道ありき 青春篇 (新潮文庫)

  • 新潮社
3.84
  • (143)
  • (97)
  • (165)
  • (18)
  • (3)
本棚登録 : 1339
感想 : 132
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101162027

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 著者の自伝小説。

    教師時代からお話は始まるが、綾子氏も熱心な教師であったことが覗える。
    折しも時代は戦中、戦後の動乱期。そんななか、敗戦した日本はアメリカの指示の元、綾子氏が教えていた国定教科書の至る所に墨を入れ、修正させる場面がある。

    生徒は黙々と墨をすり、修正箇所に黒く修正をいれる。その姿を見るに絶えず、“わたしはもう教壇に立つ資格はない。近い将来に一日も早く、教師をやめよう”とある。

    ここに時代背景を感じるが、それ以上に綾子氏の意思の硬さに驚きを隠しきれない。

    自身が情熱を傾けていた七年間は何だったのか?日本が間違っていたのか、もしくはアメリカがおかしいのか?一体何が正しいのか?
    生徒を想うばかり葛藤し、間違ったことを純粋な生徒に教えてきてしまった自身が許せない、ならば潔く教壇から退こう。

    熱心で慕われていた綾子先生像が目に浮かぶようです。その当時でも、誰も彼もが就ける仕事でもないものを、キッパリ断つ。なかなか出来る代物でもない。

    そしてその後まもなく肺結核を患い、十三年間に渡る長き闘病生活が始まる。

    闘病生活の間に師や療友、前川正や三浦光世、キリストの教えと出会う。

    失意の底を経験したからこその神の教え、ここらへんは少し共感し難いものに感じたが、著者は様々な人に出会い、そして別れ、苦悶し葛藤し尽くした結果の洗礼。それは大いに素晴らしいことだと思った。

    これはこれで良いお話ではあったが、個人的には物語を通じて三浦綾子を知る方が好きだ。
    自伝ともなれば、どうしてもキリスト色が濃厚となり、少しとっつきにくいところではある。

    しかしながら、著者の生い立ちあっての物語。
    残りの第二部、第三部も日を改めて追ってみることにします。

  • 解説より"著者は「旧約聖書」をはじめて読んだときの驚きを「度肝を抜かれた」と回想している"が、私こそこの本を読んで度肝を抜かれた。
    何度鳥肌が立ち、何度涙し、何度感情を揺さぶられた事か。

    このまるで映画のような人生を経験し、こうして書き記してくださった三浦綾子に、彼女が出会ってきた愛ある人たちに、そしてこの本に出会えたことに。思わず祈らずにはいられなかった。

  • 久々の三浦綾子。塩狩峠、氷点・続氷点とかなり間隔が開いてしまった。何気なく図書館で手に取ったが、これは凄く良い本だった。今年のベスト3に入るだろう。
    "わたしの心の歴史"として書かれたもので、自分と誠実に向き合った証拠だと思う。初めの何とも言いようのない厭世的な不安定さ、長い闘病生活の始まり。その中で絶望の淵に立っていた綾子さんだが、前川正さんの愛情、キリスト教との出会いから、自分を支えてくれるものの存在に気付いていく。
    生きるに大切なことを恵みの雨のように無償に、何度も伝えてくれた正さん。綾子さんの過去と現在と未来を、命ある限り思いやった正さん。その愛を綾子さんがしっかりと受け止められるようになったのも正さんの力だと思う。
    前川正さんの愛の深さが言葉にできない…。それが文章になって読めることがただただ奇跡とさえ思う。
    本当に人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだ、という考えがとても新鮮だった。
    クリスチャンではないわたしが、とても感動した本。いま生きることに希望を見出せない人にこそ読んでほしい。読んだら人生変わる気がする。オススメ。
    171114読了。

  •  三浦綾子については、長い闘病生活の後『氷点』でベストセラー作家と話題になったし、小説もいくつか読んでいる。でも、ちょっときついなーという印象が残っている。

     そんな先入観があって読んだからか、悪印象ではないけれどやはりたじたじとなった。

     絶望的な事が起こっても打ち開いていくその強さに、圧倒されっぱなしだった。打ちのめされたと言ってもいい。それでなければ13年間にも及ぶ闘病生活を乗りきれなかったのだろうが。

     キリスト教に目覚めていくのだけれど、はじめは疑っている、その様子が尋常でない様に思えた。すべての事象に強く強く反応する気質がすごい。それが信仰に繋がるのだろうとしても。 

