原作。『用心棒』のヒットを受けて、続編の制作を依頼された黒澤が、原作のすっとぼけた浪人・菅田平野(すがたひらの)の役を、『用心棒』の桑畑三十郎に置き換えて脚本にしたそうだ。「なお、黒澤は『日日平安』の主役には小林桂樹かフランキー堺を想定しており、『椿三十郎』で小林が演じた侍の人物像には『日日平安』の主人公のイメージが残っている」https://ja.wikipedia.org/wiki/椿三十郎
加山雄三演じる井坂伊織は、原作では井坂十郎太。名前が読みにくいから変えたのだろうか。「じゅろうさま」より「いおりさま」のほうがたしかに耳に心地よい。のんびりした城代家老睦田弥兵衛(伊藤雄之助)も、おっとりとした睦田夫人 (入江たか子)とその娘・千鳥(団令子)、千鳥の侍女こいそ(樋口年子)も、寺田文治(平田昭彦)以下の侍たちも、次席家老黒藤(志村喬)と国許用人竹林 (藤原釜足。原作では前林)と大目付菊井六郎兵衛(清水将夫)の悪役三人衆も、そのまま登場するが、敵役の室戸半兵衛(仲代達矢)は、椿三十郎(三船敏郎)を主役に据えたことで登場させた対抗馬、という位置づけか。
オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。
「日日平安」の終わり方は『椿三十郎』とは違うが、念願かなって仕官することになった菅田平野に、うまい言い訳(笑)を与えてやったところに、作者らしいひねりが感じられた。
「しじみ河岸」は南町奉行所の新米吟味与力・花房律之助による冬木町の卯之吉殺しの真犯人を探すディテクティブストーリー。出頭したのはお絹で自分が殺したと自白もしていたが、「この娘は下手人ではない」という直感だけを頼りに再吟味に乗り出す律之助。だが、お絹や卯之吉と同じ長屋に暮らす住民たちの口は堅く、なかなか真相に迫れない。
オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。
「しじみ河岸」の真犯人が「わからんな」だったのはある程度予想できた。が、お絹の次のセリフには、律之助じゃなくてもかける言葉を失う。
「あたしはもう、疲れてました、しんそこ疲れきってました」「お父つぁんや直が、安楽に暮らしてゆけるなら、自分はどうなってもいい、卯之さんは死んじまったし、生きていたってしようがない、生きているはりあいもないし、もう軀も続かない、なんでもいいから休みたい、手足を伸ばして、ゆっくり、いちど休めたら、それでもう死んでもいいと思ったんです」
「八つの年におっ母さんに死なれてから、あたしはずっと働きとおしました」「お父つぁんに倒れられてからは、二人をやしなうために、自分は三日も食わずに働いたこともあります、でも疲れきっちゃいました、ーーお父つぁんがなんとかなったら、卯之さんといっしょになる約束でしたが、その卯之さんも死んじまったし、お父つぁんと直のことはひきうけてくれるというもので、それであたしは承知したんです」
「あたしは約束を守ってもらえると思ってました」「二人のことは安心だし、この牢屋に来てっから、生まれて初めて、ゆっくり手足を伸ばして休めたし、ーー本当に生まれてっから初めて、暢びり休むことがでいたし、もういつお仕置になってもいいと思っていたんです」
「ほたる放生」は、自分に寄生する悪い男(村次)に骨の髄までしゃぶり尽くされて捨てられる遊女お秋の物語。「この声よ、この声だわ」「この声でくどかれると、あたしはすぐばかみたようになってしまうんだわ」。船宿を開くから夫婦になってくれとせがむ藤吉の一途な思いは届かない。
オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。
「ほたる放生」は思ったとおりの後味の悪い終わり方。秋ちゃんも藤さんも悪い人じゃないけれど、人を見る目がなさすぎなのが切ない。
「末っ子」は旗本の三男坊・平五が婿養子に行くことを拒み自らの才覚で生計を立てる話。稼ぐといっても武芸や学問に秀でるわけでも、ものづくりの才があるわけでもないから、品物を右から左に流してサヤを稼ぐせどり家業に精を出して、御家人株を買う資金をせっせと貯めていた。旧世代の平五の父親や細江の母親が信じてやまない「武士の誇り」や「侍だましい」が、実は、現実を無視した時代遅れの戯れ言で、彼らが働いて稼ぐことを下に見て、はしたないと忌み嫌えば嫌うほど、それによって人生を棒に振る次男坊や三男坊、生活苦なのに手持ちのものを切り売りすることでしか銭を得られない浪人やその家族が、いったいどれだけの人数にのぼったのかと思うと、怒りを禁じえない。
