- 本 ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101139043
感想・レビュー・書評
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丘の上に住む老夫婦の生活。
ずっと家族を書いてこられた庄野潤三さん。
劇的なことなど何も起こらない。文章も簡素で凝った比喩なんかもない。ただただ、家を訪れる息子夫婦や孫たちとの交流や、庭のばら、妻との会話など、静かに静かに語られていく。読んでいていつも明るさを感じ取れる小説である。
『夕べの雲』や『絵合せ』を過去に読んだこともかなりおぼろになっていたが、こんなにも簡素だっただろうか、と思う。老境に至って、本当に余計なものを徹底的に削ぎ落としたという感じがする。意図的に落としているのか、自然に落ちていくのか。
「うれしい」「おいしい」「さびしい」「ありがとう」などの言葉もなんら装飾を施されていない。「これでいいのだ」という著者の強い確信めいたものが感じられるような。しかし、自分はもっと饒舌なものを読みたいような気分も一方であるような気もしている。
もう少し年をとるとまた見方も変わるのだろうか。まだ見ぬ「老い」の方向へと想像をめぐらす。
奥さんとピアノのけいこや読んだ本(なぜかディケンズやコンラッドやフィールディングといった英文学)について話を交わすところが特に印象的で好きだ。本当にさりげなく書いてあるのに。不思議だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
夫婦二人の静かな生活をつづった作品です。「あとがき」には、「子供が大きくなり、結婚して、家に夫婦二人きりで暮すようになってから年月たった。そんな夫婦が毎日をどんなふうに送っているかを書いてみたい」と述べられています。
『せきれい』(文春文庫)につづく時期がえがかれていますが、多少重複するエピソードも語られているようです。著者は、「同じようなことばかり書き続けて飽きないかといわれるかも知れないが、飽きない。夫婦の晩年を書きたいという気持ちは、湧き出る泉のようだ」と述べています。本書につづられているような生活のなかの豊かさは、もしかするとわれわれの身近にも存在していて、ただふだんの生活の忙しさにとりまぎれて目を向けることがないのかもしれないという思いにさせられました。 -
読み始め…13.6.29
読み終わり…13.7.23
作家庄野潤三さんがご自身の晩年に記していた日記そのままを、時の流れとともに歩む日常として表した小説の一冊でした。
平凡でありながらも家族円満。そして穏やかに流れる晩年生活の日常は、どこにでもありがちなごくごく普通のことばかり。なのにどこかしらほっこりと幸せな気持ちにさせられ笑みがこぼれます。 -
おしまいの、岩阪恵子さんの「豊かさとは」がよかった。首を傾げて読んでいたものを首肯して愛させてくれる語彙力。
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初めて読んだ著者の作品ですけれども、良かったですねぇ…七十代の夫婦の日常が日記みたいに綴られております。特に目立ったことは起きないのですが、なんというか…こう、ほんわか、そう、ほんわかしました…!
まあ、こういう老年期の夫婦の物語を読むのには僕はまだ若すぎるのかもしれませんが…それでもこの小説の良さの断片みたいなものは伝わってきましたよ…!
ヽ(・ω・)/ズコー
フーちゃんという、主人公の老年男性の孫に当たる女の子の手紙がとにかく良くて…可愛いですね! こんな孫が持てたらと…まだ独身なのにも関わらず思わされてしまう…! そんな力に満ちた小説でした。おしまい。
ヽ(・ω・)/ズコー -
なんのことはない日常に幸せを感じる、そんな本でした。
なので、何度も何度も同じことが書いてあります。連載していたとはいえ、単行本にするときに編集してくれよってくらい同じことが書いてあります。
おじいちゃんの手帳に書いてあるような日常が綴られています。ちらし裏で、いい話です。
フーちゃんの感想文やお手紙をみて喜ぶのは、おじいちゃんだからですよ。 -
子供と孫たちと触れ合い毎日を生きる老夫婦の日常を描いた小説。うれしい。よろこぶ。おいしい。ありがとう。という台詞が毎ページに出てくるようなお話。
自然体で日々を生きていくだけで、簡単に喜びを感じてる。
羨ましい限りだ。 -
「ありがとう、小沼。いいよ。」に私はノックアウト。
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幸せの連鎖を感じる。
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毎日見ている庭のつるばらも、妻のピアノの練習の日々も、同じようで居て、実は少しずつ変化していて。
そのひとつひとつに「うれしい」と思うことに、心が温まります。
こういう気持ちにさせてくれる本を大切にしたい。
著者プロフィール
庄野潤三の作品





