二十歳の原点 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1979年5月29日発売)
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  • 本 ・本 (258ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101183015

感想・レビュー・書評

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  • 顔写真が載っている。
    まだ少女のような本人が日記の中で惚気たように、たしかに綺麗な顔立ちだ。

    二十歳と言えば、その瞬間、自己イメージがアップデートされたかのような錯覚を感じた記憶もあるが、しかし、酒もタバコもその前から経験していたのだから何も変わらない。何も変わらず、ただ、陰鬱な授業やその後の溜まり場での頽廃的な日々、友人と意味のない芸術論を交わすような暮らしだった。何が原点なのかはそれぞれ違うようだが、中身は似たようなものだ。時に若さが無謀を働き、感傷に浸らせ、虚無感の中、希死念慮に取り憑かれることだってある。思想や行為の大部分が、ファッションや自己演出だった。誰しも。

    学生運動があったのも、時代だろう。しかし、その思想はファッションだったのではないか。死ぬ必要はなかったのだと思う。この年齢はいつだって危うい。

    高野悦子をどこで知って、なんでこの本を持っていたかも忘れてしまった。本書は日記。赤裸々な記録だ。飾りもせず、多くの自己陶酔とそれを徐々にエスカレートさせていく記録。特別だが、普遍的な青年(少女といってもよい)だ。それを覗き見て、彼女の死と、私が生まれる前の学生運動の雰囲気を、刹那、想像する。二十歳に死んで、それが原点なんて、一体どういう意味だろう。

    結局思うのは自分の二十歳、自分の原点である。いまだに他者の価値基準を意識したファッションを抜けられず、原点ならぬ原罪を背負ったままのようだ。平均値による価値観など、もう良いではないか。

  • 独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。
    著者である高野さんは、このタイトルにもなった胸がつまる様な言葉を含めた、中学生から書き続けた
    日記を残し、二十歳で鉄道自殺をされました。
    学生紛争については、経験のない世代ですので、当時の状況を私は、理解できていないと思います。
    ただ、自分が二十歳の頃にタイトルに惹かれて、手にとりました。彼女ほど、深い自己否定もなく、行動力もありませんでしたが、大人になりかけの、不自由さに共感する部分もありました。彼女は可愛く賢く、素敵なご家族もいました。それでも、最後の日記の翌日、鉄道自殺に及ぶのです。
    再読して、本棚登録をして、新しい登録がたくさんあり、とても驚きました。皆さん、当時との状況は違っても、二十歳の葛藤を読み継いでいました。
    二十歳は、誰も独りを思い未熟なのです。既に、親目線でしか読めませんが、決して独りでは無い事は忘れないで欲しいなと思います。


  • 彼女はこの日記が出版されいわゆる「名が知られた存在」になった。でも(闘争以外は)同年齢の私と同じところがいくつかあったので、読んでいるうちに彼女が自分の友達みたいな存在になっていった。だからこそ最後の詩を読むのが辛かった。
    なぜ彼女が自殺を選んだのか、要因はいくつか考えられると思う。でも考えること自体ナンセンスなのではないかと思う。

    ちなみに、読む時は物理的に独りで、できれば個室にいる時がおすすめ。

  • 5・6年ぶりの再読。
    この本は、高野悦子さんが20歳で鉄道自殺を遂げる前日までの半年間を記録したものです。
    日記形式でとても読みやすかったです。このノートを、『小百合』と名付けていたようです。

    学生運動とか機動隊とか、社会的背景のことはよくわかりませんが、高野さんの文章に引き込まれ、すんなり心に入ってきました。

    猛烈な孤独感や、自分の思い通りにいかない葛藤、人生になげやりになってしまう気持ち。一方で、好きな男性に頭をポンポンされて嬉しさのあまり舞い上がった様子。色々な感情の機微が読みとれて良かった。
    生命の充実感を未だかつて感じたことがないと、高野さんは残しているが、すごく共感した。なかなか生きている意味もわからず悶々と暮らす日々。

    自殺の前日の夜に書いた詩も良かったです。すごく静謐な感じに引き込まれました。

    日記の中で力を感じる文章もたくさんありました。
    ●私は慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい。「高野悦子」自身になりたい。
    ●自分を信ずることなくして一体何ができるのか。
    ●独りである自分を支えるのは自分なのだ。私は自己を知るため、自己を完成させるため、本を読んだり、街に出たり、自然に飛び込んでいくことを、いま要求されているのだ。
    ●(このノートを)燃やしたところで私がなくなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあってもなんの意味もなさない。

