花神 (下巻) (新潮文庫)

著者 : 司馬遼太郎
  • 新潮社 (1976年9月1日発売)
3.96
  • (165)
  • (168)
  • (165)
  • (8)
  • (1)
  • 本棚登録 :1330
  • レビュー :84
  • Amazon.co.jp ・本 (553ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101152196

花神 (下巻) (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

並び替え:

表示形式:

表示件数:

  • 本日読了。名前しか知らなかった大村益次郎ですが、司馬さんの手にかかるとこんな面白い人になるんだ!
    百姓医者の出身で、オランダ医学を学ぶためにオランダ語を学び、雇われ翻訳者として兵書類を訳しているうちにそちらの知識が付いて、たまたまその才能も天才的にあったために、なんと革命軍の司令官として明治維新を完成させちゃった人です。
    すぐ頭に血が上って剣を抜いたり、または思想や理想を持って革命を推し進める他の維新志士たちとは全く異なるタイプで、無私で超合理的で冷静で不器用な人。
    自分の意思や理想で維新に身を投じたわけではなくて、たまたまその才能を木戸孝允に見出されて担ぎ上げられたけれど、相当偉くなってからも、たまたま郷里に帰った時に村医者として求められれば、夜中に村のおばあちゃんのために手間のかかる薬を作ってやったりするような人。
    でもあまりにも無愛想で空気読めなくて、すれ違った村人から「お暑うございます」と挨拶されても、仏頂面で「夏は暑いものです」とか答えちゃうものだから、嫌な人だと誤解されやすいのですが、司馬さんにかかると愛すべき人になっちゃう。実際彼を嫌いだった人も多かったようで、殺される原因にもなってしまったくらいです。
    シーボルトの娘、イネも出てきます…いい味出しちゃってます。

  • 下巻読了。

    さすが、司馬さんの幕末モノ。
    西郷さんや、坂本さん、高杉さん等のようなスター性のあるキャラとは程遠い、大村益次郎(村田蔵六)さんという地味キャラが主人公でも、こんなに面白く読ませてしまうとは。。。
    蔵六さんは、どんな時でも自分軸を貫き、淡々と軍の総司令官としての仕事をこなし、見事に倒幕軍を勝利に導きます。
    ただ、あまりに合理主義で、コミュ障的な無愛想さが祟って人の恨みを買ってしまい、命を狙われてしまう訳で。
    襲われて大ケガしても、医者だけに、冷静に自分で手当てしまうところがまた(笑)。
    ケガ療養中に、イネさんが駆けつけてくれて、良い方達に囲まれての終盤だったのが救いです。

  • (2016.05.01読了)(2003.03.18購入)(1999.07.15・69刷)
    幕府は長州に敗れ、徳川慶喜は、大政奉還を受け入れ、鳥羽・伏見の戦いへと進んでゆく。
    大村益次郎の出番は、上野寛永寺に立てこもった彰義隊の掃討であった、
    戊辰戦争については、江戸で後方支援を受け持った。各所からの要求に対しては、自分で計算して根拠を示し、大村さんがこれぐらいあれば十分という分だけ渡した。
    西郷さんが、応援に行くといったことに対しては、つく頃には戦は終わっています、と言ったら、その通りだったとか。
    江戸での戦乱を避けるために勝海舟は、新選組を甲州に追いやり、榎本海軍を江戸湾から北へのがれさせたとか。
    司馬さんは、村田蔵六を主人公に、よくも三巻にもわたる本を書いたものだと感心してしまいました。勝海舟や桂小五郎についての本は、書かなかったですね。(そうかどうかは司馬さんの本を全部読んだわけではないので自信ないけど)

    【見出し】
    豆腐
    京の風雲
    京都占領戦
    京と江戸
    彰義隊
    江戸城
    攻撃
    あとがき
    解説  赤松大麓

