ユタとふしぎな仲間たち (新潮文庫)

  • 新潮社 (1984年9月27日発売)
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  • 本 ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101135076

感想・レビュー・書評

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  • 劇団四季ミュージカルの感想はこちら。
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/B00005FR17
    小学校の音楽で歌ったり、学芸会で演じられたりしています。
    本来は座敷童子は男だけなのですが、学芸会だと配役の関係もあり女の子として演じられたりしています。原作で男だけというのは「女の子だったら売れるから間引きしない。間引きするのは育ててもしょうがない次男以下の男の子」なので、女の子が入ると事情が変わりますね。


    ===
    小学校6年生の勇太は、父親の死により母親の生まれ故郷の湯ノ花村に転校してきた。
    東京生まれ東京育ちの勇太(ユタ)には、田舎の村は退屈で仕方がない。学校の友達とも馴染めないし、元気な友達や先生からはもやしっ子扱いされている。
    そんなユタをみて温泉宿の銀林荘で働くおじいさんが「それなら座敷童子と友だちになってみないかい」と声をかける。なんでも満月の夜に座敷の大黒柱からひょっこり座敷童子が現れるといわれているらしい。ユタは退屈しのぎと、何かを変えたいと思って銀林荘の離れに泊まる。
    夜中。
    本当にひょっこりと座敷童子が現れた!

    ユタは座敷童子たちと交流していくうちに、元気に逞しく育ち、徐々に村の子供達からも馴染んでゆくのだった。

    ===
    冒頭ではもやしっこユタだが、何かを変えたいという思いがあり、そのために座敷童子たちと仲良くなった。座敷童子たちから聞いた話をもとに、自分で飢饉や餓死の歴史を調べることもする。
    この姿勢があるから、徐々に村の子供達からも認められるようになったり、最後には座敷童子たちとも手を降って分かれることができる。

    永遠の赤子の座敷童子たちは、おしめをしながら煙草をくゆらせ、人間の女の子に恋もするという親しみやすい姿をしている。
    しかし座敷童子になった理由は子沢山の間引きであったり、飢饉の餓死であったりする。
    座敷童子たちの合言葉「ワダ ワダ アゲロジャ ガガイ」は、遊び疲れて帰りが遅くなった子供の「我だ我だ 開けてくれ 母ちゃん」という意味で、座敷童子たちが言ってみたかった言葉だ。

  • 座敷わらしたちとの不思議で愉快な一年間が、都会育ちのもやしっ子だった勇太を逞しく成長させていく。児童文学には珍しくない設定ですが、「間引き」が行われていた東北地方の哀しく厳しい歴史、それを勇太自身が調べて、知識を身につけ彼らに寄り添う姿が印象に残りました。

  • ユタという少年と座敷童子たちの短い日々を語った小説だった。
    都会から田舎へと下ってきたユタは村の人々となかなか馴染めずにいる。座敷童子たちは過去にとらわれ今を生きることができず、この時代に馴染めずにいる。この共通点が短いながらも彼らが仲間であるために必要だったことなのだろう。しかしユタは人間であり、変わっていく。座敷童子たちの協力もあり少しずつ村の子どもへと変貌を遂げていくのである。が、座敷童子たちにはそのように変化ができない。それは彼らが人間ではないからだろう。そうして変わっていくユタを見送りながら、馴染めない彼らはきっとこの先も様々な場所を転々としていくことだろう、というところまで考えて少し悲しくなった。成長や変化は人間という生きた者にだけ許されることであり、過去や古い者は淘汰される。それを改めて感じた。しかし、それらは今を生きる者に何かしらを遺すことができる。ユタは座敷童子たちとの短い日々で、きっと多くのことを学んだことだろう。

  • 勇太(ユタ)は父を事故で亡くし、母と二人東北の山間の村に越してきました。
    彼は東京もんとしてなかなか受け入れて貰えず、寂しい日々を送っていました。
    そんな時仲良しの釜焚きの寅吉爺さんから、座敷童の話を聞き母の働く宿の一室に一人で泊まる事にしました。
    すると座敷童のペドロ達が現れ、彼を仲間として受け入れてくれました。彼はそれから度々座敷童達と時間を共にし、彼らがどうして座敷童になったのかを知ります。
    座敷童達は皆、村の凶作の時に口減らしとして行われていた「間引き」で命を奪われた子供達だったのです。
    彼らは優しく、時に厳しくユタと接し、座敷童達の境遇や想いに触れたユタは次第に自分を鍛え、村の子どもたちに受け入れられて行くのでした。
    そんな時にユタと座敷童たちにある事件が・・・・。


    ペドロはじめ座敷童の面々は、生きたくても生きられず、成仏したくとも成仏も出来ず、人を恨むでも無くただただ身を寄せ合って暮らしています。いつまで果てるともしれない時間の中を。
    言葉の端々に彼らのやるせなさが滲み出ます、俺が人間だったらなあ・・・、母ちゃんただいまって言いたいなあ・・・、お盆にやってくる霊たちにこんな姿見られたくないから隠れてるんだ・・・。
    あー駄目だ書いているだけで泣けてきてしまう。

    一言だけ言えることは、もっともっと彼らと一緒の時間を過ごしたかったです。3倍くらいのボリュームが有ってもよかったくらいです。これ子供の頃に読みたかったです。結構寂しい子供だった自覚は有るのでこの本読んでいたらきっと座敷童に会いたくて古い家に泊まりに行ってたと思います。