武士は仕官しなければ無一文、仕官しても幕府や藩から給料をもらう「公務員」でしかないのだけど、役人がエリート意識を振りかざして民間を見下ろすとろくなことにならないのは、いつの世も変わらない。自力では稼げないから、自力で稼いだ人たちから吸い上げた「税金」によって暮らしを立てている役人が、自力で稼ぐ人を下に見るのは本末転倒。役人は特権階級でもなんでもなくて公僕である、という原理原則を見落とすと、そうした誤解がまかり通る。
「侍だましいもくそもあるもんか、自分の力でそのみちの一流になれば、永代扶持で徒食しているよりよっぽど人間らしいや、へ、いまに証拠をみせてやるから吃嘆(びっくり)するな」。何があっても自分の才覚で食べていくと腹を決めた平五は、いっそすがすがしい。
オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。
「屏風はたたまれた」は素性を明かさぬ女との逢瀬に執着する弥十郎の話。「おまえは一年ちかくもその女のことにとらわれている、それがそんなに大事なことか」いや大事だろ。「おまえにはそのほかに大事なことはないのか」それはそれ、これはこれ。相手に対する執着もあるだろうが、純粋に知りたいという欲求を無理矢理封じ込めようとする「忘れてしまえ」という親父殿の決めゼリフには反発しか覚えないのだけど。
「橋の下」は若き日の恋にのぼせて友人を斬り、妻と一緒に城下を出奔して、やがて物乞いにまで身をやつした老人の述懐。
「どんなに重大だと思うことも、時が経ってみるとそれほどではなくなるものです」「家伝の刀ひとふりと、親たちの位牌だけ持って、人の家の裏に立って食を乞い、ほら穴や橋の下で寝起きをしながら、それでもなお、私は生きておりますし、これはこれでまた味わいもあります、そして、こういう境涯から振返ってみると、なに一つ重大なことはなかったと思うのです、恋の冷える時間はごく短いものでしたし、友の出世もさしたることではない、友達はその後さらに出世をしたことでしょう、ことによると城代家老になったかもしれませんが、いまの私には羨む気持もなし、特に祝う気持もない、ただひとつ、思いだすたびに心が痛むのは、あのはたし合で友を斬ったことです」
転ばぬ先の杖はたいてい老人の自己満足の繰り言にすぎないし、これから歩く道を平らかに、安全にして若い人が失敗する権利を奪うのは、人間は失敗からしか学べないことを考慮するなら、決してほめられたことではないけれど(だから、それをよかれと思って行う人を「老害」と呼ぶわけで)、これしかないと思い詰め、はやる気持ちをほぐすのに、一杯のお茶があればいいというのは、賢者の知恵だなと思った。
「あのとき友達のところへゆくまえに、茶を一杯啜るだけでも、考えが変ったかもしれない、堀端を歩くとか、絵を眺めるとか、ほんのちょっと気をしずめてからにすれば、事情はまったく変っていたかもしれません、そうでなくとも、あの少年時代の、うしろからついて来る足音、落葉を踏みながらついて来た足音や、友達の云ったあの言葉を思いだすだけでもよかったのです」
「ーーだって、友達だもの」
オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』の続き。
「若き日の摂津守」は山本周五郎には珍しく、作者が地の文で登場してきて文献を漁る姿が描かれる。森鴎外の「渋江抽斎」を思い出した。
それにしても、「つねにみずばなやよだれをながし」「自分が誰であるかを、いちいち側の者に訊いた」という、藩主のことを記したとは思えない、実に思い切った記述に興味を抱き、そこから話を膨らませて一編の物語を紡ぎ出していくそのやりかたに舌を巻く。重臣たちに「狂倚の質」という札を貼られ廃嫡された兄の二の舞にならぬよう、愚鈍なふりをするように育てられた摂津守光辰は、長年の習慣でそのくせが抜けなくなってしまっていた。
「三年待ったとて同い年ゃ同い年」
「七年待ったとて同い年ゃ同い年」
「二十年待ったとて同い年ゃ同い年」
「五十年待ったとて同い年ゃ同い年」
そりゃそうだw と笑わせておいて、
「死ぬまで待ったとて同い年ゃ同い年」
ときて、とたんにそこに深い意味が感じられるのが周五郎の技というか、魔法なのだろう。
「ーーそれはむろん、もっと先のことだろう、年月をかけてゆっくりやる、仕損じたとき再起のできないようなまねはしない、辛抱することでは誰にも負けないからな」
オーディブルは山本周五郎の新潮文庫版短編集『日々平安』が今日でおしまい。
最後の短編「失蝶記」は「橋の下」に並んで、同志に裏切られ、幼馴染の親友を斬った谷川主計(かずえ)の述懐。耳の聞こえない谷川には、残念ながら「人違いだ」という友の最後の叫びは聞こえなかった。