    ●高杉と西郷(50頁)
    高杉は西郷を嫌い、時にはこれを奸物視し、さらに驚くべきことには西郷と何度も会う機会がありながら常に避けわざと無視し、ついに生涯会わなかった。
    ●幕末の長州(51頁)
    一言で幕末の長州集団を言えば、小粒の血気者どもが無数に表れ、一つのイデオロギーに動かされて藩の権柄をとり、多分に無統制に騒ぎまわったという印象が濃い。
    ●造語(162頁)
    長州藩は薩摩藩とは違い、言語感覚において優れていたのか、行政上の言葉や社会機構上の言葉で多くの造語を作り、それらの多数が近代日本語として定着した。この病院もそうであった。医院という言葉も、この藩が最初につかった。
    軍隊の隊や、総督、総監という言葉を初めて作ったのもこの藩であり、やがて幕府までがまねた。
    ●軍事(323頁)
    軍事というのは元来、天才による独裁以外に成立しないのである。

    ☆関連図書(既読)
    「最後の将軍 徳川慶喜」司馬遼太郎著、文芸春秋、1967.03.25
    「新選組血風録」司馬遼太郎著、角川文庫、1969.08.30
    「燃えよ剣」司馬遼太郎著、文芸春秋、1998.09.20
    「竜馬がゆく(一)」司馬遼太郎著、文春文庫、1975.06.25
    「翔ぶが如く(一)」司馬遼太郎著、文春文庫、1980.01.25
    「世に棲む日日(1)」司馬遼太郎著、文春文庫、2003.03.10
    「司馬遼太郎スペシャル」磯田道史著、NHK出版、2016.03.01
    「花神(上)」司馬遼太郎著、新潮文庫、1976.08.30
    「花神(中)」司馬遼太郎著、新潮文庫、1976.08.30
    (2016年5月7日・記)
    内容紹介(amazonより)
    周防の村医から一転して官軍総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげた、日本近代兵制の創始者大村益次郎の波瀾の生涯を描く。

  • 3月中旬から読み始め、約1ヵ月半かけて上中下の3巻を読破。明治維新成立の2年後、主人公:村田蔵六(大村益次郎)は元薩摩藩士:海江田信義の刺客により人生の幕を下ろす。「竜馬がゆく」が幕末の表舞台を陽からに描いたものとすれば、本作品は陰から描いたように思える。事実、「竜馬がゆく」でも昨年の大河「龍馬伝」でも大村益次郎の名前は登場しない。一般的な認知度も低いだろう。
    しかし本作品を読了し、日本陸軍の創始者である大村が明治維新の立役者の一人であることは充分に理解できた。出自が良かった訳ではなく、地方農村出身の村医師から様々な人との出会いによりいつのまにか大舞台に上がってきた人生というものも非常に面白かった。自身が「これだ」と見込んだ分野を極めることで、他の分野・畑での応用が可能であるという証明である。大村の場合、医学を極めて医師となり、医学書を読む必要性からオランダ語を極めることとなり、洋書の兵学書を読むことから兵学者となり、幕長戦争と戊辰戦争の実質的指揮者となる。
    まさに驚きの転身であるが、私はこんな話が好きである。「この道、苦節○十年」というのも勿論尊敬に値するが、華麗なる転身に成功した話の方が夢が膨らむ。「不毛地帯(山崎豊子)」の主人公、壱岐正も大本営参謀から総合商社のトップに上り詰めた。
    私自身、前職は某専門学校の講師をしており、そのコンテンツ(教授内容)を現在の保険実務の仕事に活かしているという経歴があるため、そんな話に共感を覚えるのかも知れない。また、現在の仕事が将来的に別の仕事や人生に活きてくるかもしれないと考えるとワクワクするではないか。(別に、具体的に転職を考えている訳ではないことを申し添える。念のため。)
    そんな訳で、大村の数奇な人生を愉しんで読むことが出来た。ちなみに「花神」とは中国で「花咲か爺さん」という意味らしい。「時代に花を咲かせる爺さん」という意味でタイトルがついたとのこと。私はいまいちそのイメージは受け入れがたい気がするが(笑)。ともあれ、本作品は1977年の大河ドラマであり、総集編DVDで観てみたいものである。中村梅之助がどのように大村を演じたかが非常に興味がある。
    本書巻末に収められた論評によると、本作品は「世に棲む日日(吉田松陰と高杉晋作が主役)」と姉妹関係にあるという。司馬作品はまだまだたくさん読みたい候補があるが、近いうちに「世に棲む日日」もチャレンジしたいものだ。「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「酔って候」「花神」などとはまた少し違った角度から幕末史を楽しめるだろう。