  • 死に縁どられた、あたたかいファンタジー。
    お父さんが海難事故で死んだという設定は、ああ、三浦作品だな、と思ってしまう。

    お寺の鐘の乗り合いバスとか、エンツコのエレベーターとか、子どものころ読んだら、きっとわくわくしただろう。

    悲しさとおかしさが、絶妙なバランスでまじりあっているのも、この作品ならではの味わいだろう。
    梅雨の時期は座敷わらしたちにとって、憂鬱な時期だということ。
    彼らが永遠に子どもの姿である悲しい事情とは別に、おむつが乾かないという、リアルな「事情」には笑わされてしまう。

    この物語を読んだ直後に、冲方丁の「光圀伝」を読んだ。
    個人的な偶然といえ、「水子」にするという共通点があって、ちょっとどきりとした。

  • そういえば劇団四季のポスターで見たことがあった。
    十二使徒のユダの話を作り替えたのかと思ったけれどそうではなさそうだとわかり。
    しかし、このあらすじを読んで、昭和初期の話だと思い込んで読み始めたものだから、ロケットが飛ぶような時代の話だと書かれていても違和感拭えず厄介だった。
    ユタが、都会から来た小学生という設定のせいか、音速を知っているとか、端々で小学生らしく見えない知識を披露するのも違和感あった。
    この時代の小学生で音速知っているって、よほどその方面に知識がなければムリじゃあないかしら。

    小学生にしてはずいぶんませている感のあるユタだけれども、自分を鍛えて、あるべき方向へ持っていこうとする。
    村の子供達にバカにされないように、という目的だったり、座敷わらし達の脚力に負けないように、という目的で自分を鍛える姿は、子供の成長物語としていい。

    座敷わらしが、生まれてすぐに間引きされたが故に、今でもおしめが取れない姿でいる癖に、天保の大飢饉あたりから生きていたりするから、煙管も吸えるというこのギャップが生む、子供でも大人でもないという存在だと知らされる感覚。

    座敷わらし達の住んでいた古い旅館が燃えてしまったことによる、ユタと仲間たちとの別れ。
    ユタが、村の子供達とも遊ぶようになり、仲間たちとの別れに正面向いていられる姿。
    明確な、子供時代の終わりだ。

  • 小学生のころ、公文の教材で学習して
    すごく面白かったことが忘れられず、
    しかし当時は田舎に住んでいたからか
    本屋や図書館でもこの本が見つからず
    読むのを諦めていた作品。

    大人になってからも楽しめるかな?
    自分の目を輝かせていたのは
    どんな作品だったのだろう?と
    思い起こし読んだ。

    大人になってからも楽しめるかな?と思ったことは
    杞憂で、物語の面白さに引き込まれて
    あっという間に読み切ってしまった!

    アポロやオリンピック、テレビの普及や
    ビートルズなど当時の時事が分かるのも
    面白い。

    座敷わらしの能力によって、
    部屋の柱がどかっと開いてエレベーターになったり
    空を飛んだり。ファンタジーかと思いきや、
    座敷わらしとの出会いで自分磨きに励むユタの
    一生懸命さがすばらしい。
    出会いから、自分を変えようと試みて
    挑戦し続ける不屈の思いが心を打つ。

    また、おとぎ話というわけではなく、
    日本の負の歴史である間引きを伝えているところも、読み手に命の大切さを考えるきっかけになると思う。

    間引きの歴史があっても人間を思いやって
    共生をしたい座敷わらしたちや
    ユタと上級生の対決で罰をなくそうとする先生、
    その罰を陰でやろうとしない生徒たち。
    また、LGBTの座敷わらしもユタ含む仲間たちが
    自然と受け入れている姿もいい。
    登場人物みんなが陰湿さがなく、
    読了後もさわやかさが残る作品。

    登場する座敷わらしが多いから、
    挿絵があるともっと分かりやすかった!

  • 児童文学というだけあって、とても読みやすい。嫌な気持ちになることもないし、めちゃくちゃ平和。現実に起こり得ないことなのかもしれないけど、実はこの世界のどこかでこんなことが起こってるんじゃないか、と楽しくなる。

  • 劇団四季の映像から入ったので、登場人物や風景は映像として浮かびやすかった。
    児童文学ということですいすい読み進めることができたが、ふとした描写の表現などは大人が読んでもいいなぁと思うものもたくさんある。
    座敷童子との別れが突然かつ案外あっさりしたところも、児童文学らしい感じがする。だからといって幼稚だとかそういうわけではない。
    なんだか自分も座敷童子に会ってみたくなる。

  • のんびりした話と思いきや、いちいちディティールが妙な設定というか、座敷わらしの生い立ちやら生き方やら、なんだか一筋縄ではいかないわけですよ。これが子ども向けと思いきや、大人の方がじんわりくるんじゃないか。
    しかし座敷わらしのおかげで一気にスターダムに成り上がるわ努力も欠かさないわで、やっぱそこらへんはチビッコ向けよのう。ちょっと甘いんちゃうかと穿った見方をするまでが大人よ。

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著者プロフィール

三浦哲郎

一九三一(昭和六)年、青森県八戸市生まれ。早稲田大学文学部仏文科を卒業。在学中より井伏鱒二に師事した。五五年「十五歳の周囲」で新潮同人雑誌賞、六一年「忍ぶ川」で芥川賞、七六年『拳銃と十五の短篇』で野間文芸賞、八三年『少年讃歌』で日本文学大賞、八五年『白夜を旅する人々』で大佛次郎賞、九一年『みちづれ』で伊藤整文学賞を受賞。短篇小説の名手として知られ、優れた短篇作品に贈られる川端康成文学賞を、九〇年に「じねんじょ」、九五年に「みのむし」で二度にわたり受賞。他の著作に『ユタとふしぎな仲間たち』『おろおろ草紙』『三浦哲郎自選全集』(全十三巻)などがある。二〇一〇(平成二十二)年死去。

「2020年 『盆土産と十七の短篇』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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