続 泥流地帯 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101162072

感想・レビュー・書評

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  • どんな理不尽が襲い掛かってきても、真面目に生きることで道は開けることを証明して見せた続編。
    拓一・耕作兄弟は、祖父母、姉、妹、田畑を失った。それでも折れず、先祖が汗水流して開拓した土地をまた作物が育つような田畑にしたいという一心で、真っ直ぐ生きる彼らに勇気をもらった。
    前作とは違い、拓一・耕作兄弟にとって唯一の近くにいる身内といってもよい修平叔父が出てくるたびに息が詰まる思いだった。
    「因果応報は人間の理想だよな」耕作の放ったこの言葉がこの作品の最大のテーマと言ってもいいと思う。

  • 純粋でまっすぐな気持ちで生きることは、本当に尊いですね。信じる教えを心に持って生きている人、なんか良いなぁ。

    3・11から10年。
    泥からの復興を目指すこの続編も含めて読むことをおすすめします。

  • 前作「泥流地帯」で、北海道の十勝岳が噴火。拓一と耕作兄弟は一瞬にして祖父母、姉、妹、そして田畑を失う。貧しくとも真実に生きてきた彼らに与えられた結果がこの報い。折れそうな心を懸命に立て直そうとする耕作だが、復興に取り組んだところで、またも裏切られるのではないかという疑問は消えない。

    若い頃の苦労が大事なのは今も昔も変わらない。それはわかっているんだけど、誰もがこの兄弟ほど真面目に生きられるのか。苦労は報われないこともあることを理解し、納得できるのか。考えれば考えるほど、人生は理不尽だと思う。

    本作品では、復興に取り組む村民の中で悪事に走る者もいれば、宗教にすがる者も登場する。そんな様々な人間模様が描かれつつ、耕作たち家族にかすかな希望が見えたところで幕を閉じる。

    おそらく、その希望も一瞬で、さらなる苦難が待ち構えているんだろう。真面目に生きていればいいことがある、なんて単純なことを作者は語らない。じゃあ、どんな生き方が正しいのか。そんな作者の問いかけに考えさせられる。

