話し言葉の日本語 (新潮文庫 い 14-33)

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  • Amazon.co.jp ・本 (357ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101168333

作品紹介・あらすじ

せりふの専門家である劇作家ふたりが、話し言葉について徹底検証。従来の日本語論とは違う角度からその本質に迫るとともに、日本の演劇を真摯に見詰める――。せりふにおける助詞・助動詞の重要性、日常会話とせりふの相違、敬語や方言や流行語の扱い方など日本語のマエストロによる話題は汲めども尽きない。言葉と演劇に対する熱い思いを胸に語り合うわかりやすくて面白い対話集。

感想・レビュー・書評

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  • 舞台を観た経験も少なく、お二人の作品にも疎いため、一部、内容が難しく感じました。
    ただお二人の戯曲や舞台に対する思いは、しっかり伝わってきました。

  • 著者:井上 ひさし[いのうえ・ひさし] (1934-2010)
    著者:平田 オリザ[ひらた・おりざ] (1962-)
    構成:小田豊二
    カバー装画:矢吹申彦
    シリーズ:新潮文庫 い-14-33

    【メモ】
    ・151頁7行目。対談の行われた時期がわかる。
    “……これはいま(一九九八年)から……”


    【目次】
    目次 [003-007]


    1 話し言葉の時代を走る乗り物としての「せりふ」 011
      日本人はおしゃべりか、それとも無口か
      日本の「話し言葉」はなぜあいまいなのか
      戯曲は文学か、時代の主義主張か
      「小説」がもっとも苦手なところを得意とするのが「演劇」
      日本語をいかに強くするか、美しくするか
      何を基準に正しい日本語というのか
      戯曲を上手に書くには大恋愛をするのがいちばん!


    2 主語・述語の演劇と助詞・助動詞の演劇 047
      会話の日本語はなぜ主語がなくても通じるのか
      話し手の立場を表現する「助詞」
      「ねさよ廃止運動」と「ねはい運動」
      すぐれた戯曲の要件とは


    3 「敬語」の使い方・使われ方 069
      日本語だけではない敬語表現
      歴史のなかで「敬語」はどう変わっていったか
      「はい、喜んで」という敬語表現
      言葉におけるサービス
      「お疲れさま」と「ご苦労さま」の混同


    4 「方言」を生かす演劇 095
      方言と標準語の二重言語生活
      NHK「青年の主張」のおかしさ
      「標準語」化への三つの方法
      まだ未完成の日本語
      「方言」というよりも日常の話し言葉


    5 対話 123
      芝居のせりふと日常会話の違い
      戯曲のなかのいい対話の条件
      戯曲の対話と小説の会話
      対話は米を揺するごとく
      新劇は対話から始まり、対話で終わる


    6 戯曲のなかの流行語 147
      一生に使う語彙は三、四万語
      戯曲の軸を近未来におくか、過去におくか
      年月に耐えうるせりふを書きたい
      「出前とる? オア、食いに行く?」


    7 戯曲の構造と言葉 171
      「忠臣蔵」に劇の構造を見る
      演劇でいちばん大事なのは「観客がいる」こと
      「人生に暗転はないんだよ」
      ドラマドクターという存在


    8 戯曲の組み立て方 195
      戯曲はだれでも書けるのか
      登場人物の設定と種類
      演劇のルールの言語化
      芝居は作家のものか、演出家のものか


    9 こうして最初の「せりふ」が生まれる 223
      戯曲を書くための「資料」集め
      ノートとパソコン
      「新約演劇」と「強約演劇」
      演劇界の新しい構造


    10 翻訳劇から日本の演劇を見詰める 247
      戯曲のなかの「語順」
      浪漫主義と構造主義
      ヨーロッパで平田芝居が受ける理由
      これから重要になる「観客論」


    11 「いかに書くか」から「何を書くか」へ 275
      戯曲の「言葉」は文化の点検
      「日本語の歴史」を知ることが必要
      日本語は「文化」か、「実用」か?
      戦争による言葉の喪失
      日本人の「自立」と日本語
      観客の意識を変える「言葉」


    12 生きる希望が「何を書くか」の原点 301
      「テーマ」より「演劇的構造」をまず考える
      書いているうちに、テーマが出てくる
      若者を疎外する日本の劇的文化事情
      劇作は「希望をつくる」仕事


