覇王の家 (上) (新潮文庫)

  • 新潮社 (2002年4月30日発売)
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  • 本 ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101152387

感想・レビュー・書評

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  •  徳川三百年の礎を築いた徳川家康の生涯を描く歴史小説。

     なぜか、戦国時代の司馬作品では、この作品だけまだ読んだことがなく、おりしも大河ドラマで注目されているので、この機会に読んでみました。

     上巻は、信長が討たれた所まで描かれており、家康の巧みな政治力で徳川家を守ってきた苦労が伝わってきました。

     また、三河の風土であったり、三河武士の特徴であったりしたものがこの時代を生き残る重要な要素であったことも理解することができました。

     時折挟まれる司馬史観の余談もこの令和の時代にあっても考えさせられる内容でした。 

  •  徳川家康の生涯の節目ごとを短編として、著者の独自の視点で考察しているが、日本人の歴史観に多大な影響を与えたいわゆる司馬史観を強く感じた。徳川政権は重農主義で保守、織田豊臣政権は重商主義で革新という二元論にたち、幕末から太平洋戦争までの後の歴史に影響を与えた保守的な重農主義が、創業期の徳川家においてどのような風土や経緯で培われたかを理解できる。現在の価値観や社会構造が、歴史の延長線上にあることを考えさせられる価値ある一冊と思えたと共に、歴史物語としても十分に楽しめた。

  • 【感想】
    「国盗り物語」や「太閤記」でも、特に異質で不気味な雰囲気を醸し出していた徳川家康が主人公の物語。

    読んでいると、家康は決して野望家ではなかったということが窺い知れる。
    その独特さや不気味さ、総じて変わり者であるという点はあくまで「三河者」というジャンルが為すものであり、その中でも特に家康は現実主義で、そして悪く言えば地味で、才能や運に頼らずコツコツと物事を堅実に積み上げつつ立身していく様が見て取れた。
    家康と、信長や秀吉との違いは、かの有名なホトトギスに関する一句でとてもよく分かる。

    かと思えば、たまにヒステリックの如く奇抜な行動を起こし、狼狽え激情し、そして次の瞬間には瞬間冷却されたかのように冷静になる。
    また、計算はするが、決して人を裏切ったり、打算的な考えは用いない。
    このような変人エピソードもまた読んでいて家康のチャームポイントであり、面白いなーと思った。

    家康本人の台詞やエピソードがさほど作中に多くないのも、彼の生前の本音や意見を漏らさない性格によるものなのかもしれないと読んでいて感じた。

    下巻も非常に楽しみだ。


    【あらすじ】
    徳川三百年―戦国時代の騒乱を平らげ、長期政権(覇王の家)の礎を隷属忍従と徹底した模倣のうちに築き上げた徳川家康。
    三河松平家の後継ぎとして生まれながら、隣国今川家の人質となって幼少時を送り、当主になってからは甲斐、相模の脅威に晒されつつ、卓抜した政治力で地歩を固めて行く。
    おりしも同盟関係にあった信長は、本能寺の変で急逝。秀吉が天下を取ろうとしていた…。


    【内容まとめ】
    1.国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずる点、利口者の多い尾張衆とくらべて際立って異質だった。
    「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉すらあったほどで、城を守らせれば無類に強かった。

    2.武田信玄の西上に対して
    「敵がわが公野を踏みつけつつ通り過ぎてゆくのに、一矢も報いずに城に隠れているなどは男子ではない。」
    何事も慎重をかさねてきたこの男が、血の気を失うほどの形相でこう言った。
    家康という人間を作り上げているその冷徹な打算能力が、それとは別にその内面のどこかにある狂気のため、きわめて稀ながら破れることがあるらしい。
    結局は惨憺たる敗北に終わるのだが、しかし彼ののちの生涯において、この敗北はむしろ彼の重大な栄光になった。