  • 興味深く読んで愉しんだ小説の「続篇」ということであれば、手に取らない訳にも行かない。手にしてゆっくりと愉しんだ。そして凄く善かった。
    話を聴いて興味を抱き、「機会が在れば読みたい」と思った小説に『泥流地帯』が在る。が、「機会」というのはは「在れば」という性質でもないのだと思う。「機会」とは「設ける」というモノなのだ。そう思って、愈々その「機会を設けてみた」という訳で『泥流地帯』を読み、作中人物達の「その後?」と思った。その「その後」が綴られるのが、この『続 泥流地帯』である。
    『泥流地帯』の初出は1976年の新聞連載だ。『続 泥流地帯』は1978年の新聞連載が初出である。両作品は、新聞連載の翌年に単行本として登場し、数年後からは文庫本として送り出され、現在に至る迄読み継がれている。今後も読み継がれることであろう。そういうことで「古典」という存在感が在る作品だ。
    北海道の上富良野町では、十勝岳の噴火に纏わる災害の記憶が伝えられているのだが、その中でも1926(大正15)年5月25日午後4時17分の噴火に関連する所謂「大正泥流」は強烈な出来事である。144名の死者・不明者が生じている、噴火時に高温の岩が崩れ、夥しい残雪が融けて濁流となった。「火山泥流」ということになる。「火山泥流」は森を破壊し、森の木が夥しい量の流木となり、土砂を取り込みながら、驚くべき速さで辺りを破壊してしまったのだ。本作でも「とんぼ返りをしながら流れる大きな流木」という表現が作中人物達の記憶に在る様子として描写されるが、「破壊の奔流」という様子が発生したことが想像される。
    『泥流地帯』では、その大災害が発生する迄、そして発生直後迄の主人公や周辺の人々の人生が描かれる。言わば「“その時”迄…」という物語ということになる。読後、大災害で、失われた生命も在り、そして生き残った人達が在って、生き残った人達のその後が凄く気になった。「生き残った人達のその後」が本作で活写されている。逆に言えば、「大正泥流」に纏わる物語ということで「“その時”迄」の主人公達の様子、“その時”の有様という『泥流地帯』に対し、「その後」が描かれるのが本作だ。或いは「長篇の上下巻」として両作品は最初から構想されていたのかもしれない。否、読了した『泥流地帯』が上巻で、本作が下巻という程度に理解するのが寧ろ自然だ。未読の皆様に向けては、本作は「上下巻の長篇」とでも御紹介するのが、寧ろ親切かもしれない。
    本作の物語は、1926(大正15)年の7月から起こる。5月の災害の後、144名に死者、不明者という事態と、泥流での破壊という事態の中に在った上富良野村で「村葬」ということで犠牲者を追悼する催しというような辺りから「続」の物語は起っている。
    『泥流地帯』から引き続き、本作も主人公は石村耕作である。若い小学校の代用教員だ。耕作の3歳上の兄である拓一は、「母さんに孝行してくれ!」と、決死の覚悟で祖父母や妹を援けようと奮戦するが果たせなかった。そして生き残った。兄弟の父が事故死した後、色々な事情が在って他地域に出ていた母の佐枝は、愈々上富良野に戻ろうということになっていたのだが、その直前に大災害ということになった。結果的に耕作と兄の拓一、2人の母である佐枝の3人家族が生きて行くこととなる。
    耕作の兄である拓一は、祖父やその世代の人達が懸命に拓き、30年程も頑張って造った豊かな農地が災害で損なわれたにしても、何とか復興しようと愚直な迄に懸命になっている。耕作は、本当にそれで善いのかという目線も持っている。災害後には、他地域へ出て再出発を期そうという人達も多く在った。拓一はそういう人と話しを纏め、住宅と水田をやっていた農地を借り受け、農地の復興に取組む。新たな一家の家の隣人として、村長夫妻と、その未だ幼い娘達も登場する。
    村長は「何とか復興」という想いを汲んで懸命である。が、「無駄かもしれない復興事業に疑義。否!反対!」という人達とも向き合わざるを得ず、苦心している。そんな村長が、兄弟の隣人として、何やら「敬愛すべき年の離れた兄」という存在感を示している。そして「先生!」と慕ってくれる村長の幼い娘達に注ぐ耕作の目線が優しい。そして私利私欲と無縁に、「先人の想いを無駄にするな!」と復興に懸命な拓一の周りには多くの協力者も現れる。
    結局、本作は「因果応報でもない人の人生」と「如何に向き合うのか?」というようなこと、そういう中での「生き様」ということに収斂する物語かもしれない。「善い人達がロクでもない目に遭ってしまっている。納得し悪い」というようなことを作中人物達は何度も様々に論じる。が、そういう「悪因悪果、善因善果」は想い、理想の行き着いた果ての何かで、人は「眼前の運命」に「敢然と向き合う他に無い?」という問題提起が為されているかもしれない。
    本作の、「兄弟の隣人である村長」は、実際に活躍した村長と同名で、モデルにしていると見受けられる。そういう作中人物の他、実在した人物をモデルにしている作中人物も在るようだ。それはそれとして、主人公の耕筰と兄の拓一は、災害が発生した大正末年や、復興ということで懸命な昭和の初め頃には20歳代の始めであった。本作と前作の『泥流地帯』が世に問われる前の、作者が取材したであろう1975年頃には、同世代で存命であった人達も多かったと思う。そういう人達の話しも汲みながら、作者は本作を創ったのだと思う。
    「因果応報でもない人の人生」と「如何に向き合うのか?」というようなことに関して、随分長く考えていて、直近ににもそういうことも想い、そして現在に至っているのだが、そういうことでもない「眼前の運命」に「敢然と向き合う他に無い?」という問題提起を、十勝岳の噴火に伴う「大正泥流」を題材に、耕作と兄の拓一という素晴らしい好人物達を核にした家族の物語で語っている本作は凄く重いとも思う。
    「十勝岳の噴火に伴う災害の凄まじさが判り得る小説」ということで本作に纏わる話しを耳にして、そして読んだ訳だが、非常に好い感じで作品と向き合えたというように思う。

  • 貧しい小作の一家が貧しいなりに正しく生きてるのに、貧乏を理由に惨めな目にあいまくって、がんばっても報われないし金がないせいで進学諦めなあかんし姉ちゃんは金がなくて嫁入り準備もできんし、母ちゃんと婆ちゃんは病気になるし、なのに嫌なやつは金持ちになって、最後は兄弟以外の家族が土砂災害にのまれて死ぬ。下巻はその続きとなるが、やっぱりどうも報われない。
    最後に福子が自由を手に入れた場面が救いといえば救いだろうが、あの感じの福子が自由を手に入れたあとに本当に幸せになれるか微妙だし。とはいえ、最後にようやく少しの救いがあったのはよかった。
    正しく生きる者がなぜ苦難に遭うのか?正しく生きる意味とは?という作品の主題テーマにひとつの回答が与えられる下巻。
    しかしやっぱり、どうも作品がキリスト教臭いというか、キリスト教が悪いんじゃないけど作者の思想をキャラに語らせ讃えるみたいなのは好きじゃないな。