    13 世界のなかの「日本の演劇」 327
      日本の演劇は、いま最悪か
      世界でも珍しい日本の「戦曲雑誌」
      手本は外国ではなく、日本にあり
      名ぜりふのつくり方
      昔からある言葉、いま使われ出した言葉


    井上さんの思い出 平田オリザ(二〇一三年十一月、劇作家) [354-357]

  • 平田オリザ氏と井上ひさし氏。この二人が話し言葉について語るとなれば、面白くない筈がありません。
    この対談は、戯曲の専門誌「せりふの時代」にて、6年間に亘り断続的に連載されたのださうです。ううむ、そんな雑誌があつたとは、迂闊にも知りませんでした。何しろ本屋の店頭でも見たことがないもので。都会の大書店にはあるのでせうがね。1996年創刊ださうで、その時分は、わたくしはまだ本屋に勤めてゐたのに、恥づかしいことであるなあ。
    で、今調べたら2010年に休刊となつたさうで、これまた残念な話であります。ちよつと前衛的すぎたのか。

    この二人が「話し言葉」について語るとなると、やはりそれは戯曲のせりふが中心になります。全部で13のパートに分かれ、それぞれ興味深いテエマについて縦横に論じてをります。
    たとへば方言と標準語の問題(空疎で観念的なせりふは標準語になりがち)。たとへば主語・述語と助詞・助動詞の関係(日本語の会話は主語がなくても、助詞・助動詞のお陰で文意が通じる)。或は流行語について、敬語について、対話について...さすがに示唆に富む内容となつてゐます。

    最近足が遠のいてゐる観劇ですが、今後はもつと行つてみませうかと思はせます。言葉の問題は結局生き方の問題に行きつくことも再発見。井上ひさし氏が次のやうに語つてをります。

    「人生というのは九割九分までつらいことの連続だというのが、僕の世界観です」「でも、その九割九分、つらい人生のなかで、そのなかにひとつでも希望があればそれにすがって生きることができるんですね。僕の場合で言えば、小説や戯曲を書くという「希望をつくる」仕事につき、死ぬまでその仕事を続けたいというのが、まさに、僕のささやかな希望ですから、これから先も生きていけるわけです」(「12 生きる希望が「何を書くか」の原点」より)

    わたくしとしては、この言葉を聞いただけで、本書を開いた意味があつたと思へる、勇気を貰へる発言でした。
    かういふ人達の書くせりふが、一流の役者を通じて舞台で語られるのだから、眼前で鑑賞する自分が圧倒させられるのは当然なのでせう。
    我我はまだまだ美味しい果実を味はひ尽くしてゐない。それどころか、残された時間を思へば、自分が味はへるのは、そのごく一部のまた一部なのだと思ひ知らされる一冊と申せませう。

    ぢやあまた、今回はこれにてご無礼します。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-517.html

  •  井上ひさし氏と平田オリザ氏による話し言葉についての対談。
     1990年代後半から2000年に掛けて連載されたものなので、今読むと「この頃はこう思ってたのか」と思うこともある。

     ことばって思うほど単純でもなく、小説(文語)より難しいと感じる。
     戯曲書く人の脳って3次元とか4次元思考してやしませんかね?

  • 井上ひさしと平田オリザ、二人の劇作家が日本語について考察する対談集。

    10数年前、小劇場演劇をよく観に行っていたなぁ。それきりまったく観なくなってしまったけど…。そのときは平田さんの『北限の猿』も駒場で観たなぁ…とか思い出しつつ。

    とても面白く、ためになりそうだったので、後で詳しいレビュー書かなきゃなぁ。

  • 劇作家井上ひさし、平田オリザによる話し言葉についての徹底検証対談集。

    文庫本には、平田オリザによる「井上さんの思い出」が収められている。

    演劇という分野を通して、日本語がどういう成り立ちでどういう意味を持ち、どういう使い方をしていくべきかを考えさせられる一冊。

    1話し言葉の時代を走る乗り物としての「せりふ」
    <日本人はおしゃべりか、無口か>
    P15自分のことを知らない人に対しては基本的にはしゃべらない。ところが相手がよく知っている人だと、実によくしゃべる。」(平)
    「整理されていないことが多い。~別の観点から見ると、日本人には話すという訓練がもっと必要なのかもしれませんね。根本的な法則がある。絶対に言い直しがきかないこと。いったん口から出たら、それをどう取り消そうと無理。相手に必ず伝わってしまう。」(井)
    「話し言葉の世界では文法は無視される。だから話し言葉の訓練がないと話が整理されない」(井)