    色々な想いと葛藤するなかで紡ぎだされた言葉に、すごく励まされました。

  • 青春というものは如何なるものかを思い出させてくれる本。読んでいると、自分が生きていること、存在していることに不思議な自信が湧いてくる。
    全共闘の時代に自殺した大学生の手記。終始灰色なトーンで日々の生活や心情が綴られている。理想と未熟な自分のギャップに悩み、自分の弱さをいつも反省している。
    一方で、時々に綴られる詩や自然の描写はとても美しい。純粋無垢な心を持ちながら、仄暗い自己批判を続けているアンバランスさが愛おしい。

    漠とした不安を抱きながら、形のないものに真剣に悩む経験こそが青春だと思う。
    そして、自分もこのような経験を持っていることを時折思い出す必要があると思う。
    年を取ると青春を経験できなくなってくる。青春には孤独が必要だが、孤独は特権だ。孤独を手放さなければ、生活ができなくなる。生活のために、仕事、家庭、お金など目に見える具体的なものに悩むようになる。具体的なものは自分の外にあるものだ。他人や社会によって、常に変わっていく。青春を忘れてしまうと、これらに右往左往することになる。
    この本の中で「青春を失うと人間は死ぬ。」という言葉が書かれている。青春を失うことは精神の熱的死だ。青春という経験を思い出すことで、自分の中に目を向け直すことができる。1個の自分というものを意識することができる。現実に対する1個の自分。それが存在の矜持と自信。

  • (自分のことについて色々書いちゃったの本当に失礼しました。場違いだと分かっていますがすみません…この人惨めだな、くだらないなと思われても書きたかったのです…)

    自分にとっては日本人の書いた本を本気で読み始める原点となった本です。
    元彼に別れの話を切り出されて一、二日間が経った日に、偶然とウェブで紹介文を見かけた。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」この言葉に引き付けられない人は多分いないと思いますが…
    恋について、人間について、「自分」について…
    代弁してくれているような本なのです
    今までぼんやりとしていた気持ちや考えも、行き先というか取り付けられる器というか、を得た。それが高野悦子さんのが書いた言葉なのです。
    でもね、自分は日本語が本当に下手なんですから…高野悦子さんが書いたことを全部誤解していたとか、自分がただ勝手な思い込みをしていただけなんだとか、高野悦子さんのこと自分全然理解できない、社会背景も全然違うからとか…ちょっとこういう考え方をしたら虚しくなるのです…自分にとって何が真実なのだろう。手にしっかり掴んでいるものは本当にあるのだろうか。

    現実と、家族と、自分と決別したかったのです。母と父は高校の頃から私のことヒネクレ者だと思っていたのかもしれない…双子の姉ともだんだん心が通じなくなった…そして自分に矛盾と嘘しかない…

    燃え尽くしてこの世から消えたかった…
    …でも自分は弱かった、今も精神が弱すぎ。
    ↑自分を否定することでみんなから許してもらいたのか?同情されたいのか?

    元彼が曰く、私の悲観に何もない、私が物事の本質をちっとも見抜いていない。私の考えがくだらないつまらない…でも元彼はすごい人なんだ。元彼のことを考えるとどこか劣等感が込み上げちゃうほど元彼は自分にとって理想な人間だった。

    めちゃくちゃな日本語で何を言いたいのか…
    誰か教えて、物事の本質を、真実を。
    こんな図々しいお願いをしている自分本当もう終わりだw

    …この本との出会い、感謝しています。

  • もうこれまでに3回は読んでいるだろうか。
    読むたびにレビューを書こうとして、しかしこの気持ちをどう表現すべきなのか
    わからずに書くことを断念して、を繰り返して4回目の再読となる。
    確か、初読は19歳のころ。そのころのわたしも日記帳にガリガリと
    長い長い日記を書いていたのをぼんやりと覚えている。

    23歳になるときを控えつつあるわたしには
    過去に覚えたような衝撃を、この本からは受けられなかった。
    簡単に言ってしまえばこれは、理想の高すぎるひとりの女子大生が
    恋愛では男に遊ばれ、学生運動に曖昧な自己の輪郭を求めるがうまくいかず
    絶望して自殺に至った日々を記した文章でしかない。
    「メンタルヘルスブログ」のような公に向けられた文章ではないから
    他者から読むと、心理描写やことがらの繋がりが粗い手記でしかない。

    しかし、それでもこの日記が素晴らしいのは
    完全にプライヴェートなものでありながらも、他者の目を意識しているかのように
    内言が省かれずに正確に描かれている点にある。
    できごとは、細かく書かれていない。唐突に指をカミソリで切ったりする。
    つまり不可解なことは多い。
    それでも、この文章からわたしたちがある感銘を受けるのは
    そのときの気持ちをできる限り克明に記そうと彼女が努力しているからだ。
    それは完全に自己のためであるが、その内容が――彼女にとっては不本意だろうが――
    普遍的なものであったからだろう。