    「正しい者がなぜ苦難に会うのか、悪い奴がなぜ栄えているのか」

    「ですからね、苦難に会った時に、それを災難と思って嘆くか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」
    「試練だと受けとめて立ち上がった時にね、苦難の意味がわかるんじゃないだろうか。俺はそんな気がするよ」

  • 人として一番大事な心を教えてもらった一冊。時間を置いてまた読み返したい。

    (01/02/2022)

  • 泥流地帯の続編で、そのまま泥流地帯の内容なので、ここから読むと訳が分からないと思われる。耕一という代用教員が主人公でその周りの人の関係を描き、最後では聖書の内容と関連させている。
     続でも途中のような気がして、続々泥流地帯の小説が出てもおかしくない。
     北海道観光者にとっては、上富良野は北の国からだけしか紹介されない昨今、十勝岳の噴火による泥流被害が知られていいと思われる。三浦綾子記念館にはこの泥流地帯のパネルは昔はなかったように思われるが、今はあるのであろうか?

  • つらすぎる…
    苦しすぎる…
    それでも深い愛に包まれている。

    20代で読んだ時にも感動をした本であったが、20年経った今、その時とは違う出逢いをした気がする。

  • 前編、続編含めて、苦難の意味は何かというのがテーマだ。
    十勝岳爆発後の泥流地帯で生きていく家族の話。心で物事を考える長男拓一と、頭で考える耕作が様々な苦難に見舞われながら、何が正しい選択なのか考えていく。
    耕作の言うことはもっともだ。でも、拓一の言うことには心を動かされる。
    泥流にのまれた土地の復興に向けて汗を流す拓一だが、みなはその努力を笑い、無駄なものだと嘲った。ただ、拓一は思うのだ。もし、この努力が報われなくてもそれはそれでいい。自分の生涯に何の報いもない難儀な時間を待つのも、これは大した宝になるかもしれない、と。実りのある苦労なら誰でもする。しかし、全く何の見返りもないと知って、苦労の多い道を歩いてみるのも一つの生き方ではないのか。そう思って、自分は努力しているのだ。
    勇気とは、突き詰めれば愛であると思う。愛には恐れがない。その人のために命を捨てる、これより大いなる愛はない。
    善因善果、悪因悪果、いわゆる因果応報の考えは、そうあって欲しいという人間の願望に過ぎない。理想に過ぎない。願望と現実は違う。ヨブは、神から見ても当時一番正しい人だったが、それが子どもを一度に失ったり、財産を一挙に奪われたり、死ぬよりも苦しい腫物が体中にできたり大変な苦しみにあった。人間の思い通りにならないところに何か神の深い考えがあるのだろう。大事なのは、苦難にあった時、それを災難と思ってただ嘆くか、試練だと思って奮い立つか、その受け止め方が大事なのだろう。それでも正しい者に災難があるのは納得いかないと思うかもしれないが、苦難を試練だと受け止めて立ち上がった時に、立ち上がった人にだけ、苦難の意味がわかるのではないだろうか。

  • 修一おじさんが登場する度に涙が出そうになる。今の世で考えれば聖人のような、耕作と拓一と福ちゃんだけだと「作り話」感が否めないが、彼はとても人間らしく、重要な役回り。
    節子もいいキャラクターだと思う。

    「因果応報は人の希望」
    であって、現実はそうではない。
    なぜ、いい事ばかりしている人がこんなにも辛い目にあうのか。なぜ、悪い事ばかりしている人が悠々と生きているのか。
    このあたりを考えるのが終盤のテーマ。

    私は無宗教なので、人生の大道は「先祖の行い」で決まっているが、細かい部分は自分次第って考えている。ちょうどいいところ。笑

    ラストシーンは、情景が浮かぶ。
    白いハンカチかあ。映画で見たいなあ。

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著者プロフィール

1922年4月、北海道旭川市生まれ。1959年、三浦光世と結婚。1964年、朝日新聞の1000万円懸賞小説に『氷点』で入選し作家活動に入る。その後も『塩狩峠』『道ありき』『泥流地帯』『母』『銃口』など数多くの小説、エッセイ等を発表した。1998年、旭川市に三浦綾子記念文学館が開館。1999年10月、逝去。

「2023年 『横書き・総ルビ 氷点(下)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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