    <日本の「話し言葉」はなぜあいまいか>
    P21「日本語の会話というのはあいまいなものにたいして非常に強いと思うんですよ」~主語を省略する(平)
    「日本語の句読法がまだ確立していないことも、じつは問題。点と丸のルールが確立していないのが日本語の特徴。これは書き言葉の場合。だが、話し言葉へも影響を及ぼしている」井

    <戯曲は文学か、主義主張か>
    P25「簡単にいうと、せりふは文学。ト書きは演劇」井

    <小説がもっとも苦手なところを得意とするのが演劇>
    P30演劇の「テーマ主義」という問題なんですが、これは時代の制約、時代の流れ」井

    <日本語をいかに強くするか、美しくするか>
    P31「このままでいけばいい」という時代と「このままではいけない」という時代が交互にくる(井

    「人間は言葉を間におかないと、考えることがdけいないわけですから、言葉がとても大事になってくるわけです。特に市民がふだん使っている話し言葉で次の枠組みをさぐっていく。それが演劇という形式の仕事のひとつ。そうした見方で現代を見ていくと、いまの日本語は弱い。~日本人の発音がばらばらになってきたと思う」井
    「僕は21世紀のキーワードは「美」ではないかと思う。いまでもだれの心のなかにも美という価値観は大事にされているような気がする。」平

    <何を基準に正しい日本語というのか>
    P37文部省は、スタンダードな日本語というのはつくれないとあきらめていると思う。井

    美しい日本語というのは理想の源ととしてしか存在しないもので、現実にはひとりひとりの話す日本語が少しずつ正確で、鍛えられていくなかで、総体として、いい日本語が生まれてくのではないかと思ってる。井

    P39表現として力強い日本とを獲得したい。子ども時代から、日本語の魅力というか、特徴をもうちょっと教えてあげてほしいと思います。平

    日本語の不幸のひとつは、日本人が伝えてきた演劇に日本語という意識が乏しいこと。歌舞伎にも能にも狂言にもそれがない。前の時代の日本語を現在の日本人に聞かせるのだという苦しみが見えない。井

    <戯曲を上手に書くには大恋愛をするのがいちばん>
    P40日本語には言葉を省略したりできる機能があること。造語機能として優れている。~国語といういい方をやめて日本語にする。日本語の中に表現という科目を作る。とにかく、日本語をどう表現したら、相手におもしろく伝わるか、それを勉強してもらいたい。他人に伝える道具としての日本語を強くする。言いたいことを相手にしっかり伝える。そういう訓練をぜひしてほしい。~自分の気持ちを他人に伝える訓練ができてない。平

    日本語の中枢は、文法も語彙も平安時代から変わらない。音韻と文字の体系は基本的なところではそう変わらない。変わらない部分はつながっていて、そこに入り込めば、他の人たちとの会話もうまくいくと思う。井

    恋愛をすれば、どうしても自分の気持ちをつたえたくなって、その結果「なぜ、こんなに好きなのに、言葉にできないんだろう」と思う言葉は人に何かを伝える力があるということを、もっとわかってほしいと思う。~~~訓練が重要だと思う。まったく自分と違う世界に生きている人と話をすること。そういう意味で、言葉を通じての表現力を鍛える機会がすくなくなってきてしまったんではないかと思う。平

    P44国語の授業内容をみていると、ある文章をどういうふうに読むかというところに力点があって、その答えは大人が用意している。~どうよ見ましたかというところまではいいが、採点する側の意向に沿っていないと点にならない。それは「受信」が規制されていること。それより大事なのは「発信」。自分の頭の中にあるものを外に出すための「乗り物」の言葉が必要。井

    与那国島のエピソード
    島を出た子どもたちがうまく人と話せない。自分たちのことを上手にしゃべれない。子どもたちには自分を表現する語彙が少なかった。乗り物としての言葉を見つけたのはゲーム(カテゴリーごとに、増やしていく。例として、場所の名前を言ってからボールをなげるドッジボー

    P46同じ意味のことを言葉に乗せて出すにしても、その乗せ方をくるうすると、それが笑いになったりして、その言葉は障害、受け手の心のなかに残るわけですから。~演劇は大事な素晴らしい装置。平