  • だだの狂人集団から、維新政府へと移り変わっていく長州。<br>
    村田蔵六こと大村益次郎は、そうやって移り変わる時代と共に、討幕軍の総司令官となった。<br>
    <br>
    <br>
    村田蔵六はただの技術者であり、ただの技術者であることが彼の信念でもあった。<br>
    人目を気にせず、人間関係を円滑にしようなんて微塵も考えない彼は、周囲の人間から見れば全くの馬鹿のように見えるかもしれない。事実彼は、実力こそあったものの、周囲からの評価は『えたいのしれない奴』であった。だが、彼はそんな人間であるからこそ、こんな偉業を成し遂げたのだろう。<br>
    村田蔵六は総司令官であったので、ほとんど戦場には出ずに、討幕軍と戦っていた。人の命の潰える戦が行われていたことは事実であるが、村田蔵六のみにスポットを当ててみると、彼はいつものように『ただの技術者』でしかなく、室内に篭っていただけである。彼はやるべきことは何であるかを知っており、それをやれるのは自分でしか無いということも知っていた。そして、やる必要の無いことは何も行わなかった。そんな『明治維新』もあるのだな、となんだか不思議にも思った。<br>
    そして、何よりも不思議であるのが、村田蔵六自身の終焉である。彼は、本当にあっさりと消えた。彼の役目が終わると同時に消えたのだ。これが一年前であったら、歴史が変わっていたかもしれない。しかし、そうではなかった。それがなおさら、村田蔵六らしい。<br><br>
    こんな人間がいたのだと思うと、彼は本当に神が使わしたのかもしれない、と感じてしまう。きっと、村田蔵六自身はそれを否定するだろうが。

  • 同じこと何回も書いてて退屈した。
    もっとコンパクトにまとまってたら眠くならず読めたかも。

  • 大村益次郎って誰だっけレベルでしたが、そういう、学校の歴史授業ではサッと通り過ぎるような人たちで、日本の歴史はできてるんだなと。明治維新も、こういう風に進んできたんだと、再確認。もう一回じっくり読みたい。「世に棲む日日」も読みたい。

    イネの心情の描かれ方も、司馬さん、女心わかるんですか…とちょっとキュンとした。。

  • 年を跨いで下巻読了。

    「花神」とは「花咲か爺さん」のこと。著者は、大村益次郎のことを「花咲か爺さん」と見たてて、この物語を「花神」としたそうですね。

    「花咲か爺さん」と言えば、何かパァ~と周りを明るく華やかにしてくれるイメージを持っていたので、それとは正反対のキャラクターである大村益次郎のイメージからすると少々しっくりこなかったというのが正直のところ。

    しかしながら、不可能と思える戦いをことごとく勝利に導く彼の姿はまるで「枯れ木に花を咲かせる」イメージでもあるなと思い直しています。

    明らかに、時代の変革に大きな仕事をした重要な人物の一人として認めざるを得ない存在ですよね。しかし、そのキャラクターは強烈すぎるくらい「変人」的要素が強いですね(笑)。合理主義のバケモノでしょうね。

    小説の中に存在するのなら許せますが、自分の周りのこの種の人物がいると、果たしてこれはなかなか苦痛でしょうね(笑)。ただ彼には、大事なところで理解者が存在している。桂小五郎は中でも大きな存在ですね。