    3.我が子・信秀(後に切腹)を陥れた家臣に対して
    信長はかつて酒井忠次の詭弁を信じ、家康にその子と妻を殺させた。
    それほどの目にあった家康こそ反逆すべきであるが、家康は強靭な自己防衛上の意志計算能力を備えていた。
    信長も、いま目の前にいる老中の酒井忠次も、家康にとってはわが子の仇であったが、それを仇であると思ったときには自分は自滅するという事を家康は驚嘆すべき計算力と意志力、冷静さをもっていた。


    【引用】
    「人よりも猿のほうが多い」
    ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずる点、利口者の多い尾張衆とくらべて際立って異質だった。
    「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉すらあったほどで、城を守らせれば無類に強かった。


    p34
    家康という、この気味悪いばかりに皮質の厚い、いわば非攻撃型の、かといってときには誰よりも凄まじく足をあげて攻撃へ踏み込むという、一筋や二筋の縄では理解できにくい質のややこしさを創り上げたのは、ひとつにはむろん環境である。
    桶狭間によって勢力地図が変わり、家康が今川氏から解放される運命を作ったが、彼はそれでも今川氏と別れず留まっていた。

    また、家康はあくまでも今川氏への信義立てを装い、岡崎城が空城になるまで入らなかった。
    無論ただの正直者ではなく、正直を演技するという、そういうあくの強い正直であった。

    結果、西の織田と東の今川に対し、同時に自分の律儀さを感心させたこととなった。
    家康のような弱小勢力としては、律儀さを外交方針にするのがもっとも安全の道であった。


    p63
    ・武田信玄の西上に対して
    「敵がわが公野を踏みつけつつ通り過ぎてゆくのに、一矢も報いずに城に隠れているなどは男子ではない。」
    何事も慎重をかさねてきたこの男が、血の気を失うほどの形相でこう言った。
    家康という人間を作り上げているその冷徹な打算能力が、それとは別にその内面のどこかにある狂気のため、きわめて稀ながら破れることがあるらしい。
    彼は全軍に出陣支度をさせた。
    結局は惨憺たる敗北に終わるのだが、しかし彼ののちの生涯において、この敗北はむしろ彼の重大な栄光になった。


    p218
    本能寺の変後、堺にて其の報を聞いた家康は大いに狼狽え、自害しようとさえ考えた。
    同席している穴山梅雪を一人取り残し、三河者だけで協議を行った。

    家康の奇妙さは、梅雪にその重大情報を明かす時すでに、激情が去っていたことである。

    「国へ帰ります」と、家康は穏やかに言った。
    家康の性格のおかしさも油断ならなさも、そういうところにあった。
    彼は自衛のための構造計算を平素精緻にしておくくせに、それが一旦崩れると人より数倍狼狽え、しかもその彼を破滅的な行動に追いやる激情が、すぐに沈静してしまうのである。

    復讐を思い立ったものの、織田家の他の軍勢と違い、家康のこの場の状態は誰よりも哀れであった。
    この言葉で自分を絶望から救い出そうとし、気力を鼓舞してみただけで、さしあたって言葉そのものに重い意味はない。
    それよりも、この危険な上方地域からどう脱出するかである。


    p222
    「穴山殿、是非ご同行なされ候え」
    家康は言葉を尽くしてすすめたが、梅雪の表情が優れない。
    (家康めは、このどさくさにまぎれてわしを殺すつもりであろう。)

    「梅雪、多知ノ男ニテ」
    当時言われていたように、武田の族党の中では知恵があり、その知恵を勝頼を裏切ることに使い、家康を仲介者として織田方に寝返り、巨摩郡一つをもらった梅雪は、危険を感じた。

    が、この甲州人は家康についてもっと知識を持つべきであった。
    家康という男はその不透明な見かけのわりには意外なところがあり、それは年少から一度も人を謀殺したことがないということであった。
    家康はこの時期よりあとも、そういう所行はない。
    梅雪は、このとき不利な判断をした。