    2主語・述語の演劇と助詞・助動詞の演劇
    <会話の日本語はなぜ主語がなくても通じるのか>
    P48主語・述語の演劇に対して、助詞・助動詞の演劇に移っていくべき(井

    P51 語尾がちがうだけ
    「課長、この書類どうしましょうか」主語we
    「課長、この書類どうしますか」主語I
    「課長、この書類どうしましたか」主語you

    <話しての立場を表現する「助詞」>

    日本語~大和言葉で生活していたところ、中国から文化とともに漢文が入ってくる。漢文を読むため、乎古止点(ヲコトテン)というのをつけた。日本人は異質の文化にぶつかったときにからなず自分の文化の点検を始める。中国語を輸入してみると、中国語の文献や本を読み下すときに乎古止点が必要だった。そおで日本人は助詞を発見した。井
    助詞、助動詞が話し手の意思、感情の、方向性と言っていいと思う。それらが方向性を非常に明確にする役割をもっていて、そのため主語が省略された。平

    P54時枝文法では助詞は表現される事柄に対する話し手の立場の表現。平

    甲は勉強している
    甲が勉強している
    甲も勉強している
    甲だけ勉強している
    甲まで勉強している

    名詞や動詞にくらべ助動詞の方が変化が激しい

    P57劇作家としての問題は、その早い変化についていけるかどうかということ。絶対に書き言葉は話し言葉を追い越すことはありえないので、その変化についていけるかどうかということ。もうひとつはすべてについてついていく必要があるかどうか。僕は現代人の複雑な精神状況を表現に結びつけるためには、この変化にある程度ついていかないといけないじゃないかと考えてきた。平

    <ねさよ廃止運動とねはい運動>
    P58人間関係はかえって単純になってきているような感じがする。農耕民族としてつくってきた共同体をある意味では言葉が固めていた。その共同体が崩れ、言葉が使えなくなった。しかも新しい関係をどうつくったらいいかわらないし、言葉は定位置を失って浮遊しているのが現状。井

    P66現代劇は、物語性を引き換えに日常性を獲得しようという方向に動いている。日常聖を通して人間を人間と人間の関係をとらえようという方向に動いている。井



    3「敬語」の使い方・使われ方

    <日本語だけではない敬語表現>
    <歴史のなかで敬語はどう変わっていったか>

    マニュアル~否定文を絶対つかわない
    居酒屋問題「はい、喜んで」という敬語表現

    <言葉におけるサービス>
    文法的にはまちがっている日本語がサービスとしては成立する

    <お疲れさまとご苦労さまの混同>
    社会のなかに新しい関係が生まれ、敬語がこんらんしている。

    過度の敬語は恥ずかしいという新しい規範、方向になっていくべき。平


    4「方言」を生かす演劇
    <方言と標準語の二重言語生活>
    実際にはだれも話していない幻想の「標準語」への変換。
    あるいは翻訳語。平

    「ふだんしゃべっている」という言葉
    P99伝えたいことがでてきちゃうとダメ(方言が消え、標準語になってしまう)平

    P100いきなりスピーチやディベートをやるのはだめ。対話の訓練がなされている人がやるのはいい。平

    P109関西の言葉がだんだん東に攻めてくる。その理由は標準語がどうしても生活言語から乖離するから生の感じがする関西弁が入ってくる。平
    ~明治時代でも大正時代でも標準語をつくるんだと考えていたとすれば、もう少しそれは表現の教育や身体表現の教育とセットになっていなkればいけなかった。
    話し言葉、身体性をもった言葉の標準語化ができなかった。(平

    読み書きだけ教えるよりも、ほんとうに人間がつたえたいときに、どうしゃべるかということのほうが大事。身体性の欠如というのが一般の市民社会にまで広まってしまったような気がする。
    自分の言葉でしゃべれなくなっている。平

    <まだ未完成の日本語>
    P113方言の側も鍛えられないとだめ。~人間の生き方についてとか、あるいは美についてとか、ということをつねに方言で語る訓練を子どものころからしてないと、いざというときに表現できない。
    ~明治時代に国木田独歩のように英語で小説を書いてそれを日本語に訳すという人がいた。いわゆる自我とか近代人の内面を描くのに日本語がまだなじんでなかった時代に、英語で書いて、それを日本語にノン役してかいていたりというようなところと似たような状況が地方の作家にはある。平
    つまり日本語はまだ未完成。未成熟のまま変化しつづけてる。井