     他者との交流も一筋縄ではない。すなわち恋人、親友、友人らのかかわりかたが、わたしには出来ない!わからない!と引いてしまうほど絆が深く激しい。 しかし、次々といい関係になっていくのは何ゆえか、やはり魅力が(外見とか媚びるとかではなく)あるのに違いない。

     真摯な姿には畏れ入る、感動というのにはあまりにも強すぎて、わたしは疲れてしまったよ、というのが本音。

  • 10年以上、折に触れて読み返している。
    内容は重たいが、深く悩んだ時や落ち込んだ時に読み返すと孤独が紛れる。閉塞感や低調なテンションの語り口が寄り添ってくれることもある。
    誰かを愛するとは、誰かが自立して生きていけるようにすることだという言葉が印象的であった。

  • 妹の本棚で、「道ありき」が目に留まり読んだ。読み進めていくうちに、この一日をこの本に使う価値があると感じ、二周した。
    虚無感で一人残されていることに嫌な感じを抱かなかった頃から神を信じクリスチャンになるまでのことが書かれている。
    私は、洗礼を受けていない。けれども、信じているからクリスチャンである。ただ、最近は求めていた道ではない道を歩いており、毎日のように枕を濡らしている。だから、綾子の考えを理解しやすかった。一度、信仰を持てたからといってそれで終わりではない。神様は、私の信仰が育つように、人を与えてくださる。それは、友人であったり、恋人であったり、はたまた思いがけない人であるかもしれない。人を通して、イエス様の十字架の意味を知る。その人の信仰や愛を見て、与えられている愛がどれほど大きいのかを知る。思い返せば、必要な時に必要な人が与えられていた。人は弱い。弱いから、まずは神様から愛されるだけで大丈夫。完璧を目指さなくて大丈夫。今日、信仰があるのかだけでいい。今日、信じることを貫く信仰を持ちたい。


    心に残った綾子と正の言葉

    「綾ちゃんの今の生き方がいいとはぼくには思えませんね。今の綾ちゃんの生き方は、あまりに惨め過ぎますよ。自分をもっと大切にする生き方を見いださなくては…」

    「結局は、人間は死んでいく虚しい存在なのに、またしても何かを信じようとするのは、愚かだと思った。しかし、わたしはあえて愚かになってもいいと思った。丘の上で、吾とわが身を打ちつけた前川正の、わたしへの愛だけは、信じなければならないと思った。もし信ずることができなければ、それは、わたしという人間の、ほんとうの終わりのような気がしたのである。」

    「わたしはあの夜まで、自分自身が虚無的であったにせよ、それはそれなりにやはり人生に対してまじめだと思っていた。まじめだからこそ、絶望的になることができたのだと思っていた。だが、それは自分の間違いであることに気づいたのだ。気づかせてくれたのは、あの丘の上の前川正の姿であった。〜自らの足を石で打ちつけた彼の姿を思ったとき、真剣とはあのような姿のことを言うのだとわたしは気づいたのである。真剣とは、人のために生きる時にのみ使われる言葉でなければならないと、思ったのである。そう考えると、わたしは自分の生き方がどこか中心を外れた生き方のように思うようになった。」

    「信頼されているということが、どんなに恐ろしいことかを、この教師は知らなかったのだ。」

    「綾ちゃん、生きるということは、ぼくたち人間の権利ではなくて、義務なのですよ。義務というのは、読んでの字のとおり、ただしいつとめなのですよ。」

    「ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだと思った。〜神に頼ることを決心するのですね。」

  • 三浦綾子が、キリスト教に入信するまでの話。闘病生活の中でもすごく生きている感じがある。
    とても魅力的な女性だと思った。ちなみにこの本は韓国人の方から頂きました。

  • (09.29.2016)

    毎日少しずつ読んでいたのだが、100頁から最後まで一気に読み終えてしまった。自分もクリスチャンだからかもしれないが、完全に感情移入してしまった。三浦綾子氏にとっての前川正氏や三浦光世氏がそうだったように、神様は必ず誰かを通して働かれる。ある人との交わりを通して自分の弱さや罪に気づき、神様に出会うのである。

    三浦綾子氏の人間味溢れる文章が好きだ。神様を信じますと言いながらも、情けないことに時に心配や不安から完全に信じ切れない時がある。三浦綾子氏の本を読むと、それが人間の姿だと毎回励まされる。自分の弱さと闘いながら、自分なりの信仰生活を送っていこうとこの本を読みながら強く思った。

