- Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101162065
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
大正時代の北海道開拓民の部落。父は亡くなり、母は都会へ出稼中の拓一と耕作の兄弟は貧しさに耐えながらも、正しく生きようとする。
貧しさがこれほど憎く感じられる小説は他にないだろう。夢も才能もある兄弟だが、ことあるごとに貧困が彼らの足を引っ張る。彼らにも必ずいいことがあるはずと、応援せずにはいられない。
兄弟のささやかな夢は母と暮らして親孝行をするということ、教師として認められること、思いを抱く人と結ばれること。そのために誠実に生き続ける彼らだが、大自然はそんな希望を残酷にも打ち砕く。
真面目に、一生懸命に、人のために生きるのは無駄なことなのか。人生とは、こんなにもうまくいかないもので、それでも生きなければならないのか。そんな虚しさ、やり切れなさが読後感を占める。
続編があるらしいが、彼らは幸せになってほしい。 -
誰かが話題にした本が記憶に残り、気になって入手して紐解き、その本との出会いが善かったと思える場合というものが在ると思う。本作はそういう、話しを聞いて気になったという切っ掛けで出会った。そして読後に、本との出会いが善かったと余韻に浸っている。
少し長く読み継がれていて、これからも読み継がれていくであろう作品、或る意味で「古典」という趣も在る作品だと思う。
本作は上富良野町(作中の時代は上富良野村)を舞台とする物語で、実際の大きな災害の頃のことに題材を求めている。この作品を知る切っ掛けとなったのは、上富良野町の隣りである美瑛町を訪ねた経験だった。
美瑛町を訪ねて、景色を愛で、写真を撮るようなことを何度もしている。そういう中、観光協会によるバスツアーに参加して<青い池>や<白髭の滝>を訪ねることも愉しんでいる。バスツアーでは観光協会の方の御案内に耳を傾けるのが面白い。<青い池>が形成された経緯、<白髭の滝>を眺め易い橋が出来た経緯というのは、「十勝岳の噴火」を想定した防災工事ということが契機になっている。そういう話しの中、「大正時代の噴火で大きな被害が生じた経過」ということに言及が在り、その様子が描かれた読み易い小説として本作が話題になる訳である。
話題になる都度、「読んでいない小説だ…」と思い、「機会が在れば…」とも思って記憶に留める。が、「機会」とは「在れば」というモノではない。「設ける」というモノなのだ。そう思って、愈々その「機会を設けてみた」という訳である。
前置きとでもいうような、本作との出会いに纏わる話題で少しばかり文字数は嵩んでしまった。
現在では「大正泥流」というような言い方もするようだが、十勝岳は1926(大正15)年5月25日午後4時17分に噴火による「岩雪崩」という現象を起こしている。噴火時の爆発で山の一部が崩れ、高温の岩が雪崩のようになった。これが「岩雪崩」だ。熱い岩が流れ出て、高い山に残る残雪を溶かしてしまった。そうなると「火山泥流」ということになり、麓に向かって行ったのだ。「火山泥流」は森を破壊し、森の木が夥しい量の流木となり、土砂を取り込みながら、驚くべき速さで辺りを破壊してしまったのだ。
本作は、その「大正泥流」という出来事が起こる迄の一家の物語、そして終盤は出来事の起ったその時と、直後の様子が描かれることになる。
本作の主要視点人物は石村耕作である。耕作には3歳上の兄である拓一が居る。殊に子ども時代はこの兄と行動を共にしていることも多い。そして姉の富が在り、妹の良子が在る。耕作の兄弟姉妹だが、原木切出し作業中に事故で父を失っていた。母は髪結いの仕事を覚えるとして他地域へ出てしまい、兄弟姉妹は祖父母の所で暮らしていた。
物語は耕作の兄弟姉妹と祖父母、叔父や近所の人達、学校の同級生や教師、村の大人達という登場人物で織り上げられる。小学生であった耕作が次第に成長し、曲折を経て19歳の代用教員として村の小学校で勤めるようになる迄という感じの内容だ。
耕作は祖父の薫陶を受けるように育ち、或いは学んだ分教場の教師を慕うが、他方に感心しない大人達という存在も在る。何か響く内容が多く、心動かされながら頁を繰った。時に厳しく、優しさも内包する上富良野の自然の中で、少しずつ拓けて賑わいが出始めている上富良野村の市街の中で展開する物語は、様子が目に浮かぶような描写で引き込まれた。また作中人物達の会話も、自身より年長の人達の話し口調を思い出す「北海道に居る人達!」という風情が溢れて、彼らの声まで聞こえるような気がした。
作中、北海道内の地名が幾つも在る。上富良野村の範囲の地名に関しては位置関係がやや解り悪いが、旭川等に関しては「物語の舞台の大正時代の様子?」と色々と思い浮かんだ。細かいが、嘗ての函館本線の経路であった神居古潭駅というのも出ていて、嘗ての駅舎を再現した建物が在る辺りを訪ねた経過も在ったので何やら面白かった。
本作の終盤が近付く頃、耕作は教員としての路を歩み始め、一家の物語は「新たな章」に入るような様相だった。祖父が上富良野村に入植して畑を開いて暮らしを続けて30年程を経ていた。農地を一家が取得するには至らず、小作農家という立場が変わらず、経済的に豊かではないが、大正15年は穏やかな正月も過ごした。その一家が、大災害に巻き込まれてしまう。終盤は読んでいて涙ぐんでしまう感さえ在る。