    自分の身体から離れた「哲学」をでっちあげているから架空の標準語じゃないとしゃべれないのであって、人間の身体から出てくるものであれば、その人が一番得意としている言葉で懸けるんじゃないかと感じる。平


    5対話
    <芝居のせりふと日常会話の違い>

    冗長率(じょちょうりつ)無駄な単語の含有率
    日本語は冗長率が高い。平


    6戯曲のなかの流行語

    <一生に使う語彙は三、四万語>
    P162自分たちの世代の方言や価値観をもっと思い切ってだしたらいい。そして新しい感覚は大事にする。井


    7戯曲の構造と言葉
    <人生に暗転はない>

    ドラマドクター~初歩の基本的なことをきちっと教える方法をもっている人(個性には踏み込まない)


    8戯曲の組み立て方

    P198「演劇の半分は観客がつくる」寺山修司
    「演劇のリアルの半分は観客の認知が支える」平

    演劇の基本的なルール
    1)演劇において登場人物しかしゃべらない
    2)独白や叫びは別にして、原則的に他人に向かってしゃべる
    3)あたがいが知っていることは話さない。おたがいが知らないことは話せない
    4)方一方がしっていることしか話さない


    9こうして最初の「せりふ」は生まれる
    <戯曲のなかの語順>
    雨ニモマケズの語順

    P270ボローニャ市民は「経済的には成功したが、文化面はまだ不満がある。ここはひとる、だれか優秀な演劇人を招いて、ぼろーにゃ市民の精神を表現させよう」と考えた。そこでフォー(ダリオ・フォー)がやってきた。井

    演劇関係者が国民からも信頼されている。たとえばい者や教師は地域で尊敬されているじゃないですか。単に特別な技術をもっているからではなくて、その分野でつちかわれた知恵をもっているから尊敬されていると思うんです。平


    10翻訳劇から日本の演劇を見詰める


    11「いかに書くか」から「何を書くか」

    <戯曲の言葉は文化の点検>
    P279戯曲のせりふ(言葉)をフランス人とお互いに点検しながら進めていく。実はそうした行為を通して日本人である僕自身が、日本語といううらる
    ・アルタイ系の文法規則を改めて学び、そこに蓄積された大事な文化を再確認し、それによってまた日本語の深さを誇りにおもったといういのが、今回の収穫。平

    <日本語の歴史を知ることが必要>
    日本列島にまず基本的な文法体系と生活語が蓄積され、音韻が体系化され、その上にさらに米作りの文明をもった人たちの「農業」に関する言葉、いわば外来語が広まった。稲作によって一挙に人口がふえると、行政が必要になってくる。「律令制」が始まる。「律」は刑法、「令」は行政法、人々を管理するために「法律用語
    が必要となる。そこで隣の朝鮮半島経由で「漢字」が取り入れられ、統一にはひとつの世界観がいるので仏教もまた漢字とともに伝来してくる。こちらから本場の中国大陸へ出かける留学僧なども増える。漢字が十分に入ってきたころ、中国大陸は長い内乱時代を迎え、日本は大陸とのつきあいをやめる。そして日本語の成熟時代が始まった。カタカナを発明し、女性はひらがなを創り出し、言葉が熟成される。明治維新を迎え、外国の新しい文化と出会い、嵐のような外国語の反乱を漢字の防波堤にして受け止めた。例)ステーション=車舎、バンク=銀行
    こうしてさまざまな文明や文化と出会い、吸収しながら、二千年のあいだ日本語をつくり続けた。ところが現在はどうか。インターネットの影響もあるが、外国語がそのままのさばり、明治人のように漢字になおそうともしない。明治人のようにしっかりうけとめないからすべてが中途半端。日本語はかなり危ないところにきている。自分の母語を鍛えない用としない人たちはいずれ滅びる。
    フランスの俳優が平田さんのテキストの後ろにある日本の文化を理解し、その理解を今度は自分たちの文化のなかで再表現するときに、何が必要であるかを作者と一緒に考え、いちばんふさわしいフランス語であてていくという。すばらしいこと。井

    <日本語は文化か実用か?>
    P286どんなにロシアの経済がおかしくなっても、ロシア人やロシア語は
    役にたたないとは思わない。ドフトエフスキー、トルストリ、チェーホフの「言葉」を通して、ロシア人というものを尊敬している部分があるから。平

