覇王の家 (下) (新潮文庫)

  • 新潮社 (2002年4月30日発売)
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  • 本 ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101152394

感想・レビュー・書評

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  •  小牧・長久手の戦いで秀吉を事実上破った家康から晩年の家康までを描き、家康の本質に迫る。

     信長や秀吉に比べると、英雄的な魅力が感じられない家康ですが、この作品を読んでその理由がさらにわかった気がします。

     同時に自分に置き換えてみると、家康のようにあるべきなのではないかと思う自分がいました。

     司馬史観でとらえた家康像のように、自分を客観視しながら自分をあるべき姿に行動させること、それはそれで人としての大きな力になるのではないかと考えさせられました。

     また、家康の配下の武将の運命からは、人生の岐路でどう歩むのかが大切であることも感じました。

  •  革新や創造を悪として前例踏襲の安定を善とする徳川政権が、いかにして出来上がったかを創業者である徳川家康に焦点を当てて論じており非常に分かりやすい。徳川政権の鎖国や重農主義等が270年の平和をもたらしたのか、停滞をもたらしたのかでその功罪が議論されるが、日本が停滞する中で保守的な徳川政権よりも革新的な織田豊臣政権への評価が高まっているように感じる。本著において徳川は功利的ではないが組織の安定に重きを置いて風通しが悪く、織田豊臣は功利的であるが風通しが良く発展性があるように書かれており、昭和の時代に調和を重んじて上手くいっていた社会が、功利的なグローバル社会に負けて価値観が変わってきた現代に本書を読むことで、示唆的なものを感じ司馬遼太郎の底深さを感じた。

  • 【感想】
    「徳川家康って本当に変人だな」という感想に尽きる。
    勿論センスも良いし、勇敢だし、家臣に対するマネジメントや信頼感などはずば抜けたものがある。
    ただ、終生自身を客観視できるという点において、こんな人間がいるのかと仰天した。
    もしかすると、彼は心の底では自分以外だれ一人として信じていなかったのではないかなとも推察できた。

    また、三河の人間の閉鎖的性質や、言葉は悪いが「ネクラ」な点は、読んでいる分には面白かったが、自分の近くにこんな人達がいたら絶対に嫌だなと思った。笑

    なにはともあれ、徳川家康は戦国時代を終着させ、300年近く続いた江戸幕府を創り上げた偉大な人物であるであるという事実には変わりない。
    晩年、というか死没間近になっても、後世のことを考えて、色々な手筈を打つあたり、やはり家康は只者ではないなと思った。



    【あらすじ】
    戦国時代の混沌の中から「覇王の家」を築き上げた家康の、勝者の条件とはいったい何だったのか……。
    小牧・長久手の戦いで、時の覇者秀吉を事実上破った徳川家康。
    その原動力は、三河武士団という忠誠心の異常に強い集団の存在にあった。
    信長や秀吉とは異なる家康の捕らえがたい性格を、三河の風土の中に探り、徳川三百年の精神的支柱を明かしつつ、日本人の民族性の謎にまで迫る。


    【内容まとめ】
    1.地上にいるなまの人間とは思えないほど、この男は自分の存在を抽象的なものにしようとしていた。
    彼には自己が無さそうで、自己まで客体化され、監視され、運営されていた。
    創造力ももたず、天才でもなかったこの人物が、乱世のなかで多くの天才たちと戦ってゆくには、こういう自分を創り出すほか手がなかった。

    2.世におそろしいのは、勇者ではなく臆病者
    家康にすれば敵に城を奪われたことより、味方の信雄のほうがこわい。

    3.家康がその前半生において時々見せてきた絶望的な思いきりについて。
    元来は利害計算がたくましく、頭脳はつねに計算で旋回したが、しかし利害計算も及ばぬ絶体絶命の極所に立ち至ったとき、少年のように初々しい自尊心と、果敢な勇気を見せる。
    家康という男をこの戦乱の世間につなぎとめている最大の要素は、過去において彼が発揮した賭博とも言い難い、絶望的で自暴自棄に近い行動であった。

    4.「愚かなことを言う者があっても、しまいまで聴いてやらねばならない。でなければ、聴くに値することを言う者が遠慮をするからだ。」
    家康は口数の少ない男だったが、ひとの話は全身を耳にするような態度で聴いた。
    どんな愚論でも、辛抱強く聴いた。

    5.家康は最後の最後まで忠実で世知らずの三河者こために心を砕いて指示を与え、ついには残らず指示をしきった。
    偉業は生前もさることながら、原理と原則を残す事によって死後3世紀ちかくも続かしめたその政権のほうにむしろ重みがある。