    もうこの文章に自分を重ねて浸れるほどにはわたしは若くないし
    ある一定の層にしかガツンと響くものはないというのはわかるから
    星は3つにするけれど、きっとまた読み返すのだろうなと思う。
    きっと彼女は、純粋すぎたのだろう。

  • もし今も彼女が生きていたら、
    普通に就職・結婚し、子どもをもうけ、
    「ウフフ、若かったわね」なんて笑うだろうか。
    死を選ばなかった、同年代の人たちのように。

    甘すぎたのか、あるいは厳しすぎたのか。
    幼稚だったのか、あるいは大人すぎたのか。

    読むたびに相反する感想を持ってしまう。
    ただ、私が二十歳の頃はここまで悩み多くなかった。

  • あまりに切実だった。

    純粋な少女にとって、上洛後目の当たりにした世間、大学、時代は余りに圧倒的であったに違いない。
    唐突に現れた抱えきれぬような社会の多様性、そして必死に"自由・平等・真理"を求めつつも画一的な"実力排除・闘争"に教義を求めてしまう学生運動。

    高野さんはこれらに違和感を抱きながらも、ひたむきに自己を見出そうともがいていた。

    自分探しにおける彼女のアプローチは、自身も社会の中の1人として生きているという前提を失っているように思える(自覚しようと試みるものの自覚しきれていない)。自己は世界の全てから断絶された場所に存在する丸裸の自分であるといった前提が自ずからあり、その前提に基づいて自己の"定義化"をしようとした。
    しかし世界からの断絶を前提とすれば、孤独は避けられない。視野狭窄に陥り、なおのこと自身をちっぽけな存在としか感ぜられなくなっていったのではないか。
    屈折した孤独と思春期の性欲はベターハーフ論的幻想を生み出し、恋人というよりは自分を包容してくれるsomeoneへの欲求に繋がる。しかし、その思いは結ばれることはない。

    さらに曖昧で崇高な理想は、その理想を達成できない自分という結果を招き、余計に苦しみはひどくなる。

    その脆さの中、ふと覗く詩は美しい。
    これこそが彼女の自我だろう。特に自然への感性は素晴らしく、こんなに清冽で素直な彼女の一面を彼女に愛してほしかった。

    山が好きで音楽が好きで喫茶が好きなカッコちゃんも、自己の確立に悩む高野悦子もすべて、全て彼女なのである。そう気付き、someoneにではなく彼女自身に彼女をembraceして欲しかった。


    さて、フォーマットが日記であることを除いても、彼女の文章はあまりに正直でリアルだ。己の未熟さをどう受け止めればよいかわからず、ひたすら現状への不満と焦燥を抱え、折合いの付け方も知らない。見つけ方も分からない。
    すべてが悲しかった頃の自分の写し鏡のようだった。(このように感じた人も多いのではないか?)
    だからこそ、読み継がれるのだろう。

    私もあの頃の自分に、自分を愛せよと言ってやりたい。(自分を愛さずして他人を愛すことなどできない)

    ちなみに最近は多少諦め方を覚えたものの、未だに人生との折合いの付け方は模索中である。

  • 他人の日記を盗み見ている感覚にもなりました。
    時代と言った一言で片付けてしまうには、あまりにもたくさんあるのですが、学生運動やストライキと今では想像でしかない現象があったのですね。
    高野さんはとても頭の良い方で色々な言葉や表現を持ち合わせたいたようです。
    終焉は疎外感と抑鬱でしょうか。
    寄り添って耳を傾けて下さる方もいらしたでしょうに、残念な最後になられたようで読み終わった今も何かくすぐったい感覚が抜けません。

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著者プロフィール

1. 高野悦子(たかの えつこ)
1949年1月2日 - 1969年6月24日
『二十歳の原点』で知られた女性。逝去当時、大学生だった。栃木県生まれで、栃木県立宇都宮女子高等学校を卒業し、立命館大学文学部史学科日本史学専攻に入学、京都に拠点を移す。ジャズ喫茶に通い、詩作、そして学生運動に励んでいたが、1969年6月24日、列車に飛込み逝去。死後、20歳の誕生日から続く内面の吐露を記した日記が、同人誌「那須文学」に掲載され、1971年に『二十歳の原点』という題で書籍化、ベストセラーとなった。2019年に没後50年を迎える。

2. 高野悦子(たかの えつこ)
1929年5月29日 - 2013年2月9日
映画運動家、岩波ホール総支配人。『母 老いに負けなかった人生』『岩波ホールと〈映画の仲間〉』などの著作がある。

高野悦子の作品

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