    「ああ、日本という国はとてもいい国だな」と世界の人たちに誇りをもって言える国でありたいと思うなら、日本人がもttp時刻の文化を大切にしなければならない。そのためには、日本語が圧倒的に重要なんです。井

    P290言葉というものは「目」だけでなく、「耳」からも入る、とくに文学の言葉は「耳」から入ることがおおかったということを知っておいてほしかった。井

    <戦争による言葉の喪失>
    P291「満州」に侵攻してきます。そしてさまざまな悲劇が起こるのですが、じつはここに「言葉」の問題があるんですね。当時の日本には、自分たちが危機に陥ったとき、仲間うちを助ける「言葉」はあるんですが、国家とか団結とか敗戦とかを、包括的につかまえる言葉をもたなかった。そのために、代表を出し、難民をどう守るかという交渉をすることができなかった。もっと言えば、戦後責任を日本人は他の諸国にたいしてとっていないといわれますが、それもひょっとしたら、日本語が悪いんじゃないか、または日本語を十分に使いきっていないために、そうしたことが起きてしまっているのではないか、と思うのです。日本語はもっと力がある言葉だと思うんですね。ほんとうはまだまだ潜在的に力をもっていて、それを使う方法を考えれば、危機だって脱出できるのに、そのように頭が働かないために、つまり言葉をその方向に向けていないせいで、みすみす可能性を失って、悲劇にいたったのではないかと思ったりもするんです。ですから、演劇を通して、強く、しなやかな日本語を模索する。そうすると「何を書くか」が自然とうまれてくると思っています。井

    P292「つまり言葉がない。当時、植民地支配下の挑戦では、日本人の子どもたちは朝鮮人の人たちが望んで日本と一緒になったということを相当強く教育されていましたから、独立運動といっても、朝鮮人がどこからどう独立するんだということをわからない一般日本人が多かったんじゃないかと思うんです。言葉で言えば「植民地」という言葉が完全に欠けていたわけです。「併合」といってごまかしてしまった。言葉がないのだから、逆にということですね。言えば、いま調べても、書かれていないこともたくさんある。平

    <日本人の自立と日本語>
    満州問題を考えていくと、すぐにシベリア抑留という問題にtながってきます。これまた、言葉の問題が含まれているんですね。これもまた言葉の問題が含まれているんですね。日本人の関東軍の捕虜とドイツ軍捕虜がいっしょの収容所にいた。両国ともすでに負けていたんだけど、ドイツの捕虜には本国から慰問品、手紙などが来るが日本の捕虜にはこない。ドイツ人は捕虜になったときの「言葉」をもっていたから。国際法を知っていたし、戦争に負けても捕虜に権利があるとか、中立国を通して訴えていくとか、世界に通用する言葉をもっていた。ところが、日本は負けたことによって、言葉まで失ってしまったんです。ふだんからそうしたことを想定していなかったから。つまり、当時の日本人たちは連合国側と交渉しようという意欲もなければ、言葉も知らない。つまり、自立していないんです。井

    <観客の意識を変える言葉>
    P297お客さんの「意識」を変えることができたらその芝居は大成功。「意識」を変えるのは「言葉」でしかない。井

    P299アメリカは大統領が謝罪する「言葉」をもっている。やっぱり日本人は「言葉」の遣い方がへたなんでしょうね。というよりも、言葉とまともに向き合っていないのです。井

    12生きる希望が「何を書くか」の原点
    <テーマより演劇的構造をまず考える>
    <若者を阻害する日本の悲劇的bんか事情>
    <演劇は希望をつくる仕事>

    P320もともと人間というものには居場所なんかないんだとも思う。それでもそのはかりしれない寂しさに耐えて狩りの居場所を見つけて生きていかなければならないし、人生を前に進めていかなければならない。演劇をやるとか、演劇をつくるとか、演劇に触れるとかしているのは、その孤独とか寂しさに耐えるシュミレーションをしているんだと思うんです。どんなに幸福な人生を送ってきた人でもどこかの時点で、絶対に大きな運命にぶち当たります。愛する人を亡くしたりとか、自分が信じていた人に裏切られたりすることは、逆に言えば人生にとって必須なことでもあるわけです。それを擬似体験できるもののひとつが、演劇。「それでも僕たちは生きていかなければならない」という不条理というか、運命を演劇を通して訴えることが必要。平