    【引用】
    p5
    徳川家康というのは虚空にいる。
    地上にいるなまの人間とは思えないほど、この男は自分の存在を抽象的なものにしようとしていた。
    彼には自己が無さそうで、自己まで客体化され、監視され、運営されていた。

    本来、どれほどの創造力ももたず、むろん天才でもなかったこの人物が、この乱世のなかで多くの天才たちと戦ってゆくには、こういう自分を創り出すほか手がなかったかもしれなかった。

    「素知らぬ体(てい)」という奇妙な態度を生涯つづけた。
    家臣に対して怨恨や憎悪、偏愛や過褒、猜疑を持たず、自己を守るために自己を無私にするという異常人であった。


    p60
    (世におそろしいのは、勇者ではなく臆病者だ。)
    家康にすれば敵に城を奪われたことより、味方の信雄のほうがこわい。
    へたへたと腰が砕ければ、なにを仕出かすかわからない。
    「敵は大軍、当然ながら驕っております。驕れば必ず破れが出るのが当然。そこへ巨細なく目を配り、砕けたとあればすかさず付け入って一仕事いたしますゆえ、ご安心あれ。」


    p110
    ・長久手の戦いにて
    秀吉軍は、池田勝入斎が悪ねだりをした「中入り」という機動作戦のせいで潰乱した。
    家康は、彼の半生のなかでもほとんど記録的な大勝をおさめた。


    p178
    秀吉のためらいは、かれの失策ではなくその事情によるものであった。
    秀吉の下は、寄合い世帯でしかない。
    もしこの同じ戦術的局面で、上杉謙信や武田信玄が秀吉の立場であったとすれば、一大突撃を敢行したであろう。
    彼らの軍団の中核は家の子・郎党であり、主将が打つ鉦や太鼓の合図に忠実であった。
    が、秀吉にはそれができない。


    p196
    まずい、と家康は新しい局面に立ったときに常に持つ恐怖心をこのときも持った。
    家康は信雄という同盟者を失っただけでなく、信雄が秀吉と和睦した以上、秀吉・信雄軍を敵にせざるを得なくなる。

    「殿も信雄さま同様、羽柴と講和なされますか?」酒井忠次が妙案のようにそう言ったが、
    「おれは、せぬ」と言い切った。

    理由はなかった。
    家康がその前半生において時々見せてきた絶望的な思いきりがこのときにも現れた。
    家康は元来が利害計算のたくましい男であり、その頭脳はつねにその計算で旋回したが、しかし利害計算も及ばぬ絶体絶命の極所に立ち至ったとき、この男は少年のように初々しい自尊心と、果敢な勇気を見せるのである。

    いずれにしても家康という男をこの戦乱の世間につなぎとめている最大の要素は、過去において彼が発揮した賭博とも言い難い、絶望的で自暴自棄に近い行動であった。


    p209
    「愚かなことを言う者があっても、しまいまで聴いてやらねばならない。でなければ、聴くに値することを言う者が遠慮をするからだ。」
    家康は口数の少ない男だったが、ひとの話は全身を耳にするような態度で聴いた。
    どんな愚論でも、辛抱強く聴いた。


    p255
    家康は大坂夏の陣を終えて豊臣家を滅ぼしたあと、その翌年に齢74歳で死ぬ。
    晩年まで健康だったのは、色情を抑えて他の方法で気分を晴れさせていたからである。


    p260
    家康は医師がいかに頼みがたいものであるかを知っていた。
    頼みがたい以上は、家康は自らが医者となって自ら健康を守ろうとし、日本中の医書を取り寄せ、さらには製薬法も学び、衛生や健康法も自ら工夫した。

    梅毒の危険性を早々に見抜いて生涯において一度も遊女を近づけなかったり、スポーツが体を守るということを東洋において最初に知って実行していた。


    p275
    臨終までの数日間、医師がいかに薬をすすめても、一切服用しようとしなかった。
    家康が一個の悟りに達していたというよりも、元来がそういう男であった。
    彼は自分という存在を若い頃から抽象化し、自然人というよりも法人であるかのように規定し、いかなる場合でも自己を一種放下したかたちで外界を見、判断し、動いてきた。
    自分の健康についても、まるでそれが客観物であるかのように管理し、与えるべき指示を彼自身が冷静に与えていた。

    どうみても英傑の風姿をもたず、外貌と日常もそしえ才能もごく尋常な人物でしかないこの男が、その深部において際立って尋常人と異なっているところはこの一点であり、この一点でしかなかった。


    p284
    家康は最後の最後まで忠実で世知らずの三河者こために心を砕いて指示を与え、ついには残らず指示をしきった。
    家康は偉業は生前もさることながら、原理と原則を残す事によって死後3世紀ちかくも続かしめたその政権のほうにむしろ重みがある。