    梅雪は、この場で家康一行と別れた。
    この行動は、おそらく三河人どもの不気味なばかりの団結の様子を見て、彼らが信じられなくなったのであろう。

    梅雪はさほどもゆかぬうちに明智方の警戒線にかかり、その場で首にされてしまった。


    p232
    村重や光秀からすれば、反逆はむしろ正当防衛であったであろう。
    殺さねば、いずれは殺されるのである。

    信長はかつて酒井忠次の詭弁を信じ、家康にその子と妻を殺させた。
    それほどの目にあった家康こそ反逆すべきであるが、家康は強靭な自己防衛上の意志計算能力を備えていた。
    信長も、いま目の前にいる老中の酒井忠次も、家康にとってはわが子の仇であったが、それを仇であると思ったときには自分は自滅するという事を家康は驚嘆すべき計算力と意志力、冷静さをもっていた。


    p237
    「いずれ物事が煮えてから」
    やがて起こるであろう織田家の諸将間の権力闘争が泥沼の状態になり、強者たちがヘトヘトになってから立ち上がっても遅くはなかった。


    p242
    「復讐戦のため、京にのぼる」
    そのような颯々とした行動は、家康の性格では無理であった。
    ところが復讐しなければ、世間への顔が立ちにくいという困った課題がある。
    このため、せめて復讐に出かけたという事実だけを作っておかねばならなかった。
    でなければ、世間への声望を失うし、さらにはかれの士卒に対してもまずかった。

    人に将たる者は、士卒の心につねに自分が英雄であることを印象させておかねばならない。
    このために、「形だけ西上の姿を見せておく」という、いわば演技的行動をしていた。

  • 大河ドラマが始まって家康についてタヌキおやじぐらいのイメージしかなかったのでこれは読まねば!と。
    正直今まで司馬遼太郎作品を読んで家康は好きになれなかったけどやはり読んでみるとイメージはかわる。確かに「奇妙な方」だ。

  • 「覇王の家 上」 司馬遼太郎(著)

    1973年 初刊 (株)新潮社

    2002 4/20 新潮文庫
    2020 6/20 31刷

    2020 9/9 読了

    次回、読書部のネタとして
    宿題に出された「徳川家康」

    まずは家康嫌いとも言われている
    司馬遼太郎の描く徳川家康。

    ぼくの知らない個性的な家康像がここにありました。

    無骨で中世的だと書かれている三河武士。

    裏で糸を引いていたのではないか?
    とも言われいる本能寺の変以降
    秀吉との関わり

    物語と言うより歴史書の色合いが濃い。

    そして下巻では関ヶ原
    大坂夏の陣、冬の陣に続いて行く。

    楽しみ。

  • まずは上巻既読。率直な感想としては家康という人はイメージどおりだなと。よい言い方をすれば慎重。悪い言い方をすれば臆病。配下(武将)には恵まれていた。それも人望と言われればそうなのかもしれないが。どの武将からも一目を置かれている武田信玄がもし病死しなければ歴史はどう変わっていたのだろうか・・。

  • 司馬遼太郎ならではの徳川家康の話。
    覇王の家、というタイトルとちょっと印象が違いますが~面白く読めました。

    三河の小さな大名の子に生まれた家康。
    今川に人質に出されている間に父は亡くなり、不在のまま跡を継ぐが、実質的には領国を支配できない。
    三河の人々はそれに耐え、気の毒な若君を思い続けたという。
    実直でやや排他的だが、一丸となって戦う三河武士。
    もともと農民である分、地縁に恵まれた関係だったという。
    尾張は都会なので、気風が違うのだそう。
    織田信長はもちろん、身分の低い出の豊臣秀吉でさえ、ずっと合理主義者だったのはそのせいだという考察が説得力あります。