    P322人生というのは九割九分までつらいことの連続。つらい人生のなかで、そのなかにひとつでも希望があればそれにすがって生きることができる。小説や戯曲を書くという「希望をつくる」仕事につき、死ぬまでその仕事を続けたいというのがささやかな希望。しかし希望はなかなかかなうものではない。人は誰でも寂しいもの。その自分だけが感じた寂しさと他の人の寂しさが重なり合ったところは、お互いに深く理解できうる。それを足がかりにして、人が集まって、寂しさを希望に変えていく。~「体験を共有できた」ときがうれしい。帰り際みなが優しい顔になっているとき、涙がでそうになる。井

    13世界のなかの「日本の演劇」
    <手本は外国ではなく、日本にあり>

    P344人間の毎日の営みのなかから、それを発見する。それは誰でも発見できるものではなく、突き詰めて地を流していったところに発見される。素晴らしいせりふというのは地中奥底に埋まっているものなんですけれど、取り出してみると、それはふだん使われている言葉だったりするということではないですか。平

  • 5/2/2014読了

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784101168333

  • 平田 オリザ(1962-)、井上 ひさし(1934-2010)が、言葉(話し言葉としての日本語)について、あらゆる角度から考える対談本。
    対談は96年から2001年の6年間にかけて行われたものなので、ところどころ内容の古さはあるけども、言語の本質を語る部分については、時代は関係ないものになっている。たぶん、平田オリザの劇においても、同様の(時代を考慮しない)内容なのだと思う。

    演劇について全く知識のない僕にでも、楽しんで読めた。

    ふたりの政治思想や歴史観については、いわゆる左巻き(左翼的)なもので、ところどころやや鼻持ちならない部分もあるのだけども、言語に向かう姿勢については参考になった。

    2014年1月に出版された意図はよくわからない。

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    【内容紹介(amazonより)】
    せりふの専門家である劇作家ふたりが、話し言葉について徹底検証。従来の日本語論とは違う角度からその本質に迫るとともに、日本の演劇を真摯に見詰める――。せりふにおける助詞・助動詞の重要性、日常会話とせりふの相違、敬語や方言や流行語の扱い方など日本語のマエストロによる話題は汲めども尽きない。言葉と演劇に対する熱い思いを胸に語り合うわかりやすくて面白い対話集。
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    【目次】
    1:話し言葉の時代を走る乗り物としての「せりふ」
    2:主語・述語の演劇と助詞・助動詞の演劇
    3:「敬語」の使い方・使われ方
    4:「方言」を生かす演劇
    5:対話
    6:戯曲のなかの流行語
    7:戯曲の構造と言葉
    8:戯曲の組み立て方
    9:こうして最初の「せりふ」が生まれる
    10:翻訳劇から日本の演劇を見詰める
    11:「いかに書くか」から「何を書くか」へ
    12:生きる希望が「何を書くか」の原点
    13:世界のなかの「日本の演劇」

    井上さんの思い出(平田オリザ)
    ----------------

  • 「ねさよ廃止運動」について、井上が触れていることが、記憶の何かを触発した。「NHKのライターだったころ、鎌倉の腰越小学校というところが、昭和三十三年に「ねさよ廃止運動」というのを始めて、七年間ぐらいやって、昭和四十年までに八十校くらいチェーンができたんですね。(中略)これは日本全国を巻き込む大激論になりました。」

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著者プロフィール

(いのうえ・ひさし)
一九三四年山形県東置賜郡小松町(現・川西町)に生まれる。一九六四年、NHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の台本を執筆(共作)。六九年、劇団テアトル・エコーに書き下ろした『日本人のへそ』で演劇界デビュー。翌七〇年、長編書き下ろし『ブンとフン』で小説家デビュー。以後、芝居と小説の両輪で数々の傑作を生み出した。小説に『手鎖心中』、『吉里吉里人』、主な戯曲に『藪原検校』、『化粧』、『頭痛肩こり樋口一葉』、『父と暮せば』、『ムサシ』、〈東京裁判三部作〉(『夢の裂け目』、『夢の泪』、『夢の痴』)など。二〇一〇年四月九日、七五歳で死去。

「2023年 『芝居の面白さ、教えます 日本編』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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