  • とても面白かった。下巻を見てもやっぱり家康だった。気になったのは石川数正。恥ずかしながら、秀吉に降ったことを知らなかった。徳川的閉鎖体制の犠牲者。まさにその通りだと思う。
    あとがきで司馬遼太郎さんが家康を「かれの生涯は独創というものがほとんどなかった」と書いている。彼らしいですね。

  • 「覇王の家 下」 司馬遼太郎(著)

    1973年 初刊 (株)新潮社

    2002 4/20 新潮文庫
    2020 6/20 31刷

    2020 9/12 読了

    ん?ん?
    関ヶ原も大坂の陣も出てきませんでした^^;

    その辺りを題材にしたお話を司馬遼太郎は書いてるから当然なんだろうけど^^;

    この下巻では
    小牧、長久手の戦を中心に家臣との繋がりから三河武士という特殊な集団と

    家康という摩訶不思議な人物像が描きだされています。

    閉鎖的で慎重な気風の一豪族が天下を治めたこの270年続く江戸幕府の功罪については
    あとがきに書かれていて興味深いです。

    もし秀吉の世が続いていたなら
    今の世界地図は大きく変わってただろうなぁ…

    読書部会まで徳川家康について
    もうひと作品読んどくべきだろうな。

  • 下巻は、ほとんどが小牧・長久手の戦だけでした。一番最後に家康の死に際をやりました。それ以外は、小牧・長久手で活躍した武将(安藤直次、本多忠勝、石川数正など)について細かく記してくれていました。
    小牧・長久手の戦いの前に、織田信雄の家老3人がすでに秀吉に籠絡されており、戦う前から家老が処分され大打撃を受けながらも、家康は池田勝入斎や森武蔵守長可の中入りを撃破するなど勝利を手に入れる。
    秀吉側は、勢いに乗る軍勢ではあるが、ぐらぐらな城壁のような状態で、まだ安定していない。このため、命令を聞かず、半分押し切られる感じで、岡崎への中入りを許してしまう。また、西の勢力の島津や長宗我部がいつ軍勢を向けるかも知れず、不安は山積していた。
    一方、家康側は三河衆の結束力の強さがあり、これが勝利への最大の力だったのが伺えます。また、三河衆の忠誠心の強さや欲のなさにも感服しました。
    しかしながら、この雰囲気が閉鎖的であり、時に他者を排除するほうへ働いてしまう。石川数正の出奔もそこに由来したようである。
    家康は、乗馬が上手であったが、決して無茶はせず、医者を信頼せず薬の調合なども自分でやり、遊女には梅毒を警戒し、絶対に手を出さなかったりといろいろ注意していた。こういう細かなことが、長寿に繋がり天下統一や後の徳川家の繁栄に繋がったんだと思う。
    晩年家康が、藤堂高虎を徹底的に信頼していたことははじめて知りました。

  • 主に豊臣政権になるまでを丁寧に描かれており、そこからいきなり晩年になってしまったのでちょっと残念。
    小牧長久手の戦いについてあまり知らなかったので興味深かった。
    あとやっぱり著者の描かれ方にもよるけど魅力的な人物ではない(笑)

  • 家康は自分を1つの機能を持つ器(箱)として見ることで、自分を究極的に客観視していたとする司馬遼太郎の見解が面白い。
    自らが凡庸であることを知り抜いて、三河人のため滅私の精神を貫いた。
    三河人もまた愚直に滅私の精神を貫いた。
    江戸時代300年を通じて、内向的であるが団結した時は恐ろしい力を発揮する三河人の気質が日本人のベースになったのでは感じる。

  • 長い間下巻を借りれず、やっと読めた。
    薄い本だけど、内容は家康の若い時から小牧長久手あたりまで、そこから一気にとんで亡くなる直前のはなし、関ヶ原とか大阪の陣は他の本があるからいいのか、一気に家康の人生を駆け抜けた気がする。
    泣かぬなら、泣くまで待とうホトトギス
    この句に表されるように、辛抱強く待つ、待ってるように振る舞ってるけど、忠臣の部下たちが動き回っている、そして待って勝つ。
    ある種の組織としてはいい、形だったのどはないか、と思う。

  • 三英傑の中では一番馴染みのなかった家康さん。
    江戸250年の基礎がここにあったのかと納得でした。
    大河ドラマがより楽しく見ることができそうです。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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