    家康は信長よりも武田信玄のほうに親近感を抱いて尊敬していた形跡があるそう。
    そういわれれば‥
    織田信長には正妻と長男を殺すように命じられたしね。
    しかし、この件については、妻の築山殿のことをえらく悪く書いていて、何か資料もあるのでしょうが、作者の嫌いなタイプだったの?
    長男も猛々しすぎて家臣の信頼を失った経緯があるそう。

    家康自身は戦った相手のほとんどを許し、反乱を起こした家臣も降伏すればそのまま許し、戦国大名には珍しく?誰かを謀略によって殺したこともない。
    自分で手を下して誰かを殺したことは一度もないほどらしい。
    さすが、「鳴くまで待とうホトトギス」?
    家康は最初から天下を望んだのではないでしょうね。

    大河ドラマ「真田丸」が始まる頃に、予習のひとつとして読みました。
    あまり真田について詳しくなりすぎても、かえって文句言いたくなるかもと思って、この辺から。
    本能寺の変の後の伊賀の山越えの話など詳しく書いてあり、ドラマではほとんどスルーの小牧長久手の戦いも詳しかったので、ちょうど良かったです☆

  •  家康は信玄・謙信・信長・秀吉のような合戦の天才ではなかった。戦に負けること多数、三方原では脱糞しながら敗走。ただ、自分が凡庸とわかっていたから、敗戦から多くを学び、天才にはわからない凡庸な人間の気持ちもよくわかったのではないか。だからこそ凡庸な世継ぎが生まれた場合の世襲対策を強固に構築したのではないか。
     家康は忍耐の天才であった。大国に挟まれた彼は幼少期から人質生活、合戦では今川・織田の最前線における酷使に耐えた。
     人生の前半は愚直さと朴訥さが印象的であった。織田家の東方の壁として武田を抑え続け、織田の西方進出を助けた。調略を覚える後半・第二巻が楽しみだ。
     家康でさえ、何度となく錯乱して我を失うことがあるんだ。

  • 『古今東西の良き例をまねるゆえ、一つ癖に陥ることがない』
    『天才ではない者は己の知を張り出さずひとの良きものを学ぶ』
    『幾つかの解釈が族党内の知恵者のあいだで百出することを好む』

    まさに、平凡な者が大成するためにまねるべき人物なのだろう。

  • 司馬遼太郎の本は、いつもひとつの事柄から、違った方向にひろがっていったり、例え話をいれてくれたりしてわかりやすく、おもしろいです。本作は、大河を見て家康をもう少し知りたくなり読んでみました。三河衆の忠誠心の強さ、今川衆や織田衆の三河衆の見下し、信長より信玄の生き方を参考にしたこと、三河物語は大久保彦左衛門のひがみが書き込まれていること、信康が長篠の決戦前での退却戦で殿をつとめたことなど色々知ることができました。いちばんは、築山殿の話。10歳も家康より年上で、多淫であること、ヒステリックであることなどは大河で有村架純演じたものとは全く違い、私はどちらかというとこの作品のイメージでしたが、本来はどちらなんでしょうかな~と考えてしまいました。後半は、義理の叔父にあたる酒井忠次とのやりとりにも驚かされました。信康の非常識な行動からしたら仕方ないのかと思いますが、当時は当たり前のことなんでしょうかね。信長との同盟関係を20年続け、チャンスや恨みもあったろうに、ただの1度も裏切ることもなかったのも、辛抱強いとおもいました。長篠の戦いの後の勝頼との戦いは、色々テレビやら本やら読んでもあまり描かれておらず興味深かったです。勝頼は戦には、強かったが、内政をおろそかにしたこと、北条との同盟を破棄して、上杉と同盟したことなどが、衰退につながっていくことなどは始めて知りました。また、家康も本能寺の変後は強大な勢力である北条と敵対するが、暗愚の氏直と戦離れしている北条軍の弱さを見抜いていたことなどもすごいなと思いました。下巻も楽しみです。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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