「攘夷論は民心を統一する手段の一つだ、これはまえにも繰り返し云ってある、攘夷という名目は、それに対立するこの国、日本と日本人ぜんたいの存在をはっきりさせる、これまでかつて持ったことのない、共通の国民意識というものがそこから初めて生れるだろうし、すでに生れていると云ってもいいだろう、したがって王政復古が実現すれば攘夷論は撤回されなければ、杉永の云うとおりこの国は亡びるかもしれない、そのくらいの見識を持たない人間はないと思う」
共通の敵の存在を利用して国論を統一するのは、どこの国の統治者も使う手だが、それは劇薬であって、黒船頼みも度が過ぎると、不断に自己を見直し、変革する気風が失われ、やがて外圧がなければ何も変えられないほど守旧派がはびこることになる。幕末明治の人たちはみずから開国して、時代の荒波をくぐり抜けるだけの見識と気概をもっていたが、いまの日本は、世界はどうか。ロシアのウクライナ侵攻で、力による現状変更が現実となったいま、戦後民主主義の枠組みは風前の灯となっている。西側先進国が誇る自由民主主義を採用している国々は、人口ベースで世界のわずか13%にすぎない。中国やロシアの独裁政権が異常に見えたとしても、現実には、世界の約7割が非民主主義≒権威主義的な国なのだ。
→ 岐路に立つG7(上) 対強権、価値観超え結束:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO62180080Q2A630C2MM8000/ -
ちょっと前に豊川悦司が主演する映画の原作本「犯人に告ぐ」と「サウスバウンド」を読んだおかげで、ちょいと調べていたら、またまた映画「椿三十郎」に出演するという。
でこの映画、黒澤監督と三船の名コンビで作られた名作「椿三十郎」の焼き直しというではないか。
ならば原作も読んでみたいという事で探したが、山本周五郎著に「椿三十郎」なんて本はありません。
原作は、この「日日平安」(にちにちへいあんと読む)という事でした。
また、原作に「椿三十郎」という侍も出てきません。(まあ、モデルになっている浪人は同じ人物ですが)
さて、この本、短編集で11作品が含まれています。
私は、上下に分かれるぐらいの長編が好きで、短編集はあまり好きではありませんが、さすが山本周五郎、どれもとても人情味溢れる物語で、とても面白く読めました。
特に切腹を命じられ、いざという時に号泣きした侍の話『城中の霜』や、バカ殿のお話(ごめん、題名忘れた)など、ジーンと来るものがあります。
山本周五郎の本は、高校の時、担任だった磯部先生(あの野球の監督)から「さぶ」を授業で取り上げられて(確か倫理の時間)読んだのが始まりで、そのころは別に面白くは感じませんでしたが、歳を重ねるにつれ、とても好きな作家ではあります。
こりゃ、山本周五郎の作品も読んでおかにゃならんな。
・・・という事ではあったんですが、今読んでるのは山本周五郎賞を受賞した「明日の記憶」であります。
流石に山本周五郎賞、これもとても面白い本です。って、これも映画になってるんですね。読み終わったら、またその時。 -
味わい深い短編集。
日日平安は映画「椿三十郎」の原作でもありどうしても比較して見てしまうが、映画のほうが尺が長いこと、主役がサッパリした性格である「用心棒」の三十郎であることが功を奏しており、映画が原作を超えた稀有な例だと感じた。
その他の作品の中では特に“しじみ河岸”“末っ子”
あたりが好み。一貫して最後はとても胸のすく終わり方で読了感が良い。自分の尊厳に従うひたむきな人間の生き方に様々な感慨を生む。 -
読み応えありまくりだ。それでいて読後感はスッキリ。山本周五郎恐るべし。
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こういう小説が好きだと、じじむさい、なんて言われるかもしれない。
でもいいねぇ、時代劇人情もの。
この人の作品、NHKなんかでよくドラマ化されるのも、よくわかる。
短編集。不器用な登場人物が多いわけだが、そこに見え隠れするのは、
人という存在への、あたたかい眼差し、といったところ。
こちらも自分が好きな、浅田次郎と共通するところがある。
一番気に入ったのは、『嘘アつかなねえ』。
女房の尻の下にしかれた男の悲哀。
ちょっと哀しげで、ちょっとユーモラスな話。
表題作の『日日平安』は、
有名な黒澤明の映画『椿三十郎』の原作らしい。
機会あったら、この映画も見てみたい。
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