    クリスチャンじゃない人の心にも響く本ではないかと思う。人生に絶望している人、本当の愛を知りたい人に特にオススメの一冊。

  • もともと気になっていた三浦さんだが「母」きっかけで一気に自伝まで。戦中の教員としての経歴から教科書墨塗りをへて、キリスト教に出会ったという大まかな経歴は知ってはいたが、現代の私たちには想像のできない闘病の凄まじさ。その中で、自身は妖婦だと書かれているが、友人がひっきりなしに見舞いに来る三浦さん、きっと話も人柄も魅力的だったのだろうなあ。そんな自暴自棄で、そして傍目に自由奔放な彼女が求道者としてキリスト教と向き合い、洗礼を受け、前川正との別れを経て三浦光世と出会うまでを描いている。

  • 偶々出くわした小説が興味深く、「同じ作者による他の作品」と幾つかの作品を紐解く中で出会った作品である。なかなかに興味深く拝読した小説である。
    「小説」というモノは、作者が自由自在に想像の翼を羽ばたかせて綴るモノであろう。作者本人の経験や見聞、人生と然程関連が無くても何らの支障もない。それでも、場合によっては作者本人の人生が色濃く反映される小説というモノも登場する。
    三浦綾子作品に関しては、丁寧に取材をして様々な人達の話しを参考にしながら綴られている作品が見受けられると感じられる他方、御自身の人生の中での経験や、考えて来た事柄等が色濃く反映されていると想像させる面も大きいように感じる。小説家として登場した当初から、活躍を続ける中、晩年近くに発表されている作品に至る迄、一貫して「取材成果」と「御自身の人生の中での経験や考察」とを巧みに織り交ぜるような感じで作品を綴り続けたのではないかと、一読者としては思う。
    本作『道ありき(青春編)』は三浦綾子の「自伝」と言われている。戦前に勤めていた小学校教員の仕事を辞めた戦後間もなくの頃、病を得てしまって療養生活に入ることとなる。長く療養生活を続けるという中で、幾つかの出会いや別れが在って、やがて結婚に至ったという経過は知られている。本作もそうした、少し知られた経過の物語である。
    が、それでも作者自身の「自伝」というよりも、「小説家として少し知られるようになった主人公の“堀田綾子”が来し方を回顧する物語」というような、「純粋な小説」という感覚で読んだ。そういうように「読まされた」と言い換える方が妥当かもしれない。
    小説によく在るような感じで「堀田綾子は…」というような叙述が早目な段階に出て来るのでも何でもなく、「私」という第一人称での語り、「御自身の心の移ろい」を一部に旧い記録等も少し引っ繰り返しながら綴っている。眼前の他の人から「綾ちゃん」、「綾子さん」、「堀田さん」という程度に呼ばれている描写が出て来ることから、綴られている物語、読み進めている物語の主人公が「堀田綾子」と知れる訳である。本作の最終盤で結婚し、「三浦綾子」となるのである。
    20歳代から30歳代の通算13年間程を療養に費やしたというのは、凄く特異かもしれない人生のようにも思う。その中の概ね半分程度は、症状の関係で自由に身体を動かせない羽目で、御手洗を使う、食事を摂るという動作にさえ不便していたのだという。そういう中、不自由さを呪うというようなことに終始する、または不運であると何もかも諦めるということではなく、出逢った人達との交流の中に様々な可能性を拓こうとするような様子に心動かされる。更に、周辺で「誰が何と言おうと…」という感じで「堀田綾子」を支えようとする人達の様子にも驚かされる。
    本作の物語は、昭和20年代、昭和30年代を背景としている。当然ながら、その様々な状況は現在とは大きく異なる。それでも、苦難を嘆く、呪うに終始しない生き様、苦難の中に在る人を何とか支えようとする人の様というのは、時代や場所を超えて心揺さぶるモノが在ると思った。
    三浦綾子作品の多くは長く読み継がれて「古典」という存在感を放っていると思う。本作もそうした「古典」の一つに上げなければならないであろう。

全132件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1922年4月、北海道旭川市生まれ。1959年、三浦光世と結婚。1964年、朝日新聞の1000万円懸賞小説に『氷点』で入選し作家活動に入る。その後も『塩狩峠』『道ありき』『泥流地帯』『母』『銃口』など数多くの小説、エッセイ等を発表した。1998年、旭川市に三浦綾子記念文学館が開館。1999年10月、逝去。

「2023年 『横書き・総ルビ 氷点(下)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

三浦綾子の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×