    彼は天才的な軍師だと思いますが、人間力的な魅力はむしろ欠如したキャラとして描かれてますね。そういう意味で、この小説をヒーロー小説として期待するよりも、一人の人物を介して時代の変革の流れが理解できる、そっちのほうに楽しさの軸足をおいて読むべき本だろうと思います。

    司馬遼太郎の歴史小説は、史実に忠実に書かれている点で、時代小説とは異なり、登場人物への著者の感情移入は行われず物語はけっこう淡泊に進んでいうように感じますが、一方で「なぜこんな風に歴史が転回したんだろう」ということを様々な角度からストーリ立ててくれるところが司馬遼太郎の小説の魅力だろうなと思います。

  • 大村益次郎、日本史の教科書的知識しかなかった。靖国神社に銅像があるのも全く知らなかった。

  •  京都を出発するとき、京における長州代表の広沢兵助が、
    「西郷にはくれぐれも気をつけよ」
    と、注意したが、蔵六はいっこうに表情も変えず、返事もせず、ひどく鈍感であった。広沢のいうところでは、西郷の衆望は巨大であり、一人をもって一敵国をなすほどである。西郷自身は稀世の高士であるにしても、そのまわりにあつまっているのは愚かな物知らずばかりで、江戸へゆけばそういう愚物どもに気をつけよ、といったわけであったが、しかし蔵六は鈍感であった。蔵六にいわせれば、
    「衆望を得る人物」
    という種類の存在が、頭から理解できないところがあり、それどころか、そういう存在は一種のゴマカシです、としかおもっていない。さらにいえば一人の魅力的人物を押しあげているそのまわりの「衆」というものが、この男にはまるで理解できなかった。そういう魅力的人物とそれを押したてる「衆」が大きな政治勢力になり、ときには歴史をもうごかすということは頭で理解しているものの、sかしかれ一個のモラルでは、
     ーーそれは世の中の害です。
     というぐあいにその門人に言っていた。要するに、感動的な人間集団というものがよくわからないたちの男なのである。こういう傾向は長州人に共通しているともいえる。かつての長州藩の代表的人物だった高杉晋作や、いまの木戸などが、みずからの人間的魅力をもって衆をあつめようとしないのは長州の風であり、蔵六はその点では極端に長州人であった。

     村田蔵六などという、どこをどうつかんでいいのか、たとえばときに人間のなま臭さも掻き消え、観念だけの存在になってぎょろぎょろ目だけが光っているという人物をどう書けばよいのか、執筆中、ときどき途方に暮れたこともあった。
    「いったい、村田蔵六というのは人間なのか」
     と、考えこんだこともある。
    しかしひらきなおって考えれば、ある仕事にとりつかれた人間というのは、ナマ身の哀感など結果からみれば無きにひとしく、つまり自分自身を機能化して自分がどこかへ消え失せ、その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、ぞう雨録のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、その仕事を巨細にふりかえってもどこに蔵六が存在したかということの見分けがつきにくい。
     つまり男というのは大なり小なり蔵六のようなものだと執筆の途中で思ったりした。ごく一般的に人生における存在感が、男の場合、家庭というこの重い場にいる女よりもはるかに稀薄で、女のほうがむしろより濃厚に人生の中にいて、より人間くさいと思ったりした。その意味ではナマ身としての蔵六の人生はじつに淡い。
     要するに蔵六は、どこにでもころがっている平凡な人物であった。

全84件中 1 - 10件を表示

花神 (下巻) (新潮文庫)のその他の作品

花神(下)(新潮文庫) Kindle版 花神(下)(新潮文庫) 司馬遼太郎

司馬遼太郎の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
司馬 遼太郎
有効な右矢印 無効な右矢印

花神 (下巻) (新潮文庫)に関連する談話室の質問

花神 (下巻) (新潮文庫)を本棚に登録しているひと

ツイートする