虚空遍歴(下) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101134123

感想・レビュー・書評

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  • 「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかで決まるのではなく、彼が生きていたとき、なにを為そうとしたか−である」と言うのが、作者の人生観だそうだが、まさにそれを現した作品であると思った。

  • これは辛い小説だなぁ。

    主人公の中藤冲也は武士の身分を捨て、浄瑠璃という芸の世界に生きることを選ぶ。

    彼の作る端唄は独特の節まわしを持ち江戸のみならず、遠国でも持て囃されるような才能の持ち主であったが、それに奢ることなく冲也節という新たな芸術の完成だけに専念する。

    これと決めた道に突き進む人生。成し遂げるべき仕事を見定めた覚悟。すさまじい気迫で生きる男の生きざまを描いたお話。です。

    非常に辛く、あまりに辛いんだけど引き込まれる話だった。

    この強烈な読後感はどこから来るんだろう。

    結論から言ってしまえば、このお話はハッピーエンドの物語ではない。苦労の末に念願の冲也節を打ちたて、努力は報われるという話ではない。

    かと言ってただひたすらに報われない悲惨な話というわけでももちろんない。

    報われないのは確かに報われないんだ。
    上下巻で約800ページもの間、なぜこんなに厳しい人生を描くことができるんだと、特に下巻では徐々に壊れていく冲也を見ていくのが辛くなってくる。

    ただ、じゃあ彼の人生は失敗だったのかというと、そうじゃないんだろう。
    もちろん客観的に芸術家として成功者かといえばそれは誰の目にも明らかに失敗者なのだけど、でもじゃあ彼が仮にそれを知ったからといって違う道を選ぶかと言ったら違うだろう。例え知った上で生き直しをしたところで、同じ道を選ぶんだろう。

    冲也は後悔していない。その意味で彼の人生は報われなかった訳ではない。

    むしろ、人生において「報われない」とはなんだろう。
    人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ、という紹介の言葉もあるけれど、
    だとしたら明らかに何かを為そうとした彼は、「彼自身によって報いる」という生き方だったんだろう。

    そういうメッセージは確かに受け取る。
    それはすごくカッコイイことだ。
    そんな風に生きれたらいいなとも思う。

    けどやっぱりそれ以上に辛さが来る。

    がんばっても報われないのはやっぱりキツいだろ、とか
    自分のしたことを人に認めてもらいたいとか、
    はっきりした成果じゃなくてもせめて光明は見失いたくないとか、
    光明さえも見失うとしたらいったい何が間違っていたのか、とか。

    そう、一体何を間違っていたんだろう。
    冲也はどうしたら成功できたのか。
    成功とは言わずともあれほどまでに辛い生き様を辿らずに済む方法はあったのではないか。

    そもそものところ自分の才能というものを見誤ったのか。
    自分の力でできることを見据え、その範囲でできることを見据え、せめてそうしてから動くべきだったのか。
    自分の端唄を嫌悪することなく、その実を見つめることからスタートすればまだ違ったのか。

    それとも、どんな才能があろうとも、自分一人の力というものに拘りすぎたのか。
    何かを為すには誰も独りの力ではできない。
    才能や技術といった面だけでなく、人間関係、経済など様々なものに関わりを持たねばならなくて、そこを割り切ったり謙虚に受け止められなかったのがいけないのか。

    などと、どうしていれば良かったのか、とついつい考えてしまうのだけど、
    そんなことに大した意味はないんだろう。きっと彼はどうしたって同じように生きたんだろう、と。そういう部分が読者にとっては辛いし、もどかしい。そしてそうでありながら同時に憧れもすれば、自分の生活を顧みざるをえないような気持ちになる部分でもある。

    と、そんな風に冲也の超人的な意思の強さに息苦しさだけでなく、引き込まれるものを感じるのは、彼に寄り添い彼を見守るおけいさんの力でしょう。

    作中、冲也に対して唯一無二の理解を示し、彼に通じる特別な人物として描かれているが、彼女はその一方で読者に通じた姿でもあり、読者の気持ちを代弁してくれる存在でもある。彼女が思い遣る視線や立ち居振る舞いがあるからこそ、一層冲也の生き方が辛さにおいて引き立つ。理解者でありながら、常識的で温かい感情の目線を与えることで、一層その厳しい生き様は侵しがたく魅力的なものになる。
    読者の仮の姿であるからこそ、知人たちにいくら訝られても恋仲にはなりえないし、冲也の死後に後追いをしたりもしない。終わりの独白の置いてけぼり感というか呆然とした感じはまさに読者の気持ちに近いでしょう。

    さて、この小説は周五郎の長編の中でも大きな作品で、「樅ノ木は残った」「ながい坂」と並んで3大長編とされる作品です。ながい坂を読んだ時も大きな衝撃を受けて、これは最高傑作だな、と感じたんですが、この作品はまた違った大きな衝撃を受けました。この読後感は忘れられそうにないですね。
    きっと樅の木もまた別の衝撃を与えてくれるんでしょう。今から楽しみです。

  • 何とも切ない

  • 主人公の視点に立てば立つほど、哀しさや虚しさでいっぱいになって読むのに精神力がいる内容。個人的には、主人公沖也の奥さんのお京さんのものの考え方が一番共感できた。

  • この主人公中藤中也を、作者の反映とする向きがあるが、私はそうは思わない。客=芸術の受け手の好みや理解を無視し、芸術の高みを目指そうとする主人公を、作者は優しく理解しながらもむしろ哀れに思い遠い場所から距離を置いて見ているような印象を受ける。

  • どうしてこうなった…
    人間誰しも独りぼっちかもしれないが、それに気付かず一生を終えることだって出来ただろうに…そんな環境におったじゃないですかー
    どうにか軌道修正できるように願っているのに、まったく思い通りに行かない、持ち直したかと思えばガクンと落っこちる、その繰り返しがリアルで、冲也に身近な人を重ねてしまった。

  • 07.2.21

  • 長年の懸案であった、山本周五郎の長編三部作の最後の一つをやっつけた。義と倫理の『樅の木は残った』、天命の『ながい坂』は、とうに(はるか30年以上も前に)読んだのであったが、芸事の『虚空遍歴』は、今までとってあったのだ。ただ読むと、芸に入れ込んだ浄瑠璃師の、身を摺り込んでいく姿の描写。しかし、全体としてたちのぼってくる背筋の伸びるような感覚は、山周である。

著者プロフィール

山本周五郎(やまもと しゅうごろう)=1903年山梨県生まれ。1967年没。本名、清水三十六(しみず さとむ)。小学校卒業後、質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む(筆名はこれに由来)。雑誌記者などを経て、1926年「須磨寺付近」で文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説などを発表。1943年、『日本婦道記』が上半期の直木賞に推されたが受賞を固辞。『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』など、とくに晩年多くの傑作を発表し、高く評価された。 

解説:新船海三郎(しんふね かいさぶろう)=1947年生まれ。日本民主主義文学会会員、日本文芸家協会会員。著書に『歴史の道程と文学』『史観と文学のあいだ』『作家への飛躍』『藤澤周平 志たかく情あつく』『不同調の音色 安岡章太郎私論』『戦争は殺すことから始まった 日本文学と加害の諸相』『日々是好読』、インタビュー集『わが文学の原風景』など。

「2023年 『山本周五郎 ユーモア小説集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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