作品の底流に「因果応報でもない人の人生」と「如何に向き合うのか?」というようなことが在るように思う。本作の終盤の大災害で、失われた生命も在り、そして生き残った人達が在って、生き残った人達のその後が凄く気になった。
或る意味で「古典」という趣も在る本作に、美瑛で何度も聞いたことが切っ掛けで出会えた。凄く善かったと思う。 -
「おれはな耕作、あのまま泥流の中でおれが死んだとしても、馬鹿臭かったとは思わんぞ。もう一度生れ変ったとしても、おれはやっぱりまじめに生きるつもりだぞ」
どんな理不尽が襲いかかっても拓一は真面目に生き続ける、作中でのその姿勢に何度も感動させられた。
拓一・耕作兄弟と家族の幸せはもうすぐ近くというところで、この災害が起きた。泥流に迷わず飛び込む兄、拓一。厳しい環境で育った男の強さに驚くばかり、本当に昔はこんな感じだったのだろうか。
実際にあった出来事を基にした作品ならではのリアリティーを感じることもできた。迷わず続編も買ったくらいに、拓一・耕作兄弟のこれからの挑戦が気になった。 -
生きるってなんだろう。
幸せってなんだろう。
20年ぶりに再読。
三浦綾子さんの文の力強さよ。
実家の本棚のにおいを感じながら、あたたかさを噛みしめる。
-
愛があふれる家族の生きていく様にとても感動した。
自分のことはおいといて、人のことに一生懸命、って、大切だね。
離れていたお母さんに会えるであろう続編に、さらなる感動を期待したい。 -
ある弁護士がFBで勧めていたことをきっかけに手にした1冊。遠藤周作は何冊も読んだが、三浦綾子は初体験。もしかして最初にして彼女の最高傑作を読んだかもしれない。
特に東日本大震災を体験した今となっては、天災はかくもありきと身をつまされる筆力に脱帽。続泥流地帯とセットで読むべきです。
私がはっとさせられたキリスト教?宗教観は次のとおり。こんないい小説を紹介してくれたある弁護士に感謝!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「なぜ正しい者が貧しい苦難に会わねばならないのか?なぜ悪いことをしてお金を設けて世にはばかっている者は、いま被災に巻き込まれず暮らせているのか?」という問いに対して、
「良いことには良い報いがあるとか(善因善果)、悪いことには悪い報いがあるとか(悪因悪果)、それは人間の願望に過ぎないんだよ。理想に過ぎないんだよ。
悪い奴は亡びてほしい、いい人間は栄えてほしい。そういつもねがっているうちに、悪いことがあれば天罰が下ったとか祟りにあったとか、いいことがあれば精進がよかったとか、人間がそう勝手に思うようになってしまったんだよ。
それもこれも、善行には善い結果が、悪業には悪い結果があってほしいという願いが、そんなことを言わせるようになったんじゃないのかなあ。」 -
4回目の読了。
前回は10年前、その前はまだ学生のころでした。
三浦さんの本を、思春期に手当たり次第に読みました多くの作品に、苛烈な人生の出来事の中で、いかに生きるか、何を思うかが描かれています。
頭の中で、何人分もの人生を生きることができることが読書の面白さである、といわれます。だとすれば、三浦さんは長い間ベッドの上で、何人の人生を厳しく、暖かく世に送りだしたことになります。
困難に負けず、自分の人生を精一杯生きる。
ヒトコトでいえば、大抵の励ましは同じ意味なのかもしれません。でも、ありきたりな言葉で人から慰められても、自分の生きる力にはなり得ないこともあります。
今どきの文庫と比べると活字も小さく、長編で読むのが大変です。
その分、いかに生きるか、自分自身で生きる力を奮い立たせるために、良書です。 -
10年以上前、三浦綾子さんの小説に猛烈にはまった時期があった。で、この小説は今の日本にぴったりだったなあ、と思ったので再読。
善人は苦悩する。まさにこの言葉がぴったり。
貧しい部落で生活する一家がまじめにまじめに日々の営みを繰り返すが、裕福な者たちを肥やしていくだけで自分たちは一向に豊かになれない。
裕福であることが偉いのか?貧しいのはいけないことなのか?
三浦綾子がどの小説においても必ず重要なテーマに掲げる、主人公の善なる苦悩がここでも大々的に繰り広げられる。
正しく生きる人たちは小さな望みさえも、ことごとくあきらめなくてはならない。涙を食いしばって、それでも家族には何でもないんだという顔をして、あきらめる。
望むものを切り捨てて、大事な友人が売られてしまうのもただ見ていることしか出来ない自分の力無さを悔みながらも、それでも家族を思い、明日の正しさを信じて生きる。そんな人々を突然襲った泥流。
神様はいないんだろうか?正しく生きることは間違っているんだろうか?まじめに生きるとは、バカを見ることなんだろうか?
それでも、彼等はやっぱり正しく生きることしか出来ない。
だから、善人はすごいんだと思う。 -
三浦綾子は神。まだ外れに出会ったことない。
著者プロフィール
三浦綾子の作品






この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。





