- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101136011
感想・レビュー・書評
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表題の「樽山節考」の他、「月のアペニン山」「東京のプリンスたち」「白鳥の死」の3編を含む短編集。
「樽山節考」は棄老伝説、つまり姥捨て山にまつわる伝承を近代的な小説に仕立て直した話。舞台は長野の山村。
棄老伝説は、実際に日本列島内で法令として実施されていたような記録はないものの、各地に民間伝承や地名として残っているものがある。
また、日本以外にも広くユーラシア大陸に関連する物語が存在し、物語としては古いものだといえる。
物語の類型は「難題型(国からの法令による姥捨て)」「枝折り型(姥捨て途中に子の帰り道を思い枝を折る)」やそれらの複合型などいくつも存在し、扱われるテーマも老人の知恵、親子の情愛、自国や他国との軋轢などさまざま。
本作「樽山節考」においては親子の情愛がベースとなっているものの、ムラの文化や暮らしの様子・雰囲気が丁寧に描かれていることや、老母おりんの「いかに最期を迎えるか」を能動的に捉え準備していく姿勢に、恥の文化など日本的な因習が織り込まれていて読み応えがある。
有終の美という言葉もあるように最期の迎え方をいかにするかというテーマ自体はよくあるものだが、多くは武士道の中で描かれるもののように感じる。武士的な世界においては最期を飾ることにより「自分がどう思われるか」という自己の発想や視点が中心となっているのに対して、老母おりんの場合は自己の目線も含むものの「世間様にどう思われるか」や「家族がどう思われるか」などの他者目線が発想の起点になっているように感じる。
ムラやイエの論理がどのような形で自己を規定していたのかは個人主義が当たり前の発想となっている現在の感覚ではうまく読み解けない部分もあるとは思うが、多かれ少なかれ現在の日本社会にも残っているものだとは思うので、こういう(現在地点から見れば)極端な話に触れて考えてみるのもときには良いと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
苦しい。自分の母親の顔が思い浮かんで泣きそうになる…
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切ない話だった…。
「山に行く」日が近づく=命終わるとき。
残される家族のために、息子に後妻をもらったり
山に行った後の宴会も滞りなく準備しておいて、
自分はひっそりと出る準備をする老いた母。
食べ物がないということは、こんなに切実に
暮らしをそのまま圧迫するのだなぁ。
盗みを働くものが出たり、
それを戒める村の者たちもそれはそれで命がけ。
今のように飽食で、村全体が貧しいなんてことない世の中だと
想像もつかないけれど。
食べること、暮らすことを真剣にやっていかなければいけない。
その上さらに、追い詰められた状況では究極的に「口を減らす」というのが慣習になっている。
子減らしは、結局していなかった。慣習にのっとり、家族のことや自分の尊厳を守って
息子に負われて、「山に行く」。
美談ともいえるかわからんのだけど、ひとまずその覚悟や尊厳の守り方は強く、美しいと思った。
じゃあ…食べ物は捨てるほどある今の日本人は、この強さ、美しさをどう引き継げばいいの…? -
まずは「人とこの世界」で作者を知るところから始まった。著作一つ(と切り捨ててはいけないけれど)で殺傷事件まで起きてしまう時代にいたとはいえ、いったいこの言動の作者が書いた作品が自分に読みきれるだろうかと不安を抱いて読み始めた。「楢山節考」昔の作品の中で更にその昔のことを描いていると、厳しい規律の割にゆるい道徳…といった世界に驚いてしまう。それはくだらない替え歌で村中に囃されてしまう世界であり、それによるいわれのない中傷まで真っ向から受けざるを得ない世界。でもその中で、母と息子の思いやりに切なくなる。
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『楢山節考』 深沢七郎
4つの短編で構成。中でもタイトルになってる楢山節考という小説は衝撃的な話。何度か映画化、ドラマ化されているが、民話?である姨捨山の話が、うまく小説に落とし込まれてる。
その村の老人は70歳になったら裏の山に生きたまま捨てられる。食糧もなく、豊かな土地もなく、厳しい冬を越すためのしかたなしの手段だった、、、
人は極限状態に置かれたときどんな行動をするのか、どんな心理状態になるのか、、、
人の醜い部分も、成熟した部分も描かれている作品。
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深沢七郎が1956年に発表した、民間伝承の棄老伝説を題材とした短編小説で、ベストセラーにもなった。
当時の多くの作家や評論家に衝撃を与え、中央公論新人賞の選者だった伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫らは本作品を絶賛し、辛口批評家で知られていた正宗白鳥をして、「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である・・・私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」と言わしめたという。
物語は、山奥の貧しい村の因習に従って、息子の辰平が年老いた母のおりんを背板に乗せて真冬の楢山へ捨てに行くというシンプルなものであるが、そこに描かれた、自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい息子との間の無言のやりとりと相俟って、人間の尊厳や人間の情愛と残酷さなどの「人生永遠の」テーマをいやが上にも考えさせる、独特の雰囲気を醸し出している。
なお、本作品の舞台は信州であるが、著者は山梨県境川村大黒坂の農家の年寄りから聞いた「姥捨伝説」がモチーフとなっていると語っている。
物質的に豊かになりつつも、精神的な豊かさの感じられない現代において、一読の意義ある作品と思う。
(2008年11月了) -
大学時代の友人の勧めで気になって購入したと記憶。でも、学生の頃はこの小説がいいなぁとはちっとも思ってなかったんですよね。
今になって、ようやくこの小説の味というものが分かってきました。いや、身に迫ったと言うべきか。とにかく、感動しました。あぁ、でも感動というよりは、ガツンとやられたという感じかなぁ。描写のインパクトというか文章の迫力にガツンとやられた気がします。
表題の「楢山節考」、あと「月のアペニン山」もそうなんですが、何とも陰惨な話です。しかし、単にグロテスクなだけの文章とは全く違います。恐ろしく、気持ち悪い光景を前に堪えきれず吐き気を催して苦しんでいる主人公の姿や表情が、ありありと伝わってくるような迫力があるんですよ。「生温い言葉を一切使わずに生々しいものをガツンと表現する」ところに深沢七郎の文章の味があるんじゃないか、そう感じましたね。少なくとも、優しい気持ちや心温まる文章とは対極です。人物は顕微鏡を見るように大変精緻に描いているけれども、人間は大変突き放して描いている、とでも申しましょうか。深沢のそんな性格は「東京のプリンスたち」「白鳥の死」に現れている気がします。
とりあえず、私はこの一文にガツンとやられました。
「静江と結婚してから私達二人は受難のカレンダーを剝いで日をすごしたのだった。」(p.9)
「月のアペニン山」より。「受難のカレンダーを剝いで日をすごしたのだった」、というのが実にいい表現。大変お気に入りの一節です。 -
まったく違う価値観というものはいい。
それが、おそらく歴史のうえで存在したであろう価値観は本当にいい。たとえば、楢山節考の世界において、きれいに揃った歯は悪いものとされる。それを読むとなんだそりゃ、となる。
人間とは、簡単に環境によって変わる生き物であること。人間はそんなものである、と言うことを知りたい。
楢山節考においては、どれだけ時代考証がなされたのだろうか。存在感と現実味が尋常でない。きっと事実だと思う。祖先が繰り返し行ったことなんだろう。読んだら、その過去の負債を突きつけられるから動揺してしまうのだ。