- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101181769
感想・レビュー・書評
-
全ローマを巡行したハドリアヌスの晩年は、しかし老害とも言われそうな醜態であった。
ときに厳格でときに愛想よく、ときに誠実でときに不誠実。
臨機応変を使い分けた結果、毀誉褒貶激しかった皇帝の機敏さは老いとともに失われ、
硬軟使い分けることが出来なくなり、厳格で気難しく、不誠実で冷酷で容赦しない一面のみが残された。
中でもユダヤに対しての苛烈さは、現代にも禍根を残すユダヤ教徒の断絶を生むこととなる。
教義の根本に関わる割礼を禁止し、聖地近くへ多神教の軍団基地を設置する。
挑発に誘われて反乱を起こしたユダヤ人には聖地イェルサレムからの離散-ディアスポラ-を課す。
こうしてユダヤの地からイェルサレムの名は消えパレスティナとなり、
以後ローマ史はキリスト教の時代へと完全に移行する。
こうして後の100年のために全国を巡り防壁を築いたハドリアヌスは、
後の1000年の禍根を残してこの世を去る。
その後を継いだのは、当時の皇帝としては珍しい軍事経験皆無の文人、アントニヌス・ピウスだった。
美男、長身、晴れやかで穏やか。演説は平易で明晰であり、一級の教養を持つ。
春の日差しのように穏やかで、何事も穏便に解決されるよう努め、バランス感覚抜群、虚栄心は皆無。
前皇帝の汚名に対してはもちろん、それに反発した元老院、激しく争ったユダヤ人にさえ慈悲深い。
まさに平和な時代にこそふさわしいピウス(慈悲深い)皇帝の業績は、
しかし記録抹消刑を受けたわけでもないのに、時代が平穏すぎてろくに記録が残っていない。
23年間の空白の平和は次代に何を残したのか。
五代しか続かない賢帝の世紀の終焉とは。次巻に続く。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
15代目 アントニヌス・ピウス
在位22年8ヶ月。
ローマ帝国最盛期の皇帝。
歴史家がなにも書くことがないくらい帝国内外が平和に治まっていた時代の皇帝。
トライアヌス、ハドリアヌス、アントヌス・ピウスの3皇帝はローマ最盛期の中でも別格の皇帝と考えられ、次のように名付けられていたという。
トライアヌス 「至高の皇帝」
ハドリアヌス 「ローマの平和と帝国の永遠」
アントニヌス・ピウス 「秩序の支配する平穏」
戦争においても国内統治においても、めざましい業績をなにひとつ示さなかったものの、それだけ安定した時代を実現できたアントニウス・ピウスは、ことによるとトライアヌスやハドリアヌスよりも偉かったと考えるべきなのもしれない。 -
平穏な時代を保った二世紀のハドリアヌス、アントニヌス・ピウスの治世を描く。
前者は帝国の辺境を見て歩き、帝国の防衛体制の磐石にした。今で言えば現場に近いところで仕事をしたということか。一方でユダヤ人に対して厳しい姿勢で臨んだり、晩年のローマ市民に抗う発言などで世間の不評を買い、生涯を終える。
対する後者は包容力(inclusivene ss)を重視した統治。自分の考えを持ちつつも周囲の声に耳を傾け続けた姿勢が市民からの信頼を得た。
ただし、前者が悪くて後者がいいというわけではない。前者だからこそ思いきったリストラ、つまり再構築を成し遂げることができた。
状況に応じて求められるリーダーシップのタイプが異なることがここには書かれている。 -
新しいものを創造するだけでなく、維持するのも同じくらいエネルギーがいる。評価されないだけにその分エネルギーがいるかもしれない。
-
安全保障の重要性を誰よりも知っていたハドリアヌスは、治世の大半を使って帝国の辺境を視察し続け、帝国の防衛体制を盤石なものとした。しかしその責務を無事終えローマに戻ったハドリアヌスは、ローマ市民の感覚とは乖離する言動をとり続け、疎まれながらその生涯を終える。そして時代は後継者アントニヌス・ピウスの治世に移るが、帝国全域で平穏な秩序は保たれ続けた。それはなぜ可能だったのか。
-
アントニヌスーピウスは、jfだった。乱世は弱いが平時は穏健が勝る。
-
アントニヌス書くことなさすぎ
-
ハドリアヌス帝の治世の後半とアントニヌス・ピウス帝の物語です。
ハドリアヌスが帝国内が治世を通じて実施した帝国の防衛体制の再構築と,前任者達の業績をもとに,平和を継続させたアントニヌス・ピウス帝の穏やかな治世は,それぞれの時代に適合したリーダーに恵まれたローマの黄金時代にふさわしい内容だと考えて読んでいました。
この「賢帝の世紀」で扱われた3皇帝であるトライアヌス,ハドリアヌス,アントニヌス・ピウス帝は,それぞれ自分に合ったやり方で統治し,それが時代に適合していたことも「賢帝」とされている理由だと考えます。 -
この巻はハドリアヌス帝の晩年とアントニヌス ピウス帝を描いてます。
特に記憶に残ったのは、アントニヌス ピウス帝が養子として迎えたマルクス・アウレリスが皇帝時代に書き残した「自省録」の中でのアントニヌス ピウス帝像です。(詳しくは本書を参照ください)
前略・・・
この皇帝は、例えば、単に騒々しい拍手喝采やこびへつらいを嫌い、そのようなことにわずらわされないほうが責務の遂行がうまく進んでいる証拠と考えていた。後略・・・
皇帝の地位にありながら、有り余るポジションパワーを使うべきところにだけ使い、パワーに驕り、おぼれることなく、公正で透明な政治を行い、かつ、皇帝の責務の何たるかの本質を理解していたのだと思います。
そして、誰からも愛された。。
52歳にしてこの境地に立つことができたとのだとすれば、・・・今の政治家と思い比べて確認しました。
およそ想像できない所業であったと。